寺越武志さんは1963年に行方不明になり、北朝鮮で生活していたことが発覚した寺越事件で知られる日本人です。この記事では寺越事件の真相、拉致疑惑、寺越武志さんの父親や母親、兄弟、妹などの家族、 結婚や嫁、子供、その後、現在を紹介します。
この記事の目次
寺越武志さんと寺越事件の概要
1963年5月、石川県の港から漁に出た寺越昭二さん(当時36歳)、昭二さんの弟の外雄さん(当時24歳)、そして2人の甥の武志さん(当時13歳)が行方不明になる事件が起こりました。
海上での失踪だったため、遭難を心配してすぐに海上保安庁や地元の漁協が捜索に出ましたが、3人は見つからず、3人は死亡したものとして扱われることになります。
事態が動いたのは、それから24年が経ってからのことでした。失踪した外雄さんから、姉の豊子さん宛てに突然手紙が届いたのです。
手紙には昭二さんは亡くなったものの、外雄さんと武志さんは北朝鮮で暮らしており、2人も北朝鮮で結婚して子供も誕生したと書かれていたといいます。
手紙を見た親族らは本当に外雄さんなのかと疑い、返信の手紙に本人にしかわからないことを尋ねる質問を織り交ぜましたが、これに完璧に答えられたことから手紙の送り主は外雄さんだと確信したそうです。
さて、行方不明になった人が北朝鮮で暮らしていたとなると、当然ながら拉致されたのではないかという疑いが生じます。
武志さんの母親の文枝さんも息子は事情があって北朝鮮にいるのだと信じ、日本社会党訪朝団とともに北朝鮮に渡るなどして武志さんとの面会を果たしました。
しかし、当事者の武志さんは「遭難しかけたところを北朝鮮の船に助けてもらった」「北朝鮮での生活に満足していおり、日本に戻る気はない」と語り、自分は北朝鮮の人間なのだと言い張るばかり。
自ら拉致被害者ではないと訴えたために、外雄さんと武志さんは日本政府認定の拉致被害者からが外れることになりました。
そして2002年10月には50歳を過ぎた寺越武志さんが朝鮮労働党の代表として39年ぶりに一時帰国したのですが、日本に戻ることはない、北朝鮮に感謝していると母親に伝えて戻ってしまいます。
一貫して自分は拉致されたのではない、望んで北朝鮮の人間になったのだと言い続けていた武志さんですが、親族や日本のマスコミに面会する時は常に朝鮮労働党の監視下にあり、母親らに送った手紙も検閲されていたと予想されます。
そのため親族はもちろん日本の世論からも「本当は拉致被害者なのに、助けられて感謝していると言わされているのではないか」という疑惑が浮上。
寺越武志さんが北朝鮮で暮らしていることは「寺越事件」と呼ばれて、現在も真相究明が求められています。
寺越武志さんと寺越事件の詳細① 失踪と死亡認定
1963年5月11日の16時過ぎ、能登半島の福浦港から一隻の漁船が沖へと漁に出て行きました。
この漁船「清丸」に乗っていたのは、近くに住む漁師の寺越昭二さん、外雄さんと武志さんの3人。
武志さんは当時まだ中学2年生でしたが、父親の太左衛門さんは漁師の一家にいながらあまり働いておらず、代わりに息子の武志さんが叔父たちの漁を手伝っていたそうです。
11日も学校から帰って来た武志さんは、すぐに港に向かい、叔父たちと合流して海に出たとされます。
そして福浦港沖400メートルの場所で網をおろして漁を開始。夜には漁を終えて港に帰る予定でしたが、そのまま行方不明になってしまったのです。
武志さんらが行方不明になったという一報が入ったのは、翌日12日の未明でした。福浦港沖7キロメートルの地点で、3人が乗っていた清丸が無人の状態で発見されたのです。
失踪の報せを受けて、寺越家が住んでいた石川県羽咋郡志賀町では町をあげての捜索活動が開始。
その後すぐに海上保安庁や漁協も協力して大規模な捜索が始まりましたが、武志さんらの行方は杳として知れません。
そもそも11日の夜は波も低く海は穏やかで、能登で漁を生業にしている者ならば遭難するはずがない状況だったそうです。
