城丸君事件は犯人はほぼ間違いなくわかっているのに、黙秘などの理由で有罪にできなかった事件でした。その犯人と見られていた人物が工藤加寿子です。
工藤加寿子の生い立ちや家族、経歴、結婚歴や娘、城丸君事件の発生と逮捕、裁判の判決と詳細、現在をまとめました。
この記事の目次
工藤加寿子は城丸君事件の容疑者
工藤加寿子は城丸君事件の容疑者だった女性です。
城丸君事件では、被害者の城丸秀徳君の最後の目撃者として証言していました。その後、工藤加寿子の夫の自宅から人骨が発見され、時効2ヶ月前のDNA鑑定の結果、その人骨が城丸秀徳君であると断定され、工藤加寿子が逮捕されました。
しかし、工藤加寿子は完全黙秘を貫き、さらに殺意の証明をすることができなかったため、無罪判決となっています。
工藤加寿子が城丸君事件の犯人であることはほぼ間違いないのに、工藤加寿子の完全黙秘と事件からの月日の経過していることなどから、有罪にすることができず、完全犯罪が成立してしまった事件でした。
工藤加寿子は城丸君だけでなく、2番目の夫である和歌寿美雄さんの死にも関与しているのではないかと言われています。
工藤加寿子の生い立ちや家族
工藤加寿子は1955年(昭和30年)に北海道新冠郡新冠町節婦町で生まれました。実家の家族は5人家族で、兄と姉がいます。
・父親
・母親
・兄
・姉
・工藤加寿子
実家はあまり裕福ではなかったこともあり、地元の小学校・中学校を卒業した後、高校に進学することはなく、集団就職で上京しています。東京では紡績工場に勤めていましたが、東京が合わなかったのかすぐに退職して北海道に戻り、登別温泉の売店の店員として働いています。
工藤加寿子の経歴
工藤加寿子は19歳のころから水商売の世界で働き始めました。身長は167cmと高めだったこともあり、すらっとした美人だったのでしょう。
まずは、19歳で静岡県の熱海のスナックで働くようになります。その後、横浜や神戸、東京の水商売のお店でホステスとして働くようになります。
東京の上野でホステスをしていた時には、客から多額の借金をしていました。しかし、借金残額495万円を残して、工藤加寿子は北海道に逃げ帰っています。
その他、城丸君事件の前までに、工藤加寿子は次のような借金がありました。
・キャバレー客からの495万円
・P1東京本社から49万4,173円、4万982円
・P1池袋支店から約28万円
・株式会社P2から47万919円
・P3から105万1,600円
・P4から約50万円
・P5 から3万3,000円
・札幌のクラブ「N」から42万9,442円
・同僚ホステスから5万円
合計で約830万円、支払期限が迫っているものだけでも650万円の負債を抱えている状態でした。
工藤加寿子は、事件の約1ヶ月前までは札幌の高級クラブ「N」に勤めていて、札幌市豊平区のアパートに住んでいたことがわかっています。
工藤加寿子の結婚①:ショーパブオーナーとの間に娘あり
工藤加寿子の最初の結婚は、昭和57年のことでした。26歳の時に結婚をしています。相手は東京・上野のショーパブのオーナーです。すぐに娘が生まれました。
城丸君事件の時、娘は1歳7か月でしたから、娘は昭和57年6月ごろに生まれたのでしょう。ということは、工藤加寿子の最初の結婚はできちゃった結婚の可能性が高いです。
しかし、結婚生活は1年程度しか続かず、すぐに離婚して、工藤加寿子は北海道に戻っています。そして、前述の通り、札幌市豊平区のアパートに住み、高級クラブでホステスをしていました。
工藤加寿子と城丸君事件① 事件を目撃
城丸君事件は1984年(昭和59年)1月10日に起こりました。
不審な電話
1984年1月10日午前9時35分ごろ、札幌市豊平区に住む小学4年生の城丸秀徳君の自宅に電話がかかってきました。
当時、城丸君の自宅には、城丸秀徳君のほかに、父親と母親、小学6年生の兄がいましたが、城丸君が電話を取りました。
すると、城丸君は家族の誰とも電話を代わらずに、自分で「はい、はい」と小声で受け答えをして、電話を切った後に外出しようとしたため、不審に思った母親は電話の内容を城丸君に尋ねます。
