「第一次世界大戦」は、人類が初めて経験した世界規模の戦争でした。
この記事では第一次世界大戦について年表形式でわかりやすく解説し、きっかけや原因、大戦中に登場した数多くの新兵器、日本の関わりと戦勝国と敗戦国の顛末、その後や世界への影響などについてまとめました。
この記事の目次
第一次世界大戦は人類が初めて経験した世界規模の総力戦
「第一次世界大戦」は、1914年7月から1918年11月にかけて、人類が初めて経験した世界規模の総力戦でした。
この戦争は欧州を主戦場としながら、植民地を含めた世界中に広がり数千万人規模の死傷者を出す未曾有の悲劇を生み出しました。
また、戦車や飛行機、毒ガスといった新兵器が次々と投入され、それまでの戦争の常識や様相を一変させました。
第一次世界大戦は、それまでの帝国主義時代を終わらせ、ロシア革命や国際連盟の設立、そして第二次世界大戦へと続く、まさに歴史の巨大な転換点となりました。
この記事では第一次世界大戦が起こった歴史的な背景、年表、原因やきっかけ、日本の参戦と果たした役割、戦勝国の明暗と敗戦国が辿った運命。そして、その後の世界に与えた影響などをわかりやすく紹介していきます。
第一次世界大戦の年表
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まず最初に全体の流れをわかりやすくするため、足掛け5年にもわたった第一次世界大戦を年表形式でまとめます。
第一次世界大戦の年表① 1914年
日付 | 出来事 | 概要 |
6月28日 | サラエボ事件 | オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が、セルビア人の青年に暗殺される。これが大戦の直接的な引き金となった。 |
7月28日 | オーストリアがセルビアに宣戦布告 | サラエボ事件を受け、オーストリアがセルビアに宣戦布告。 |
8月1日 | ドイツがロシアに宣戦布告 | ロシアがセルビア支援のために総動員令を発令したことに対し、ドイツが宣戦布告。 |
8月3日 | ドイツがフランスに宣戦布告 | ドイツがロシアの同盟国であるフランスに宣戦布告。 |
8月4日 | イギリスがドイツに宣戦布告 | ドイツが中立国ベルギーに侵攻したため、ベルギーの中立保障を理由にイギリスが参戦。 |
8月23日 | 日本がドイツに宣戦布告 | 日英同盟を理由に、日本が連合国側として参戦。 |
8月26日~30日 | タンネンベルクの戦い | 東部戦線でドイツ軍がロシア軍に圧勝する。 |
9月5日~12日 | マルヌの戦い | 西部戦線で、ドイツ軍の進撃をフランス・イギリス連合軍が阻止。これによりドイツの短期決戦計画(シュリーフェン・プラン)が頓挫し、戦争は長期化へ。 |
10月~11月 | 塹壕戦の始まり | 西部戦線では両軍が塹壕を掘り、スイス国境から北海に至る長大な戦線が膠着状態に陥る。 |
11月7日 | 日本軍が青島を占領 | 日本がドイツの中国における拠点であった青島を攻略する。 |
第一次世界大戦の年表② 1915年
日付 | 出来事 | 概要 |
1月18日 | 「対華二十一カ条の要求」 | 日本が中国に対し、ドイツ権益の継承などを求める要求を突きつける。 |
4月22日~ | 第二次イープルの戦い | ドイツ軍が史上初めて大規模な毒ガス(塩素ガス)を使用する。 |
4月26日 | ロンドン秘密条約 | イタリアが領土問題(未回収のイタリア)をめぐり、連合国側での参戦を密約。 |
5月7日 | ルシタニア号事件 | イギリスの客船ルシタニア号がドイツの潜水艦に撃沈され、アメリカ人を含む多くの民間人が犠牲に。アメリカの対ドイツ世論が悪化する。 |
5月23日 |
イタリアが連合国側で参戦 |
三国同盟を離脱し、オーストリア=ハンガリー帝国に宣戦布告。 |
第一次世界大戦の年表③ 1916年
日付 | 出来事 | 概要 |
