村井秀夫は日本の犯罪史上最悪のテロ事件を起こしたオウム真理教の幹部で、1995年に教団本部前で殺害されました。
この記事では村井秀夫の生い立ちや結婚、嫁や子供などの家族から、なぜ殺されたのか、検死結果や犯人など刺殺事件の真相まで紹介します。
この記事の目次
村井秀夫とは【オウム真理教のナンバー2とされた男】
村井秀夫は麻原彰晃が率いたカルト教団・オウム真理教の科学技術省大臣を務めた人物で、教団内では麻原に次ぐナンバー2の権力者と見られた人物です。
教団内でのホーリーネームはマンジュシュリー・ミトラ。教団内でのステージ(地位)は、尊師(麻原彰晃)に次ぐ、正大師でした。
化学兵器として利用したサリン製造など教団武装化の中心にいた人物であり、麻原逮捕、教団摘発まで生きていれば確実にオウム裁判で「14人目の死刑囚」として判決が下っていたであろう村井秀夫。
しかし、1995年4月23日にマスコミが取り囲む教団の東京総本部前で、衆人環視のなかで刃物で刺され、命を落としましています。(享年36歳)
刺殺事件を起こした犯人は本人との接点が不明な山口組系の暴力団構成員であり、搬送先の病院で「私は潔白だ」「ユダにやられた」などと意味深な発言をしていたことからも、「村井秀夫殺害には裏があるのではないか」「教団による口封じで殺されたのではないか」等の噂が囁かれていました。
実際に実行犯の暴力団員の裁判が終わり、刑期を終えて刑務所を出所した現在でさえ村井殺害の動機や真相は不明のままとされています。
村井秀夫の生い立ち① 出生〜小学生時代
村井秀夫は1958年12月5日、京都府内に誕生しました。幼少期は引っ込み思案で運動は苦手、生き物が好きな心優しい少年だったそうです。
家で飼育していた熱帯魚が死んでしまった際には、悲しみに暮れて1日中ふさぎ込んでしまうほど繊細な面が見られたといいます。
少年時代の夢は動物に関する職業に就くことで、当時、村井家の近所に住んでいたという住民からは「大人になったら動物園の飼育員になりたい、と目を輝かせて語っていた」との証言も出ていました。
小学校にあがると同時に京都府から大阪府吹田市に引っ越してきた村井は、TVドラマ『スタートレック』と登場人物のミスター・スポックにハマり、そこから天文学に興味を持つようになったとのことです。
内向的で決して友達が多い方ではなかったものの、小学生時代には陸上部に入部して苦手な運動も克服し、勉強は目立ってできるという優等生だったという村井。
しかしながら、少年期からすでに「自分には超能力があるに違いない」という超人願望に取り憑かれ、精神世界に興味を持ち出して仙道やヨガなどのトレーニングに1人で励むなど、のちの教団幹部・村井秀夫を想起させるような兆候が見られたといいます。
村井秀夫の生い立ち② 中学・高校時代
中学校は学区内にあった吹田市立青山台中学校に進学。1972年、中学2年時に友達の兄がトラックに飛び込み、自殺を図るという衝撃的な場面を目撃したといいます。
しかし、そのことが直ちに彼の死生観に影響を及ぼした、残酷な一面を引き出したということはなく、中学時代の同級生からは「まさに虫も殺さないといった印象の、とても大人しい奴だった」という証言がありました。
中学時代も塾などには通っていなかったもののやはり群を抜いて成績がよく、周囲にあまり勉強している様子を見せないまま、大阪きっての進学校として有名な府立千里高校(偏差値68)へ入学。
高校時代のクラスメイトからは「何についても知識豊富で、全般的に凄かったいう印象。天文学、化学、物理学と興味は多岐にわたり、昼休みは食事もそこそこに図書館に入り浸っていた」との話が出ています。
また、「興味のあることをとことん追求しているものの決してガリ勉タイプではなく、天才型なのだろうと思っていた。とくに理系科目が非常に得意だった」「成績優秀だったけどそれを鼻にかけることはなく、わからないところなどはよく教えてくれた。優しい男の子だった」との証言もあり、同級生に慕われていたことも窺えます。