すると、城丸君は次のように答えました。
「ワタナベさんのお母さんが、僕の物を知らないうちに借りた。それを返したいと言って、来てくれと言うんだ。函館に行くと言っている。車で来るから道で渡してくれる。それを取りに行く。」「100メートルくらい離れたところに、おばさんが持ってきてくれる。」
この時の城丸君の様子は緊張していて、電話の内容を悟られたくないような感じだったと母親は証言しています。
この意味不明な理由で、城丸君は寒い中、外出していきました。
あとをつけるも見失う
城丸君の態度を不審に思った母親は、小学6年生の兄に城丸君のあとをつけるように命じます。兄は城丸君のあとを追いますが、二楽荘というアパート辺りで城丸君を見失ってしまいました。兄は二楽荘周辺を探しますが、城丸君の姿を見つけることができませんでした。
二楽荘の隣には「ワタナベ」という表札の一軒家が建っていることを確認し、城丸君が帰って来ないか、しばらく待ってみたものの戻ってこないため、兄は自宅に帰り、母親に報告しました。
心配した母親は、「ワタナベ」という一軒家に行き、城丸君が来ていないかを尋ねました。対応したのは高校生の娘で、両親は朝から出かけていていないし、そんな電話はかけていない。城丸君も来ていないと話します。
母親と兄はさらに周辺を探しましたが、城丸君を見つけることができず、12時ごろに豊平警察署に捜索願を出しました。
工藤加寿子が目撃者
警察は兄が城丸君を見失った二楽荘周辺を重点的に捜索し、聞き込みを行ったところ、すぐに目撃者が現れました。
その目撃者が二楽荘の2階に住む工藤加寿子だったのです。
工藤加寿子は、外の空気を吸いに部屋の外に出て、部屋の前にいた時に小学生の男の子が近づいてきて、次のように訊ねてきたと証言しました。
「ワタナベさんの家を知りませんか。まっすぐ行って階段を昇る家だと聞いたんですけど」と訊ねたので、「隣の家がワタナベさんだけど、その家でないの?」と言うと「どうも」と言って立ち去った。
隣のワタナベさんのうちは、玄関が2階にある造り(雪国では珍しくない造り)になっているので、確かにそれに該当しますが、城丸君が探していた家が二楽荘隣のワタナベさんかどうかはわかりませんでした。
警察がワタナベさんの家で事情を聴いても、留守番の女子高生が城丸君の母親に告げたのと同じことを答えていましたし、任意で家宅捜索を行っても城丸君の痕跡は一切見つかりませんでした。
その後も城丸君の行方は分からず、公開捜査に切り替えた後も城丸君の行方の手がかりすらわからず、捜査は手づまりとなりました。
工藤加寿子が怪しい動きを!
工藤加寿子は事件当日に城丸君と話したことや最終目撃者であることは証言しましたが、事件に関与しているという証拠はありませんでした。
しかし、この後工藤加寿子は怪しい動きをしているんです。
まず、事件当日の夜に工藤加寿子は大きな段ボールを抱えて家を出ていきました。この時の様子は近所の人が目撃しています。
また、事件から1週間後には生活保護を申請し、3週間後の1月26日には同じ豊平区内の別のアパートに引っ越しをしています。
事件当日に大きな荷物を運び出し、3週間後には引っ越しをしているというのは、やはり怪しいですよね。
工藤加寿子の結婚②:農家の男性
お見合い結婚
城丸君事件の1年半後の1985年5月、工藤加寿子は北海道樺戸郡新十津川町に住む農業を営む男性・和歌寿美雄さん(当時35歳)とお見合いをして再婚します。
和歌さんの家族や親せきは夜の世界で生きてきた工藤加寿子さんと農業一筋の和歌さんでは釣り合わないとして、2人の結婚に反対していましたが、和歌さんが工藤加寿子さんにほれ込んでいて、反対を押し切って結婚しました。
ひどい結婚生活
和歌さんは工藤加寿子に「農作業はやらなくて良い。ただ家にいてくれれば良い」と伝えていました。確かに、工藤加寿子は農作業は一切やらなかったのですが、それでも結婚生活はうまくいきませんでした。
夜の世界に生きてきた工藤加寿子にとっては北海道の片田舎の農家生活はつまらなかったようです。
・昼まで寝ている
・食事の用意をほとんどしない
