幼い頃に両手両足を切断したけれど、血のにじむような努力の末に日本の障碍者福祉に尽力した女性が中村久子さんです。
中村久子さんの生涯や家族・結婚した旦那・娘、死因や名言をまとめました。
この記事の目次
中村久子は障碍者の母
出典:halmek.co.jp
中村久子
生年月日:1897年11月25日
没年月日:1968年3月19日
出身:岐阜県大野郡高山町
活動:興行芸人
中村久子さんは幼い頃に病気で手足を失うというハンデを背負いながらも、努力の末に自立した生活を送った女性です。
見世物小屋で興行芸人として働きながらも、「恩恵にすがって生きれば甘えから抜け出せない」とし、障碍者福祉の保証を受けることはありませんでした。
また、晩年には執筆活動・講演活動・各施設慰問活動を始めて、日本の障碍者福祉制度の充実を訴え、障碍者福祉の発展に寄与し、全国の身障者に勇気を与えた人物です。
中村久子の生涯①:病気で手足を失う
中村久子さんは1897年11月25日(明治30年)に岐阜県高山市に生まれます。結婚11年目で生まれた待望の子供でした。しかし、3歳の時に特発性脱疽という病気にかかります。この病気は2歳の時の凍傷(娘の富子さんによるとしもやけ)が原因で、それがどんどん悪くなって、突発性脱疽になったとのことです。
突発性脱疽とは血管の中に血栓ができて、手足の先に血が流れなくなり、手足が壊死してしまう病気です。この突発性脱疽は難病であり、治療法は手足の切断しかありませんでした。それでも、命の保証はできないという危険な病気です。
両親は神仏にすがり、なんとか娘の久子さんを助けようとしますが、久子さんの手足は真っ黒く変色していきます。
そして、ある日久子さんの大きな泣き声に母親が駆けつけると、床に包帯の塊が落ちていました。母親がその包帯を拾い上げると、その包帯は久子さんの左手首でした。突発性脱疽で久子さんは左手が腐り落ちてしまったのです。
中村久子さんは手術で手足を切断する以外の選択肢がなくなり、両手両足を肘・膝から切断することになりました。
久子さんは3歳にして、両手両足を失う身体障碍者になってしまうのです。
中村久子の生涯②:父親の死
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中村久子さんは両手両足を切断した後、傷の痛みで昼夜問わず泣き叫ぶため、両親は借家を転々とすることになり、畳職人だった父親は仕事に集中できないことになりました。
父親は障碍者になった久子さんを溺愛し、「どんなに貧しくなって家族で餓死したとしても、絶対に久子さんを手放さない」と固く誓いましたが、父親は久子さんが7歳の時に急性脳膜炎で亡くなりました。
中村久子さんの母親は夫に先立たれ、手足がない久子さんと治療などの借金を抱え生活ができなかったので、母親は再婚します。
中村久子の生涯③:ストレスで失明&厳しいしつけ
しかし、再婚した義父は久子さんを「恥ずかしい」と言い、家の中に押し込め、さらに虐待します。そのことで久子さんは大きなストレスを抱えたこともあり、9歳の時に失明してしまいます。この失明は、治療の甲斐もあり、8ヶ月後には目に光が戻りました。
母親はこの時、両手両足がなく、失明した久子さんを連れて、無理心中しようと考えたこともあったようです。
なんとか心中を思いとどまると、母親は久子さんを厳しくしつけるようになります。なんとか1人で自立した生活を送れるようにと、裁縫や筆記、編み物、切り紙細工などを久子さんに教えます。当然、最初は裁縫などはできませんでしたが、久子さんは文字通り、血のにじむような努力をして、1人でできることを増やしていきます。
中村久子さんは炊事、洗濯、掃除も自分でできるようになりました。
中村久子の生涯④:見世物小屋でだるま女
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しかし、中村久子さんの治療費はかかり、借金が膨らんでいたため、母親は久子さんを見世物小屋に売る決断をします。久子さんは18歳で見世物小屋に現在のお金で100万円という値段で売られることになったのです。(自立のために自分で見世物小屋に行ったという情報もあり)
中村久子さんは見世物小屋で「だるま娘(だるま女)」として芸を披露することになりました。芸を披露すると言っても、中村久子さんは人に見せる芸なんて持っていませんので、母親に仕込まれた裁縫や切り紙細工、口書きなどを見せることにしました。
年季奉公(借金返済のために働かなくてはいけない期間)が明けたことをきっかけに、中村久子さんは結婚し、見世物小屋から独立します。独立後も見世物小屋の興行芸人として生計を立てていました。
中村久子さんの興行は「実に見事だ」と話題を呼び、日本全国だけでなく、朝鮮や台湾でも興行を行っています。
中村久子の生涯⑤:ヘレンケラーとの出会い&障碍者支援に
中村久子さんは座古愛子さんとヘレン・ケラーと出会い、人生・考え方が大きく変わりました。座古愛子さんは17歳の時にリウマチにかかったことで、首から下が動かなくなった重度の身体障碍者でしたが、神戸女学院の購買部で働いていました。