2月21日~12月18日 | ヴェルダンの戦い | ドイツ軍がフランスの要衝ヴェルダンに大攻勢をかける。両軍合わせて70万人以上の死傷者を出す激戦の末、フランスが死守。 |
5月31日~6月1日 | ユトランド沖海戦 | イギリスとドイツの主力艦隊が激突した史上最大の海戦。両軍大きな損害を受け、以後ドイツ艦隊は積極的な出撃を控える。 |
7月1日~11月18日 | ソンムの戦い | イギリス・フランス軍が攻勢を開始。イギリス軍が史上初めて戦車を実戦投入。両軍の死傷者は100万人を超える。 |
8月27日 | ルーマニアが連合国側で参戦 | 連合国側で参戦するも、同盟国軍に敗れ国土の大部分を占領される。 |
第一次世界大戦の年表④ 1917年
日付 | 出来事 | 概要 |
2月1日 | ドイツ、無制限潜水艦作戦を再開 | イギリスを海上封鎖で屈服させるため、国籍を問わず全ての船舶を攻撃対象とする作戦を再開。これがアメリカ参戦の直接的な原因となる。 |
3月8日~ | ロシア革命(三月革命) | ロシアで革命が勃発し、皇帝ニコライ2世が退位。ロマノフ朝が崩壊する。 |
4月6日 |
アメリカがドイツに宣戦布告 |
無制限潜水艦作戦による自国船舶への被害を受け、アメリカが連合国側として参戦。 |
11月7日 | ロシア革命(十一月革命) | レーニン率いるボリシェヴィキが権力を掌握し、ソビエト政権が樹立される。 |
12月15日 | ロシア、ドイツと休戦協定 | 革命後のソビエト政権が、同盟国と単独で休戦協定を結び、戦線から離脱する。 |
第一次世界大戦の年表⑤ 1918年
日付 | 出来事 | 概要 |
3月3日 | ブレスト=リトフスク条約 | ソビエト政権がドイツなど同盟国と単独講和条約を締結し、正式に戦争から離脱。 |
3月21日~7月 | ドイツ最後の大攻勢(春季攻勢) | ドイツ軍が西部戦線で、アメリカ軍の本格的展開前に勝敗を決するべく最後の大攻勢を開始するが、失敗に終わる。 |
8月8日~ | 連合国の百日攻勢 | 連合国軍が反撃に転じ、ドイツ軍を後退させる。 |
9月29日 | ブルガリア、休戦協定に調印 | 中央同盟国の中で最初に降伏する。 |
10月30日 | オスマン帝国、休戦協定に調印 | オスマン帝国の降伏 |
11月3日 | オーストリア=ハンガリー、休戦協定に調印 | オーストリアの降伏 |
11月9日 | ドイツ革命 | キール軍港での水兵の反乱をきっかけに革命が勃発。皇帝ヴィルヘルム2世が退位し、ドイツは共和国となる。 |
11月11日 | 休戦協定成立 | ドイツ新政府が連合国との休戦協定に調印。これにより4年以上にわたる第一次世界大戦が終結する。 |
第一次世界大戦の年表⑥ 1919年(戦後処理)
日付 | 出来事 | 概要 |
1月18日~ | パリ講和会議 | 連合国が戦後処理について協議する会議を開催。 |
6月28日 | ヴェルサイユ条約調印 | 連合国とドイツとの間で講和条約が調印される。ドイツに巨額の賠償金や領土の割譲など過酷な条件が課せられ、これが第二次世界大戦の一因となった。 |
第一次世界大戦をわかりやすく解説① 原因ときっかけや歴史的な背景
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第一次世界大戦がなぜ起きたのかを理解するためには、19世紀末から20世紀初頭にかけてのヨーロッパの複雑な政治情勢に目を向ける必要があります。
第一次世界大戦が勃発した原因は1つではなく、複数の要因が絡み合って、1つの事件をきっかけに戦争が始まり、多くの国が関わる世界規模の大戦争へと発展していったのです。
第一次世界大戦の原因ときっかけ① 列強国間の対立と植民地獲得競争
19世紀後半、産業革命を成し遂げたヨーロッパの列強諸国は、自国の工業製品の市場と原料の供給地を求め、アジアやアフリカへと進出して次々と植民地化していきました。(帝国主義と呼ばれる)
