織原城二の現在!韓国の生い立ちと家族・資産や田園調布の豪邸・ルーシーブラックマンさん事件と犯行内容・その後まとめ

織原城二は2000年に発生したルーシー・ブラックマン事件の犯人と見られる在日韓国人2世の男で、200人以上の女性を強姦した疑いの強姦殺人犯です。この記事では織原城二の犯行内容や現在、田園調布の豪邸や実家、資産、家族について紹介します。

織原城二とルーシー・ブラックマン事件の概要

 

出典:https://twitter.com/

 

2000年7月1日、神奈川県三浦市でイギリス人女性のルーシー・ブラックマンさん(当時21歳)が殺害されるという事件が発生しました。

 

当時、六本木でホステスをしていたというルーシーさんは、1日の夜に「お客さんから電話がかかって来た」とルームメイトに告げて出かけてから行方不明になっており、心配した友人が3日後に捜索願を提出。

 

ルーシーさんが何らかの事件に巻き込まれた可能性が高いと見た警察はただちに捜査を開始し、9月末には織原城二という当時48歳の会社役員の男が捜査線上に浮上します。

 

織原城二は金髪の白人女性を狙っては声をかけており、彼と接触した女性のなかに行方不明になっている女性も存在しました。

 

こうして警察は10月12日に、別のカナダ人女性に対する強制わいせつ容疑で織原城二を逮捕。

 

そして家宅捜索をした結果、織原城二の家から200人以上の女性を強姦している映像を収めたビデオテープが押収されたのです。

 

しかも、部屋からは犯行に使用したとみられるクロロホルムも発見されました。

 

しかし、他の女性に関する犯行は明らかになっていたもののルーシーさんの映像はなく、警察は織原が犯人だという確信を持ちつつも証拠を見つけられずにいました。

 

そんななか、年明けの2月9日に三浦海岸の洞窟内でルーシーさんの遺体が発見されます。遺体はバラバラに切断されており、強姦された痕跡がありました。

 

遺体を見た警察は執念の捜査を続けて織原城二を起訴しますが、決定的な証拠が見つからなかったことから、一審の裁判ではルーシー・ブラックマンさん殺害については無罪となり、他の女性に対する強姦・殺人などの罪だけが有罪と判断されます。

 

そうして織原城二に下された判決は、無期懲役。世間からは「ルーシーさん殺害事件はどうなるのか」「限りなく黒に近いのだから、極刑相当ではないのか」と批判の声が多くあがりました。

 

また、織原城二は事件の被害者遺族に対して1億円を超える見舞金を支払うなどしており、その素性についても注目が集まりました。

 

 

織原城二の生い立ち・経歴① 実家と韓国人の両親

 

 

織原城二は1952年8月10日、大阪に生まれました。家族構成は両親と兄、弟2人の6人家族です。

 

父親は在日韓国人の「金教鶴(キム・キヨハク)」、母親も同じく韓国人の「全玉尋(チョン・オクス)」で、2人は自由移民として太平洋戦争前から日本に在住していたといいます。

 

織原の出生名も「金聖鐘(ソンジョン)」といい、両親は通り名として「星山」という苗字を使うこともあったそうです。

 

そのため高校卒業まで織原は、「星野聖鐘(ほしのせいしょう)」と名乗っていました。

 

移住当初は他の移民と同じく裸一貫だった父親ですが、織原が生まれる前にはタクシー業界やパチンコ業界などで成功して財を築いており、大阪市阿倍野区北畠の閑静な高級住宅街に一軒家を構えていました。ここが織原の実家となります。

 

 

織原城二の生い立ち・経歴② 幼少期

 

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当時は在日韓国・朝鮮人の間での貧富の差が激しく、織原の父親は日本でも有数の勝ち組でした。

 

その自負からか子どもへの教育は厳しく、幼稚園時代から織原には3人の家庭教師がついていたうえ、3歳1ヶ月の頃からピアノとヴァイオリンを習い、自由時間のない幼少期を過ごしたとのことです。

 

6歳になると大阪教育大学付属天王寺小学校に入学。この頃の織原を知る人物からは「背が高く、やんちゃな印象だった」という証言がでています。

 