・娘と2人で札幌に遊びに行き1週間くらい帰らない
・金を渡さないと怒鳴り出す
・寝室は夫婦で別々
・冷蔵庫や洗濯機も別々
和歌寿美雄さんには1億9000万円もの生命保険がかけられていて、受取人は工藤加寿子の名前になっていました。また、和歌さんには家を建てるための2000万円の貯金がありましたが、それもほとんど工藤加寿子が使ってしまい、貯金はなくなっている状態でした。
火災が発生して夫が死亡
和歌寿美雄さんがある日、義理の兄とお酒を飲んでいる時に、「俺、殺されるかもしれない」と義理の兄に訴えたことがありました。義理の兄や親せきは和香さんに離婚を勧めていたのですが、結婚から1年半たった1986年12月30日、和歌さん宅が火事になります。
12月30日午前3時ごろ和歌さんの自宅で火事が起こり、焼け跡からは和歌さんの焼死体が発見されました。工藤加寿子と娘は逃げたため無事でした。
この火事を知った時、和歌さんの義理の兄は工藤加寿子の仕業だと直感し、「やられた!」と叫んだそうです。
工藤加寿子に不審な点は多々あるも・・・
この火事で和歌さんは亡くなったものの、工藤加寿子と娘は無事でした。しかも、怪しい点がたくさんあったんです。
・深夜の出火にも関わらず、工藤加寿子は外出着を着て化粧をして、髪型もセットされていてロングブーツを履いていた
・娘も同様に外出用で防寒着を着ていた
・自宅から119番せずに300m離れた民家に助けを求めた
・助けを求めた時にも冷静に呼び鈴を押して、家主が出てくるまで待った
・自分と娘の荷物は運びだしたが和歌さんのものは1つも運び出されなかった
・保険証書や通帳はしっかり運び出していた
ちなみに、和歌さんの自宅の隣にも近所の人の家がありましたが、なぜかその隣の家は通り越して、300m離れた家に助けを求めています。
深夜3時なのに、外出用の身支度を整えていたことはメチャクチャ怪しいですが、貴重品と自分たちのものだけしっかり持ち出していたのも怪しいです。
自分たちのものを運び出す時間はあったのに、旦那である和歌さんを助けようとしないのも怪しいです。
しかし、警察は保険金目当ての放火殺人であると疑いましたが、出火原因を特定することはできなかったため、工藤加寿子がこの火事に関与している・工藤加寿子の犯行であるということを証明できず、工藤加寿子が罪に問われることはありませんでした。
工藤加寿子はこの火事の後に、和歌さんの生命保険の請求を行っていますが、保険会社が支払いを拒否したことで、保険金請求は諦めています。
工藤加寿子の結婚③:すぐに離婚
工藤加寿子は和歌寿美雄さんが火災で死亡した後、北海道静内郡静内町に引っ越していて、そこで3回目の結婚をしているという情報があります。
しかし、その結婚も長く続くことはなく、早い段階で離婚しているそうです。
工藤加寿子と城丸君事件② 逮捕
遺品整理で人骨が発見される
工藤加寿子の2番目の夫である和歌寿美雄さんが火災で亡くなった約半年後の1987年6月、和歌さんの義理の兄は遺品の整理のために、納屋の片づけをしていました。その時、棚に置かれているビニール袋を見つけます。
中を見ると、骨のようなものが入っていたため警察に通報しました。この人骨は「火葬した子供の人骨」であることは分かったものの、当時のDNA鑑定技術では誰の人骨なのかまではわかりませんでした。
人骨が城丸君のものと断定されて逮捕
しかし、工藤加寿子の元夫の納屋で見つかったこと、歯の大きさなどが行方不明になっている城丸君と似ていることから、1987年8月には工藤加寿子は警察の任意取り調べを受けています。ポリグラフ検査も行われました。
工藤加寿子は城丸君の失踪と関与していることをほのめかしていたものの、その後は一切黙秘するようになり、事件との関係を明らかにすることはできず、この時は逮捕には至りませんでした。
しかし、城丸君事件の時効が2ヶ月後に迫った1988年11月、和歌寿美雄さんの納屋から見つかった人骨が城丸秀徳君のものであると断定され、工藤加寿子が逮捕されました。
工藤加寿子と城丸君事件③ 犯行動機は?
城丸君事件は金に困った上での犯行か?
