崇仁地区の現在!場所や殺人事件・出身芸能人と有名人・再開発の現状もまとめ

京都駅の東側一帯に広がる「崇仁地区」は、かつて被差別民と呼ばれた人が多く住む地域です。

 

今回は上品な京都のタブーとされてきた崇仁地区の歴史や治安、再開発が進む現在の姿、出身芸能人や有名人、過去に起きた殺人事件についてまとめます。

崇仁地区とは【京都最大のタブー】

 

 

JR京都駅の東口に広がる崇仁地区は、京阪七条駅駅からもほど近い京都の一等地でありながら、長い間タブー視され、周辺の開発から取り残されてきた区域です。

 

この地区には16世前半に鴨川の河原に六条河原の刑場が設置されたことをきっかけに、「河原乞食」と呼ばれる被差別民が多く集まるようになりました。

 

その後、時代が下って江戸時代になると穢多非人と呼ばれる被差別階級の人々が、明治以降になると在日コリアンがバラック小屋を建てて住まうようになり、崇仁地区はアンタッチャブルな存在となっていったのです。

 

東海道新幹線が開通する際には、線路予定地周辺に住んでいた人々は新幹線の車窓から見えないように立ち退きになり、1964年に開催された東京オリンピックの際は東九条にはベニヤ板が貼られて、バラック小屋や不衛生な景観などが外から見えないようにされていたとの話もあります。

 

京都の中心地にありながら、長らく他県や国外から訪れた人々には見られたくない、存在を知られてはいけないタブーとして崇仁地区は存在し続けたわけです。

 

またインフラ整備が遅れたこともあって新しく移り住む人が少なく、近年では地区内の住民の高齢化も問題視されています。2020年時の国勢調査では崇仁地区の住民の平均年齢は53.9歳、高齢化率は38.55%という結果が発表されました。

 

 

 

崇仁地区と被差別民の関わり・歴史

 

出典:https://twitter.com/

 

崇仁地区と被差別民のかかわりは古く、室町時代、16世紀の前半に処刑場がつくられたことがきっかけとされています。

 

鴨川の正面橋~五条大橋にあたる場所に六条河原の処刑場が設けられ、ここで刑務に就くために河原者、河原乞食と呼ばれた被差別民が移り住んできました。

 

河原者、河原乞食とは馬や牛の死骸や人間の遺体の処理などを生業としてきた人々で、六条河原の処刑場ができたことで数数百~千人の河原者が崇仁地区で働くようになったといいます。

 

その後、戦国時代になると鎧や武具などをつくるために皮革の需要が高まり、六条周辺の暮らす河原者は多くの仕事を得るとともに、武士階級との繋がりを深めていきました。豊臣の政権下では、河原者は「皮多」と呼ばれてさまざまな特権も与えられていたとされます。

 

そして江戸時代に入ると、鴨川の西岸の河原地に河原者たちが暮らす六条村が成立。六条村の住民は農業には携わらず、村のなかに皮張り場が設けられて皮なめしがおこなわれるようになりました。

 

江戸中期には大阪の渡部村などで上質な皮なめし技術が確立され、鴨川を使って、これらの村に皮革の水運が可能であった六条村はますます独自の発展をしていきました。

 

また、このような牛馬の死骸の処分のほか、六条村の住民には処刑場での仕事や京都内を見回る警察のような仕事も任せられていたとされます。これらの仕事は、年貢を納めない代わりにおこなっていたそうです。

 

安定して仕事が供給されるようになった結果、六条村の住民は増え続け、その住環境も悪化していきました。そこで六条村の年寄は銭座跡村に住民を移住させたい旨を奉行所に願い出て、7000坪以上の広さを持つ銭座跡村の開発許可を得ます。この銭座跡村が、のちに崇仁地区南部となる場所です。

 

こうして独自の経済活動と社会活動によって発展を遂げた一方、周辺の住民から六条村や銭座跡村で暮らす人々は「自分たちとは違う暮らしをしている人々」として、浮いた存在になっていったと言われています。

 

やがてそのことが差別に繋がり、崇仁地区に住む人とは交流を避けよう、交際しないようにしようという流れになっていきました。

 

なお、江戸中期になると六条村の住民たちは皮多という身分ではなく、徳川幕府が内輪で使っていた「穢多」という身分で呼ばれるようになったとされます。

 

 

明治以降の崇仁地区

 

