御船千鶴子は明治に実在した本物の超能力者とされる人物です。リング・貞子の母親のモデルと言われ、SPECやゴールデンカムイでも取り上げられました。今回は御船千鶴子の生い立ちや死因となった千里眼事件とトリック、家族や子孫、墓について紹介します。
この記事の目次
御船千鶴子とは
御船千鶴子(みふねちづこ)は1886年から 1911年に実在した女性で、「千里眼(透視能力)」の持ち主とされます。
日本の超能力研究の祖と評される福来友吉(ふくらいともきち)博士とともに東京大学で日本初の本格的な超能力実験をおこなった人物であり、実験の失敗を苦に自殺したことでも知られます。
御船千鶴子の生い立ちと家族
御船千鶴子は1886年(明治19年)7月17日に、熊本県宇土郡松合村(現在の宇城市不知火町松合)に生まれました。
元氏族で漢方医をしていた父親の御船秀益と母親のユキ、姉の4人家族だったとされます。
千鶴子には生まれつき難聴があり、進行性のものであったために成人する頃にはほとんど右耳が聞こえなくなっていました。しかしそれを補うかのように人並み外れた集中力を持ち、観音菩薩を信仰する慈悲深く繊細な性格だったといいます。
一方で一度でも嫌な思いをさせられた相手のことは忘れず許さない、思い込みで人の性格を決めて嫌な印象を持った相手には馴染もうとしないといった、ある種のこだわりの強さなども持っていたそうです。そのような性格であったために、人付き合いは不得手でした。
また感情の起伏が激しく、危うい面もあったと言われています。
結婚と離婚
22歳の時、千鶴子は陸軍歩兵中尉の男性と結婚しました。しかし、もとより人付き合いが苦手で耳も悪かった千鶴子に対して、姑や舅は「家を取り仕切るだけの能力がない」「駄目な嫁」という評価を下し、疎ましがるようになったといいます。
ある時、夫の財布から50円(明治時代は小学校の教員や警察官の初任給が月に8~9円であった)という大金がなくなり、騒ぎになりました。その際に千鶴子はなくなった50円玉が姑の所有する仏壇の中にあることを言い当て、盗みの疑いをかけられた姑が自殺未遂をするという事態を引き起こしてしまいます。
この騒動がきっかけとなって千鶴子と婚家の間には決定的なヒビが入ってしまい、離縁された彼女は実家に戻ることになりました。
千里眼の発現
千鶴子の実家には、姉の夫で体育教師をしていた清原猛雄という人物が同居していました。この義理の兄は千鶴子が17歳の時から「お前には千里眼の能力がある」と、彼女に暗示のようなものをかけ続けていたとされます。
さて、千鶴子が実家に戻ってきた当時、日本は日露戦争のただ中にありました。折しも熊本では運送船3隻がロシアの軍艦に撃沈され、なかでも6000トンを超える商船・常陸丸の喪失は大きな話題となっていました。(常陸丸事件)
そこで義兄は千鶴子に千里眼があるのかを確かめるべく、「熊本に本拠地を持つ第6師団の兵士は喪失した常陸丸に乗っていたのか?」と、当時は公開されていなかった情報について尋ねたといいます。
義兄の問いに対して千鶴子は「常陸丸は船の故障で長崎に引き返しているため、第6師団の兵士は乗船しませんでした」と答え、その3日後になんと彼女の回答が正しいことが明らかになったのです。
千里眼の噂が知れ渡る
千鶴子の姉と義兄夫婦は民間療法の治療院も開業していました。千鶴子がおこなった常陸丸の透視はすぐさま近隣住民にも知れ渡り、やがて市内の至るところから「千里眼で病気を直して欲しい」「千里眼で失せ物を探して欲しい」という人々が姉夫婦の治療院に殺到するようになったそうです。
ある時には三井財閥本社からも人が訪ねてきて、千鶴子の千里眼で有明海に石炭の鉱脈を探せないかと頼んできたこともあったといいます。
そして福岡県大牟田市で透視をおこなった千鶴子が見つけたのが、最盛期には1643万トン以上もの石炭産出量を叩き出した万田坑だったという話も残っています。
出典:https://www.miike-coalmines.jp/