この植民地獲得競争は、イギリスやフランスといった既存の帝国と1871年に統一を成し遂げて急速に国力を高めた新興国のドイツ帝国との間に激しい対立を生み出しました。
特に、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が積極的に海外進出を図る「世界政策」を掲げると、世界の覇権を握るイギリスとの対立が決定的なものとなりました。
第一次世界大戦の原因ときっかけ② 三国同盟と三国協商の2陣営への分断
- 1870年〜1871年にかけて戦われた普仏戦争(フランス帝国とプロイセン王国の戦争)でフランスに勝利し、プロイセン王国を中心に成立したドイツ帝国は、フランスの報復を警戒し、外交手腕に長けた宰相ビスマルクの主導のもとで、巧みな同盟網を築いてフランスを孤立させる政策を取りました。
ビスマルク体制下のドイツ帝国は、1882年に、オーストリア=ハンガリー帝国、イタリア王国との「三国同盟」を締結して中央ヨーロッパに強力な軍事ブロックを形成し。1887年にはフランスとロシアが結んで東西から挟まれる事を避けるためにロシアとの独露再保障条約を結びました。
しかし、新たにドイツ皇帝に即位したヴィルヘルム2世はビスマルクの外交戦略を否定して1890年にビスマルクを更迭。これによりロシアとの独露再保障条約は延長されずに失効し、ロシアは新たにフランスとの露仏同盟を締結。
さらに1904年、フランスはドイツの脅威に対抗するため長年の対立関係にあったイギリスと英仏協商を結び、さらに1907年にイギリスとロシアが英露協商を締結し、既に露仏同盟を結んでいたロシアを加えた「三国協商」が成立しました。
これにより、第一次世界大戦勃発前のヨーロッパは「三国同盟」(ドイツ、オーストリア、イタリア)と「三国協商」(フランス、イギリス、ロシア)という2つの強力な軍事同盟が睨み合い、軍事的な緊張が高まっている状況でした。
第一次世界大戦の原因ときっかけ③ ヨーロッパの火薬庫と言われたバルカン半島
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ヨーロッパの南東部に位置するバルカン半島は、19世紀にオスマン帝国が衰退し、独立を果たした小国がひしめいていました。
様々な民族が入り混じって宗教的な対立を抱え、その状況に進出を企てるヨーロッパ列強国の利害が対立し合い、いつ大国同士の争いが起きてもおかしくない状況から、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていました。
第一次世界大戦の原因ときっかけ④ サラエボ事件から連鎖的に列強が参戦
ヨーロッパの一触即発の状況の中、1914年6月28日に「サラエボ事件」が起き、これが第一次世界大戦の直接的なきっかけとなります。
サラエボ事件は、バルカン半島の小国、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボを訪問中だったオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫妻が、民族主義者のボスニア系セルビア人の青年(ガヴリロ・プリンツィプ)に射殺された事件でした。
この事件を受けて、オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに対して多くの厳しい要求を突きつけました。これは「7月の最後通牒」と呼ばれ、セルビアが一部の要求を拒否すると、1914年7月28日に、オーストリアはセルビアに宣戦布告しました。これにより、ヨーロッパの複雑な同盟関係が連鎖的に動き始めます。
まず、オーストリアのバルカン半島進出を阻止したいロシアは、セルビアと同じスラヴ人国家である事を口実としてこれに介入しセルビアを支援するために総動員令を発令しました。
オーストリアの同盟国であるドイツは動員解除をロシアに求めるも拒否され8月1日にロシアに宣戦布告。