そのため当初から、本当に海難事故に遭ったのか不思議に思う声があがっていたといいます。
結局、探しても3人の着ていた服さえ見つからないまま時間が流れ、捜索は打ち切られることになり、武志さんらは戸籍上は亡くなったものとして死亡認定されることになりました。
そして寺越家では3人の葬儀が行われたのですが、遺体が見つかっていないため骨壺は空のものを使用したとのことで、親族も実感のないまま参列したとされます。
寺越武志さんと寺越事件の詳細② 北朝鮮からの手紙
3人が海に消えてから24年が経った1987年1月22日、突然、寺越外雄さんから手紙が届きます。
手紙は外雄さんの姉の豊子さん宛てで、北朝鮮から送られたものでした。封筒には「金哲浩(キム・チョルホ)」という外雄さんの北朝鮮での名前と住所も書かれていたとされます。
外雄さんの手紙には、漁に出た日の夜に遭難し、北朝鮮の救助船で助けられて以降、武志さんと昭二さんとともに北朝鮮で暮らしていたとありました。
さらに昭二さんはすでに亡くなったが、外雄さんと武志さんはこちらで結婚して家庭を築いて幸せに暮らしているとも書かれており、この報せは親族中を駆け巡りました。
しかし、2人が生きていたという報せは、親族にとって喜びよりも戸惑いをもたらしたといいます。
他の国に保護されていたのならまだしも、国交もなく、どのような生活をしているのかさえうかがい知れない北朝鮮にいると言われても、どうしたらいいのか、そもそも手紙を出したのは外雄さん本人なのかもわからなかったからです。
また、この当時、社会的にはまだ北朝鮮による拉致が露見していなかったものの、日本海沿岸の漁村では「漁船のふりをして北朝鮮の船が近づいてきて、日本人を誘拐することがあるらしい」という噂が流れていたといいます。
そのため、親族の間でも外雄さんを名乗る人物とやり取りをした方がいいという意見と、安易に関わらないほうがいい、という意見が持ち上がったそうです。
そんななか、どうしても武志さんと再び一緒に暮らすことを諦められない人物がいました。母親の文枝さんです。
文枝さんらは祖母の家の住所など、寺越家の人間ならばわかるような質問を投げかける手紙を送り、やり取りをしているのは外雄さんなのかを確かめたといいます。また、外雄さんの住所に武志さん宛ての手紙も送ったそうです。
外雄さんは返信の手紙で質問に正確に答え、また武志さんからも金英浩(キム・ヨンホ)という名前で手紙が返ってきました。
これらを読んだ寺越家の人々は、手紙の送り主は外雄さんで、武志さんも生きていたのだと確信します。
寺越武志さんと寺越事件の詳細③ 北朝鮮での暮らし・結婚と嫁や子供
外雄さんが手紙を出すまでの24年、寺越武志さんはどのような生活を送っていたのでしょうか?
本人の口から語られる情報は少なく、また北朝鮮側に指示されたことだけを話している可能性が高いためにすべてを信じることはできません。
そのため、武志さんらの生活は当時の日朝関係などから想像することとなります。
武志さんらが行方不明になった最中の1959年から1967年にかけて、北朝鮮では「帰国事業」が行われていました。
帰国事業とは在日朝鮮人とその家族を北朝鮮に帰還させる活動であり、北朝鮮は自国を「地上の楽園」と喧伝して在日朝鮮人を連れ戻しました。
もっとも北朝鮮は地上の楽園などではなかったため、脱北して日本や韓国に逃げた人は少なくありません。
武志さんらが北朝鮮に渡った時期に帰国事業で北朝鮮に向かい、生活に耐えかねて脱北した人によると、拉致した日本人は以下のような扱いを受けていたとされます。
・日本から連れてこられた人は、清津に着くとすぐに朝鮮語を教えて反日教育をする。
・早い時期に北朝鮮の歴史を学ばせて金日成の偉大さを教え込む。
さらに脱北して日本に逃げて来た人のなかには、一時期、武志さんと行動を共にしていた人もいたといい、彼によると武志さんは13歳から18歳までの間、清津で反日教育を受けていたとのこと。この間に昭二さんは、心臓病を患って亡くなったとされます。