次第に千鶴子の噂は熊本県内だけにとどまらず全国に知れ渡るようになり、1909年8月14日付の『東京朝日新聞』でも大々的に取り上げられました。
そんな千鶴子のもとをたびたび訪れていた心理学者がいました。それが当時、東京帝国大学心理学研究室で助教授をしていた福来友吉博士と京都帝国大学医科大学の今村新吉博士です。
1910年4月10日に熊本を訪れた福来博士と今村博士は、千鶴子の義兄立ち会いのもと、彼女の持つ透視能力の実験をおこないました。
千鶴子は透視をする際に対象物を手に持ち、依頼者に背を向けて壁に向かう形で透視をしていたそうです。実験でこのようなスタイルをとると、やらせだと疑われてしまうのではないかと考えた福来博士らは、対象物を手に持たないで透視をするよう千鶴子に指示しました。
しかし、この実験は失敗に終わったといいます。そこで義兄は茶壺を用意し、そこに名刺を入れて千鶴子に渡し、茶壺に入った名刺に触れて、そこに書かれた文字が透視できるか否かを実験しました。
すると今度は見事に名刺に書かれた文字を言い当てたため、福来博士らは千鶴子の千里眼は本物だという確信を得たといいます。
御船千鶴子と千里眼事件
福来博士らのおこなった透視実験は心理学会からも大きな注目を集めました。そして同時に、千鶴子の千里眼の真贋をめぐる論争も巻き起こったのです。
ついに福来博士らは千鶴子の能力を証明するため、1910年9月15日に東京帝国大学の元総長である山川健次郎博士の立ち会いのもと、東京で公開の透視実験をおこなうことにしました。
この実験では20本のハンダで密閉された鉛管が用意され、その中に立会人の山川博士が文字を書いた紙が封入されました。この紙に書かれた文字が透視できれば、千鶴子の能力は本物というわけです。
鉛管のうちの1本を渡された千鶴子は精神集中に入り、やがて「見えました」と言葉を発しました。そして千鶴子は用意してあった半紙に、筆で「盗丸射」という文字を書きます。
確認のために鉛管を開いて紙を取り出すと、そこには千鶴子が言い当てたように「盗丸射」と書かれていたのです。実験を一目見ようと集まったマスコミ各社もどよめき、千鶴子の千里眼は本物だ、と色めき立ちました。
しかし、その場に「インチキだ!」と避難する声が響いたのです。声の持ち主は、なんと立会人の山川博士でした。
山川博士は「私は『盗丸射』なんて言葉を書いていない」と証言しました。
山川博士の主張は正しく、実はこの「盗丸射」と書かれた紙は山川博士の書いたものではなく、福来博士が練習用に書いたものだったのです。
当然ながらこのことは実験に立ち会った山川博士の心象を著しく悪くし、新聞各社は千鶴子らが実験前に鉛管の中身をすり替えたのだ、とやらせを疑う報道をしました。
千鶴子と福来博士は潔白を訴え、再度の実験と山川博士の立ち会いを懇願。9月17日に、再び透視実験がおこなわれることになったのです。
2回目の実験では銅製の筒に文字を書いた紙を入れ、それをさらに木箱に納めて紐で固く括り、木箱の蓋には封がされ、その上から立会人が割り印を押すという厳重な措置が取られました。
この木箱の透視をおこなった彼女は「道徳天」という文字を見事に言い当てたとされます。
しかし、この1回の的中だけでは山川博士らの不信を晴らすことができず、山川博士は用意していた追加の実験をおこなうように要求してきました。
ところが1回目の実験から緊張の連続状態であったためか、この日の千鶴子は体調が悪く、これ以上の実験に応じることはできませんでした。
もともと山川博士も千鶴子の千里眼に対して批判的な印象は持っておらず、先入観なく実験に応じていたといいます。
そこに1度目の実験で不信感を与えられ、2度めの実験では「疲れているから、これ以上はできない」と言われ、さらに千鶴子の実験は公開と言いつつも透視中はその場に居合わせた全員に背を向けて対象物を触るというかたちでおこなわれたことから、不信は募る一方でした。
ほかの物理学者からも「千里眼実験に使った管や箱には開封した痕跡がある」と指摘され、2度目の実験でも千鶴子の千里眼はインチキだとする声は収まらなかったそうです。