一方で「子ども時代から『真の韓国人』という印象だった。怒りっぽくて、目つきが鋭くて。だから、誰からも好かれるという印象ではない」「我が強く、友達らしい友達はいなかったと思う」という話も、元クラスメイトから聞かれました。

 

 

織原城二の生い立ち・経歴③ 高校時代・田園調布の豪邸で一人暮らし

 

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織原いわく、幼少期は反抗心でわざとテストでミスをして酷い点を取るなどしていたそうですが、猛勉強の末に高校は東京の慶應義塾高校に合格。

 

当時は親元を離れて進学した高校生用の下宿などはありませんでしかたら、織原は東京で一人暮らしをすることとなります。

 

そこで両親が用意したのが、なんと東京きっての高級住宅街・田園調布に建てた二階建ての一軒家だったのです。

 

当時の田園調布は代々土地を受け継いでいる家ばかりで、周囲が古めかしい日本家屋であったなか、織原の家は異彩を放つ洋風建築でした。

 

庭にはプールがあり、数台の車が停められるガレージも併設されているなど、まるでハリウッド映画に出てくるような外観だったといいます。この家に織原は、家政婦つきで住んでいました。

 

しかし、なぜか同級生たちに一人で暮らしているとは言わず、「祖父の家に住んでいる」と嘘をついていたそうです。

 

 

同級生から見た高校時代の織原城二

 

東京での一人暮らしを機に第二の人生を始めようとしたのか、慶応義塾高校時代の同級生からは、織原が整形手術をしていたという話も出ています。

 

高校時代に織原は目頭切開をしており、眼をぱっちりとした二重瞼に整形しました。

 

整形手術自体がメジャーではなかった時代ですから、織原の目頭切開の傷は学校であっという間に噂になったといいます。

 

さらに身体も鍛えて髪型も当時流行したケネディ・カット(JFKのヘアスタイル)にし、韓国人らしくない見た目にこだわっていたとのこと。

 

当時の慶応義塾高校には何人か在日コリアン2世の生徒がいたものの、織原は一貫して自分の出生を語らず、親が韓国人であることを誰も知らなかったといいます。

 

また歌が上手く、珍しさから家に遊びに来るような同級生はいたものの、やはり高校時代も友達らしい友達はいなかったそうです。

 

高校の同級生からは「あいつには人を性格ではなくモノで判断するんですよ。話していても心が通じるという感覚がなくて、いつも壁があった」という話が出ています。

 

 

高校時代から白人女性が好きだった

 

高校時代の織原城二は、住居面や金銭面以外のことでも同級生に話題になっていました。

 

高校生にして1人でディスコに通い、大人のように遊んでは女性に声をかけていたのです。

 

同級生によると、高校3年生の時に織原は「ベティ」という名前の年上の白人と日本人のハーフの女性に熱を上げており、最終的にフラれてしまって大泣きしていたそうです。

 

また、後述しますが織原は17歳の頃から関係を持った女性のことを詳しく記録につけていたといいます。

 

裁判では織原の妄想も含まれていると判断されましたが、高校時代から主に白人女性をターゲットに声をかけていたのは確かなようです。

 

 

織原城二の生い立ち・経歴④ 17歳で父親が急死

 

ディスコに繰り出し、ブランド物を身にまとって女性に貢ぐという、高校生とは思えないお金の使い方をしていた織原城二。豪遊に使っていたお金の出どころは、父親の遺産でした。

 

織原の父・金教鶴は1969年に44歳で急死しています。父親は大坂の実業家の一団とともに海外旅行に出かけ、その先で亡くなったとされます。

 

織原によると父親の死因は急性の脳卒中とのことですが、周囲の人々は金教鶴の死に陰謀めいたものを感じていたそうです。

 

これだけの資産家が亡くなれば、大掛かりな通夜があるのが慣例だった時代に金家では何も行われず、それどころか一家が喪に服する様子さえなかったのだといいます。

 