中村久子さんが人生に行き詰っていた1929年(32歳の頃)、そんな座古愛子さんの存在を雑誌で知ります。
ところが、座古先生は、非常にお優しい、 ほんとに観音様のような、マリア様のような美しい方で、母が、座古先生の写真 見た時に、「私より辛い思いをした人が、こんな素晴らしい顔をしていられるわけ がない。これは嘘だ」と思ったんですよ。
引用:心で合掌する
そして、中村久子さんは座古愛子さんに会いに行くことにしたんです。そして、対面した時には何の言葉もないまま涙したそうです。
39歳の時には、来日したヘレン・ケラーと対面します。ヘレン・ケラーは中村久子さんを抱きしめ、「私より不幸な人、私より偉大な人」と言いました。
これらのことをきっかけに、中村久子さんは興行芸人をやめて、障碍者福祉発展のために、全国を講演して回る活動を始めます。このころ、「歎異抄」に触れたことをきっかけに、自分の中の「慢心」に苦しむことになり、一度は興行芸人に復帰します。
しかし、その後は求道生活を始め、50歳ごろからは執筆活動・講演活動・各施設慰問活動を精力的に行うようになります。
そして、1950年には高山身障者福祉協会が発足して初代会長に就任し、厚生労働大臣と対談します。翌年には日本で身障福祉法が制定されました。1961年の65歳の時には厚生大臣賞を受賞しています。
日本の障害者福祉に大きく寄与した中村久子さんは、メディア等で日本のヘレンケラーと呼ばれることも多くありました。
中村久子の家族(両親や弟)
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中村久子さんは5人家族で育ちました。
・父親:栄太郎(畳職人)
・母親:あや
・中村久子
・弟:栄三
父親の栄太郎は久子さんを溺愛しましたが、久子さんが7歳の時に急性脳髄炎で亡くなりました。母親のあやは、久子さんが見世物小屋で年季を務めている22歳の時に亡くなっています。弟の栄三は10歳の時に生き別れとなり、母親のあやが亡くなる3ヶ月前に病気で亡くなりました。
中村久子さんは22歳にして、天涯孤独の身となったのです。
母親のあやの再婚相手の義父も畳職人で、連れ子がいたそうですので、連れ子も兄弟にふくめるなら、中村久子さんは3人兄弟ということになります。
中村久子は4回結婚・旦那とは
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両手両足を切断した中村久子さんは重度の身体障碍者でしたが、4回の結婚をしていて、波乱万丈の人生を送っているんです。
1回目の結婚
中村久子さんの1回目の結婚は23歳の時です。見世物小屋の年季が明けたことをきっかけに、同じ座員の男性だった中谷雄三さんです。中谷雄三さんは中村久子さんの3つ年上で、実直でまじめな性格だったとのことです。
見世物小屋では興行芸人が逃亡しないように、座員と結婚させることが多かったのですが、中村久子さんと中谷雄三さんは恋愛結婚でした。旦那の中谷さんが久子さんの身の回りの世話をするうちに、恋愛感情が芽生え、結婚に至ったそうです。
そして、結婚後は見世物小屋の年季が明けたため、夫婦で独立し、全国を興行で回ることになりました。そして、子供にも恵まれますが、結婚してわずか3年後の1923年に旦那の中谷雄三さんは腸結核で亡くなりました。
2回目の結婚
中村久子さんは、夫を亡くして悲嘆しますが、再婚することを余儀なくされます。なぜなら、中村久子さんは興行芸人として全国を回っていましたので、サポートしてくれる人が必要だったのです。しかも、全国を周るときにはいろいろと荷物がありましたので、サポートする人は男性でなければいけませんでした。
久子さんをサポートし、一緒に全国の巡業を回ってくれる男性。となれば、やはり結婚して旦那となる人にサポートを頼むのが適任です。
このような理由があり、中村久子さんは最初の旦那である中谷雄三さんがなくなった後、すぐに再婚することになりました。1人目の旦那が亡くなったのは1923年。そして、久子さんが2回目の結婚をしたのも1923年ですから、本当に生活のための結婚だったといえるでしょう。
2人目の旦那となったのは、1人目の旦那の兄が紹介してくれた人物で、以前に一座にいた男性でした。2人目の旦那も優しい人で、生活のための再婚とはいえ、穏やかな家庭を築き、結婚した翌年の1924年には2人目の子供を出産しました。
しかし、2人目の子供が生まれた翌年の1925年には、2人目の旦那さんは急性脳膜炎で急逝してしまうのです。
中村久子さんは両手両足がないという大きなハンデを持っているだけでなく、28歳にして、2人の旦那に先立たれ、幼子を2人抱えるシングルマザーとなったのです。
3回目の結婚
2人目の旦那にも先立たれた中村久子さん。それでも、子供を抱えて生活していくためには、再婚するしかありませんでした。3回目の結婚をしたのは、2人目の夫が亡くなった翌年の1926年のことです。