当時、高校で村井の担任であった教師も「とにかく優秀で、成績がトップから落ちたことはなかった。性格も素直で、良い印象しかなかった」と語っており、将来を嘱望された自慢の教え子がサリン事件に加担していたことを知ってショックを受けた教師もいたとのことです。
村井秀夫の生い立ち③ 大阪大学時代
高校時代の担任からは京都大学に挑戦するように勧められたものの、「歩いて通える」という理由で大阪大学の理科研究科へ進学した村井。
大学も現役合格、それも首席合格を果たしていたといい、大学時代の同級生も「村井くんはまさに天才といった感じの人だった。彼に勉強を教えてもらった経験がある同級生は多いんじゃないかな」と話していました。
優しく、温和な性格は大学に入っても変わらず、所属していた天文学部では物腰の柔らかさから「お釈迦さん」とあだ名されていたそうです。
また小学生時代から一貫してSF好きは変わらず、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』がお気に入りだったといい、持ち歩いて友人らに勧めていたとの話もあります。
学部時代の成績も優秀だった村井はそのまま大阪大学の大学院に進学し、宇宙物理学を専攻。天体のX線放射を研究していたとのことです。
この頃から少年期にも興味を持っていたヨガや仙術に本格的に傾倒しはじめ、曼荼羅やヒンドゥー教についての書籍を読み漁るように。大学院で瞑想に励むなど、やや異様な姿も見られるようになっていたといいます。
村井秀夫の職歴と結婚
大学院を卒業した村井は神戸製鋼に就職し、超塑性鍛造の研究などに携わることとなりました。
社会人になっても上司や同僚からの村井の評価は高く、「とにかく頭の回転が早く、仕事もあっという間に覚えた。これで新入社員か、と驚くほど仕事ができた」との元上司からの証言があるほどです。
後述しますがこの頃、村井は同じく神戸製鋼で働いていた6歳年下の森脇佳子と知り合い、交際するようになります。
交際は順調に進み、村井からの「君のうんちでも食べる、結婚してほしい」という変わったプロポーズを経て、1985年4月に結婚。
「ヒマラヤ山脈が見たい」という理由からネパールで結婚式を挙げ、社宅で新婚生活をはじめました。
村井秀夫がオウム真理教に入信したきっかけ
職場での評価も高く、結婚して私生活も順調。順風満帆にしか見えない人生を歩んでいた村井ですが、本人は就職、結婚をした頃から満たされない不満、虚しさを抱えるようになっていきました。
学生時代も研究できる範囲の狭さに不満を持っていたといいますが、幅広い技術や研究を求めて入社した会社でも利益第一主義の考えに馴染むことができず、優秀と評価される一方で人知れず仕事への不満を感じていたそうです。
大学時代の友人は村井の性格について「常になにかに挑戦したいという性格。自分の能力の限界に挑むのがたまらないという男」と評していました。
このような性格の持ち主であった村井にとって、安定した仕事も家庭も魅力に乏しいものだったのでしょう。
そして仕事や家庭に対する興味や情熱をなくしていった村井の心の隙間にすっぽりと入り込んできたのが、麻原彰晃という存在だったのです。
現実での生活に興味をなくしていった村井は、精神世界に救いを求めて学生時代にも増してヨガや超能力に傾倒するようになっていきました。
自宅では嫁とともに気功法やハタヨガの修行に励み、周囲との会話の中にも「解脱」「見えない力」といった単語がちらほら出るようになっていたといいます。
そしてある時、ヨガの教本を探しに本屋に出向いた村井は『超能力秘密の開発法』と『生死を超える 絶対幸福の鍵を解く!!』という2冊の麻原彰晃の著書に興味を惹かれてしまったのです。
今となっては信じがたいことですが、これらの本が出版された1986年当時、麻原彰晃が書いた書籍は普通に書店に並んでいました。
どちらもオウムへの入信を勧めるような内容ではないとのことですが、それでも本を見て麻原やオウムを知り、興味を持ってしまう人は少なくなかったといいます。村井も、その1人でした。
