横浜港バラバラ殺人事件は2009年6月に発覚した殺人・死体遺棄事件で、生きたまま電動ノコギリで被害者の首を切断したという残忍さが際立つ事件です。本件の詳細や現場のホテルはどこか、裁判の判決や傍聴記録の音声はあるのか、現在について紹介します。
この記事の目次
- 横浜港バラバラ殺人事件の概要
- 横浜港バラバラ殺人事件の詳細① 実行犯・池田容之と指示役・近藤剛郎
- 横浜港バラバラ殺人事件の詳細② 事件の動機・発端
- 横浜港バラバラ殺人事件の詳細③ 犯人が集まった経緯
- 横浜港バラバラ殺人事件の詳細④ 犯行当日
- 横浜港バラバラ殺人事件の詳細⑤ 高倉順一さんを殺害【閲覧注意】
- 横浜港バラバラ殺人事件の詳細⑥ 水本大輔さんを殺害【閲覧注意】
- 横浜港バラバラ殺人事件の詳細⑦ 死体遺棄から事件発覚まで
- 横浜港バラバラ殺人事件の裁判① 池田容之の判決
- 横浜港バラバラ殺人事件の裁判② ほか7人への判決
- 横浜港バラバラ殺人事件の裁判傍聴記録が怖い?音声は存在する?
- 横浜港バラバラ殺人事件の現場となったホテルはどこ?
- 横浜港バラバラ殺人事件のその後① 近藤剛郎の現在
- 横浜港バラバラ殺人事件のその後② 池田容之の現在
- 横浜港バラバラ殺人事件についてのまとめ
横浜港バラバラ殺人事件の概要
2009年6月24日、横浜市金沢区幸浦2丁目の横浜港の岸壁に切断された男性の下半身の一部が流れ着きました。
発見した釣り人はすぐさま警察に通報。翌日の25日には同じく横浜港で男性の頭部や腕などが発見され、神奈川県警は流れ着いた部位から少なくとも被害者が2人いるバラバラ殺人事件と断定しました。
県警は横浜水上署に捜査本部を設置し、発見された遺体は神奈川県大和市の会社員・高倉順一さん(36歳)と、東京都世田谷区の雀荘経営者・水本大輔さん(28歳)のものであると判明します。
そして同年11月初旬までには実行犯の池田容之(当時31歳)ら8人が死体損壊・遺棄容疑で逮捕され、次いで池田が強盗殺人、殺人、監禁容疑で再逮捕されました。
この横浜港バラバラ殺人事件の裁判は裁判員制度が採用され、実行犯の池田が生きたまま被害者の首を電動ノコギリで切断したという残忍さ、命乞いの言葉を聞かない冷酷さなどから裁判員制度開始以降2例目の死刑判決が下されることとなります。
一方で反省をしていた池田が別件で逮捕中に上申書を出して横浜港バラバラ殺人事件の全容を明らかにしたことなどを鑑みて、地裁の裁判長が死刑を言い渡しながら控訴を勧めたという異例の事件としても知られます。
また、池田らに殺人の指示を出した主犯格で指示役の男・近藤剛郎(当時26歳)が海外逃亡を図って未だに捕まっていないことから、本件は未解決事件として扱われることもあります。
横浜港バラバラ殺人事件の詳細① 実行犯・池田容之と指示役・近藤剛郎
横浜港バラバラ殺人事件について説明する前に、まず生きたまま人間の首を切り落とすという残忍なことができた池田容之とはどのような人物なのか、どうやって指示役の近藤に知り合ったのかを見ていきましょう。
池田容之の生い立ち
池田容之は1978年に兵庫県で生まれました。父親は銀行員で、5歳の時に父の転勤で一家そろって横浜市内に引っ越しています。
真面目で明るい少年だったという池田は、中学校では生徒会長を務めるほどの優等生だったといいます。
高校は横浜市内の私立高校に進学したものの、卒業後は進学せずに造船所や車両工場などを転々としていました。
22歳の頃に結婚し、娘が誕生しますがほどなくして離婚。娘の親権は母親が持つことになったものの、池田は毎月10万円の養育費は欠かさずに振り込んでいたといいます。
幼少期の自分と同じように豊かで、何不自由のない暮らしを離れて暮らす娘にもしてもらいたくて、収入に見合わない高額の養育費を前妻に払い続けていたのかもしれません。