さらに父親が急死した後に田園調布の織原の家の窓ガラスは防弾ガラスにかえられとの話もあり、周囲からは「金教鶴は仕事のトラブルで謀殺されたのではないか?」と噂されるようになりました。

 

父親の死の真相は不明ですが、兄弟4人には以下のような内訳で父の遺産を相続したとされます。

 

・長男…父が経営していたタクシー会社を相続

 

・織原城二…自身が住む田園調布の土地建物と父親が所有する駐車場を相続

 

・三男…父が経営していたパチンコ店を相続

 

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・四男…不明。当時まだ7歳だったため、大きな財産は相続しなかったと考えられる

 

 

織原城二の生い立ち・経歴⑤ 高校卒業後

 

 

出典:https://think.komazawa-u.ac.jp/

 

慶応義塾高校に通っていた織原ですが、学業熱心ではなく、遅刻や欠席も少なくなかったといいます。16歳の頃からアルコールにも手を出しており、素行にも問題がありました。

 

そのせいか大学は慶応義塾大学に進まず、駒沢大学に進学したとされます。しかし、卒業せずに中退したようで、一時期渡米した後に慶應義塾大学の通信課程を受験。

 

1974年に合格し、翌年には一般通学過程に編入して法学部法律学科と政治学科の2つの学位を取得しました。

 

また高校卒業後に織原は日本に帰化し、これまで名乗っていた「星山」という通り名を捨てて「織原城二」という新しい名前を取得します。

 

 

織原城二の生い立ち・経歴⑥ 不動産開発で資産を築くが…

 

出典:https://aucview.aucfan.com/

 

大学を出た後も織原は就職をせず、気まぐれに海外旅行をするなどして自由に過ごしていました。

 

しかし、30代になると不動産開発に没頭し、父親から相続した財産をつぎ込むようになります。

 

織原は父親から譲り受けた大阪の駐車場を担保に融資を受け、日本各地のビルやマンションを次々に購入していきました。

 

当時の日本はバブル経済真っ只中でしたから、不動産を持っていれば誰でも富を築くことができたとされます。

 

こうして荒稼ぎしたお金で、織原は1988年に赤坂の高級マンションの一室を別宅として購入。

 

さらに1996年には六本木のワンルームマンションも購入します。なお、この六本木のマンションこそ逮捕時に織原がいた場所です。

 

時代の後押しもあり、不動産業を始めてから織原の資産は倍増していき、一時期は総資産額が40億円にまで上ったといいます。

 

しかし、同時に織原は莫大な借金も抱えていたうえ、バブル崩壊が囁かれるようになってからも借金を増やして不動産開発を続けていました。

 

そして、1993年には自身が所有する大阪の駐車場に「北新地タワー」というバブルの象徴のような外観の、言ってみれば悪趣味で時代遅れなビルを建てようと画策。

 

この計画は頓挫してさらに借金が膨らみ、織原は債権者から訴えられることとなります。

 

ルーシー・ブラックマンさん殺害事件が起きる前年の1999年には、一時的に田園調布の一軒家が差し押さえられており、そうとう資金繰りに困っていたことが窺えます。

 

 

織原城二の家族① 両親

 

出典:https://www.city.osaka.lg.jp/

 

織原城二の父親は戦後の闇市から事業を始めて成り上がったといいます。アメリカ占領軍から死んだ軍用馬を引き取って自ら解体し、牛肉と偽って販売するなどしていたそうです。

 

誰もが飢えていた時代ですから、こういった行動に出られる逞しい人間が生き残ることができたのでしょう。

 

もともとは織原の両親は阿倍野の下町に住んでおり、その頃は同じような在日韓国・朝鮮人のコミュニティに属していたそうです。

 

阿倍野でパチンコ店を経営し、社交的で話し上手な性格だった父親はコミュニティのなかでも好かれる存在だったといいます。

 

しかし、北畠の高級住宅街に引っ越してからは在日韓国・朝鮮人のコミュニティとは距離を置くようになり、日本社会に溶け込んで生きる道を選びました。

 

北畠に住む資産家の人々は金一家を差別することはありませんでした。が、代々の資産家が住むような場所でしたから、国籍に関係なく新参者がすぐに馴染めるような土地柄でもなかったそうです。