明治に入り、穢多非人などの賤称を廃止する旨を定めた解放令が発布され、市町村制が施行されると六条村や銭座跡村は柳原町として紀伊郡に編入されることとなります。

 

大正7年になると柳原町は京都市に編入されますが、やはり小学校などの教育機関を設置する際などに不公平な扱いを受けることがありました。

 

実際に柳原町にあたる場所には銀行がなく、また被差別民たちは周辺市町村の銀行とも取引できませんでした。そのため、明治32年には柳原町に柳原銀行という被差別民のための銀行が設立されたという過去もあります。

 

出典:https://www.city.kyoto.lg.jp/

 

明治に入り、自由な経済活動、社会活動が保障されるようになったものの、被差別部落出身の人々の暮らしは依然として制限の多いものだったのです。そのため大正11年には京都市岡崎で全国水平社創立大会が開かれ、差別をなくすための運動がはじまります。

 

そして田畑を求めて東九条地域に被差別民たちが移住すると、それを追うようにして植民地支配のもとで朝鮮半島から自発的、非自発的に渡航してきた朝鮮人や韓国人が同地域に居住するようになったとされます。

 

被差別民が暮らす部落に朝鮮人や韓国人が住むというケースは珍しくなく、反発しつつも共生する事例は多く見られたといいます。

 

こうして日本人の多くが住むのを避ける場所であった被差別地区に在日コリアンが住民としてくわわり、崇仁地区はさらに周辺住民からタブー視される存在になっていったのです。

 

 

戦後の崇仁地区

 

戦後、崇仁地区をふくめて京都に居住していた在日コリアンのなかには帰郷を望んだ人もいましたが、朝鮮戦争の影響で帰ることができず、京都市内にとどまらざるを得なかったといいます。

 

そのため北河原町、南河原町、東岩本町、南岩本町の東九条の4ヶ町や高瀬川沿いにバラック小屋を建てて、引き続き日本に住み続けました。

 

8万人もの在日コリアンが一帯に不法に住んでいた時期もあったとされ、周辺の人々はバラック小屋が並び、不法占拠者が住む東九条のことを「トンク」という蔑称で呼んでいたそうです。

 

また第二次世界大戦後、日本は高度経済成長期を迎えましたが崇仁地区はその波からも取り残されてしまいました。水道やガスも崇仁地区には来ておらず、トイレさえ7、8軒共同での使用だったといいます。

 

あまりに劣悪で不便な暮らしに悩んだ住民は京都市に対し「改良住宅」の建設を訴える運動を開始。1956年になって、やっと京都市によりバラック小屋の一部が解体されて改良住宅が建てられました。

 

 

崇仁地区の治安

 

出典:https://ameblo.jp/

 

1960年の頃の崇仁地区には、住民票を持つ住民の数のみを数えても3000世帯、1万人を超す住民がいました。しかし時代とともに若い人が地区外に出ていってしまい、2006年には住民数は1800人に、2020年の国勢調査では1380人にまで減ったとされています。

 

ここまで若い世代が地元に残らず、また流入してくることもなかった背景には、崇仁地区に対する差別や偏見のほかに、治安の悪さや環境の悪さがありました。ここでは、かつて取り沙汰された崇仁地区の治安の悪さが窺える事件について紹介していきます。

 

 

町の景観の悪化と衛生状態の悪さ

 

出典:https://e-kansai.net/

 

戦後、好景気に沸く日本にあってもやはり言葉の壁のためか、在日コリアンのなかには職につけず、紙くずや鉄くずなどを集めるバタヤ(クズ屋)となる人が少なくありませんでした。

 

崇仁地区も例外ではなく、バタヤになる在日コリアンが多かったことからリサイクル業者も増え、それに従ってゴミが集まる場所も目立つようになったといいます。

 

またゴミが集まると、「ここなら不法投棄をしても構わない」と考える輩も寄ってくるようになり、崇仁地区の路上ではナンバープレートが外された乗用車や家電などの不法投棄も目立つようになったそうです。

 

住居に関しても昭和中期にはバラック小屋に居住する人を受け入れるため、改良住宅である崇仁第三市営住宅と崇仁第二市営住宅が建設されましたが、京都市が強制的にバラックの住民を立ち退かせて収容する、という手立てをとらなかったこともあり、移住に応じない人が多く見られました。

 

そのため鴨川沿いのバラック小屋の解体も遅々として進まず、崇仁地区の環境や景観は、周囲から浮くほど悪くなってしまったのです。

 

 

崇仁協議会と暴力団内浜会

 