その後は北朝鮮西部の亀城(クソン)に移り、外雄さんとともに旋盤工として働いて生活。亀城で1人の北朝鮮人の女性と出会い、日本人であることを隠して結婚しました。
嫁との間には3人の子供が誕生し、武志さんも一時は穏やかな生活を送っていたそうです。
しかし、次第に一家の生活は苦しいものとなっていきます。北朝鮮では1970年代から金正日の指導で農業生産を上げるため、段々畑造りが急ピッチで行われていました。
が、土留めを設けずに山の斜面を無理やりに開墾して畑をつくったために、斜面が崩壊して1985年前後から土砂が流れるなどの大規模な水害が発生するようになったのです。
結果として農業生産率は上がるどころか下がり続け、食糧事情は悪化。外雄さんが初めて手紙を出した頃、北朝鮮の一般の人々は食べるものすらない生活を強いられていました。
そのため、拉致された日本人や帰国事業で夫について北朝鮮に渡った日本人妻などは、日本の家族に手紙で援助を頼む者が多かったそうです。
外雄さんや武志さんから親族に届くも手紙の内容も、次第に金の無心が目立つようになっていったとされますが、それは当時の北朝鮮が経済的に極めて苦しい状況にあったためです。
寺越武志さんと寺越事件の詳細④ 父親・母親との再会
手紙で金品の要求するようになっていった外雄さんや武志さんに対し、親族は疑いの目を向けるようになっていったそうです。
20年以上、なんの音沙汰もなかったのに突然手紙でお金の話をされたら、家族であっても困惑するのは当然でしょう。
そんななか、武志さんの母親の友枝さんは、苦しい生活の中からなんとかお金を捻出して息子に送ろうとしたといいます。
しかし、北朝鮮と日本の間には国交がないため、送金する手立てさえありません。息子は生活ができているのか、食べるものはあるのか気が気ではない友枝さんは助けてくれる人を探して奔走します。
そしてある時、孫の通う小学校の先生に武志さんからの手紙を見せたことがきっかけとなり、北朝鮮に太いルートを持つ日本社会党の島崎譲衆議院議員と面会する機会に恵まれたのです。
当時、島崎氏は朝鮮問題特別対策委員会の事務局長を務めていました。日本でもっとも北朝鮮に近い人物ともいえる島崎氏から、一緒に北朝鮮に行ってみないかと打診された友枝さんは、すぐにパスポートをとって訪朝の準備を開始。
1987年8月30日、ついに日本社会党訪朝団と夫の太左衛門さんとともに北朝鮮の平壌を訪れます。
が、23年ぶりの再会は両親が期待したものとはまったく異なるものだったのです。母親の友枝さんと父親の太左衛門さんの前に現れたのは、24年と114日ぶりに見る武志さんと外雄さんに間違いありませんでした。
親子の再会の場には北朝鮮のメディアが入り、まるで監視されているような状況だったとされます。
そして武志さんの前で泣き崩れる文枝さんの姿だけが「親子の感動の再会」として、北朝鮮と日本で報道されました。
しかし、その後は北朝鮮側が一方的に武志さんと外雄さんの家族を紹介し、母親の友枝さんと父親の太左衛門さんが武志さんと話す機会はまったく設けられなかったといいます。
翌日以降も常に北朝鮮の人間が同席している状態でしか2人と接することが許されず、やっと再開した両親の前でも武志さんの表情は常に強張っていて、ほとんど言葉も話さなかったそうです。
そして島崎氏らが2人に対し、「どうして北朝鮮に渡ることになったのです?これまでどのように暮らしていたのですか?」と拉致の核心に迫る質問をしても、「北朝鮮に助けてもらった」と手紙と同じ内容を話すばかり。
「顔を見て生きていることは確認できても、北朝鮮では武志は何も話してくれない」。
文枝さんはまた必ず北朝鮮を訪れることをひっそりと決意し、持っている貴金属や時計などをすべて武志さんと嫁に渡し、「生活の足しにしなさい」と伝えて日本に帰ったといいます。
寺越武志さんと寺越事件の詳細⑤ 北朝鮮による日本人拉致が明らかになる
日本に帰国した文枝さんは、マスコミの取材に対して北朝鮮の悪口や「拉致」という言葉はいっさい使わず、とても良い対応をしてもらって感激したと語っていました。