これに、ロシアは三国協商を通じて同盟関係にあるフランスに参戦を要請。普仏戦争の敗戦の復讐を求めていたフランスはこれに応じ、同日中に総動員を開始。これを受けてドイツは8月1日にフランスに宣戦布告。
ドイツは要塞化されたフランス国境を迂回する目的で、中立国であるベルギーとルクセンブルクに軍事侵攻して制圧しそこから南下してフランスへと侵攻しました。
しかし、この動きにより、中立国であるベルギーに侵攻した事を理由として8月4日にイギリスがドイツに宣戦を布告。
こうして、サラエボ事件からわずか1ヶ月余りでヨーロッパの主要国を巻き込む大戦争へと発展し、第一次世界大戦の火蓋が切って落とされる事になりました。
なお、8月23日にはイギリスと日英同盟を結んでいた日本もドイツに対して宣戦を布告しています。
第一次世界大戦をわかりやすく解説② 4年にわたって続いた戦争の経緯
第一次世界大戦は当初、早期に終結すると楽観視されていました。しかし、その予想は外れて4年以上にわたる未曾有の消耗戦となり、当時の人類史上最大の犠牲を出した大戦争となりました。
続けて、第一次世界大戦の足掛け5年間の経緯を追っていきます。
1914年8月〜 西部戦線の膠着と東部戦線でのタンネンベルクの戦い
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1914年8月初頭、フランスに宣戦布告したドイツは、まずフランスを短期間のうちに降伏させ、その後に戦力を集中してロシアと戦うとする「シュリーフェン・プラン」(ドイツ帝国の軍人アルフレート・フォン・シュリーフェンの作戦計画)に基づき、中立国であるベルギーを突破してフランスへ侵攻しました。
ドイツ軍はパリの目前にまで迫るも9月に「マルヌ会戦」の敗戦によって進撃を食い止められ、ドイツ軍はエーヌ川まで戦線を後退させ塹壕陣地を構築。対するイギリス軍とフランス軍も塹壕陣地を構築し、スイス国境から北海に至る約700kmにもわたる長大な塹壕線が構築され、西部戦線は1917年までほとんど戦線が動かない膠着状態に陥りました。
この「塹壕線」は第一次世界大戦を象徴する泥沼の戦いとなりました。
一方、東部戦線でも戦端が開かれ、8月26日~30日にかけてのタンネンベルクの戦いでドイツ軍がロシア軍を圧倒しましたが、南方ではロシア軍がオーストリア軍に大勝利を収めており(ガリツィア戦役)東部戦線の趨勢を決めるまでには至りませんでした。
なお、1914年8月23日、日本が日英同盟を理由として連合国側としてドイツに宣戦を布告し、ドイツの租借地であった中国の青島要塞を攻撃し攻略。また、太平洋のドイツ領南洋諸島(マリアナ諸島、カロリング諸島、パラオ諸島、マーシャル諸島など)に軍を送り無血占領しています。
1915年 総力戦へ移行とイタリアの連合国側での参戦
1915年、当初の予想を裏切り、第一次世界大戦は長期化の様相を見せます。
戦争が長期化するにつれて、各国は兵士や兵器だけでなく、食糧、工業生産力、技術力など、国の全てを戦争に動員する「総力戦」の体制へと移行していきました。
また、1915年4月の第二次イープル会戦では、ドイツ軍が新兵器として、史上初めて大規模な毒ガス兵器(塩素ガス)を使用し、戦争の非人道性が増していきました。
1915年5月には、三国同盟の一員だったイタリアは同盟を離脱し、領土問題で対立するオーストリア=ハンガリー帝国に宣戦布告して連合国側で参戦しました。(ドイツとオーストリア側を同盟国、イギリスとフランス、ロシア側を連合国と呼ぶ)
5月7日には、ドイツ軍の潜水艦(Uボート)が、イギリスの豪華客船ルシタニア号を撃沈する事件が発生。このルシタニア号撃沈事件では128名ものアメリカの民間人が犠牲となり、アメリカのドイツに対する世論が悪化しました。(全体の犠牲者は民間人1198名にもおよんだ)
1916年 ヴェルダンの戦いやソンムの戦いなど凄惨な消耗戦に
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1916年に入り、西部戦線では両陣営が大兵力を投入し合い、大きな損害を出し続ける凄惨な消耗線が繰り広げられました。