出典:https://www.amazon.co.jp/

 

崇仁地区は日本三大部落の1つに数えられているにもかかわらず、部落解放同盟の影響下にないという変わった地区です。部落解放同盟の支部さえない理由は住民同士の結束が強く、外部の団体とはそりが合わないためだといいます。

 

崇仁地区には、崇仁・協議会という独自の差別撤廃を訴える団体が存在します。この崇仁・協議会の前身である崇仁協議会の初代理事長を務めた藤井鉄雄氏は、若い頃に内浜会という暴力団を結成していた人物でもあります。

 

暴力団といっても藤井氏は売春と麻薬には手を出さない、カタギには迷惑をかけないという強い信念を持っていたとされ、主に賭場荒らしをして稼いでいました。

 

しかし、内浜会が賭場荒らしで摘発されて藤井氏が懲役刑に服すことになると、崇仁地区には大阪のヤクザが流れ込んでくるようになり、治安が悪化。出所した藤井氏は大阪のヤクザと抗争を起こし、またもや刑務所に戻ることとなりました。

 

二度目の刑務所生活のなかで藤井氏は元全学連のリーダーであった青年に出会い、彼の影響で本を読み、所内で通信教育を受けて勉強に没頭したといいます。そしてヤクザという生き方に疑問を持ち、内浜会の解散を決意。

 

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出所後は「崇仁地区の解放は行政による機械的、事務的なものではなく、長くこの土地に住んだ住民の手で」といった目標を掲げて、崇仁協議会を結成したとされます。

 

しかし崇仁協議会結成後も藤井氏は内浜会の組長であった頃と同様に、突然、見知らぬ男たちに囲まれて匕首で太ももを刺される、事務所に銃弾を打ち込まれるといった嫌がらせを受けていました。

 

このような脅し行為を藤井氏におこなっていたのは、既存の同和団体だったといいます。差別や線引がなくなれば利権もなくなることから、一部の同和団体から藤井氏と崇仁協議会は疎ましがられていたとも言われています。

 

 

京都駅前地上げ戦争

 

被差別部落という行政でさえ手を出しあぐねる土地でありながら、崇仁地区は京都の駅前、一等地に位置していました。そのため多くの地上げ屋から狙われていたとされます。

 

消費者金融の武富士も1986年から1990年にかけて崇仁地区の3000坪と四条河原町の2000坪を地上げしたのですが、これに絡んで大きな事件が起こりました。

 

まず武富士は、地上げの協力を崇仁協議会の藤井氏に依頼しました。しかし、予定通りに地上げが進まなかったことから、崇仁協議会側に連絡や断りなく、勝手に山口組の二次団体に地上げを委任したのです。

 

その結果、崇仁の土地をめぐって崇仁協議会と山口組が争うようになり、崇仁協議会役員の男性がタクシーに乗ろうとしたところを2人組の男に襲われ、短銃15発を浴びせられて死亡。

 

次いで藤井市の自宅にガソリンが撒かれ、放火されるという事件も発生しました。さらに藤井氏の家に3人組の男が押し入り、短銃を乱射する事件や、その時に居合わせた建設会社の社長が銃撃されて死亡する事件も発生。

 

ほかにも地蔵盆の準備をする子どもがいた近くで短銃数発が発砲される事件が起きるなど、一般市民を巻き込みかねない危険さで地上げ争いは激化していきました。

 

 

消えた預金…東京三菱銀行事件

 

出典:https://www.wikiwand.com/

 

その後、1990年から1991年にかけて、崇仁協議会の預金口座から約150億円ものお金が不正に引き出されるという事件もおこりました。

 

被害を受けたのは団体名義のものが1つと個人名義ものが8名分で、あわせて16口座にも及びました。口座があったのは合併前の三菱銀行出町支店で、すべて印鑑も通帳も使わずに「特例扱い」での手続きがされていたといいます。

 

崇仁協議会側はなくなった約150億円は、地域の住民から集まった地域再生資金などであると発表し、東京三菱銀行に調査を要求しました。

 

しかし、東京三菱銀行は払い戻しをおこなった出町支店の副支店長がすでに退職していることを理由に調査を拒み、銀行前に多数のガードマンを配置して崇仁協議会の人間が近づけないようにしたとされます。

 

なお、崇仁協議会側は弁護士をたてて話し合いと真相究明を訴えていますが、2022年現在も銀行側は沈黙を守り続けており、消えた150億円の行方はわかっていません。

 

