寿産院事件とは、1948年に発覚した嬰児の大量殺人事件です。犯人の石川ミユキは養子の斡旋業をしながら、預かった嬰児を次々に殺害していました。この記事では本件の動機や判決、その後、大量殺人の現場となった寿産院の跡地、現在について紹介します。
この記事の目次
寿産院事件の概要
寿産院事件とは1948年1月、東京市牛込区牛込柳町(現在の新宿区市谷柳町)にあった助産院「寿産院」で起きた嬰児(赤ちゃん)の大量殺人事件です。
被害者となったのはこの産院に預けられた私生児らで、寿産院経営者である石川ミユキ・猛夫妻は親元で育てることが困難な嬰児を預かって養育するとともに、養子斡旋をおこなう特殊産院を運営していました。
特殊産院というのは戦中から戦後に未亡人や生活困窮から水商売に流れる女性が増えたことから、誰にも知られずに死亡してしまう私生児が増えることを危惧した政府が、 戦時中の人的資源増強政策の一環として設けた制度です。
この認可を受けた寿産院は養育料を受け取って母親らから育てられない嬰児を預かり、粉ミルクや砂糖などの支給を受けていました。
本来であればこのお金や物資で里親希望者が現れるまで預かった子を育てるのですが、石川夫婦はこの養育料を着服し、配給品も転売して売上を自分たちの懐にしまっていました。
そのため寿産院に預けられた子は栄養失調や凍死によって次々と命を落とし、その遺体は秘密裏に処分されていったのです。
正確な被害者数は明らかになっていませんが、一説には寿産院で殺害された嬰児の数は169人に及ぶともいわれています。
しかも寿産院事件発覚後、警視庁が本格的に捜査に乗り出したところ同様の殺人事件が疑われる産院が次々に現れ、貰い子殺人事件は社会問題となりました。
戦中の「産めよ増やせよ」という風潮も悲惨な事件を後押ししたきっかけになった等の議論も盛んにされ、寿産院事件は優生保護法が制定される一因ともいわれています。
寿産院事件の犯人・石川ミユキと石川猛夫婦
寿産院事件の主犯格であり、産院の経営者であった石川ミユキは1897年2月5日に宮崎県東諸県郡本庄村で誕生しました。
地元の職業学校を卒業した後は18歳で上京して、東京帝国大学医科大学附属医院産婆講習科に入学。1919年9月30日に同院を卒業するとともに産婆資格を取得し、30年近くに渡って日本橋や牛込などで産院を経営してきました。
また当時の女性としては非常に高い学歴の持ち主であったミユキは、1948年に事件が明るみに出るまでに日本助産婦看護婦保健婦協会理事、東京都助産婦会牛込支部長、牛込助産婦会会長という要職を歴任したとされます。
1947年には婦人年鑑でも紹介され、同年4月に当時の自由党から新宿区の区会議員選にも立候補しましたが、結果は落選に終わりました。
一方、夫で共犯者の石川猛は茨城県東茨城郡白河村出身の元警察官です。2人は1919年にミユキ20歳、猛23歳で結婚しており、当時の猛は警視庁の巡査だったといいます。
しかし、26歳で退官してからは定職に就かずに妻のミユキの仕事を手伝うようになり、寿産院事件では子を預かる際の手続きなどを担当していました。逮捕時の職業は公的には「無職」とされていたそうです。
ミユキが病気によって子宮と卵巣を切除していたため実子は産まれませんでしたが、石川夫婦は男子2人、女子1人の養子を迎え入れており、猛と先妻の間にできた息子1人をくわえた4人の子を育てていたとのことです。
寿産院事件の詳細① 寿産院の実情
戦前に東京市牛込区牛込柳町で寿産院を開業した石川ミユキは、1944年4月から養育困難な私生児を引き取って養子斡旋をする事業を始めました。
当時は刑法上に「堕胎罪」が存在し、中絶を選んだ妊娠中の女性や中絶を請け負った医師や助産師には懲役刑が課されました。
そのため望まぬ妊娠をしても中絶ができず、女給や娼婦、ダンサー、未亡人など出産はしたものの子どもを育てられない母親にとって、寿産院のような施設は駆け込み寺のような存在だったそうです。
寿産院は新聞に「嬰児預かります」の広告を出して客を募り、預かり台帳によると1948年までに以下の人数の子どもを受け入れたとされます。
・1944年…24名
・1945年…34名
・1946年…41名
・1947年…100名
・1948年…13名
受け入れた子の親からは2000〜10,000円の養育料を受け取っており、とくに預かり子が多かった1947年には養育料だけで90万円近い収入があったといいます。