2冊の本を購入した村井はすぐにこれらを読了。そして「彼こそが自分が求めていた人そのものだ!」と麻原を崇拝するようになってしまったのです。
1987年4月、オウム神仙の会・大阪支部で開催されたセミナーに参加した村井はすぐに信者たちと打ち解け、当時、大阪支部を任されていた大内利裕から「信者はみなクンダリニー覚醒ができます」と言われてオウムへの憧れを強めました。
ちなみにクンダリニー覚醒とは、クンダリニー・ヨーガを通して人に内在する能力を発現させることだそうです。
すっかりオウムと麻原に熱を上げてしまった村井は、セミナーに参加した翌日に会社へ辞表を提出。翌5月には嫁を伴ってオウム神仙の会へ入信しました。
両親の反対を押し切って出家
しばらくはオウム神仙の会・大阪支部に通い続けていた村井ですが、ある時、道場にやってきた麻原彰晃と話をしたことを機に「尊師のそばで修行をしたい」と思うようになり、麻原のいる世田谷道場に通うべく東京への引っ越しを決意します。
東京に行ってから村井は持ち前の知識を活かして占星術のプログラミングを任される、麻原が海外に行く際には交通手配などの役目で同行するなどして、すぐに一目置かれるような存在になったそうです。
そして1987年6月。ついにオウムに出家することを決意した村井は、「出家する時には財産をすべて教団に寄付しなければいけない」という教えに従って退職金や財形貯蓄まで寄付しようと財産整理をはじめました。
これを見た村井の両親は当然、私財を身ぐるみ剥がすような怪しい宗教とは縁を切るよう息子を説得しようとしました。
しかし、村井の決意は固く、両親に「この中に僕の気持ちが書かれています」と言ってリチャード・バックの小説『かもめのジョナサン』を渡して、嫁とともに出家してしまったのです。
村井秀夫の家族① 元嫁・森脇佳子
村井秀夫の元嫁である森脇佳子は、カメラが趣味で生き物好き、大学では宇宙物理学を学びたいと思っていたところ両親に進学を反対されて高卒で神戸製鋼で働き出したという女性でした。
村井とは共通の趣味が多く、オウムにも夫婦揃って出家しています。1990年にはステージ(教団内の序列)を理由に村井と離婚していますが、その後は教団内でサリンやVXガスなどの化学兵器製造を担っていた土屋正美の部下としてサリン製造にも関与しました。
教団摘発後は懲役3年半の実刑判決を受けますが、出所後は再婚をしたとの話もあり、長期間の逃亡を経て逮捕された菊池直子の裁判に出廷した際には「教団幹部の名前も覚えていない」「承証人として裁判に関わるのも嫌だった」など、過去を掘り起こされたくないという態度が見られました。
村井秀夫の家族② 両親
職業などは公表されていませんが、マスコミのインタビューへの対応や教団への態度を見る限り、村井の両親はずっと息子を愛していたことが窺えます。
村井が殺害された後、両親は急いで東京に向かい、遺体の供養はこちらで行うという教団に毅然とした態度で「息子の遺体は家族が引き取ります」と主張して、渋谷区の代々幡斎場で葬儀を行ったといいます。
また、村井の母親は息子が教団内でどのようなことをしていたのか、新聞やニュースを見てしっかりと理解していたといい、麻原彰晃らの裁判が続いている最中に取材を受けた際には下のように話し、深々と頭を下げていました。
「うちのこが、指示しなければ、地下鉄サリン事件も、松本の事件もなかったのかもしれないですね。うちの子が殺されて、麻原と実行犯をつなぐ、そこが闇になってしまったということですか。私にはどうしようもないことではあります。しかし、お亡くなりになられたり、被害にあわれた方には、あの子に代わって頭を下げるしかありません」
村井秀夫の家族③ 子供
村井と元嫁の間には子供はいません。しかし、オウム真理教が教団ごと摘発を受けた後、「村井秀夫には隠し子がいた!」というニュースが週刊誌で報じられたことがありました。