 

崇仁協議会の新理事長が襲撃される

 

2000年には崇仁協議会の二代目理事長である中口寛継氏が、京都駅前にある「エルイン京都」(現在のホテルエルシエント京都)前の路上で4人の男に突然囲まれ、金属バットで滅多打ちにされて頭部を四十二針も縫う大怪我を負いました。

 

さらに中口氏はその後まもなく、自宅から出たところを同じく金属バットを持った男たちに襲撃されて、頭部を三十六針縫う大怪我を負っています。

 

幸いにも一命はとりとめたものの、未だに中口氏を襲った犯人は捕まっていません。

 

 

 

崇仁地区で起きた殺人事件

 

出典:https://mirimari.net/

 

上では利権をめぐって繰り広げられた事件と、暴力や銃撃が日常にあった崇仁地区の治安について紹介しました。しかし、崇仁地区では利権に関係のある人々だけではなく、普通の住民が殺害される事件も起きています。

 

2020年10月11日、崇仁地区内の市営住宅の一室で24歳の女性の遺体が発見されました。

 

遺体はこの部屋に住む山村留美乃さんのもので、アルバイトで勤務しているサンリオショップに出勤していないことから不審に思った叔母が、山村さんが一人暮らしをしている部屋を訪れたところ、血まみれになって布団に横たわっているのを目撃したといいます。

 

山村さんの遺体には十数か所の刺し傷があったことから、警察は怨恨による殺人事件の可能性が高いと見て捜査を開始。

 

翌月21日には、東京都葛飾区に住む20歳の無職・戸塚那生容疑者を逮捕しました。調べによると戸塚容疑者と山村さんはSNSを通して知り合い、市営住宅付近の防犯カメラにも戸塚容疑者によく似た人物が映っていたとのことです。

 

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崇仁地区出身と噂される芸能人・有名人9名【1~4】

 

①島田紳助

 

 

プロフィール

本名:長谷川 公彦

生年月日:1956年3月24日

出身:京都府京都市南区唐橋

身長:170cm

所属:元吉本興業(2011年まで)

血液型:AB型

職業:元タレント(2011年8月23日に引退)

 

2011年に引退した元お笑い芸人の島田紳助さん。出身地は京都市南区唐橋西寺町と公表しており、この地区は被差別部落ではありません。

 

しかし、島田紳助さんは過去に何度か京都市内にある出身高校・大谷高校で講演会をしており、その際に「自分は部落出身」と話したことがあると言われています。

 

この噂と京都市南区唐橋西寺町は食肉加工が盛んな地域で、被差別部落ではないものの屠殺場が多く、崇仁地区にも近いことから、島田紳助さんは本当は崇仁出身だったのではないかと囁かれているようです。

 

 

②野中広務

 

 

プロフィール

本名:野中 廣務(通常は「広務」と記載)

生年月日:1925年10月20日

没年:2018年1月26日(92歳)

出身:京都府南丹市(旧・園部町

所属:自由民主党

経歴 :代56代国家公安委員会委員長、第63代 内閣官房長官、自民党幹事長など歴任

 

野中広務氏は京都府園部町出身で、最終学歴は京都市内の園部高校卒業という叩き上げの政治家です。

 

野中氏は生前より自身が部落出身であることを公表しており、政治家になった理由として差別を受けたことをあげていました。高校卒業後は地元を離れて大阪鉄道局に就職したものの、「あの人は部落民だから」と陰口を叩かれ、園部町議会議員選挙に立候補し、政治の道に入ったという経歴を持ちます。

 

「政治は弱者のためにある」という信念を掲げ、被差別部落問題だけではなく、ハンセン病訴訟でも原告団に寄り添い続けたことが知られています。

 

園部町の生まれであることから崇仁地区出身ではありませんが、京都の被差別部落出身の著名人と言えば、真っ先にあがるのが野中氏の名前でしょう。

 

 

③佐田 啓二

 

 

プロフィール

本名:中井 寛一
生年月日 :1926年12月9日
没年: 1964年8月17日(37歳)
出生地 :京都府京都市下京区
身長 :173.2cm
職業 :俳優
家族:中井 貴一(長男)、中井 貴惠(長女)

 

1953年に公開された「君の名は」や、小津安二郎監督の「秋刀魚の味」など数々の作品に出演してきた映画俳優の佐田啓二さん。

 