この養育費を稼ぐため、離婚後も池田は水道工事会社や先物取引会社など仕事を選ばずに働き続けていました。
ところが、幼少期から裕福な暮らしを送っていた池田にとって、養育費を支払うとカツカツになってしまう生活は受け入れがたいものがあったようです。
慣れない経済難に直面した池田は少しでも収入を得ようと次第にホストクラブ、出会い系サイトの運営会社などで働くようになり、2004年には稲川会系の組員になっていました。
近藤剛郎との出会い
1年ほどで稲川会系の組織を脱退した池田は、その後、山口組系の下部組織に入りました。
そしてこの頃、「オレオレ詐欺の帝王」と呼ばれる本藤彰(仮名)と知り合い、本藤の詐欺グループに入っています。
しかし、山口組の下部組織も本藤の詐欺グループも1年ほどでやめており、その後は都内にある岩盤浴店の店長として月収23万円ほどで働いていました。
一時期は危ない道に進もうとしていたものの身を持ち直したと思われた池田でしたが、ここで近藤剛郎と知り合ってしまったのです。
覚せい剤密輸を指示される
近藤は当時、早稲田大学法学部に在籍していましたが、同時に2007年9月16日に逮捕された振り込め詐欺の「キング」と呼ばれていた戸田雅樹と関係があり、戸田の詐欺にも加担していました。
池田も近藤の誘いがあったのか戸田のグループに所属するようになり、実際の年齢は5歳下の近藤のことを「先輩」として立てていたそうです。
近藤は億の金を動かして覚せい剤の密輸入も行っており、「金に困っている」と話す池田に覚せい剤関係の仕事を持ち掛けました。
2009年2月、池田は近藤の指示でシンガポールから日本に覚せい剤を持ち込むという仕事を引き受けます。
しかし、この仕事は実行役の男がシンガポールで覚せい剤を受け取り、韓国の仁川空港経由で福島空港に持ち込む手はずだったものの、福島空港の手荷物検査であっさり税関職員にバレてしまい、実行役の男が逮捕されて失敗に終わりました。
なお、持ち込む予定であった覚せい剤は総量約942gで、末端価格に換算すると1億円相当だったそうです。
続いて6月には北海道の札幌市と岩見沢市に住む男2人を実行役にして、ベトナムで覚せい剤を受け取ってから、スーツケースを二重底に細工して韓国経由で新千歳空港に持ち込むように指示しました。
しかし、またしても空港で税関職員にバレて実行役2人は逮捕。持ち込む予定であった覚せい剤約6.7㎏、末端価格に換算すると6億7000万円相当も没収されてしまいました。
池田は横浜港バラバラ殺人事件を起こした後、まず2月の覚せい剤密輸事件への関与が明らかになって2009年7月20日に逮捕されています。
そして、上申書を提出して自ら横浜港バラバラ殺人事件に関与したことを告白しました。
横浜港バラバラ殺人事件の詳細② 事件の動機・発端
近藤剛郎は、新宿歌舞伎町で「もえはうす」という麻雀店を経営していました。
「もえはうす」は2004年にオープンした店で、表向きの経営者は元キャバ嬢でプロの女流麻雀士の一ノ瀬萌さんでしたが、実質的には近藤の店であり、前述のキンググループの戸田雅樹やヤクザの組員も出入りしていたといいます。
というのも、この店は雀荘でありながら実態は密輸された覚せい剤やその情報が集まる主要地点だったのです。
前述の池田が関与した2件の覚せい剤輸入も、「もえはうす」を中心に計画されたものでした。
近藤は2008年頃から港区に住む石原隆一(当時31歳)を「もえはうす」の共同経営者にしていたとされます。
ところが経緯は不明ですが、2009年3月頃に横浜港バラバラ殺人事件の被害者となる高倉順一さんと水本大輔さんに店の経営権を握られてしまい、同時に覚せい剤密輸組織の売り上げも吸い上げられてしまったのです。