 

 

織原城二の家族② 兄弟

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前述のように織原は4人兄弟の次男であり、家督を継ぐはずの長男は4歳年上でした。

 

しかし、高校時代に織原の兄と親しくしていたという元・衆議院議員の西村眞悟氏によると、「友人に囲まれていても彼は自分が在日韓国人2世だということに深く悩んでおり、心身を病んで高校を中退してしてしまった」とのこと。

 

高校中退後に西村氏が再会した時には、織原の兄は「自分はCIAに盗聴されている」と思い込んで、支離滅裂なことを口にしていたそうです。

 

また、6歳年下の上の弟も韓国語と日本語のほかに、英語、中国語も堪能な知的好奇心旺盛な文学青年だったとされますが、学生時代から自身の持つ共産主義的な思想と、裕福な境遇のギャップに苦しんでいました。

 

友人からも「とにかく家族の話をしたがらなかった。同じサークル活動をしていても、自分たちのような富裕層ではない在日コリアンとどう接したらいいのか、距離を掴みかねている様子だった」との証言が出ています。

 

上の弟は作家を志しており、1977年に韓国の文学雑誌『季刊三千里』で入選を果たしています。

 

しかし、後にこの文学賞の選考委員に母親の親友がいたことを知り、コネで入選したのだと思い込んで筆を折ったとのことです。

 

この時、織原の弟が書いた小説は在日コリアンの青年が主人公の私小説のような内容だったとのことですから、作品のみならず自分の人生まで踏みにじられたと感じたのかもしれません。

 

織原たち兄弟は、平均的な日本人よりもよほど物質的に恵まれた生活をしていました。

 

が、優秀であればあるほど「能力ではなく在日朝鮮人だからという理由で超えられない壁」にぶつかってしまい、挫折してしまったのではないかとも指摘されています。

 

兄弟が在日韓国人という身分に悩み、心が折れていくなかで、親から見ると次男の織原城二だけが自分たちの望む息子像であり続けたのかもしれません。

 

とくに家督を継がせるはずの長男がバランスを崩してからは、両親の期待は織原に集中していったのではないかと考えられます。

 

なお、織原とは10歳年が離れている四男についてはあまり情報がなく、兄弟のなかで彼だけが公立の中学校、高校に進学しているそうです。

 

 

織原城二が起こした強姦事件

 

出典:https://gahag.net/

 

友人もおらず、家には家族写真1枚すらなかった一方で、織原には日常のことを書き溜めておく癖があったといいます。

 

性生活についても1970年の4月から詳細な記録を残しており、それによると17歳から逮捕までの間に強姦した女性の数は、合計209人と膨大なものだったそうです。

 

では織原が病的な性欲の持ち主だったのかというとそうではないようで、証拠を調べた捜査官には「織原の目的は性欲解消ではなかったのではないか」と推察しています。

 

織原自身も取り調べで、自分が行った性行為を「征服プレイ」と呼んでいたとされます。

 

小柄な織原は力づくで女性の事由を奪うことができなかったため、クロロホルムや睡眠薬を使って相手の意識を奪い、身体を拘束してから強姦するという犯罪を繰り返していました。

 

さらに1980年代からは強姦の様子をビデオに撮るようになっており、これも逮捕後の家宅捜索で押収されています。

 

実際にビデオを見た捜査官によると「覆面をつけた織原が、意識のない女性をモノのように扱っていた」とのこと。

 

また、被害にあった女性の国籍はさまざまでなかには日本人女性もいたといいますが、被害にあった外国人女性は全員が長身痩躯のホステス風の派手な外見だったそうです。

 

裁判で織原はターゲットの女性を選ぶ基準について「私は醜い女性とプレイするのが好きなんです。外国人ホステスは内面が醜いから狙った」と、被害者や遺族を二重三重に侮辱する供述をしていました。

 

209人の被害者全員が実在するのかは不明ですが、少なくともビデオという証拠がある1980年代から、織原が強姦事件を起こしていたことは確かです。

 