出身地は京都市下京区であること、そして佐田さんが生まれた時期がちょうど崇仁地区に在日コリアンが増えた終戦直後の時期であったことから、在日コリアンだったのではないか?出身は崇仁なのではないか?という噂があるようです。

 

ただ下京区は広く、繁華街や観光地なども含まれることから下京区出身=崇仁地区の生まれとはなりません。そのため、佐田さんが崇仁地区出身であったのかは不明です。

 

 

④木村祐一

 

 

プロフィール

生年月日:1963年2月9日

出身:京都府京都市右京区

身長:168cm

所属:吉本興業

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血液型:AB型

家族:辺見えみり(妻、2008年に離婚)、 西方 凌 (2012年に結婚)

 

お笑い芸人の木村祐一さんは、京都市出身であることや顔立ちから韓国系の血が入っているのではないかと噂され、崇仁地区出身なのでは?とネット上で囁かれていました。

 

しかし木村さんの出身地である京都市右京区は在日コリアンが多い地区ではありますが、崇仁地区ではありません。

 

なお、同じ吉本興業所属のお笑い芸人であるサバンナの高橋茂雄さんは京都市下京区出身だと公表していますが、実家が歯科医院で親族にも歯医者が多いと語っていることから、崇仁地区ではなく下京区の繁華街出身なのではないかと思われます。

 

 

 

崇仁地区出身と噂される芸能人・有名人9名【5~9】

 

⑤山城新伍

 

 

プロフィール

生年月日:1938年11月10日

没年:2009年8月12日(70歳)

出身:京都府京都市上京区

身長:174cm

所属:オフィス・タッチ

血液型:O型

家族:花園ひろみ(元妻)、南夕花(娘)

 

2009年に逝去した俳優の山城新伍さんは自身が被差別部落出身であることを、生前に著作「現代・河原乞食考」のなかで公表していました。

 

同著によると山城さんの父親は開業医で、京都市上京区の千本通近くで付近の貧しい人々を診察していたといいます。

 

このことから山城さんも、崇仁地区の生まれではないことが明らかです。

 

ただ千本の周辺も在日コリアンが多く住んでおり、周辺からの差別を受けていたとされます。山城さんの父親は治療費を払えないような人々さえ「治療代のかわりにワシの浄瑠璃を聞いていけばいい」などと言って無償で診察していたとのことで、少年時代の山城さんは「医者とはまったく儲からない、割に合わない仕事なのだな」と思っていたそうです。

 

 

⑥三田寛子

 

 

プロフィール

本名:中村 敦子

生年月日:1966年1月27日
出生地 :京都府京都市
身長 :160cm
血液型 :B型
所属:プントリネア
家族:中村芝翫(夫)

 

女優で梨園の妻でもある三田寛子さんは、出身地を京都市内と発表しています。しかしネット上では、三田さんは京都市下京区の七条出身で、父親はタクシードライバーだった、七条第三小学校の近くの川沿いに住んでいた、中学校は七条中学で自分は同級生だったという書き込みが複数見られます。

 

細かい情報が書かれていることから一見真実味があるように感じられますが、七条中学の校区に崇仁地区は含まれていないとの情報もあるため、三田さんが崇仁地区出身なのか、そもそも下京区の生まれなのかも不明です。

 

 

⑦坂下千里子

 

 

プロフィール

生年月日:1976年4月19日

出身:京都市下京区

身長:162cm

所属:ボックスコーポレーション

血液型:B型

家族:坂下 弘親(父親、宇治市議会議長の就任経験あり)

 

崇仁地区のある京都市下京区出身であることから、タレントの坂下千里子さんも崇仁出身なのでは?という噂があります。

 

TVで話しているお嬢様育ちのエピソードも嘘なのではないか?と疑う声があるようですが、坂下さんの父親は京都市山科区勧修寺平田町でセメント会社を経営しており、この会社は祖父の代から受け継がれているとのことです。

 

また父親が宇治市議会議員や宇治市議会議長を歴任していることから、坂下さんが崇仁出身であることのカモフラージュとしてお嬢様エピソードをでっち上げているとは思えません。

 

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おそらく下京区の崇仁地区以外の区域で生まれたのではないかと考えられます。

 

 

⑧倖田來未

 

 

プロフィール

生年月日:1982年11月13日

出身:京都府京都市伏見区

身長:154cm

所属:エイベックス・マネジメント

家族:KENJI03(夫)、misono(妹)

 

