平尾龍磨は2018年に起きた松山刑務所大井造船作業場脱獄事件で脱獄を図った受刑者です。平尾龍磨の生い立ちや経歴、親や家族などの出身、結婚の有無、実はいい人、イケメンとの噂、同じ逃走犯の樋田淳也との比較、判決や出所後の現在について紹介します。
この記事の目次
平尾龍磨とは【松山刑務所大井造船作業場脱獄事件を起こした脱獄犯】
2018年4月8日18時5分、愛媛県今治市にある松山刑務所大井造船作業場から、1人の囚人が逃げ出すという事件が発生しました。
逃げた囚人は窃盗で服役中だった平尾龍磨(当時27歳)。脱獄が起きた大井造船作業所は、松山刑務所の管理下にありながら「塀の無い刑務所」として知られる開放型更生施設で、民間の造船会社の敷地内にあるという特殊な刑務所でした。
また、この刑務所では刑務官による直接的な管理が行われず、かつては受刑者による自治会で生活規律などを作っていました。この自治会の決まりが非常に厳しく、指導の名のもとに自治委員によるいじめも行われていたとされます。
平尾龍磨も自治会への不満を募らせたことが原因となって、大井造船作業場の寮の1階の窓から脱獄。
近くの民家から自転車を盗んで尾道市の向島に逃げ、さらに向島から本州まで泳いで逃げるという荒業を見せたのです。
平尾龍磨の捜索には捜査員延べ1万5000人と警察犬16頭が投入される騒ぎとなり、ニュースでも連日脱獄犯の話が報じられました。
そして脱獄から23日が経った4月30日に、平尾龍磨は広島県広島市南区西蟹屋三丁目付近で逮捕。
逮捕の原因は直前に利用したネットカフェの店員がニュースで報じられた平尾龍磨の顔を覚えていて、警察に通報したことでした。
逮捕後、平尾龍磨は単純逃走と逃亡中にはたらいた窃盗の罪で起訴されて懲役4年の判決を言い渡されています。
平尾龍磨の生い立ち・経歴① 家族構成と両親の離婚
平尾龍磨は福岡県宮若市で生まれ、家族構成は両親と1歳年上の兄と6歳年下の妹、そして平尾龍磨の5人家族。
父親は自動車関係の工場で働いていたものの暮らしは裕福ではなく、貝島大之浦炭鉱炭鉱の閉山で失職した人のために用意された住宅に、家族5人で暮らしていました。
両親はあまり仲が良さそうに見えなかったとの話もありますが、平尾龍磨は優しい少年だったようで、年の離れた妹の面倒をよく見ていたそうです。
また子どものころから非常に足が速く、近所の子どもたちやクラスメイトと鬼ごっこをすると誰も追いつけないくらいの俊足だったといいます。
そんな子どもらしい子どもという印象の平尾龍磨に変化が訪れたのは、彼が小学校高学年になった頃です。
『女性セブン』によると、この頃に両親が離婚して父親が家を出ていき、母親と兄弟3人での暮らしが始まったといいます。
近所の人によると母親は子どもたちに厳しく、平尾龍磨はそれを疎ましく思う素振りを見せるようになっていったそうです。
そして中学校に入ると非行に走り、逃げ足の速さと運動神経の高さを間違った方向に活かして窃盗や万引きを繰り返すように。
盗んだ品物を友人に見せては「あそこの店で盗んだ」などと武勇伝を語っていました。そのため、友人からは「ルパン」「盗賊」というあだ名で呼ばれていたそうです。
なお、『デイリー新潮』の報道では離婚後に母親が妹だけを連れて家を出ていき、兄と平尾龍磨は父親と3人家族で育ったと離婚後の環境が『女性セブン』の情報とは異なっています。
しかし、両親の離婚後に平尾龍磨が非行に陥ったという近所の人からの証言はいずれも同じです。
平尾龍磨の生い立ち・経歴② 高校中退後~服役まで
高校には進学したものの、やはり手癖の悪さは治らず、無免許で車を盗んでパトカー相手のカーチェイスを繰り広げるなどの悪行を働いていたとのこと。
周囲からも「いつかとんでもない大事件を起こすのではないか」と行く末を心配されるような青年に成長していました。