1916年2月21日、ドイツ軍はフランスの強固な要塞都市・ヴェルダンに大規模攻撃をかけますが、フランス軍は国威をかけてこれを死守し、12月までに両軍合わせて70万人以上(フランス軍36万2000人、ドイツ軍33万6000人とされる)もの膨大な死傷者を出しながらドイツ軍の猛攻を撃退しました。
7月1日から11月19日にかけては、フランス北部のソンム河畔の戦線で、第一次世界大戦最大の会戦(大規模野戦の事)となる「ソンムの戦い」が起こりました。
これはイギリスとフランスの連合軍がドイツ軍に対する大攻勢をしかけた事で発生した戦いでした。この戦いでイギリス軍が新兵器として戦車を人類史上初めて実戦に投入しています。
11月上旬まで両軍は激しく戦いましたが、双方とも決定的な戦果は挙げられず、一連の戦闘でイギリス軍49万8000人、フランス軍19万5000人、ドイツ軍42万人という100万人を超える膨大な損害を出し、連合軍が11kmほど戦線を押し上げただけで膠着に陥りました。
一方、海では5月31日から6月1日にかけて、イギリス艦隊151隻、ドイツ海軍99隻の両軍艦船合わせて180万トンがぶつかるという当時「世界史上最大の海戦」となったユトランド沖海戦が発生しました。
お互いに主力艦を含む大きな損害を出し、両軍合計で8600人もの戦死者を出しました。ドイツ艦隊は戦力に勝るイギリス艦隊に自軍より大きな損害を与える事に成功しましたが、制海権の奪取にはいたらず、この海戦以降ドイツ艦隊は積極的な出撃を避けるようになり、潜水艦による民間輸送船の無差別攻撃に傾斜するようになり、やがてアメリカの参戦を招く原因となりました。
1917年 アメリカの参戦とロシア革命により戦況が大きく転換
1917年は、第一次世界大戦の大きな転換点となった年でした。
長期化する戦争により各国が疲弊する中、戦局を大きく左右する2つの出来事が起こりました。
1つは巨大な工業力を持つアメリカの連合国側への参戦でした。第一次世界大戦が始まった当時、アメリカ合衆国は中立を宣言していましたが、1915年5月のドイツの潜水艦が豪華客船ルシタニア号を無差別に撃沈してアメリカ人を含む多くの民間人が犠牲になる事件などによりアメリカ国民のドイツへの非難の声が高まりました。
ドイツは潜水艦による民間輸送船への攻撃をしばらくの間は控えていましたが、1917年2月に、イギリスに向かう商船は中立国であっても無警告で攻撃するという「無制限潜水艦作戦」を許可。
これを受けて、当時のアメリカのウィルソン大統領は議会にて、ドイツとの戦いを「平和と民主主義、人間の権利を守る戦い」だと意義づけし、連合国側での参戦を提案しました。アメリカ合衆国議会はこれを承認し、1917年4月6日にドイツに対して宣戦を布告しました。(アメリカの伝統的外交姿勢だった孤立主義“モンロー主義”の転換)
アメリカ軍がヨーロッパの西部戦線に派遣され、大量の兵器と兵員が続々と戦場に送り込まれ、最終的には200万もの兵力が動員されました。絶大な工業力を持つアメリカの参戦は第一次世界大戦の勝敗に決定的な影響を及ぼしました。
第一次世界大戦の戦局を大きく変えた2つ目の出来事は、ロシア革命が起こった事でした。
ロシアは、長期にわたった戦争による国民生活の困窮と犠牲者の増大に対する不満が爆発し、二月革命(三月革命とも)が起こりロシアのニコライ皇帝が退位。さらに、11月にはレーニン率いるボリシェヴィキ(ロシア社会民主労働党の主流派、後のロシア共産党)がロシア臨時政府を倒して権力を握る十月革命(十一月革命とも)が起こりました。
レーニン率いる革命政府(ソヴィエト政権)は、「平和に関する布告」を出して同盟国側と停戦し、最終的に同盟国側と単独講和条約を結んで戦線から離脱しました。これにより東部戦線は事実上消滅し、ドイツは戦力を西部戦線に集中させる事が可能になりました。
1918年 ドイツ軍の大攻勢と同盟国側の崩壊からドイツ革命により終戦へ