そのため福来博士らは立会人と向き合った状態でも千鶴子が精神集中できるよう、工夫をしなければないないと考えました。
そして千鶴子の顔を毛布で包み、手元だけをふすまから自分たちに覗かせる方法で実験をおこなえば、彼女の手元を見せてやましいことがない旨を証明しつつ、精神統一も図れるのではないかと思いついたのです。
この方法での実験は11月18日に熊本でおこなわれ、千鶴子は5回中3回の透視に成功しました。福来博士らはこの結果に満足し、翌1911年の4月に再び東京で公開実験をおこない、千里眼が本物だと証明しようと千鶴子と約束します。
しかし1911年1月、千鶴子が自ら命を絶ってしまったために再度の公開実験はおこなわれませんでした。
千鶴子の能力の真偽をめぐる一連の論争と彼女の自殺は、千里眼事件と呼ばれています。
御船千鶴子の死因・自殺の原因は何だったのか?
御船千鶴子が自殺したのは1911年の1月19日の未明のことで、まだ24歳という若さでした。死因は重クロム酸カリウムによる中毒死で、亡くなる前に義兄に「どこまで研究しても駄目です」という言葉を残したといいます。遺書などは残されておらず、いまわの際に千鶴子は「何も言い残すことはございません」とだけ話したそうです。
しかし、義兄に残した言葉から自分の超能力に対して批判的な意見が増え、新聞などでもペテン師扱いされるようになったことを悲観しての自殺だったのではないかと思われています。
一方、千鶴子という金のなる木をめぐって父親や親族らが醜い争いを繰り広げるようになり、それを気に病んだ末での自殺だったとする説もあるようです。
千鶴子の父親である秀益は山っ気のある性格で、相場師や鉱山師などと勝手に契約をして千鶴子の透視で一儲けしようとしていました。そのため父親はたびたび姉夫婦と衝突を起こしており、とくに早くから千鶴子に目をつけていた義兄とは不仲だったといいます。そして千鶴子は両者の板挟みになっていたのです。
東京で公開実験をおこなった後に、千鶴子が福来博士に「東京へ逃げたい」という旨を記した手紙を出していたとの話も残っています。家族の不仲の原因になってしまう自分にも千鶴子は嫌気がさしていて、これが自殺の理由になったのではないかと考えられています。
長尾郁子の存在
千鶴子が世間で注目を集めだした頃、世間では「第二、第三の千鶴子を探せ」という千里眼ブームが起きていました。
その折に話題になったのが、香川県丸亀市在住の判事夫人・長尾郁子です。彼女はもともと自然災害を予知できると噂の人物で、地元ではちょっとした有名人でした。
新聞で千鶴子のことを知った郁子は自分にも透視ができるかもしれないと思いつき、自宅で挑戦してみたところ成功したことから、福来博士らの実験に協力するようになったといいます。
博士らにとって歓迎すべきことに、郁子は千鶴子と違い、立会人に向き合って透視することが可能でした。
しかも1910年12月26日に初めて透視実験をおこなった際、郁子には透視や予知の能力だけではなく「念写」という第三の超能力があることまで発覚したのです。
念写の成功は世界で初めてのことで、当然ながら福来博士らも興奮し、1911年1月には山川博士立ち会いのもとで念写実験をおこない、見事に成功させていました。
このように同じ時期に自分を上回る能力と話題性を持つ女性が現れたことも、千鶴子が自殺を選ぶ原因になったのではないかとも言われてます。
なお、郁子は1911年4月にも山川博士立ち会いのもとで実験をおこなう予定でしたが、この年の2月にインフルエンザと思われる病を悪化させ、肺炎を患って急逝してしまいました。彼女の能力の真偽についても賛否が分かれています。
御船千鶴子の千里眼は本物?トリックを考察
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前述のように千鶴子は箱の中などに隠されたものを透視する際、対象物を手に持って誰にも正面を見せない、つまり手元を見られない体勢をとっていました。