そして高校も中退してしまい、その後一度は仕事に就いたもののうまくいかず、すぐに退職。以降は生活費と遊ぶ金欲しさに、またしても窃盗や万引きに手を染めるようになっていったのです。
しかし、そのような生活が長続きするはずがなく、平尾龍磨は2013年7月30日に窃盗罪で逮捕されてしまいます。この時、22歳。
逮捕の理由となったのは、高校の同級生であった無職の太田一樹という男とともに閉店後の理容店に忍び込み、レジから現金を盗んだことでした。
平尾龍磨は同年の4月から4か月に渡って福岡、佐賀、熊本の3県で、10件余りも同様の犯罪を繰り返していたとされます。
そして逮捕後に平尾龍磨らは「2013年の4月から7月までの間に福岡、熊本、佐賀、大分、山口の合計5県で、121の窃盗を働いた」と供述。現金を盗むほかに路上に停めてあったバイクを盗んで売り捌くなどしており、被害額は合計405万円にのぼることが明らかになりました。
それでも逮捕後の裁判では執行猶予がついたものの、猶予期間中にまたしても窃盗事件を起こしてしまい、懲役5年6ヶ月の実刑判決を受けます。
なお、この時に平尾龍磨は「本名:朴龍義、通名:平尾龍磨」という名前で報道されていたという噂があり、そこから在日韓国人なのではないかとの説が流れました。
ただ、調べてみても現在残っている当時のアーカイブ記事には「朴龍義」という名前は見当たりませんし、そもそも日本のメディアで在日韓国人の加害者名が報じられる際には通名のみが伝えられるケースが一般的です。
そのため、平尾龍磨の本名は朴龍義という話はデマの可能性が高いと考えられるでしょう。
平尾龍磨が脱獄に至るまで① 大井造船作業所と自治会
刑が確定した後、最初は福岡刑務所に収監されていた平尾龍磨でしたが、2015年6月に愛媛県の松山刑務所に移送されます。
松山刑務所は主に初犯の受刑者を収監する刑務所で、ここで模範囚として真面目に過ごしたことで2017年12月からは大井造船作業所に移されることとなったのです。
前述のとおり松山刑務所大井造船作業所は「塀の無い刑務所」であり、受刑者が暮らす房にも鉄格子や鍵がありません。
民間企業である大井造船作業所の社員と共同で働き、服役中でありながら一般社会と接点を持ち続け、円滑な社会復帰を目指すという目的の下、松山刑務所大井造船作業所は運営されています。
通常の刑務所では与えられない自由や裁量が得られるため、大井造船作業所に入所できるのは以下のような条件をクリアした、再犯や脱獄のおそれのない受刑者のみだといいます。
・凶悪犯や薬物常習者ではない
・IQが80以上ある
・重労働に耐えられる健康な心身を持っていること
ただ、過去にもこの刑務所では17件20人の脱獄事件が起きており、たびたび問題視もされてきました。
しかし出所後の再犯率は一般的な刑務所で約43%なのに対して、松山刑務所大井造船作業所は約10%と格段に低く、取り組みを評価する声も多くあります。
平尾龍磨も厳しい審査を経て大井造船作業所に移送されることになったのですが、ここでの生活が脱獄の原因となってしまうのです。
松山刑務所大井造船作業所の生活ルール
大井造船作業所には「友愛寮」という泊込施設が併設されており、受刑者たちはこの寮のなかで暮らします。
寮は4人一部屋となっており、朝は6時半に起床。そこから朝礼と朝食をとった後に作業所に向かって17時まで作業をするというのが日課で、時には作業の代わりに外に出てボランティア活動に従事することもあったそうです。
17時に作業が終了した後は夕食や入浴、反省会などがあり、22時半の消灯までの時間は危険物取扱者やフォークリフト免許などの資格試験の勉強に費やされるため、休む暇がない日々だといいます。
飲酒、喫煙や受刑者間での者の受け渡しの禁止といった基本ルール以外の決まりは、所内にある「自治会」で決められることになっており、自治会の会長や副会長といった幹部が決めることは絶対でした。