なぜ、工藤加寿子が城丸君を殺害したのか?その動機は金に困ったためと考えられています。城丸君事件の前には、工藤加寿子の借金は830万円、返済期限が迫っているものは650万円ありました。
特に、働いていた札幌の高級クラブからの借金42万9,442円は1984年1月10日が返済期限となっていました。
勤務先からの借金の返済期限である1984年1月10日。そうです。城丸君事件が起こった日です。
勤務先の高級クラブからの借金を踏み倒してしまったら、今後は夜の世界で働くのが難しくなる可能性があります。また、この借金は義理の兄(姉の夫)が保証人になっていたため、何とか返済しないと、姉夫婦にも迷惑が掛かります。
このことから、工藤加寿子はこの日に何とか借金を返済しなければいけませんでした。だから、城丸君事件を起こしたと思われます。
工藤加寿子は身代金誘拐をしたわけではない?
城丸君事件は、工藤加寿子が城丸秀徳君を身代金目的で誘拐したのでは?と思われがちですが、身代金目的の誘拐の可能性は低いです。
その理由は2つ。
工藤加寿子は167cmと背は高かったですが、城丸君は145cmありました。健康で元気な145cmの男児を1歳7ヶ月の娘がいる状態で誘拐できるのでしょうか。物理的に無理があります。身代金誘拐を考えるなら、もっと身体が小さい幼児を狙うはずですよね。
また、身代金目的の誘拐だと、お金を手に入れるまでに時間がかかる可能性があります。誘拐して自宅に身代金要求の電話を入れ、受け渡しの交渉をしないといけません。そうすると、1月10日の返済期限に間に合いません。
このことから、工藤加寿子は身代金目的の誘拐をしたわけではなく、城丸君の弱みを握っていて、城丸君を脅して呼び出し、両親からお金を引き出させようとしていたと思われます。
城丸君は自宅に電話がかかってきた時、緊張した様子で受け答えをしていました。また、家族に嘘をついて外出し、兄の尾行を巻いています。ということは、城丸君は家族には絶対に知られたくないような秘密・弱みを工藤加寿子に握られていた可能性が高いです。
それを餌に工藤加寿子は城丸君を自宅に呼び出して、お金を持ってこさせようとしたけれど、そこでトラブルが起こり、殺害してしまったと考えるのが自然でしょう。
城丸君の家はお金持ちでした。父親は2つの会社の代表取締役を務めていました。自宅の敷地は120坪、家屋は50坪、さらに車はポルシェ、BMW、モーガンの3台の高級車を持っていたのです。工藤加寿子は以前から資産家の息子である城丸君に狙いを定めていたのでしょう。
工藤加寿子が握っていた城丸君の弱みは明らかになっていません。しかし、性的なもの、つまり工藤加寿子が城丸君を誘惑して弱みを握った可能性があります。
事件があった1月10日は、城丸君に電話をして、性的な関係(裸を見せたり触ったり?)を家族にばらすと脅して城丸君を呼び出し、ばらされたくなければ、親からお金をもらってこいと言ったのではないでしょうか。そこで、城丸君が抵抗し、トラブルになって殺害してしまったと考えることができます。
工藤加寿子と城丸君事件④ 裁判の判決は無罪
短鎖式DNA型鑑定により人骨が城丸秀徳君のものであることが判明し、1998年11月に工藤加寿子は逮捕され、12月には殺人罪で起訴されました。
裁判では、工藤加寿子は黙秘を貫きます。裁判の最初の罪状認否では「起訴状にあるような事実はない」と主張しましたが、それ以外の質問にはすべて「答えることはない」、「お答えすることは何もございません」という回答を繰り返すだけで、事件について一切何も語らなかったのです。
この「答えることはない」という回答は裁判の中で400回も繰り返されたと言われています。
検察は工藤加寿子に無期懲役を求刑しましたが、2001年5月30日、札幌地裁では工藤加寿子に無罪判決を言い渡しています。
検察側はすぐに控訴しましたが、札幌高裁は一審の判決を支持し、控訴を棄却しました。検察は高裁の決定を受け、上告を断念しましたので、2002年3月29日に工藤加寿子の無罪が確定しました。
工藤加寿子が無罪判決になった理由の詳細
工藤加寿子は城丸君を殺害したことはほぼ間違いありません。また、元夫の和歌寿美雄さんを殺害した可能性すらあります。それなのに、完全無罪となり、有罪になることはありませんでいた。
工藤加寿子はなぜ完全無罪になったのでしょうか?