時には千鶴子1人が密室に閉じこもって透視実験をおこなったり、千鶴子と立会人の間にふすまや屏風が置かれることもあったといいます。
立会人らに見られていると精神統一ができないためと千鶴子は主張していましたが、姉夫婦の治療院で患者と接する時には向き合って透視をおこなっていたことから、この主張についても疑問が残ります。
患者の診察などは、たとえ間違ったことを言っても相手のとり方次第でどうとでもフォローができますが、実験ではそうはいきません。絶対に当てられるように、1人になって不正をしていたのではないかと思われても仕方ないでしょう。
また理科教育の先駆者と名高い東京高等師範学校の後藤牧太教授の検証によると、千鶴子の実験で用いられていた封は、厳重なように見えても6分もあれば開封して中身を確認し、元に戻すことができるものだとされています。
千鶴子の実験には時間制限などはなく、彼女が答えを出すまで立会人たちは何十分でも待ったとのことです。実験前に持ち物検査などもなかったことから、髪の毛の中にピンを隠しておいてそれで封を剥がして中身を見ていたのではないか?とも指摘されています。
疑惑の実験の数々
また初期の実験では福来博士は対面ではなく郵送で透視の対象物を入れた封書を千鶴子のもとに送り、中身を当てたものだけを返送するという方法をとっていました。
この実験で福来博士は19通の封書を千鶴子に送りましたが、義兄が結果を確認して返送してきたのは7通のみだったといいます。千鶴子側の言い分としては、もう3通、中身を当てたものがあるが過集中状態にあった千鶴子が気を失って火鉢に落としてしまい、燃えてしまったとのこと。
また残りの9通については疲弊してしまったので透視をしていない、という返答でした。この結果でも福来博士は満足したといいますが、単に千鶴子が火鉢の火で炙って手紙の封を剥がして中身を見て、その後、綺麗に封を戻せたものだけを義兄に渡したのではないかとも指摘されています。
また千鶴子が自殺する前におこなわれた熊本での実験も、実験と呼べるレベルにあったのか疑問が寄せられました。この実験は巻きタバコの筒にサイコロを2つ入れて振り、中にあるサイコロの目を千鶴子が透視で当てるというものでした。
福来博士は5回おこなったうちの3回、千鶴子が正しい目を言い当てたことから、実験の成果は上々だと評価したそうです。
しかし巻きタバコの筒は細く、サイコロを入れて振っても目が変わらない可能性も高いため、手がかりのない初回以外は同じ目を答えれば当たるのではないかとも指摘されています。
また、実験というのならば箱の大きさやサイコロの数などを変えて、もっと多くの回数検証をしなければいけないはずなのに、福来博士は5回だけで満足して東京に戻っていきました。
このようなことから福来博士がおこなっていた実験も、千鶴子に透視能力があるという結果を導くために計画された、実験とは呼べないような方法だったのではないのかとも言われてます。
御船千鶴子の子孫
最初の夫と離婚した後、千鶴子は再婚をしておらず、24歳の若さで命を絶っています。そのため彼女に子どもはおらず、子孫もいません。
ただ千鶴子の甥(姉の息子)という人物が1人、判明しています。甥は清原康平(湯川家に無個入しているため、本名は湯川康平)といい、二・二六事件に参加した後に叛乱罪で無期禁錮判決を受け、恩赦で出所した元・陸軍兵です。
本名の湯川康平名義で、二・二六事件や叔母・御船千鶴子についての思いを綴った『魂魄』という書籍も出版しています。
御船千鶴子の墓の場所
御船千鶴子のお墓は熊本県宇城市不知火町松合2942にあります。松合の西側にある丘陵の南端に六地蔵公園という公園があり、その手前の林道の奥に御船家のお墓に並んで千鶴子個人のお墓が建立されています。
参拝する人が多いのか林道の手前には「御船千鶴子の墓」という看板も出ています。付近には現在は取り壊されていますが千鶴子の生家の跡地や、千里眼実験にまつわる資料を保管している松合郷土資料館ので、訪れる際には一緒にまわると良いかもしれません。
御船千鶴子はリング・貞子の母親のモデルだった?