隠し子についてのスクープが掲載されたのは95年8月6日発売の『サンデー毎日』で、ある幹部クラスの女性信者が「自分は1993年の8月と1995年の3月に村井秀夫の子供を出産している」と証言したといいます。
ただ村井の両親はもちろんのこと、女性の親も彼女と絶縁状態とのことで孫の顔を見ておらず、本当に子供の父親が村井なのかは謎です。
なお、女性は村井が死亡してからやっと出生届を出しており、彼女の言い分では子供が生まれたことを村井も知っていたとのこと。いずれにしても祝福されない出産であったため親族も頼れないとのことで、その後、母子がどのような生活を送っているのかは不明です。
村井秀夫はなぜ殺された?①犯人の徐裕行とは
村井英雄刺殺事件の犯人である徐裕行は、1965年生まれの在日韓国人二世でした。日本名は田中。
少年時代に群馬から東京の足立区に転居しており、都立足立工業高校を1年で中退した後は職を転々とし、1988年からは「イベントダイヤル」というイベント企画会社の代表取締を務めていました。
このイベントダイヤルという会社は、1990年に麻原率いる「真理党」が衆議院選挙に立候補した際、ハリボテ人形などの制作受注をしていたといいます。
しかし、この頃から教団と関係があったのかと思いきや、それ以上の付き合いは無かった様子で1992年には業績悪化で会社は倒産、徐裕行は夜逃げ同然で茨城に住む友人のもとに居候していました。
その後、1994年に再び東京に戻り、五代目山口組の元二次団体・羽根組の組員らと親しくなったとのこと。そして羽根組の組員や友人の在日韓国人らと共同生活を開始し、自然と羽根組の東京事務所にも出入りするようになり、付き合いを深めていきました。
村井秀夫殺害は羽根組若頭からの指示
事件が起きる1995年時には行儀見習いとして出入りしていた羽根組で、ヤクザとしての実績を積んでいたという徐裕行。
そんな徐裕行に村井秀夫殺害を指示したのは、事件当時羽根組の若頭であった上峯憲司だったとされます。
1995年4月20日、上峯憲司は目黒区のレストランに徐裕行を呼び出し、「オウム真理教の上祐史浩、青山吉伸、村井秀夫の誰か1人を包丁で殺せ。殺ったらその場に留まって捕まり、『神州士衛館』の人間だと名乗れ」と命じられたそうです。
神州士衛館とは三重県伊勢市に存在した右翼団体で、設立者は上峯憲司でした。
在日二世の徐裕行が右翼団体構成員と紹介されている記事などを見て「在日韓国人が右翼になるのか?水と油の関係な気がするのだが」と不思議に思ったことがある方は少なくないかと思います。実は徐裕行は羽根組の若頭の指示で、逮捕時に所属していない系列団体の名前を名乗っただけだったのです。
なお、この依頼をした際に上峯憲司は「ある人がお前に期待している」と謎めいた言葉を徐裕行に掛けていたといいます。
村井秀夫はなぜ殺された?②容赦のない殺害方法と検死結果
1995年4月23日20時35分頃、南青山にあったオウム真理教東京総本部の前で村井秀夫は徐裕行によって襲われました。
当時、教団総本部前には24時間体制でマスコミが張り付いていました。そのため直前に上九一色村の施設から戻ってきた村井をすぐさま記者が取り囲み、総本部の正面入口まで報道関係者に揉みくちゃにされながらなんとか進んでいる、という衆人環視の状況で刺殺事件が起きたのです。
凶器となったのは刃渡り21.4cmの牛刀。最初はうまく刺せずに失敗、2回めに村井の左上を刺して負傷させ、腕に違和感を感じた村井にスキができたのに乗じて力いっぱい右腹部を刺してえぐった後、刃物を回転させて致命傷を与えたのです。
刺された後の村井は転がるようにして総本部の入り口に滑り込み、すぐに救急車で病院に搬送されていきました。
しかし、右腹部の刺し傷は肝臓から腎臓に達しており、大動脈も切断していたことから翌日の午前2時33分には息を引き取りました。死因は失血性ショックによる急性循環不全とされています。