殺人罪以外では起訴できない
まず、大前提として、工藤加寿子が逮捕された時、城丸君事件から約14年10ヶ月が経過していました。当時の殺人罪の時効は15年。時効ギリギリでの逮捕・起訴だったのです。
殺人罪で時効ギリギリということは、そのほか城丸君事件で工藤加寿を罪に問える可能性がある罪状はすでに時効を迎えていました。
・死体遺棄罪:3年
・死体損壊罪:3年
・未成年者略取罪:5年
・過失致死罪:5年
・傷害致死罪:7年
つまり、工藤加寿子を逮捕した時、殺人罪以外の罪は問えない状況でした。工藤加寿子を有罪にするためには、殺人罪で有罪にするしかありません。そして、殺人罪で有罪にするためには、殺害方法・殺害動機が重要になります。
殺害方法がわからなければ、本当に工藤加寿子が城丸君を殺害したのかを証明することができません。殺害の動機や殺意があったかどうかがわからなければ、殺害するつもりはなかったのに誤って殺してしまった過失致死の可能性が出てきてしまいます。
黙秘されて動機も方法も立証できない
裁判で工藤加寿子は「答えることはない」と黙秘を貫きました。工藤加寿子の口から殺害方法も動機も語られることはなかったのです。そのため、工藤加寿子が本当に城丸君を殺害したのかどうかを立証することはできませんでした。
札幌高裁の判決では、工藤加寿子が城丸君の死に関与していることは認定されています。しかし、殺意があったかどうかを認定することはできないと結論付けていました。
以下で紹介する判決文の「被告人」とは工藤加寿子のことで、「A」が城丸秀徳君になります。
原判決が,被告人が重大な犯罪によりAを死亡させた疑いが強いということができるとしたことは正当として肯認することができる。
この部分から、工藤加寿子が城丸秀徳君を死亡させた疑いが強いと認定しています。しかし、次のような一文も判決文には書かれていました。
本件では,被告人が重大な犯罪によってAを死亡させたことを推認させる証拠は少なからず存在するものの,これらの証拠はいずれもが殺意の有無に関しては多義的に理解しうるのであって,その中に被告人の殺意を強力に推認させるだけの証拠が存在しないのである。したがって,これらの証拠を総合して検討しても被告人の殺意を認定することはやはり困難といわざるを得ない。
いろいろな証拠を総合的に見ても、工藤加寿子が殺意を持って城丸君を殺害した。工藤加寿子に殺意があったとは認定することができないから、工藤加寿子は殺人罪では無罪という判決になったのです。
もし、これが死体遺棄罪や過失致死罪が時効になっていなければ、そちらで有罪にすることはできたでしょう。
もしくは、工藤加寿子が黙秘をしていなければ。もう少し証拠が残っていれば、違った結果になったはずです。
工藤加寿子の現在
工藤加寿子は2002年3月に完全無罪を勝ち取りました。
2番目の夫である和歌寿美雄さんの事件も2001年に時効を迎えていますので、これで罪に問われることはありません。
城丸君の遺族も民事で損害賠償請求を断念したため、民事でも責任を問われることはなくなりました。
工藤加寿子の完全勝利です。
工藤加寿子はそれどころか、1178万円を手に入れています。
工藤加寿子は逮捕から拘束されていた928日分の日当(最高額1万2500円)と弁護士費用で合計1160万円の支払いを求め、札幌地裁が補償金として1178万円の支払いを決定したのです。
約1200万円のお金を得た工藤加寿子は、その後の人生はわかっていませんが、現在でも北海道に住んでいるようです。北海道の札幌市東区のまちBBSには、次のような書き込みがありました。
343 名前: なまら名無し 投稿日: 2010/05/13(木) 19:07:29 ID:2YbfNZKw [ FFEA-DA39-29DE ] 東区役所で働いている友人から聞いたんだけど
城丸くん事件の犯人が東区に住んでいるらしい
工藤加寿子は現在、70歳前後になっています。年齢を考えるとまだ存命の可能性が高いです。
工藤加寿子のまとめ
工藤加寿子の生い立ちや家族、経歴や結婚歴と娘、城丸君事件の詳細と無罪判決・その理由や現在をまとめました。
工藤加寿子は肝の据わり方が尋常ではなく、恐ろしい女性です。裁判は適切な判決だったと思いますが、城丸君と和歌さんのご遺族の無念を思うと、やり切れないものがありますね。