歌手の倖田來未さんは京都市伏見区の深草、もしくは竹田出身だという噂があります。どちらも崇仁地区から離れていますが、伏見区竹田は被差別部落として知られており、子守に従事させられる若い娘の悲哀を歌った「竹田の子守歌」発祥の地です。

 

このことから、倖田さんは京都の被差別部落出身らしいという噂が流れ、京都の部落と言えば崇仁地区だから、崇仁出身なのかもしれないという話がネット上で流布したのだと思われます。

 

 

⑨misono

 

 

プロフィール

生年月日:1984年10月13日

出身:京都府京都市伏見区

身長:154cm

所属:フリー

家族:Nosuke(夫)、倖田來未(姉)

 

倖田來未さんの出身地が伏見区竹田、もしくは崇仁地区なのではないかという噂が流れたことから、実の妹のmisonoさんにも同様の疑惑が囁かれるようになりました。

 

また島田紳助さんがmisonoさんを可愛がっていたことからも、同郷、同胞なのでは?という噂が立ったようです。

 

 

 

崇仁地区は映画「パッチギ!」の舞台にもなった

 

 

崇仁地区は、2005年公開の井筒和幸監督作品「パッチギ!」の舞台にもなりました。

 

本作は崇仁地区の在日コリアンのヒロイン、キョンジャと地元の青年、康介を中心に在日コリアンのコミュニティと日本人の青年が互いに歩み寄る様子を描いた作品です。

 

キネマ旬報ベストテン1位、毎日映画コンクール最優秀作品賞など数々の賞を受け、2006年には韓国のシキュエヌ(CQN)明洞でも上映されました。

 

 

 

崇仁地区の現在は再開発が進んでいる

 

現在、崇仁地区では再開発が進んでおり、京都駅東口から約200mの場所では京都市立芸術大学のキャンパスと銅駝美術工芸高校の移転工事が進んでいます。

 

出典:https://www.kcua.ac.jp/

 

京都市立芸術大学も銅駝美術工芸高校も2023年度中に崇仁で開校予定です。また、東九条では2024年度内に「チームラボ」のミュージアムが開設予定であり、京都市は崇仁地区と東九条周辺の再開発を文化芸術を基軸に進めることを発表しています。

 

また2018年2月から2020年5月までは京都駅東口より徒歩5分の場所に、崇仁新町という屋台村がオープンしており、観光客や若者が気軽に立ち寄れる街としてイメージアップを図ってきました。

 

大学や高校を誘致することで崇仁地区の治安と高齢化の改善が期待されていますが、京都市立芸術大学の生徒数は全校で1000人程度と少ないこと、また京都駅東口では民間企業によるホテル建設などが進んで地価が上がっていることから、再開発だけでは若者や子育て世代の定着は見込めないのではないか?とも指摘されています。

 

 

上の動画は崇仁地区の現在の様子を紹介したものです。駅周辺の再開発が進む地区では道路も整備され、新しい鉄筋の建物が並ぶ一方で、少し離れた場所には火事でも起きれば一気に燃え広がりそうな老朽化した木造アパートや開発用の土地であることを示す高いフェンスが立ち並びます。

 

 

住民からは再開発に対して賛否の声

 

傍から見れば再開発が進めば町並みが綺麗になり、若者が増えて活気が戻るのだから、古くからの住民も幸せなのではないか?と思ってしまいますが、実際には事情は複雑なようです。

 

2001年の時点で崇仁地区の改良住宅は老朽化が進んでおり、住民から京都市に対して耐震補強工事の要請があったといいます。しかし、京都市は財政難を理由に危険な状態の改良住宅を放置し続けていました。

 

そのようなことがあったにもかかわらず、京都市主導の再開発が決まると長らく空き地だった場所に新たな公営住宅を建て、そこに移住するように改良住宅の住民に迫ったのです。

 

改良住宅の住民にしてみれば自分たちの運動で手に入れた改良住宅はないがしろにされたまま取り壊され、ほかの場所に移れと言われたわけですから、決して良い気分はしないのでしょう。

 

 

崇仁地区についてのまとめ

 

この記事でが京都駅東口に広がる被差別部落、崇仁地区の歴史や治安、区域内で起きた事件などについて紹介しました。

 

現在の崇仁地区は再開発が進んでいることから治安も改善され、京都の玄関口として生まれ変わることが期待されています。

 

しかし、崇仁地区は住民が外部の団体に頼らずに生活を守ってきたという特殊な区域です。再開発でやってきた若者たちと古くからの住民に軋轢が生まれることがないよう、願いたいですね。

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