しかも、高倉さんは店の権利を返すように迫った近藤に対して「それなら覚せい剤密輸の件を警察にチクってやる」と反対に脅し返してきたといいます。水本さんと高倉さんは元暴力団員であり、一筋縄ではいかない相手でした。
こうして近藤は店の権利と覚せい剤の売り上げを取り返すためには、水本さんと高倉さんを殺すしかないと決意しました。
横浜港バラバラ殺人事件の詳細③ 犯人が集まった経緯
横浜港バラバラ殺人事件の犯人は、以下の9人です。
・近藤剛郎(まだ逮捕されていない・当時26歳)
・池田容之(当時31歳)
・岩井隆弘(当時29歳)
・南部宇宙(当時28歳)
・石原隆一(当時31歳)
・大井翔平(当時26歳)
・宮原直樹(当時22歳)
・三田恭志郎(当時22歳)
・伊吹真吾(当時21歳)
近藤と麻雀店を共同経営していた石原は、知人のコンサルタント業者の岩井隆弘に「経営している店が乗っ取られた。出資金を取り返したい」と相談しました。
そこでコンサルタント業者が紹介してきたのが、滋賀県東近江市在住の南部宇宙(なんぶたかおき)でした。
無職だった南部は「金になる仕事がある」という岩井の言葉につられて、5月上旬に事件への参加を承諾したとされます。
さらに南部は地元の後輩の宮原、三田、伊吹を勧誘しました。しかしこの時、南部ら4人は殺人の手伝いではなく「『もえはうす』に入って覚せい剤密売の利益を奪う強盗の手伝い」と聞かされていたようです。
一方で近藤も4月頃から「麻雀店を乗っ取った奴らが許せない」と池田にこぼしていたとのこと。
6月に入って「誰か、殺しを頼めそうな知り合いはいないか?」と近藤から聞かれた池田は「俺がやります!」と、一も二もなく犯行に加わりました。
なんでも池田は2008年に公開されたリドリー・スコット監督の映画『アメリカン・ギャングスタ―』を観て、東南アジアからヘロインを大量に密輸して麻薬業界の大物となる主人公にあこがれていたそうです。
そのため、2人の殺害を成功させて近藤に気に入られれば、覚せい剤密輸の利権にかかわれると
考えて、殺人を引き受けたとされます。
そして池田は、知人で足立区に住む鉄筋工の大井にも協力を持ち掛けました。こうして横浜港バラバラ殺人事件の犯人9人が集まったのです。
横浜港バラバラ殺人事件の詳細④ 犯行当日
こうして2009年6月18日の21時頃、南部は地元の後輩3人を連れて都内で水本大輔さんをレンタカーに乗せて拉致し、そのまま千葉県船橋市内のホテルに連れて行きました。
加害者グループはホテル側に「ドラマの撮影で使いたい」と嘘の申告をしており、借りていた部屋は2部屋。
また、ホテルに「もしも大きな声や物音がしても、撮影なので心配しないで大丈夫です」などと伝えていたそうで、あらかじめ従業員が部屋に近づかないように予防線を張っていました。
そして翌19日の早朝5時頃に、船橋市内の同ホテルに高倉順一さんを呼び出したとされます。ここで南部に池田と石原が合流し、水本さんと高倉さんは両手足を縛られて監禁されました。
この後、2人を殺害するまでの間に「もえはうす」の共同経営者であった石原が水本さんを脅して、当時同棲していたという女性に300万円を持って来させ、奪い取るなどしていました。
横浜港バラバラ殺人事件の詳細⑤ 高倉順一さんを殺害【閲覧注意】
2人の拉致・監禁に成功した池田は近藤に電話をかけて指示を仰ぎます。
そして、近藤が電話越しに「2人も殺っちゃってください」と言ったところで、池田による猟奇的な殺人が開始したのです。
なお、この時点で部屋には池田と南部、そして水本さんと高倉さんしかおらず、池田の後輩らは見張りのために外に出ていたといいます。
石原がどこにいたのかは不明ですが、逮捕後に監禁および脅迫で起訴されていることから、300万円以上取り戻せないと判断して現場を去ったのかもしれません。