もちろん、これは本心ではありません。自分が北朝鮮のことを悪く言えば、人質にとられているような状態の武志さんや外雄さん、そして彼らの家族に危害が及ぶ可能性があったため、日本に戻ってもしばらくは本音を隠していたのです。
そのような折、1987年11月に状況が変わります。大韓航空機爆破事件が発生し、北朝鮮が国ぐるみで日本人の拉致を行っていたことが明るみに出たのです。
1988年には国会でも初めて拉致問題が取り上げられ、ようやく政府や国会議員も拉致事件に対して動き出します。
そして1990年、文枝さんは娘(武志さんの妹)を伴って再び北朝鮮を訪れました。この時の訪朝は文枝さんが自分で働いたお金で果たしたもので、当時の北朝鮮と日本の関係は決して良好ではなかったものの、どうしても武志さんに会いたくて実行したのだそうです。
しかし、政治家を伴わずに北朝鮮に来ても常に監視されているような状態で、武志さんもテープレコーダーを持たされてすべての会話を録音させられていたといいます。
その後も文枝さんは北朝鮮を訪れて武志さん一家に会いに行きましたが、息子の本音を聞くことは困難であり、なぜ北朝鮮に来ることになったのかさえ聞き出せずにいました。
事態が再び動いたのは、1997年のことです。1977年に学校の帰りに行方不明になっていた横田めぐみさんが、北朝鮮に拉致されていた可能性が明らかになり、拉致問題が一気に世間の注目を集めたのです。
奇しくも武志さんと同じ13歳のめぐみさんが拉致被害者という事実は、文枝さんの心を大きく動かしました。
これまで1人で北朝鮮から我が子を取り返そうと奮闘していた文枝さんは、拉致被害者家族会と行動を共にし、積極的に政府関係者に面会するようになっていきます。
そして武志さんの死亡認定も取り下げるように要請しました。なお、外雄さんは1994年に平壌で急死したと北朝鮮は発表しています。
寺越武志さんと寺越事件の詳細⑥ 一時帰国
同じ中学生の子供を攫われた横田さん夫妻をはじめ、拉致被害者家族会の方々と励まし合いながら行動するうちに、友枝さんは次第に息子を取り戻せるのではないかという期待を抱くようになっていったそうです。
ところがその希望は、残酷にも最愛の息子本人の言葉で砕かれてしまいます。
1997年10月5日、武志さんが平壌で日本に向けた緊急会見を開き、自分は拉致されて北朝鮮に来たわけではないし、北朝鮮は拉致などしていないと発言したのです。
さらにこの頃から、亀城で細々と暮らしていた武志さん一家は朝鮮労働党の幹部が暮らす平壌の高級マンションに引っ越し、自らも朝鮮労働党の党員を名乗るようになります。
肩書も「平壌職業同盟 副委員長」という朝鮮労働党の幹部クラスのものを与えられました。
妻子に衣食住を提供するという条件で、武志さんが北朝鮮の外交カードに使われることになったのは明らかです。
しかし、どのような事情があろうとも、自ら「拉致をされていない」と公の場で宣言したことで寺越武志さんは日本政府が認める拉致被害者ではなくなってしまいました。
2002年10月3日、武志さんは39年ぶりに日本に一時帰国することになります。
文枝さんら家族は、「日本でならば武志は真実を話してくれるに違いない。やっと家族の時間が過ごせる」と思ったそうです。
が、実際には武志さんは「日本人・寺越武志」として帰国を許されたわけではありません。「労働党幹部の金英浩」として、北朝鮮の人間として来日が認められただけだったのです。
もちろん、北朝鮮から同行してきた監視役が寺越家までついてまわり、自由な発言などは認められていない様子でした。
空港を出てすぐに受けたぶら下がり取材でも、武志さんは「私は敬愛する金正日将軍様のご配慮により、訪問団の一員として日本に参りました」と北朝鮮の言葉で淡々と話しただけです。
朝鮮労働党の幹部として来日しただけ、としているために日本の政府も武志さんには何もすることができず、10月9日にわずか1週間の滞在を終えて一時帰国は終了しました。