なお、村井の検死写真はどういうわけか週刊誌に掲載されたことがあり、この写真の出処についても「検死を担当した慶応病院が週刊誌に売ったのか」「犯罪者とは言え、検死の写真を週刊誌が載せるなんてモラルを疑う。教団関係者が売ったのだろうか」と批判が飛び交ったといいます。
村井秀夫はなぜ殺された?③麻原彰晃と山口組の接点
麻原彰晃は、オウム真理教を立ち上げる前、地元熊本で松本智津夫として行きていた頃から、大分県に本部を持つ六代目山口組の二次団体・石井一家と関わりがあったことが明らかになっています。
当時の石井一家の総長が麻原の詐欺師の資質を見抜き、「宗教は儲かる」と教祖になることを勧めたと言われているほどです。
ジャーナリストの一橋文哉氏の取材によると、この総長はオウム真理教を立ち上げるにあたって麻原に宗教詐欺のノウハウを叩き込んだという「神爺」なるその筋では有名な詐欺師を紹介し、彼の指導のもとで教団のウリとなった「空中浮揚」や「グル伝説」などをでっち上げていったといいます。
事件当初は「なぜ右翼団体、暴力団構成員がカルト宗教幹部を狙ったのか」と不思議がられていました。しかし、その後の調べで創設期からオウム真理教という宗教には、多くの反社会的な人々が絡んでいたこと、様々な人の欲や悪意の集合体のような団体だったことが明らかになっています。
村井秀夫はなぜ殺された?④徐裕行が語った殺害動機
徐裕行は駆けつけた警察によってすぐに逮捕され、その後の取り調べで犯行動機について「テレビでオウム真理教を見て、許せないと思った。犯行は1人で決めて、1人で実行した。村井秀夫を狙ったわけではなく、幹部なら誰でも良かったし、少し痛めつけるだけで殺す気はなかった」と供述していました。
しかし、この供述は明らかに嘘です。まず、「幹部なら誰でも良かった」と言いますが、この日、徐裕行が教団前に到着してから村井が来るまでの間に、上祐史浩、青山吉伸と教団の幹部、スポークスマンたちが何度も総本部の建物に出入りしていました。
それにもかかわらず、徐裕行は彼らを襲おうとはまったくしていなかったことが、周辺に居合わせた多数のマスコミ関係者の証言で明らかになっています。
次に「殺すつもりはなかった」という点ですが、ベテラン捜査員によると「牛刀の刃を上に向けて構え、一度深く刺してから内蔵をねじ切るように刃物をまわすというやり方は、『依頼人の指示通り確実にターゲットを殺す』というプロの殺し屋特有の手口」とのことで、これも嘘であることがわかります。
こうしてあっという間に捜査員に嘘がバレて追い詰められた徐裕行は「羽根組の若頭から『組のためになるから』と指示されて犯行に及んだ。上祐史浩と青山吉伸もターゲットだったが、襲うスキがなかった」と供述を変え、自身の裁判でも同様の主張をしました。
なお、上峯憲司は「田中(徐裕行)にオウム幹部の殺害を指示したことはない」と、この証言を全面的に否認。
結局、裁判で徐裕行は「ヤクザの鉄砲玉だった」と結論付けられて懲役12年を言い渡され、2007年に出所しています。
一方で村井殺害の共謀共同正犯で起訴された上峯憲司については証拠がなかったこともあり、なんと無罪判決が下っています。
村井秀夫はなぜ殺された?⑤陰謀説・暗殺説などの真相考察
2018年に『週刊朝日』の取材に応じた徐裕行は、村井秀夫刺殺事件の動機について以下のように話していました。
「この事件はもう判決が出て終わっている。今もお話しできないこともある。だが、なぜ、僕が事件を起こしたか。それは、最終的には『個人の憤り』です。あの当時、社会全体がオウムに対し、憤りがあったし、僕も『とんでもない連中だ』と強い義憤を感じていた。いろんな要因はあったにせよ、殺害しようと決断したのは僕です。一番の動機をあえていえば、地下鉄サリン事件の映像を見た衝撃で義憤にかられたことです」
この動機は裁判時とは異なるものであり、真実ではないのだろうな、と窺える内容と言えるでしょう。
では、村井秀夫はなぜ殺されたのでしょうか。ここでは事件後から囁かれてきたさまざまな説とその根拠を紹介していきます。
①村井秀夫は「知りすぎてしまった」ために暗殺された?