この先輩受刑者の言うことは絶対、点呼や規律も先輩受刑者による自治会が管理するというルールがどうしても受け入れられず、塀のある松山刑務所に帰りたいと思う受刑者も少なくありません。
自治会の決めるルールには、これが出所後の生活にどう役に立つのか?と不思議がられるような活動もあったといいます。
それに加え、寮生はクラブ活動も義務付けられている。『浄土真宗クラブ』『真言宗クラブ』といった宗教系から、コーラス、詩吟、生け花、書道などがあり、3つ以上は掛け持ちしなくてはいけない。で、これを夜の時間にそれぞれ月に2回ずつ受けなければいけないのです。正直、みんな嫌々ながらやっていますから、これも地味に精神を削ってきますよね
また、会長を頂点とする11人からなる自治委員たちは、伝統的にいじめのようなことを後輩の囚人たちに行っていました。
2段ベッドも序列があり序列が高い人が下。ベッドを上り下りする際、鉄のハシゴが少しでも『ギィ』と音を立てると謝らなければならない。謝るのを忘れたら、すぐさま『オイコラァ』と怒鳴られ、ヘタをすると木にしがみついたセミのように、しばらくハシゴにしがみついて謝り続けなければならない
自治会や先輩受刑者による理不尽な言いがかりや、吊し上げは日常茶飯事で、下駄箱から靴が1㎜はみ出していただけで怒鳴りつけられることもあったそうです。
晴れて自治会委員になるが…
このような生活の中で、平尾龍磨は自治会の会長に気に入られるように取り入りつつ、自分も自治会に加わろうと真面目に作業に取り組んだといいます。
自治委員は刑務官の指名で選ばれ、基本的には釈放まで委員の権限が与えられるため、一度自治会に入ってしまえばいじめやしごきに怯えずに暮らすことができるのです。
そして真面目さが買われたのか、平尾龍磨は晴れて自治委員に抜擢されます。ところが指導する側にまわったのも束の間、出来心から些細なイタズラをしてしまい、それがきっかけであっという間に委員の座を追われてしまうのです。
ある時、平尾龍磨は大井造船作業所の社員だけが着用できる白のヘルメットを被って、後輩受刑者を驚かそうとしました。
小学生か!と言いたくなるようなしょうもないいたずらですが、この作業所では受刑者が社員と同じヘルメットを被ることは固く禁じられており、バレて刑務官から叱責されることに。
さらに釈放された受刑者の座布団を隠し持っていたこともバレて、1人の刑務官から目を付けられることになってしまいました。
そしていたずらから1ヶ月後、平尾龍磨は自治会から外されることとなります。本来であれば松山刑務所に戻されてもおかしくない立場だったため、これは温情とも言える措置でした。
しかし、同じ自治委員から処罰者が出たことで面目のつぶれた自治会長は激しく怒り、受刑者全員の前で平尾龍磨を怒鳴りつけたのです。
平尾龍磨が脱獄に至るまで② 脱獄を決意
自治委員の座を追われた時、平尾龍磨はあと半年も耐えれば仮釈放されることが決まっていました。
しかし、自分以外にも不正に飲食をするなどの規律違反をしていた自治委員がいたにもかかわらず、自分だけが自治会から追い出されたことに平尾龍磨は憤り覚えました。
そして、自治会を追われてから3日が経った2018年4月8日、「大井を変えるには脱獄しかない」と、脱獄の決意を固めるのです。
脱獄を決めた平尾龍磨は下駄箱に「すみませんでした」とだけ書いた置手紙を残して、その約40分後の18時5分頃に友愛寮1階の窓から逃走。
さらにその40分後には刑務官が異変に気づいて所内を捜索し、置手紙を発見して警察に通報することとなります。
平尾龍磨の逃走劇
脱獄した平尾龍磨は近所の民家から自転車を盗み、19時頃には別の民家に侵入して乗用車と現金を盗み出しました。
そして19時半頃にはしまなみ街道に到着し、そこから尾道に向かおうとしたところ覆面パトカーの存在に気づいて向島の空き家に潜伏したといいます。