こうして預かった子は養子を希望する家庭に迎え入れられるのですが、寿産院は引取希望者からにも謝礼金を要求しており、預かる時と引き渡す時で二重に養育費をとっていました。
また、謝礼金は子どもの容姿で決まっていたようで、寿産院から子を迎えた女性からは以下のような証言も出ていたとのことです。
「女の子が欲しいと言ったら、産婆は2人の子を見せ、こちらは300円ですが、こっちは器量がいいから500円いただきますと、まるで店で品物でも売るような様子でした」
酷い扱いですが、それでも寿産院に預けられて無事に新しい家族に迎え入れられた子は非常な幸運の持ち主でした。
寿産院で働いていたことがあるという女性の証言によると、預かった子に与える食事は「粉ミルク2さじ、粉砂糖3さじ」と石川ミユキが決めており、これと1日6回の水だけで子どもたちは命を繋いでいました。
寿産院事件の詳細② 鬼産婆
出典:https://www.morinaga.co.jp/
石川夫婦は預かった養育費のほとんどを子どものために使わず、横領していました。また、粉ミルクや粉砂糖などの配給物資も必要最低限の量を残して、闇市に横流しし、その売上も着服していました。
そのため寿医院の子ども達は栄養状態が非常に悪く、お風呂にも入れてもらえずにおむつ交換すらケチられるなど劣悪極まりない環境に置かれていたといいます。
預かる子どもの数が増えると1人あたりにかけられる養育費はさらに削減され、養親が決まらなかった子の大半は栄養失調で死亡。さらに冬の時期に充分な保温をされなかったために、凍死した子もいたとされます。
一方で石川夫婦は横領した金で都内や茨城県内に土地を買う、高級品であった電話を購入するなど贅沢三昧の暮らしをしていました。
開業以降、寿産院で働いていた助産婦のうち十数名は産院の方針に異を唱えて、「せめて粉ミルクと砂糖は2倍の量を与えないといけない」「冬場の保温設備の導入を」「人手が足りなすぎる」と訴えましたが、ミユキはまったく取り合いませんでした。
そのため耐えきれなくなって寿産院を辞める助産婦は跡を絶たず、彼女らはミユキのことを「鬼産婆」とあだ名していたそうです。
寿産院事件の詳細③ 事件の発覚
1948年1月12日の夜、石川夫婦に頼まれて嬰児の遺体を処分していた葬儀屋の男・長崎龍太郎(事件当時54歳)が職務質問されたことから、寿産院事件は発覚します。
この日の19時30分頃、新宿区榎町15番地で張り込みをしていた早稲田署の警官が、自転車に乗った長崎を検問して自転車の荷台に積んだみかん箱を確認したところ、中からニットのシャツとおむつにくるまれた嬰児の遺体が出てきました。
長崎は警官に対して「寿産院から頼まれて今夜中に5体の遺体を運ぶ約束をしており、すべて明朝に火葬する予定だ」と説明。自転車に積まれたみかん箱4箱には1体ずつ嬰児の遺体が収められていました。
さらに長崎が、「自分はこれまでも寿医院から頼まれて30体ほどの遺体を火葬してきた」と証言したことから警官は不審に感じましたが、この時は埋葬許可証を持っていたために追求せずに帰したそうです。
しかし、部下からこの件の報告を受けた早稲田署の署長は事件を疑って13日の朝に長崎のもとへ捜査係を遣わせて寿産院から運び出した5体の遺体の処分を留保し、司法解剖の手配をしました。
そしておこなわれた司法解剖の結果、5体のうち2遺体の死因は凍死、3遺体の死因は餓死であることが判明。さらに担当した解剖医によると、5体の遺体の胃袋には食べ物が入った形跡すらなかったといいます。
この結果を見た署長は、子ども達は病死ではなく適切な世話をされなかったために死んだものと判断して、寿産院の経営者を殺人の不作為犯(自ら積極的に手は下さないが、このままでは死ぬとわかっていて放置し続けたという意味)と見て逮捕状を請求しました。
寿産院事件の詳細④ 石川ミユキ夫婦の逮捕
15日早朝、石川夫婦と葬儀屋の長崎が逮捕されました。そして警察が家宅捜査したところ、餓死をした子どもがいたにもかかわらず、粉ミルク約8.2kg、粉砂糖約5.6kg、米約27リットルが押収されたといいます。
このうち白米の入った石油缶からは預かった嬰児のものと思われる骨が入った骨壷も発見され、さらに長崎の自宅からは約40柱もの遺骨が見つかりました。
また産院内の3畳間には、竹製のベッドに放置された7人の痩せこけた嬰児がいました。
新聞やラジオなどで事件が報じられると、16日には寿産院に子どもを預けた母親が駆けつけ、7人のうち2人は実母が連れ帰ったとのことです。