これ以降、武志さんは2024年現在まで日本を訪れておらず、拉致被害者認定もされていません。
寺越武志さんは拉致された?寺越事件の真相
寺越武志さん、そして外雄さんと昭二さんは間違いなく北朝鮮に拉致されたと見られています。
まず引き揚げられた清丸には何かがぶつかったような大きな破損があったのですが、武志さんらが漁に出た日は月明りもあって海は明るく、波ひとつないべた凪の状態だったといいます。
最後に清丸を見かけたという地元の漁師からも、「事故で船がぶつかるような天候ではなかった
」と証言しており、何者かが故意に清丸に船か荷物をぶつけた可能性が高いと指摘していました。
また、北朝鮮の元特殊工作員である安明進(アン・ミョンジン)氏も、「事件が起きた夜、清津連絡所から能登半島方面に向けて工作員が潜入しようとしていた。そこに清丸が現れたために、口封じのために拉致したと聞いている」と証言しています。
さらに安明進氏は、「3人を拉致する際、一番年上の男性(昭二さん)は抵抗が激しかったため、海上で射殺して遺体も錘をつけて海に沈めたと聞いた」とも話していました。
昭二さんの家族はあくまでも病死だったと説明する北朝鮮に遺骨の返却を求めましたが、出されたのはごく最近に建てられたと思われる真新しい墓の写真と、墓地の砂だけだったとされます。
これらの不自然な対応は横田めぐみさんら拉致被害者を巡る北朝鮮の対応に似たものがあり、武志さんら3人は北朝鮮の工作員に襲われたとみて間違いないと考えられています。
寺越武志さんの現在
寺越武志さんは現在も、北朝鮮の平壌で暮らしています。
寺越事件は大きな動きを見せず、武志さんが日本に帰れる目途も何もない状況が続いています。
日本から北朝鮮に戻った後、武志さんの長男の光哲(カンチョル)さんは軍事大学の教授と結婚して北朝鮮の大隊長にまで出世し、現在は孫も誕生したと報じられました。
明らかに家族を人質に武志さんを日本に帰さない、という北朝鮮の意向が透けて見えます。
寺越武志さんの父親・母親・兄弟(妹)ら家族のその後
寺越武志さんの父親の太左衛門さんは、2001年に訪朝した際にそのまま北朝鮮に留まることを決め、2008年に死去するまで息子一家と平壌で暮らしたとされます。
母親の友枝さんは合計65回も訪朝し、ずっと武志さんにお金を渡し続けていたそうです。
友枝さんは2002年に一時帰国した武志さんから、「北朝鮮では食べるものがなく、自分の血を飲んで暮らしたこともあったほどだ。子供たちに同じ思いはさせられない。だから、どれだけお母さんのことが恋しくても日本には帰れない」と、2人きりの時に本心を明かされたといいます。
そのため、日本に帰ってほしいとは言わずにお金を貯めては北朝鮮に渡っていました。
そんな友枝さんも2024年2月25日に死去。死因は呼吸不全で、享年92歳でした。
武志さんは友枝さんの晩年、妹に北朝鮮から国際電話をかけて母の病状を確認していたそうです。
北朝鮮からの国際電話は非常に高額で、武志さんはかなり身を削って母親の様子を聞いていたのではないかと専門家も指摘しています。
母親の最期を看取れなかった武志さんに対し、妹は「兄に母の遺骨や肩身を渡してあげたい」と希望しているそうです。
寺越武志さんと寺越事件についてのまとめ
今回は1963年に能登の海で行方不明になり、20年以上経った後に北朝鮮にいたことが発覚した寺越武志さんについて紹介しました。
武志さんも母親の友枝さんも、日本で一緒に暮らすのは不可能だと察していたといいます。しかし武志さんは、友枝さんの生前に酔っぱらって寺越家に電話をかけてきて「お母さんと一緒のお墓に入りたい。生きても死んでも一緒に行きましょう」と言ってきたことがあったそうです。
本心では妻子を連れて母親の住む場所に帰りたかったのでしょう。現在、最愛の母親の墓参りさえできていない武志さん。どんな気持ちで暮らしているのかを考えると、胸が張り裂けそうになります。