ロシアとの講和により東部戦線の戦力を西部戦線に回す事が可能になったドイツは、2018年3月に総攻撃を実施しました。
一時はパリに迫るほどの勢いを見せたドイツ軍でしたが、1918年8月8日、北フランスのアミアン付近でアメリカ軍の大規模増援を得た連合軍によって撃破され、ドイツ軍は大きな損害を受けて後退を余儀なくされました。
その後、9月にブルガリア、10月にオスマン帝国、11月にオーストリア=ハンガリー帝国が休戦協定を結んで連合国側に降伏。
ドイツ国内でも、敗戦が濃厚になる中で兵士の反乱(キール軍港の水兵反乱)が発生し、これがきっかけとなってドイツ各地で兵士や労働者が蜂起しドイツ革命へと発展。ドイツ皇帝のヴィルヘルム2世はオランダへ亡命し帝政が倒されドイツは共和国となりました。
ドイツ共和国の臨時政府の権力を掌握した社会民主党のフリードリヒ・エーベルトは、1918年11月11日にフランスのコンピエーニュの森で連合国と休戦協定を締結し、これによって4年以上にわたった第一次世界大戦は終結しました。
第一次世界大戦をわかりやすく解説③ 多くの新兵器で戦争の様相が変化
第一次世界大戦は、科学技術が本格的に利用された最初の戦争であり、多くの新兵器が戦場に登場したという点でも人類の歴史上とても重要です。
これら新兵器は戦争の様相を一変させ、死傷者の数を爆発的に増大させました。ここでは、第一次世界大戦やその後の戦争にも大きな影響を与えた新兵器について見ていきます。
第一次世界大戦の新兵器① 機関銃
第一次世界大戦で初めて登場した新兵器ではありませんが、凄まじいスピードで銃弾を連続発射する「機関銃」は、陣地に据え付ける事で突撃してくる歩兵を瞬く間に一掃する事が可能になり、それまでの戦術を一変させました。
第一次世界大戦では、両軍は機関銃の攻撃を避けるために、塹壕を掘って少しずつ前進するしかありませんでした。その結果、第一次世界大戦の戦場には長大な塹壕が延々と続く異様な光景が広がり「塹壕戦」と呼ばれました。
この塹壕戦の結果、戦線はしばしば膠着状態になり、戦争の長期化の大きな原因となりました。
第一次世界大戦の新兵器② 毒ガス
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第一次世界大戦は、新兵器として「毒ガス」が初めて使用された戦争でした。
毒ガスが最初に使用されたのは1915年4月の第二次イープルの戦いで、ドイツ軍が塩素ガスを使用し1日で連合軍側に5000人もの死者が出ました。イギリスは毒ガスに対抗するために防毒マスクを開発し兵士達に配布されました。
連合軍側も対抗して毒ガス攻撃を実施し、1916年2月のヴェルダン攻防戦で塩素よりも毒性の強いホスゲンを砲弾に詰めて攻撃し、塹壕に篭っていた多くのドイツ兵を呼吸困難で窒息死させました。
ドイツはさらに有効な毒ガスの新兵器としてイペリットを開発し、戦場で使用しました。毒ガス兵器とその防御技術の開発競争のようになり、開発された毒ガスの種類は30種類以上にのぼりました。
1969年国連の報告によれば、第一次世界大戦全チアでの化学兵器による死傷者は少なくとも130万人、死者は10万人にのぼるとされています。
第一次世界大戦の新兵器③ 戦車
現在も地上戦の主力兵器と位置付けられている「戦車」は、第一次世界大戦中に登場した新兵器でした。
戦車が開発された目的は、塹壕戦により膠着した戦線を打破するためでした。機関銃をものともしない装甲と、塹壕や鉄条網を踏み潰して敵陣地を突破する能力を発揮し戦場での有効性を示しました。
当初は故障が多く戦果を上げられませんでしたが、1917年以降は量産体制が整い戦場に大量投入する事で大きな戦果を上げるようになりました。
第一次世界大戦の新兵器④ 飛行機
第一次世界大戦は、新兵器として飛行機が大量に使用され始めた初めての戦争でした。
開戦の頃には両陣営はそれぞれ百数十機程度の飛行機しか保有していませんでしたが、戦争中に急速に増加し3万機にまで増大しました。