このうち1人の母親は「子の父親である男には逃げられ、実家も頼れない。そんな時に新聞の広告で寿産院のことを知って預けたんです。養育費は6000円払いました。こんなところには一時も置いていられません」と泣きながら語ったとされます。
なお、残りの5人のうち2人は死亡、2人は養親希望者に引き取られ、1人は後に消息不明になったといいます。実母に引き取られた子も1人はすでに弱っており、ほどなくして死亡したと報じられました。
寿産院事件の動機
石川夫婦が寿産院事件を起こした動機は養育費や配給品の詐取、つまりお金でした。
寿産院事件が発覚した直後の毎日新聞には「産院はいい商売」という見出しの記事が掲載され、1947年の1月から12月の間に201軒も産院が増加したことや、民間の産院や産婆が有料で養子斡旋をする旨の新聞広告が目立って増えたことが紹介されていました。
寿産院に限らず、儲かるからという理由で養子斡旋をしていた産院は多かったのでしょう。
なお、石川ミユキ本人は金銭目的で嬰児の大量殺人事件をしたとは認めず、逮捕後も「子どもが死んだのは、最初から栄養状態が良くなかったため。預かれないと拒否しても母親が置いていったので面倒を見た」「食事量を制限したのは、いつ配給が途絶えるとも知れなかったから」などと主張していました。
寿産院事件の裁判と判決
寿産院事件の初公判は1948年6月2日に東京地方裁判所で開かれました。被告人となったのは以下の5人です。石川夫婦と一緒に逮捕された葬儀屋の長崎龍太郎は、証拠不十分で起訴されませんでした。
・石川ミユキ…殺人で起訴
・石川猛…殺人および私文書偽造行使で起訴
・寒河江義門(第一生命の保険外交員)…私文書偽造行使で起訴
・中山四郎(医師)…医師法違反で起訴
・寿産院で働いていた助手の女性…殺人で起訴
寿産院事件の主犯である石川ミユキは、逮捕後に読売新聞の記者から「事件が世間に与えた影響について、どう思うか」と質問され、「自分が犯し罪を償うためなら、死刑になっても構わない」と答えていました。
しかし寿産院で一体何人の子どもが死んだのか、警察も検察も正確な数が把握できず、さらに石川夫婦に明確な殺意があったのかも立証が困難でした。
そのため論告求刑では、死刑どころかミユキに懲役15年、猛に7年、助手の女性には懲役3年と、被害者の数や事件の影響力を考えると比較的軽い求刑がされます。
そして第一審の判決ではミユキに懲役8年、猛に懲役4年、助手の女性は無罪と量刑はさらに軽いものになりました。
事件発覚当初、被害者は169人とも103人とも報じられていましたが、警察の報告では84人、検察の主張では27人と大幅に減ったうえ、最終的に東京地裁が認めた被害者は5人のみだったとされます。
それほど証拠がなかく、結局は逮捕後に亡くなった嬰児を含む5名についてのみ、石川夫婦による不作為殺人が認められたのでした。
また、共犯として起訴された助手の女性はミルクの増量を訴えるなどしていたことから、殺意が認められないと判断されて無罪となりました。
軽すぎる判決
事件の大きさに比べて一審の判決は軽すぎる印象を受けます。しかし、この量刑でも重すぎるとして石川夫妻は東京高等裁判所に即日控訴。
1952年4月28日には二審の判決公判が開かれましたが、下された判決はミユキに対して懲役4年、猛に対して懲役2年とますます軽くなりました。
検察側は上告しましたが最高裁判所が上告を棄却したため、夫婦の刑はそれぞれ懲役4年、2年で確定します。
なお、石川猛に頼まれて偽造診断書を入手したとされる寒河江義門に対しては懲役8ヶ月、夫婦の依頼で死亡診断書を作成したとされる中山四郎には禁錮4ヶ月の刑が言い渡されました。
寿産院事件のその後① 類似の事件が発覚する
寿産院事件の後、警視庁や東京都衛生局は同様の事件が起きていないか都内の民間の産院を調査しました。
すると新宿区戸山町の淀橋産院、文京区の長谷川産院、文京区の駒込産院と次々に事件の疑いがある産院が浮上し、寿産院を含めると合計12軒もの産院が起訴されました。
とくに文京区本郷の長谷川産院は妊娠中の女性の依頼を受けて十数件の堕胎手術もしていることが発覚し、戦後初の堕胎罪が認められたといいます。
寿産院事件のその後② 石川夫婦の責任について議論される
当初、石川夫婦には世間から厳しい批判の声が上がり、逮捕直後には早稲田警察署に抗議が殺到しました。
一方で事件が報じられてからも我が子の安否を確かめに寿産院を訪れた親は非常に少なく、しばらく経つと「親が持て余した子を預かっていただけではないのか」と石川夫婦を擁護する意見も出るようになりました。