しかし、事件が事件だけに被害者も誰にも相談できずに泣き寝入りしてしまったため、ルーシー・ブラックマン事件が起きる前に織原の悪行が明かされることはありませんでした。

 

なかには強姦されたと知ってその場で織原を脅してお金を奪い取って帰ったという強者もいたそうですが、ほとんどの被害者が心身ともにボロボロで帰国していったそうです。

 

警察がビデオから身元が明らかになった女性に連絡をとって「織原を訴えませんか?」と話をしても、大半の被害者は思い出したくないので裁判もしたくないという返事でした。

 

そのため、実際の被害者の数は多かったものの、強姦や準強姦罪での起訴は9件にとどまったとされます。

 

 

織原城二の犯行内容【ルーシー・ブラックマン事件で逮捕されるまで】

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織原城二がルーシーさんをふくむ女性への犯行で逮捕、起訴されるまでにはどのような過程があったのでしょうか。ここではルーシーさん失踪から織原逮捕までを時系列で説明していきます。

 

 

被害者・ルーシー・ブラックマンさん

 

出典:https://www.dailyshincho.com

 

ルーシー・ブラックマンさんは1978年生まれのイギリス人女性で、母国ではブリティッシュエアウェイズの客室乗務員として働いていました。

 

世間から憧れられる仕事に就いていたルーシーさんでしたが、彼女は働き始めて1年半もすると就職を後悔するようになっていたそうです。

 

あんなに勉強をして、狭き門をくぐりぬけて就いたのにも関わらず、客室乗務員の仕事は単調で拘束時間だけが長く、さらに仕事に使う化粧品や美容代、交際費などで収支はマイナスになっていたためです。

 

そんな時、ルーシーさんは幼馴染の女性から「一緒に東京に行かないか」という誘いを受けます。

 

華やかな職業の理想と現実のギャップに疲れ果てていたルーシーさんは、心機一転、知らない土地で頑張ってみるのも良いかもしれないと思い、彼女の誘いに乗りました。

 

周囲にも「新しい文化に触れて、何か違う経験をして帰ってくる」と話し、客室乗務員の仕事を休職して日本に向かったといいます。

 

こうして2000年の5月4日、幼馴染と東京に来たルーシーさんは、六本木のナイトクラブ「カサブランカ」でホステスとして働き始めます。

 

というのもルーシーさんは、幼馴染の姉の友達が滞在場所を用意してくれるという話を聞いて東京に来たのですが、その滞在場所というのが非常に環境が悪く、そこで紹介された仕事がホステスの仕事だけだったからです。

 

カサブランカでルーシーさんがやっていた仕事は、客の飲み物を作ったり、話し相手になったりというものでした。ほかのホステスとも仲が良く、明るく快活に働いていたそうです。

 

しかし、そんな生活のなかで客として店に来た織原城二と知り合ってしまったのです。

 

 

ルーシー・ブラックマンさんが行方不明になる

 

出典:https://twitter.com/

 

2000年7月1日の夜、ルーシーさんは幼馴染の女性に「お客さんからドライブに誘われたから、ちょっと出かけてくる。1時間くらいで戻ると思う」と言って外出し、それを最後に行方不明になります。

 

そして、その2日後の7月3日に「タカギアキラ」と名乗る男から幼馴染の女性のもとに電話がかかってきました。

 

男は「今、ルーシーさんと一緒に千葉で新興宗教の修行をしている。だから帰せない」と言ってきたそうです。

 

これを不審に思った女性はルーシーさんの家族に連絡し、7月4日に警察にも捜索願を提出。

 

失踪後に奇妙な電話がかかってきたことからルーシーさんの件はイギリスでも大きく取り上げられ、「日本のカルト宗教団体に誘拐された」と騒ぎになったそうです。

 

また、ルーシーさんの妹と父親も来日して1万ポンド(当時のレートで約160万円)の懸賞金を提示して、彼女の目撃情報を求めました。

 

しかし、有力な情報はなく、ルーシーさんは発見されずに時間が過ぎていきます。

 

 

織原城二の存在が浮かび上がる

 