向島では20時頃に車を乗り捨てて盗んだ自転車に乗り換え、22時半頃に民家から現金を盗り、その後23時頃に侵入した空き家に4月10日まで潜んでいたとのことです。
本州に渡る人が増えたことなどから、現在の向島には1000戸ほどの空き家があるとされ、この後も平尾龍磨は24日まで島内の空き家に潜伏し続けていました。
賞味期限の切れた食糧や飲料を置いたままにしている空き家もあったため、これらを勝手に食べて命をつないだそうです。
しかし、そうしているうちに向島のあちこちに検問所が設けられ、潜伏先の民家がある一帯にも警察の捜査が迫ってきたことから、4月24日の22時に尾道水道を泳いで渡って本州に逃げるという無謀な計画に出ることに。
尾道水道を渡れば本州との距離は200mほどで済むものの、この海流は流れが激しく、フェリーでさえ航路を外れることがあるほどです。
しかも24日は雨が降っており、とても人間が泳げるような状況ではありませんでした。
それでも死を覚悟で尾道水道を泳ぎぎった平尾龍磨は、命からがら尾道市内の民家の屋根裏に潜伏。
この民家には人が住んでいたものの、家主の在宅時間は少なかったために日中は近くのコンビニで食事を買うなどしてそれなりに快適に過ごしていたといいます。
そして29日にバイクを盗んで安芸長浜に向かったところでガソリンがなくなってしまい、電車で広島に向かい、翌30日の午前11時25分頃、広島駅近くのネットカフェで通報、逮捕に至りました。
平尾龍磨の裁判と判決
再度逮捕された平尾龍磨の初公判は、2018年7月13日に松山地裁で開かれました。
脱獄そのものを指す単純逃走罪と、逃亡中に自転車や乗用車、現金約16万円などを盗んだことによる窃盗罪での起訴です。
平尾龍磨は素直に罪を認めて「周辺の人々を怖がらせ、平穏な暮らしを害してしまった」と謝罪しており、9月28日の判決公判では懲役4年が言い渡されました。
その後、控訴しなかったことから懲役4年で刑が確定しています。
平尾龍磨の現在は?出所して結婚している?
平尾龍磨は出所して、現在は結婚しているという噂もネット上では流れています。
これは2018年9月に松山地裁で懲役4年が言い渡されていたため、刑期満了で2022年9月には出所しているはずだ、という理由からのようです。
しかし、実際にはまず脱獄時に残っていた前科での刑期を終えてから、脱獄で言い渡された懲役4年がカウントされます。
当然ながら脱獄したことで仮釈放の予定もなくなるため、平尾龍磨は2020年2月まで前科の窃盗罪で服役することとなります。
そこからさらに4年服役することになるため、出所は2024年2月と考えられるでしょう。
脱獄という経歴からいくら真面目に服役しても、仮釈放がつくとは思えません。したがって、2023年9月現在の時点で平尾龍磨が出所しているというのはデマだと言えます。
また、2013年の初回逮捕以前に平尾龍磨が結婚していたという話も、獄中結婚したという話も報じられていないことから、結婚しているという噂もデマだと考えられます。
平尾龍磨はイケメン・実はいい人という声も
平尾龍磨容疑者、窃盗の罪で広島県で確保され逮捕されましたけど、見た目はそれほど悪人には見えないんですよね…
むしろイケメン…#平尾龍磨 pic.twitter.com/2W8OrjO66s— Atsushi (@nakabana_a_1002) December 25, 2018
2018年に平尾龍磨が逮捕された際、ネット上では「意外とイケメンで驚いた」という声があがっていました。
おそらく「脱獄犯」という言葉の響きや、連日報道される今治や尾道での市民の怖がる声から、いかにも反社会的な風貌の大男を想像していた人が多かったのでしょう。
また、平尾龍磨の運動能力の高さや背筋のピンと伸びた姿勢から「出所後は自衛隊に入隊したらどうだろうか」「出所してまた再犯、というのは惜しい人材な気もする。立ち直ってほしいね」といった意見も見られました。
平尾龍磨は実はいい人?