日本が初めて航空爆撃を実施したのも第一次世界大戦中で、連合国側として参戦した日本はドイツが租借していた青島要塞に対して航空爆撃を実施しました。
第一次世界大戦の新兵器⑤ 潜水艦
ドイツ軍は第一次世界大戦で、新兵器である「潜水艦」を大量に戦場に投入して輸送船を無差別に攻撃する通商破壊戦を行いました。
ドイツは第一次世界大戦中に約300隻の潜水艦(Uボート)を建造し、商船約5300隻、戦艦10隻などを撃沈する圧倒的な戦果を上げましたが、アメリカ人を含む多くの民間人がこの犠牲となりアメリカが参戦する大きな要因となりました。
第一次世界大戦への日本の参戦と軍事行動や影響
第一次世界大戦に日本は連合国側として参戦し戦勝国の一員となりました。第一次世界大戦への日本の参戦と軍事行動、影響について見ていきます。
日本が第一次世界大戦に参戦した経緯と実際の軍事行動
日本は第一次世界大戦に参戦したのは、イギリスとの軍事同盟「日英同盟」の存在がありました。
1914年8月、日本はイギリスからの要請を受けてドイツに宣戦布告し、中国山東省にあったドイツの租借地「青島」の要塞と、ドイツが植民地支配していた赤道以北のドイツ領南洋諸島(現在のミクロネシア連邦など)を攻略しています。
青島要塞攻略戦では大規模な戦闘が発生しましたが、南洋諸島にはドイツ軍はほとんど兵力を置いておらず無血占領に成功しています。
また、1917年からは地中海に駆逐艦隊を派遣し連合国の輸送船団をドイツの潜水艦から護衛する任務にも就いています。
日本は第一次世界大戦で空前の好景気となった
第一次世界大戦の戦争特需は日本に空前の好景気(大戦景気)をもたらしました。
日本の特産品であった綿織物や生糸の輸出が急増し、軍需物資の注文も殺到。これにより、日本は債務国から債権国へと転身しました。
混乱に乗じて中国大陸への影響力を強めた
第一次世界大戦の混乱に乗じて、日本は中国の袁世凱政府に対し、「二十一カ条の要求」を突きつけ、山東省のドイツ権益の継承などを認めさせました。これは中国国民の激しい反発を招き(五・四運動のきっかけとなった)、またアメリカの対日警戒感を強めることにもなりました。
第一次世界大戦の戦勝国と敗戦国の顛末
第一次世界大戦の戦勝国、敗戦国のそれぞれの顛末についても見ていきます。
第一次世界大戦の戦勝国
第一次世界大戦の主な戦勝国はイギリス、フランス、アメリカ、日本、イタリアなどです。
フランスやイギリスは戦勝国とはなったものの、国土が戦場となって多くの若者の命が戦場で失われ、経済的にも甚大な被害を受けました。
一方、アメリカは遅くに参戦した事や本土が戦場と遠く離れていた事などからほとんど被害を受けず、戦争を通じてヨーロッパ諸国に多額の貸付を行った事もあり、世界最大の債権国として国際的地位を飛躍的に高めました。
イタリアは戦勝国となり南チロルとトリエステを獲得しましたが、さらなる割譲地を得る権利があるという声が国民の間で強まり、経済の悪化や失業者の増加、物資不足などの国民の不満を背景にファシズムが台頭するきっかけとなりました。
日本は戦勝国として、中国山東省のドイツの権益を引き継ぎ、ドイツ領だった南洋諸島の委任統治権獲得し、国際連盟の常任理事国の地位も獲得するなど大きな利益を得ました。
第一次世界大戦の敗戦国
第一次世界大戦の敗戦国は、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリアなどでした。その中心であった帝国は敗戦によって崩壊の道をたどりました。
特に、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、連合国側だったロシア帝国では、戦争の長期化によって革命が起こり、帝政が倒されました。
第一次世界大戦のその後と世界に及ぼした影響
第一次世界大戦は、それまでの世界のあり方を根底から覆す歴史の転換点でした。その影響は現在にまで続いています。
