1957年にインド南部のマイソール州で発生した「マイソールの人喰い熊」と呼ばれる獣害事件が話題です。
この記事では、マイソールの人喰い熊の詳しい顛末、発生した正確な場所、死者数、その後の様子などについてまとめました。
マイソールの人喰い熊はインドで発生した世界最悪の獣害事件
「マイソールの人喰い熊」とは、1957年にインド南部のマイソール(現在の表記ではマイスール)近くの地域で発生した、世界最悪とも言われる野生の熊による獣害事件です。
マイソールの人喰い熊の顛末① ナマケグマが畑の作物を荒らすようになる
1957年(正確な月日は不明)、マイソール州(1973年にカルナータカ州に改称)の都市バンガロールの北西105マイル(約170km)に位置する都市アルシケレ東部の町・ナガバーラヒルズで、その地域に生息する「ナマケグマ」という種類の野生の熊が、人里近くの岩場に巣を作り始め、近隣の畑の作物を荒らすようになりました。
これまでも地域住民は、この地域に生息するナマケグマが作物を荒らしに来るたびに、威嚇して追い払う事を日常的に行なっていたため、この時にもこのナマケグマが現れる度に追い払う事で対応していました。
しかし、問題のナマケグマは次第に人間を恐れなくなり、昼夜を問わずに畑に現れて作物を食い荒らすようになってしまいます。
マイソールの人喰い熊の顛末② 地元住民に死者と負傷者が発生
ナマケグマは、基本的には温厚な性格の熊とされていますが、地域住民との攻防が続く中で次第にストレスをため込み、凶暴化していったようです。
ナマケグマはついに見境なく住民を襲い始め、鋭い爪を使って顔を執拗に攻撃し、引き裂かれて死亡する犠牲者が発生。なんとか逃げ帰った者も負傷し、顔面を損傷して両目、または片目を失明し、鼻をむしり取られた人もいました。
この最初の襲撃では、少なくとも3人の死者がこの熊に身体の一部を食べられる食害も発生したとされています。
マイソールの人喰い熊の顛末③ 狩猟家のケネス・アンダーソンに討伐を依頼
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多数の死者と重傷者が発生し、困り果てた地域住民らは、英領インド時代にインドで生まれたイギリス人で、狩猟家、作家として活躍するケネス・アンダーソンという人物に手紙を送り、町の惨状を訴えて、熊の討伐を依頼しました。
このケネス・アンダーソンは、インド南部のガンマラパー村という場所で42人を襲ったとして恐れられていたインドヒョウを狩猟した事などで名前を上げていた人物で、その英雄譚を知っていた町のある住民が助けを求めたという形でした。
手紙を受け取ったケネス・アンダーソンは、狩猟用のウインチェスターライフル1丁と、電気トーチ、1着分の着替えだけを持って、熊の被害にあっている町へと向かいました。
ケネス・アンダーソンは集落に到着後にすぐに熊の捜索を開始し、巣があると思しき場所へも危険を顧みずに赴きましたが、熊を発見する事はできませんでした。
ケネス・アンダーソンは次の予定が迫っていたため、住民らに再び熊が姿を現したらすぐに連絡してほしいと言い残し、町を後にしています。
マイソールの人喰い熊の顛末④ 1ヶ月後に別の場所で再び熊が姿を現す
最初の襲撃事件から約1ヶ月後、このナマケグマが今度は、マイソール州南部にあるサクレパトナという小さな町に出没し、森で薪割り作業をしていた2名を襲撃し、1名に致命傷を負わせました。
これを受けて、この地域の森林官が再びケネス・アンダーソンに熊の討伐を依頼しました。
ケネス・アンダーソンはすぐに現場へと駆け付け、地元森林局の所有する家に本部を構えて、熊捜索を開始しました。
到着の翌日、ケネス・アンダーソンは3人か4人の地元の助っ人を伴って熊捜索に出発しますが、森の中に熊のいた形跡が見つかると、助っ人らは恐れをなして逃げ帰ってしまったようです。
ケネス・アンダーソンはその後も1人で捜索を続けたところ、熊に襲撃されて重傷を負った男を発見し救助しようとしますが、本部へと戻るまでの間にこの男は生き絶えてしまいます。この救助中にケネス・アンダーソン自身も足を捻挫してしまい、1週間ほど地元の病院に入院する事となりました。
マイソールの人喰い熊の顛末⑤ 3度目の狩りで熊の討伐に成功
ケネス・アンダーソンの入院中、熊は再び姿を現し、近郊にある湖のそばの小道で2人の男性を襲撃しました。
急報を受けたケネス・アンダーソンは現場へと急行し、被害者らの証言などから、熊が現れる可能性が高い地点に野営し、待ち伏せしました。
そして、23時頃に、ケネス・アンダーソンは近くで地面から根元を掘り起こそうとしているような音を聞きました。
ケネス・アンダーソンが電気トーチの明かりを灯すと、すぐ近くに熊の姿が浮かび上がりました。熊は突然の点灯に驚いたのか後退りをしました。ケネス・アンダーソンはその隙を見逃さずにウィンチェスターを発砲。弾丸は見事に熊の胸を捉え、ついに人喰い熊の討伐に成功したのでした。
マイソールの人喰い熊が発生した場所
「マイソールの人喰い熊」の事件が発生した正確な場所は、1度目の襲撃が、現在でいうとカルナータカ州の州都バンガロールから北西105マイルに位置するアルシケレの東部に位置するナガバーラヒルズという町の近郊です。
2度目の襲撃が発生した場所はカルナータカ州の都市チクマガルルとカドゥールのちょうど間に位置するサクレパトナという小さな町でした。
マイソールの人喰い熊での死者は少なくとも12人
マイソールの人喰い熊によって発生した死者の数は少なくとも12人だと言われています。
ただ、60年以上も前の事件という事もあって、正確な記録が残されておらず正確な死者数は不明です。
マイソールの人喰い熊のその後
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マイソールの人喰い熊のその後については、特に情報は伝わっておらず不明ですが、同じ場所で再び熊による獣害が発生したという事はないようです。
また、見事に熊を討伐した、ケネス・アンダーソンは、このマイソールの人喰い熊の事件や討伐までの経緯について著作「Man-Eaters and Jungle Killers」の中で詳しく書いています。
ケネス・アンダーソンはその後、1974年に癌を患って64歳で亡くなっています。
まとめ
今回は1957年にインド南部のマイソール州(現在のカルナータカ州)の、ナガバーラヒルズとサクレパトナという町の近郊の場所で発生した「マイソールの人喰い熊」と呼ばれる、世界最悪の獣害事件についてまとめてみました。
マイソールの人喰い熊では、人里近くに巣を作ったナマケグマという種類の熊が、畑の作物を荒らすようになり、地域住民との争いを繰り広げる中でストレスをため込み、人間に対して強い攻撃性を発揮するようになって次々と地域住人を襲いました。
この事件では少なくとも12人の死者が出たとされていますが、60年以上も昔の事件であるため正確な死者数は不明となっています。
その後についても詳しい情報はありませんが、熊の討伐に成功した狩猟家で作家のケネス・アンダーソンは1974年に64歳で亡くなっています。