御船千鶴子は、鈴木光司氏原作の映画『リング』に登場する貞子のモデルになったとも言われています。
鈴木光司氏は『リング』執筆前に図書館で『超心理学者 福来友吉の生涯』という本を読み、そこに出てきた福来博士をモデルに作中に登場した伊熊平八郎を、高橋貞子をモデルに貞子を、
御船千鶴子をモデルに貞子の母親の山村志津子を産み出したそうです。
なお、高橋貞子も福来博士と実験をおこなった超能力者ではありますが、千鶴子と同年代の女性であり2人の間には血縁関係もありません。貞子については名前だけを高橋貞子から借りたものと思われます。
御船千鶴子が登場する作品① ドラマ『SPEC』
2010年10月から12月まで放送されたドラマ『SPEC〜警視庁公安部公安第五課 未詳事件特別対策係事件簿〜』では、主人公の当麻紗綾が初めて召喚するスペックホルダーとして御船千鶴子が登場しました。
スペックホルダーとは超能力者のようなもので、本作の主人公である当麻は、亡くなったスペックホルダーを召喚し、一時的にその能力を使えるようにするというスペックの持ち主という設定です。御船千鶴子役は松山ケメ子さんが演じ、透視能力のスペックホルダーでした。
御船千鶴子が登場する作品② ドラマ『トリック』
『SPEC』と同じ堤幸彦監督のドラマ『トリック』でも、たびたび御船千鶴子の話題が取り上げられています。
作中で最初に千鶴子の名前が出たのはシーズン1の第8話「千里眼の男」で、千里眼の持ち主を自称する詐欺師・桂木の話をする際に、千鶴子の名前が出てきていました。またシーズン3の第5話「念で物を生みだす女」でも千鶴子の話題が出ています。
御船千鶴子が登場する作品③ 漫画『ゴールデンカムイ』
2022年に最終回を迎えた野田サトル氏の漫画『ゴールデンカムイ』にも、三船千鶴子という御船千鶴子をモデルにした超能力者の女性が登場しています。
三船千鶴子が登場するのはコミックの第10巻で、万田坑を透視で発見したほどの能力を持つものの、自分を悪用して詐欺を働く義兄に協力をするのが嫌で逃亡生活をしているという設定でした。
作中ではインカㇻマッと夕張で出会い「東に向かえば追っている男(白石)に殺される」という助言をしています。
御船千鶴子が登場する作品④ 小説『千里眼』シリーズ
松岡圭祐氏の小説『千里眼』シリーズにも、御船千鶴子の孫という設定の女性、友里佐知子が登場します。主人公の岬美由紀の恩師であり、敵という役割です。
本作は千鶴子の千里眼は超能力ではなく、義兄の催眠によって直観力が研ぎ澄まされた結果、本能的な才覚が発揮されるようになっただけという解釈をしています。主人公の美由紀が「千里眼」と呼ばれる由来も、戦闘機乗りであったために動体視力が高いことにちなんでおり、超常的な要素はありません。
御船千鶴子が登場する作品⑤ 小説・映画『リング』
前述のとおり、映画化もされた小説『リング』に登場する山村貞子の母親、山村志津子は御船千鶴子がモデルといわれています。
作中で山村志津子は、飛鳥時代に存在したとの伝承がある呪術者、役小角(えんの おづぬ )の像を発見したことがきっかけで超能力を開花させており、後に心理学者の伊熊平八との間に貞子をもうけます。
しかし伊熊平八の透視実験に参加して失敗してしまい、志津子の千里眼は偽物だとマスコミに叩かれて発狂。三原山に身を投げて自殺するという最期を迎えました。
なお、映画版では貞子の本当の父親は伊熊平八ではなく、志津子と人間ではない何かとの間に生まれた子どもと示唆されています。
御船千鶴子と同時期に現れた超能力者① 高橋貞子
高橋貞子も千鶴子と同様に福来博士の実験に協力した人物です。彼女は透視と念写の能力があったとされ、もともとは夫に倣って精神統一のための呼吸法を練習しているうちに霊的能力が発現したといいます。