そんななか、警察は六本木で働いていた外国人ホステス複数人から「ホンダユウジ」と名乗る男に神奈川県逗子市小坪5丁目にあるマンション「逗子マリーナ」に連れていかれ、強姦されたという話を聞きます。

 

 
失踪前にルーシーさんが幼馴染に電話をかけていた公衆電話の場所も逗子であったことを確認した警察は、逗子マリーナの住民や部屋の所有者から怪しい人物を洗い出すことに。
 
そして、性犯罪の前科を持つ人物が1人だけいることを突き止めたのです。
 
それが4314号室を所有していた織原城二であり、織原には女子トイレ盗撮の前科がありました。
 
警察は強姦の被害者たちに織原の写真を見せ、彼が犯人であることを確認。
 
さらにNシステムから、ルーシーさんの失踪当日に織原が所有するベンツが東京から逗子まで移動していたことも調べ上げました。
 
 

織原城二の逮捕

 

2000年10月初め、麻布警察署に現金118万7000円が入った分厚い封筒が届きました。

 

送り主は「ルーシー」とあり、添えられた手紙には「私は事件に巻き込まれたわけではなく、借金返済のために姿を消しただけ」といったことが書かれていたそうです。

 

しかし、警察はこの手紙は捜査をかく乱するために犯人が送ったものと見ていました。

 

明確な証拠はなかったものの、9月末の時点でルーシー・ブラックマン事件の鍵を握っているのは織原城二で間違いないと睨んでいたのです。

 
こうして10月12日、警察は織原城二逮捕に踏み切ります。といってもルーシーさんの事件ではなく、上述の被害を訴えた外国人ホステスの1人である、カナダ人女性への強姦容疑での逮捕でした。
 
 

逮捕後に殺人事件を起こしていたことが発覚

 

逮捕後、織原にはほかにも強姦などの余罪があることが判明し、イギリス以外の国でも事件は大きく報道されるようになりました。

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さらに行方不明になっていたオーストラリア人女性、カリタ・リッジウェイさんが東京で不審死を遂げた事件にも、織原が関与していたことが判明。

 

前述のように家宅捜索で織原の家から押収されたビデオにはカリタさんそっくりの女性が映っており、急性のクロロホルム中毒で織原の家で死亡した疑いが出てきたのです。

 

 

ルーシー・ブラックマンさんの遺体が発見される

 

出典:https://webnhrpelibrary.blogspot.com/

 
そして2001年の2月9日、逗子マリーナからほど近い三浦海岸の洞窟で、ルーシーさんのバラバラ死体が発見されます。
 
ルーシーさんは失踪直後に殺害されたと見られ、遺体は死蝋化し、喉や頭部にはセメントのようなものがこびりついていたそうです。
 
織原の家にはルーシーさんの毛髪も落ちていたため、警察は織原を準強姦致死罪と死体損壊罪、および死体遺棄罪で再逮捕、起訴しました。
 
 

織原城二の判決

 

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ルーシー・ブラックマン事件の第一審は、2001年7月4日に東京地裁で開かれました。

 

これまでに織原は5件の暴行事件で起訴されており、すでに7回に渡って出廷していました。

 

公判で織原はカリタさんについても、ルーシーさんについても「家に招待したが、朝には帰した」と容疑を否認。

 

この主張を覆すには決定的な証拠が必要だったのですが、発見が遅れたためにルーシーさんの遺体からは犯人の体液などが検出されず、また織原の家からもルーシーさんの血液は検出されませんでした。

 

そのため警察は、織原の家からルーシーさんの毛髪が見つかったこと、彼女の失踪直後に織原がチェーンソーやセメントを購入していたこと、パソコンに遺体の処理方法を検索した履歴があることなど、状況証拠を提示しました。

 

しかし、織原はビデオという証拠があったカリタさんや、他の女性に対する暴行は認めたものの、ルーシーさんについては一貫して無罪を主張します。

 

最終的に一審判決で織原城二に下された判決は、無期懲役。検察は死刑を求刑しましたが、カリタさんや他の女性への強姦については有罪とされたものの、ルーシーさんについては証拠不十分により無罪と判断されたのです。

 

この判決を不服とし、検察、織原側の双方が控訴をしたのですが、控訴審で織原は一転してすべての容疑を否認して無罪を主張します。

 

が、この訴えは認められず一審と同じく無期懲役が言い渡されます。織原は最高裁まで上告しますが、これは棄却されたため、2010年12月に無期懲役判決が確定しました。

 

 

織原城二は金で遺族を買収した?