池田と南部による供述に基づいた裁判時の検察側の説明によると、池田が2人の殺害に取り掛かった時、すでにチェックアウト予定の午前10時が迫っていたそうです。
そのため、午前7時頃に南部に「こいつ、もう殺っちゃいますわ」と言って、痛い、助けてくれ、と騒ぐ高倉さんから殺害することを決めます。
南部は事前に池田から「邪魔をしたら殺す」と言われていたことから、「本当に殺すのか」と恐ろしく思ったものの、口出しせずに黙っていたといいます。
池田は両手に手袋をはめると高倉さんに近づき、「お前は風呂場に行け」と命じて両腕を掴んで立ち上がらせ、そのまま浴室に引きずって連れて行きました。
この時、高倉さんは憔悴しきった顔で「ダメなんだ…」と呟いたそうです。しかし、池田は一切の同情を見せずに、「早く中に入れ」と浴槽に高倉さんを押し込みました。
そして、高倉さんを浴槽の中で座らせて太ももをナイフで切りつけるなどします。怖くなった高倉さんは「勘弁してください、殺さないで」と命乞いを始めたそうです。
池田はこれに対して「無理だ。諦めて往生してくれ」と言って、高倉さんの手首をナイフで2回、深々と切りつけました。
池田の供述によると、この時にナイフの刃に骨があたる感触があったといい、ここまで深く切れば失血死するだろうと思ったとのことです。
外でこの様子を聞いていた南部は池田の残酷さが恐ろしくてたまらなかったそうですが、実はこの時、実行犯の池田も緊張と恐怖から心臓が破裂しそうなほどバクバクして、「できることなら逃げ出してしまいたい」という気持ちだったといいます。
ヤクザの組に出入りして、詐欺事件に加担していたと言っても池田に殺しの経験はありません。
そのため、怖くてたまらないのを「もう、後戻りできない。やりきらないと自分が危ないんだ」と気持ちを奮い立たせていたそうです。
ここで気持ちを落ち着かせるために池田は一度、高倉さんを浴室に残して洗面所に向かい、煙草を吸いました。そして洗面所から浴室に向かって「もう死んだか?」と高倉さんに呼びかけるなどしていたようです。
ところが池田の予想に反して高倉さんはなかなかこと切れずに、痛みに体をよじらせている様子が浴室のドア越しに見えました。
仕方なく池田は高倉さんの首を刺すことに決め、右頚部からのどぼとけに向かってナイフで切りつけたものの、血も出ずに致命傷にはならなかった様子でした。
続いて池田は高倉さんの後頭部を掴み、首を2回、深々とナイフで刺したといいます。この時、ナイフの刃が半分埋まるほど、深く刺したそうです。
やはり思ったほど血が出ないため、ダメかと思ったところ、高倉さんの顔からどんどん血の気が引いていきました。そして弱弱しいうめき声をあげた後、高倉さんは息を引き取りました。
横浜港バラバラ殺人事件の詳細⑥ 水本大輔さんを殺害【閲覧注意】
高倉さんを殺害した後、池田は血が固まると浴槽の排水溝が詰まるのではないかと思い、遺体の上からシャワーで水をかけて血液を流しました。
そして、浴槽から出て南部と水本さんがいる部屋に戻ると南部に時間を聞き、午前7時30分であることを確認。
池田は水本さんの顔を見ると、「金、集められねえのか?あんたも死ぬぞ」と言ったそうです。
しかし、水本さんは先ほど交際相手に持って来させた300万円しかないと答えました。
池田は「じゃあ、死ぬしかねえな」と言うと、水本さんに自分で歩いて浴室に行くように指示。高倉さんの叫び声を聞いていたためか、水本さんは「風呂場はやめてください!」「密室は怖い!」と泣き叫んだそうです。
池田はこれを無視して水本さんを風呂場に連れ込み、「安心しろ、溺死なんて甘ったれた殺し方させると思ってんのか」と言い、洗い場に置いた電気ノコギリを見せました。