久子さんは信頼できる男性と出会ったので、その人と結婚しました。しかし、3人目の旦那は裏表があるタイプだったようで、結婚する前は良い顔をしていたのに、結婚したら本性を現して、酒と博打、さらに女遊びをするような人でした。
久子さんは3回目の結婚の翌年に3人目の子供を出産しますが、旦那は子供の面倒も見ないし、戸籍にも入れようとしませんでした。そして、その子ははしかにかかり、生後10ヶ月で亡くなってしまったのです。
中村久子さんは浪費家&女遊びがひどい旦那に8年間我慢しましたが、我慢の限界に達して、久子さんのほうから離婚を申し入れます。
すると、旦那は手切れ金1,500円を要求してきたのです。当時の1,500円は一戸建てが買えるほどの大金でした。その大金を払ってでも、久子さんは旦那と離婚したかったため、旦那に大金を払って離婚しました。
4回目の結婚
再び2人の子供を抱えてシングルマザーになった中村久子さんは、知り合いの興行師に再婚相手を紹介されます。紹介された男性は中村敏雄さんという9歳年下の男性でした。
4人目の旦那さんはおとなしく穏やかで、障碍のある久子さんを包み込んでくれるような人でした。
久子さんが中村敏雄さんと結婚したのは1933年のことで、久子さんは37歳になっていました。中村敏雄さんと4回目の結婚をして、中村久子さんはようやく落ち着いた生活を手に入れることができました。結婚した翌年の1934年には興行界から離れ、障碍者福祉の講演のために全国を周るようになりますが、旦那が久子さんの足となって、いつも同伴していたそうです。
久子さんは4人目の夫を次のように歌にしています。
「街の湯に 映画にわれを負いたまう 夫は尊し 示現如菩薩」
4回目の結婚をしたことで、中村久子さんは心から穏やかで充足した日々を送ることができたようです。
中村久子の子供(娘)や子孫
中村久子さんには子供が3人いました。3人とも娘です。
・次女:富子さん(1924年生まれ)
・三女:1927年生まれ
三女は1927年に生まれましたが、はしかにかかり、1928年に亡くなっています。次女の富子さんは、母親の久子さんのことを著書に記し、講演でも久子さんのことを後世に伝える活動をしています。
長女に比べると次女の富子さんはやんちゃな性格で、小学校卒業後は行儀見習いのために裁縫の先生の家に預けられていたことがありました。
また、高校時代は素行が悪いため、学校から親が呼び出されたことがありました。この呼び出しの時、久子さんは興行で朝鮮にいましたが、朝鮮から義足をはいて3日かけてやってきて、先生に頭を下げて、また朝鮮に戻っていったこともありました。この時、久子さんはトイレに行かなくても良いようにと、3日間飲まず食わずで来たそうです。
中村久子の死因は脳溢血で献体された
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中村久子さんは晩年は障碍者福祉に尽力し、高山身障者福祉会の初代会長となり、厚生大臣と対談し、65歳のとき(1961年)には厚生大臣賞を受賞し、宮中に参内して天皇陛下からお言葉を賜っています。
そして、1968年3月12日に岐阜県高山市の自宅で亡くなりました。死因は脳溢血です。
中村久子さんは次女の富子さんに、死んだ後は自分の体を医学の発展に役立てるように献体してほしいと頼んでいました。
次女の富子さんにとってはつらいお願いでしたが、富子さんは「何一つ親孝行をできなかったので、最後に献体のお願いをかなえることが親孝行になると」と思い、久子さんの死後に献体の手続きをしたそうです。遺体は岐阜大学医学部で解剖されました。
本人が献体を希望して、遺体は岐阜大学医学部で解剖されました。体中がボロボロで、先生方は『生前、どれだけ苦しかったか……この体でよく72年間生きられました。お見事としか言いようがありません』と泣きながらおっしゃったそうです
手足がない中で、自立した生活を送ってきた中村久子さん。トイレは1日1~2回しかかなったそうですし、身体に大きな負担がかかっていたのでしょう。
中村久子の名言
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中村久子さんは、いろいろな名言を残した方としても知られています。中村久子さんの名言をご紹介します。
中村久子さんはもともと努力家であり、前向きで逆境に負けない強さを持っている女性でしたが、さまざまな困難に直面し、それを乗り越えていく中で、悟りの境地に達したように思います。
中村久子のまとめ
両手両足を失い、だるま女(だるま娘)として見世物小屋で興行芸人をしていたこともある中村久子さんの生涯と家族(両親・弟)や4回の結婚・旦那と子供(娘)、死因と献体、名言をまとめました。
中村久子さんのような障碍を持っていたら、心が闇に飲み込まれてしまうのが普通だと思います。
中村久子さんの強さ・努力の心、悟りの境地は、その障碍と向き合い、困難を乗り越えたからこそものだと思いますが、健常な私たちはできる限り中村久子さんの生き方から学んでいきたいですね。