オウム真理教が当時日本にあった新興宗教と一線を画していたのは「仏教思想と科学の融合」という変わった思想をウリにしていた点です。
この点が将来を嘱望され、かつ精神世界に興味があった村井秀夫や土屋正美、林郁夫のような有為の青年を狂わせ、熱狂的なオウム信者にしてしまったと原因と言っても過言ではありません。
さて、オウム真理教が「科学」を全面に押し出すに当たって、村井は麻原の知恵袋だった、講演会の台本などもチェックし、理論的におかしな場所がないか等チェックをしていたとの話もあります。
さらにニコラ・テスラを信奉していたという村井には、テスラに倣ってプラズマ兵器や殺人光線をつくりたいという野望があったといい、麻原に命じられるまま非人道的かつ怪しげな兵器の開発に取り組んだとされます。(荒唐無稽な要望であったため、開発できないものがほとんどだったという)
こうして麻原から寵愛を受けた村井ですが、許しがたい欠点がありました。村井は口が軽すぎたのです。
教団幹部のなかでも柔和な顔立ちで常に落ち着いたトーンで話ができる村井は、しばしばメディア対応に駆り出されていました。
しかし、科学者としての自己顕示欲が強く、TV出演時などにはとくに饒舌になってしまうというスポークスマンとして大きすぎる欠点を持っていたのです。
たとえば地下鉄サリン事件が起きた後にもTVや週刊誌の取材に対して「オウムも教団内にサリンを所持している」と暴露したり、「地下鉄事件で使われたのは別の神経ガス」と話すなどしており、教団幹部の間でも「あいつのせいで教団が事件を起こしたことがバレるのではないか」という空気が漂っていたとも言われています。
そのため、教団武装化の中心にいながら口が軽く、危うい存在である村井の処遇に麻原が困るようになって、付き合いのあった山口組系の暴力団員に暗殺を依頼したのではないかと考察されているのです。
②殺害は山口組最高幹部の指示だった?
麻原彰晃は1995年、阪神淡路大震災が発生した直後に山口組の最高幹部と密会をしており、同時期に上峯憲司が徐裕行を伴って山口組の総本部を訪れていたことが確認されていました。
この時に山口組主導で村井秀夫殺害計画が立てられたのではないか、との指摘もあります。
なぜ山口組の幹部が村井を殺害したのかというと、村井は覚醒剤密造や偽のドル札づくりにまで関与していたため、その恩恵に預かって利益をあげていた暴力団からすれば口の軽い村井は目の上のたんこぶだったのではないか?と考えられているためです。
③北朝鮮による謀殺説
事件当時、教団内で海外折衝を担当していたのは幹部の1人であった早川 紀代秀でした。しかし、北朝鮮との交渉窓口は村井が任されていたといいます。
当初、北朝鮮との教団の関係は非合法の武器や化学薬品の取引程度だと見られていました。しかし、事件前の村井はパチンコ利権をめぐって北朝鮮系実業家らと接点がったのではないかと指摘されており、ここからトラブルが生じて村井は殺されたのではないかとも言われているのです。
北朝鮮と徐裕行の接点は明らかになっていませんが、徐裕行には高校中退後、何をしていたのかまったくわからない空白の期間があるそうです。そのため、この時期に北朝鮮の若者と交際を初め、事件の黒幕と接触したのではないかとも考察されています。
④教団内部の足の引っ張り合いの末
麻原に指示されたのではなく、教団の信者が村井の暗殺を暴力団に依頼したのではないかという説もあります。
村井は教団内でライバルとされていた早川と比べると部下からの人望がなく、ともすれば嫌われ、煙たがられていたとの証言も出ています。
メディアでの印象や学生時代を知る人からの証言からは想像しづらいですが、教団内での村井は「冷酷な狂人」という評価だったとの話もあり、事実、1989年には脱会したがっていた男性信者を麻原の命令に従って殺害したことが明らかになっています。
一方で早川は麻原に無理難題を押し付けられた際には「まいった」「やってられん」など部下に愚痴をこぼすことがあるなど人間臭い面があり、面倒見が良かったことから年下の信者から「おやじ」と慕われていたそうです。
このことから「あの、嫌な村井がいなくなればおやじが出世できる」と考えた信者らが、独自に上峯憲司に村井暗殺を持ちかけたのではないかとも指摘されています。
村井秀夫と刺殺事件についてのまとめ
今回はオウム真理教の幹部であり、1995年4月に教団総本部前で殺害された村井秀夫と、事件に関する真相考察などを紹介しました。
村井秀夫の刺殺事件は現在でも謎が多く、徐裕行の裁判判決でも「背後関係は不透明で、事件は解決され尽くしていない」との裁判長からの発言があったといいます。
ただやはり、事件の真相とは別になんとも悔しく、やるせない気持ちにさせられるのが、なぜ村井秀夫のような人物がオウム真理教に入信してしまったのかという点です。現在では大学付近での宗教勧誘の禁止など規制も強化されていますが、このように道を踏み外してしまう人、とくに将来ある若者が出ないよう願うばかりです。