これを見た水本さんはパニックになり、「お願いします、せめて刺すか首を絞めるかして殺してからにしてください」「電気ノコギリは嫌です」と懇願を始めます。
池田は「勇気あるなあ、お前。ヤクザだっけ?じゃあ望み通りギロチンだな」などと言い、「せめて、最期に母と妻に電話をさせて」と頼む水本さんに笑いかけ、「俺も上には逆らえないんだよ」と冷酷な言葉を浴びせました。
いかにもヤクザ者らしく水本さんを脅していましたが、この時の池田は高倉さん殺害に時間をとってしまったことから、遺体を解体する時間が無くなると焦っていたといいます。
近藤から殺害だけではなく、見つからないように遺体を遺棄することまで頼まれていたため、遺体をバラバラにして室内を清掃し、運び出すまでの工程をチェックアウト時間までに済ませなければいけなかったのです。
池田が用意していた電動ノコギリは手持ち型のチェーンソーではなく、台のついた固定式のものでした。
そのため、水本さんが自ら台の上に頭を乗せる必要があったとされます。無理やり身体を押さえつけられて首を切られるのもとてつもない恐怖ですが、殺される覚悟をして自らノコギリの刃の横に頭を置くなど、どれほど恐ろしかったでしょうか。
池田は一度、「心の準備をしておけ」と言って浴室を出て洗面所で煙草を吸ってから「どうだ?準備できたか?」と水本さんの元に戻って来たそうです。
数度の命乞いの末、助からないと悟った水本さんは池田の指示に従って電動ノコギリの台に頭を乗せて洗い場に寝ころびました。
そして池田の「往生してくれよ」という言葉を合図に、電動ノコギリのスイッチが入れられたのです。
池田は水本さんの脇腹を右ひざで押さえつけながら、首にのこぎりの刃をあてて切断しようと試みました。
この時点で水本さんは恐怖のあまり意識を失っていたのか、池田の供述によると抵抗することもなければ叫び声もあげなかったそうです。
ただ、振動で電動ノコギリの台が揺れて首ではなく顎が刃にあたりそうになったため、池田は動かなくなった水本さんの頭部を掴んでずらしながら首を切断していったといいます。
そうして半分ほど首の切断を終えて様子を見ていたところ、30秒から1分で水本さんは完全に動かなくなりました。
横浜港バラバラ殺人事件の詳細⑦ 死体遺棄から事件発覚まで
2人を殺害した後、池田は遺体をバラバラにして用意していたゴミ袋に入れて口を締め、車の後部座席に投げ込みました。この時、被害者の遺体を南部に見せた池田は「人形みたいでしょ」と言っていたそうです。
池田はこの時、遺体の運搬役として知り合いの大井を雇っており、遺体の遺棄は池田が山梨県鳴沢村の富士山五合目の林の中に、南部らが横浜港にと手分けをしていました。このことが事件の早期発覚につながったと言えます。
山中に遺体を運んだ池田は首尾よく埋めることができました。一方で、横浜港に向かった4人は遺体の入ったビニール袋をそのまま海に投げ込んだとされます。
この時に浮かんでこないように重しをつけてから沈めるなどの工作をしていれば、事件の発覚は遅れていたかもしれませんし、場合によっては迷宮入りしていた可能性もあったでしょう。
ところが、強盗の手伝いと聞かされていった現場で殺人事件に加担することになってしまった南部らは、気が動転していたのかそのまま海に遺体を遺棄してそそくさと帰ってしまったのです。
案の定、一週間も経たないうちに遺体は水面にあがってきてしまいました。しかも、横浜港に遺棄した袋には被害者の頭部など身元発覚につながる重要な部位が入っていたのです。
そのため、警察は早々に歯形などから遺体の主が水本さんと高倉さんだと特定します。そして以下の時系列で次々に事件に関わった者たちが逮捕されていきました。
・2009年10月14日…宮原直樹、三田恭志郎、伊吹真吾が死体損壊・遺棄容疑で逮捕される
・2009年10月15日…池田容之が死体損壊・遺棄容疑で逮捕される