 

織原は弁護士を通して公判中に、被害者遺族に見舞金の名目でお金を渡したいという連絡をしていました。

 

しかし、この見舞金は織原の謝罪や反省の表れではなく、高額な金銭を渡す代わりに証言台に立たない、織原に不利な証言をしないといった交換条件のあるものだったとされます。

 

カリタさんの遺族やルーシーさんの母親、姉弟は見舞金の受け取りを拒みましたが、ルーシーさんの父親のティム・ブラックマン氏は織原から1億円を受け取り、上告審の前に検察を責めるような文書を発表していました。

 

ブラックマン氏は事件後に日本に滞在し続けたことで金銭的に困窮したこと、織原に破産のおそれがあることからこれを逃せば賠償金を受け取れないことなどを理由に、1億円を受け取ったと説明。

 

しかし、このことは日本やイギリスのメディアで「娘の死の真相より金をとった父親」と悪し様に報じられ、これ以降ブラックマンさん一家の仲も険悪になったとされます。

 

なお、犯行前に借金まみれになっていた織原がなぜ1億円も払えたのかという点ですが、事件を追い続けたジャーナリストのリチャード・ ロイド・ パリー氏によると、この見舞金を支払ったのは「ツジ」という日本人だったそうです。

 

このツジなる人物は織原の大学時代の友人と名乗っていたとのことですが、それ以上のことはわかりません。

 

 

織原城二の現在

 

織原城二は現在も服役中です。無期懲役といっても恩赦や仮出所などで出てくるのではないかと腹立たしく思う方もいるかもしれませんが、おそらく織原は一生を刑務所で終えるでしょう。

 

下された刑は無期懲役でしたが、二審で東京高裁はルーシーさんについても死体損壊と遺棄のみ有罪と認めていたうえ、一貫して検察は死刑を求刑していました。

 

一般的に求刑死刑で無期懲役となった場合、仮釈放審理を受けられる可能性は極めて低いと言われています。

 

そのため織原の仮出所はないと見られているのですが、いずれにしても仮釈放審理を受けられるのは服役から最短で30年です。年齢を考えても社会に出てこられるとは思えません。

 

 

冤罪を訴えて本を出していた

 

出典:https://www.amazon.co.jp/

 

反省どころか織原は、2007年に『ルーシー事件の真実』という冤罪を訴える書籍を出していました。

 

著者は法科大学院教職員や弁護士、元検事によって編成されたルーシー事件真実究明班とされていますが、これは嘘で織原が金で雇った人間が書いたものです。

 

委託されて本を出した出版元が委託金を支払わないという理由で織原を訴えたことから、自作自演で織原擁護の本を出していたことが発覚しています。

 

 

織原城二についてのまとめ

 

今回は2000年に起きたルーシー・ブラックマン事件の犯人とされながら、殺人については問われずに済んでしまった強姦殺人鬼・織原城二について、生い立ちや犯行内容、判決を中心に紹介しました。

 

当時は、いつの間にか残酷な犯行内容よりも見舞金を受け取ったブラックマン氏に対する非難の声の方が大きく報道されるように、マスコミの態度もすり替わっていったような記憶があります。

 

判決で極刑を言い渡さなかったためにイギリスをはじめとする諸外国から批判を呼んでいたこと、性犯罪という詳細を報道しづらい犯行であったことも、報道の変化の一因だったのかもしれません。

 

しかし、織原の犯行は日本の犯罪史上でも例を見ない卑劣な蛮行です。近年、Netflixでも『警視庁捜査一課 ルーシー・ブラックマン事件』といったドキュメンタリー番組が配信されましたが、この理不尽な事件を風化させてはいけないと感じます。

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