貞子は実験に際して精神集中をおこなうと、まるで別の人格のような言動を見せて次々と念写や透視を成功させたそうです。福来博士は彼女のこのような様子を「霊格」と呼んでいました。
また貞子は実験の際に新品の乾板3枚のなかの真ん中の1枚に、指定された「妙法」「天」という言葉を念写していたとされます。つまり、外部から刺激を与えられない状態の乾板に文字を受かび上がらせていたのです。
しかし一方で実験に使われた乾板は厳重な管理をされておらず、いつでもすり替えが可能な状態にあったこと、また実験をおこなう日時は福来博士ではなく貞子が指定していたことから、事前にトリックを仕込む準備ができたのではないかとも指摘されています。
さて、貞子の超能力実験を経て超能力の存在を確信した福来博士は『透視と念写』を上梓しました。しかし、これが上田萬年学長の目にとまると「東大の教授として好ましくない内容」と警告を受け、東京帝国大学を追放されてしまったのです。
これに責任を感じた貞子は故郷の岡山へと帰り、その後は依頼があれば心霊治療をするなどして生涯を終えたとされています。
御船千鶴子と同時期に現れた超能力者② 三田光一
福来博士が千鶴子や郁子と実験をしていた頃、宮城県に念写にただならぬ関心を寄せる男性がいました。男性の名は三田光一といい、彼は福来博士と郁子の研究の記事を新聞で読み、自分にも同じことができるのではないかと考えていたのです。
1917年(大正6年)に福来博士と面会した三田は、次々に念写実験を成功させていき、近くのものだけではなく目に見えない遠隔地にあるもの、たとえば浅草観音堂の裏に掲げた額面に書かれた文字なども遠隔透視をして念写してみせたといいます。
そして1931年(昭和6年)、福来博士は「まだ誰も見たことがない月の裏側も、あなたなら遠隔透視できるのではないか」と、三田に月の裏側の念写への挑戦を持ちかけました。
そしてこの年の6月24日に、福来博士は大阪の自宅で2枚の乾板を用意し、三田はそこから40キロメートルも離れた兵庫県内の自宅で、月の裏側の透視をおこなったのです。
出典:https://plaza.rakuten.co.jp/
この時、三田が遠隔透視して念写したとされる月の裏側が、上の画像の向かって右側のものです。
実験がおこなわれた当時は月の裏側を見た者は誰もおらず、画像などももちろんなかったために透視と念写は成功したと言われていました。
しかしアポロ計画でNASAが月の裏側の撮影に成功すると、三田の念写は本物とは程遠いものだったことが明らかになります。三田の念写には月に存在しない海のような黒い影や、月の周囲にないはずの明るすぎる星などがあり、本物の月の裏側とは似ても似つかないものだったのです。
実験には立会人もいたとされますが、三田の念写にはまるで手で書いたような特徴も見られることから、何らかの方法で福来博士の自宅にあった乾板は差し替えられていたのではないか、と考えられています。
御船千鶴子についてのまとめ
この記事では明治時代に千里眼ブームを巻き起こした御船千鶴子の生い立ちや千里眼事件、死因などについて紹介しました。
千鶴子のみならず、当時、日本の超能力ブームとも言える熱狂のなかで福来博士とともに実験をおこなった超能力者とされる人々は、真偽不明な怪しい実験結果を出していました。
彼女らに本当に透視能力や念写能力があったのか、今となっては確かめる術もありません。しかし、24歳という若さで自殺を選んだ千鶴子の生涯を考えると、仮に超能力が本当であったとしても幸せではなかったのだろうと悲しい気持ちにさせられます。