毎日新聞も1月20日の社説欄で「金で縁を切るつもりで子どもを産院に預けた親もいたはずだ」と指摘し、「望まぬ子を産むのが正しいことなのか」と問題提起をしています。
日本助産婦会顧問の鈴木三藏氏も産院側を批判しながらも「親にも問題はある。正しい性教育の導入など、悲劇を防ぐ対策も必要」との見解を述べました。
また、朝日新聞は「事件発覚前から寿医院の噂は周辺に広まっていたという。警察や役所も次々に子どもが死んでいたのを知っていて、不義の子だからと放置したのではないのか」と指摘。
対して警察も新宿区も「産院に子を預けた母親が相談に来た例もなく、事件は把握していなかった」「産院が用意した書類が正当である以上、どうしようもない」と主張しました。
このように寿産院事件が起きた理由や犯人以外の責任についてはさまざまな議論が飛び交い、国会でもたびたび議題に上がりました。
寿産院事件のその後③ 優生保護法が制定される
寿産院事件が発覚した後は、「不義の子の人権」をどうやって保護するのかも問題となりました。
折りしも事件が発覚する1ヶ月前の1947年12月12日には厚生省に児童局が設置され、公設の乳児院の建設が計画されるなど、親が育てられない子を保護する福祉体制の整備が発表されていました。
そのため厚生省には早期の公設の乳児院の建設が期待されましたが、まずは施設の建設に先駆けて「助産婦の業務に関する広告取締令」を出し、乳幼児の預かりを連想させる一切の広告を禁じたといいます。
さらに寿産院事件も一因となって、1948年7月には優生保護法が制定され、1949年には同法の改正で避妊の推奨や経済的な理由による人工中絶を認める旨も盛り込まれました。
寿産院事件のその後④ 石川ミユキはすぐに出所した?
4年の懲役刑が確定した石川ミユキですが、二審の判決が下された1952年4月28日はちょうどサンフランシスコ講和条約の発効日でした。
サンフランシスコ講和条約の発効日には有罪を無効にする「大赦」がおこなわれており、1969年6月21日号の『週刊新潮』では、この恩赦で石川ミユキも釈放されて出所していたと報じられています。そのため実質的にはほぼ服役せず、罪を償わずに釈放となったのでしょう。
また、『週刊新潮』には73歳になった石川ミユキのインタビューも掲載され、出所後には石鹸やクリーム、魚の行商を始めて財を成し、不動産業を営んでいることが明らかになりました。
寿産院事件を担当した弁護士によると「出所後に億の財産を築いたのではないか」とのことです。
その後は1987年5月30日に享年91歳で死去。生前に建てていた立派な墓に埋葬されたと見られます。
なお、『週刊新潮』のインタビューの時点でも殺意は否定しており「子どもは死んだけど、それは無責任に置き去りにした親のせい」「もののない時代に餓死なんて珍しい話じゃない」「ミルクや米、死んだ子の葬祭用に配給された酒などは夫が勝手に売っていた」と主張していました。
寿産院事件の現場・寿産院の場所と跡地の現在
寿産院があった場所は東京都新宿区市谷柳町23番地、現在は27番地にあたる場所です。
石川家の自宅も兼ねていたため、事件発覚後1年は保釈中のミユキが住んでいたといい、3部屋を貸し出そうとしていたそうです。
しかし、その後に建物は取り壊されており、衝撃事件の現場のその後や事件現場についてまとめた書籍『あの事件を追いかけて』によると、跡地は飲食店になっているといいます。
周辺に慰霊碑などはなく、寿産院事件の跡地とはまったくわからないとのことです。
また、新宿区市谷柳町の宗圓寺で事件発覚後に見つかった85柱の遺体の合同慰霊祭が開かれましたが、こちらのお寺にも慰霊碑などは建立されていません。寿産院事件関連の遺骨は、境内にある無縁塔に合葬されているといいます。
寿産院事件についてのまとめ
今回は1948年1月に発覚した嬰児の大量殺人事件・寿産院事件について判決や犯人の石川ミユキのその後、事件が与えた影響、現場の跡地をふくめて紹介しました。
たとえ死者が出なくても産院がお金をとって赤ちゃんを預かり、里親希望者に引き渡すということ自体が非人道的に感じられますが、寿産院で起きたことは戦争の影響が1人1人の国民にまで及んだ結果ともいえます。
しかし、物資の横流しや養育費の着服をしていたにもかかわらず、犯人らはほとんどお咎めなしだったというのはやはり憤りを感じずにはいられません。