ここでは、第一次世界大戦のその後や世界に及ぼした影響について見ていきます。
第一次世界大戦のその後と影響① ベルサイユ体制の成立
第一次世界大戦の終結翌年の1919年、戦勝国はパリ講和会議を開き、敗戦国・ドイツとの間にヴェルサイユ条約を締結しました。
ヴェルサイユ条約はドイツにとって非常に過酷な内容で、「天文学的な額の賠償金支払いの義務付け」、「領土の割譲」、「軍備の大幅な制限」などが課されました。
この戦後の国際秩序を「ヴェルサイユ体制」と呼びますが、このドイツに対する一方的な懲罰的な内容は、ドイツ国民に屈辱感と強い不満を植え付ける事につながり、その後のヒトラーとナチス党の台頭のきっかけとなり、第二次世界大戦へつながる原因になりました。
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第一次世界大戦のその後と影響② 4つの帝国の崩壊と民族自決
第一次世界大戦の結果、長きにわたって欧州に君臨してきた4つの巨大な帝国が崩壊しました。ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国、オスマン帝国で、革命によって帝政が倒されました。
そして、アメリカのウィルソン大統領が提唱した「民族自決」の原則により、旧オーストリア=ハンガリー帝国や旧ロシア帝国の領土から、ポーランド、チェコスロバキア、フィンランドなどの多くの独立国が新たに誕生しました。
第一次世界大戦のその後と影響③ 国際社会や経済の変容とアメリカの台頭
第一次世界大戦のその後の影響として、戦争で疲弊した欧州に代わって、アメリカが世界経済の中心として台頭した事が挙げられます。ニューヨークはロンドンに代わる国際金融の中心地となり、アメリカはその後、「狂騒の20年代」と呼ばれる経済的繁栄を謳歌しました。
第一次世界大戦のその後と影響④ スペイン風邪のパンデミックを引き起こした
第一次世界大戦末期の1918年から、世界中で「スペイン風邪」と呼ばれるインフルエンザの一種が猛威をふるい、戦争の犠牲者を上回る数千万人が死亡しました。この世界規模のパンデミックを引き起こしたのは、第一次世界大戦により世界中を大量の兵士が移動した事でした。
第一次世界大戦のその後と影響⑤ 国際連盟の設立
第一次世界大戦の悲惨さにより、2度とこのような戦争を起こさない事を目的として、恒久平和を目指す世界初の国際機関として1920年に国際連盟が設立されました。
集団安全保障という新しい考え方に基づく画期的な試みとなりましたが、提唱国であるアメリカが議会の反対で加盟せず、侵略国に対する有効な制裁手段も持たなかったため、その後の日本の満州事変やイタリアのエチオピア侵攻などを防げず、実効性の限界を露呈しました。
まとめ
今回は、1914年7月から1918年11月にかけて欧州を中心に世界規模で戦われた、人類が初めて経験した世界戦争である「第一次世界大戦」について年表形式でまとめてみました。
第一次世界大戦は、欧州で燻っていた帝国主義列強の対立の火種が、サラエボ事件をきっかけとして「ヨーロッパの火薬庫」ことバルカン半島で爆発しそれが欧州全土へと広がった大戦争でした。
その原因は深く複雑で、すぐに終結するとした当初の楽観論は裏切られ、4年以上にわたる泥沼の戦いの果てに、両陣営合わせて数千万人規模の犠牲者を生み出しました。
第一次世界大戦では、毒ガスや戦車など新兵器も初めて投入され、戦争はより非人道的な面を見せるようになりました。
そして、この戦争によって欧州の秩序が大きく変化した事は、その後のナチスドイツやイタリアのファシズムの台頭を呼び、第二次世界大戦へとつながっていく事になります。
また、日本は第一次世界大戦には日英同盟に基づいて連合国として参戦し、戦勝国となって国際的地位を高め、経済的にも領土的にも大きな利益を得ました。しかしこれが日本が大陸へ進出していく大きな足掛かりとなり、結果として満州事変、日中戦争、太平洋戦争の悲劇へとつながっていく事になりました。