平尾龍磨は実はいい人なのではないか?という声もあります。
これについてはいくつか理由があり、まず平尾龍磨は逮捕時に警察に対し「平尾だ、もう逃げん」と言い、最初から罪を認めていっさいの抵抗をしなかったといいます。
また、尾道市の向島に潜伏中に平尾龍磨は盗難車を乗り捨てた後に侵入した民家で車の鍵を奪っているのですが、この時に「車をお借りします。決して傷はつけません」といった趣旨の置手紙を残していました。
この報道は海外のネットユーザーの間でも「日本人、律儀すぎるだろ」「こんなに礼儀正しい泥棒、アメリカには存在しないよ」と話題になったほどです。
さらに逮捕後にジャーナリストの高橋ユキ氏とやり取りした手紙は非常に丁寧かつ物腰穏やかで、几帳面な文字が便せんにびっしりと書き連ねられていたと報じられています。
〈前略 ご返事を差し上げるのが遅れて申し訳ございません〉
〈ボールペンで手紙を差し上げるのが礼儀だと思いますが、なぜか書いている途中でインクが途切れたりして失礼な文字になってしまうので、シャーペンで書いています。お許し下さい〉
窃盗を重ねた脱獄犯という印象からは程遠い面が報道されたことから、平尾龍磨はいい人なのかもしれないと感じた人も少なくなかったようです。
窃盗の被害に遭った人は大勢いるわけですし、犯罪者を美化するというのもよい風潮とは言えません。
ただ、「平尾龍磨はクレプトマニア(窃盗症)なのではないのか?」「いい人とか悪い人とか以前に、病的窃盗なのでは?」という指摘はもっともだと感じられます。
おそらく窃盗を繰り返す犯罪者の面も、礼儀正しく几帳面な面も平尾龍磨の中にある本当の人格なのでしょう。
窃盗症は受け入れる医療機関が少なく、治すのが難しいとされていますが、もしも平尾龍磨の盗癖が病気によるものならば再犯を防ぐためにも治療を受けてほしいです。
平尾龍磨と富田林署脱走事件の樋田淳也はどちらが凄い?
平尾龍磨と同じ逃亡犯として比較されるのが、2018年8月12日に拘留中であった大阪の富田林市の富田林署から脱走し、48日間逃げ回った樋田淳也(当時30歳)です。
樋田淳也は婦女暴行や強盗傷害罪など4つの事件で逮捕、拘留されており、弁護士と面会中に仕切り板を倒して富田林署から逃げ出し、窃盗を繰り返しながら山口県まで逃げていました。
平尾龍磨も向島から本州まで泳いで渡った後に警察相手に逃げ回るという驚異的な身体能力を持つのに対し、樋田淳也は逮捕されるまでの48日間で約360kmも自転車で移動したという持久力を持ちます。
逃亡事件を起こした時期も近かったことから、ネット上では「樋田は平尾の記録を抜けるのか?」と話題になった時期もあったようです。
しかし、捕まってみてからは平尾龍磨が全面的に罪を認めて反省を見せたのに対し、樋田淳也は窃盗のみならず婦女暴行や傷害事件も起こしておきながら反省の色が見えず、懲役17年が言い渡されたことから「平尾龍磨は更生の可能性があるが、樋田淳也はクズ過ぎる」という非難の声があがっていました。
平尾龍磨についてのまとめ
今回は2018年に松山刑務所大井造船作業場脱獄事件を起こした平尾龍磨について、生い立ちや経歴、脱獄に至った理由、逮捕後の判決や現在をふくめて紹介しました。
おそらく2024年の2月には出所となるであろう平尾龍磨。2度目の刑務所生活で今度こそ罪と向き合い、しっかり更生していることを願います。