・2009年10月16日…南部宇宙が死体損壊・遺棄容疑で逮捕される
・2009年10月17日…石原隆一が死体損壊・遺棄容疑で逮捕される
・2009年10月22日…大井翔平が死体損壊・遺棄容疑で逮捕される
・2009年11月5日…岩井隆弘が死体損壊・遺棄容疑で逮捕される
・2009年11月11日…池田容之が強盗殺人、殺人、監禁容疑で再逮捕される
・2009年11月11日…南部宇宙と岩井隆弘が強盗致死、監禁容疑で再逮捕される
・2009年11月11日…宮原直樹、三田恭志郎、伊吹真吾が監禁容疑で再逮捕される
横浜港バラバラ殺人事件の裁判① 池田容之の判決
横浜港バラバラ殺人事件の裁判は、2009年5月に施行されたばかりの裁判員制度が採用されることとなりました。
実行犯である池田の初公判は横浜地裁で2010年11月1日に開かれました。
すでに起訴内容を全面的に認めて「自分は死刑になって当然。弁護士も弁護も必要ない」と言っていた池田は、「私利私欲のために犯行に及びました」と報酬目的で面識さえなかった水本さんと高倉さんを高倉さんを殺害したと証言。
6日間の後半と3日にわたる裁判員の評議の末、2010年11月16日に池田に求刑通り死刑が言い渡されました。
上述のように池田は2009年7月20日に覚醒剤の密輸事件ですでの逮捕されており、その件で身柄を拘束されている時に、自ら横浜港バラバラ殺人事件に関与したと告白して警察に上申書を出していました。
池田によると上申書を提出した理由は、「殺害した水本さんと高倉さんが夢にまで出てきて、恐ろしかったから」とのこと。
弁護側はこの上申書の存在と、池田が罪を反省していることを訴えて裁判員に死刑という決議を思いとどまるように促しました。
一方で検察は「生きたまま首を切断するという殺害方法は非常に冷酷であり、自首も保身のためとしか考えられない」と死刑以外ありえない、と主張。
公判中には被害者の遺族も証言台に立ち、「バラバラにした夫をつなぎ合わせて返してほしい」「無期懲役は、遺族にとっては無罪と同じなんです」と訴えました。
こうした公判を経て男女3人ずつの裁判員と、3人の裁判官が下した評決は死刑だったとされます。
判決で裁判長が異例の発言
本件を担当した横浜地裁の朝山芳史裁判長は、池田に死刑を言い渡した後に以下のような異例の発言をしていました。
「重大な結論で、裁判所としては控訴を申し立てることを勧めたい」
これにはおそらく2つの意図があったのではないかと見られています。
1つ目は、池田が自ら上申書を出して事件の全容を明らかにする協力をしたことです。このことに対して裁判長は「減刑の材料になるほどの功績ではない」としていましたが、それでも思うところはあったのではないか?と指摘されています。
2つ目は、裁判官と裁判員が全員一致で池田の死刑を支持しなかったのではないか?という点です。
裁判員裁判の評決では多数決が採用されているのですが、単に6人のうち過半数が支持した決議が通るわけではありません。「裁判員の半数以上の賛成と、評議に参加した裁判官1人の賛同」が必要とされています。
ということは、裁判員6人のうち4人と裁判官1人の賛同があれば死刑という決議が出ることになるのですが、当然ながらこれには異論も寄せられています。
法律のプロである裁判官3人のうち2人が異を唱えている決議を採用するのか、と思う人もいるでしょう。
また、PTSDを抱えかねないような思いをして裁判に参加したにもかかわらず、自分の意向が反映されない決議になったことで、責任を感じてしまう裁判員の方も少なからずいるはずです。
とくに横浜港バラバラ殺人事件の裁判では、裁判員の方々は遺体の写真を見せられるなどの精神的な苦痛も負っていますし、反省して死を覚悟している被告人と、罪を糾弾する遺族の間で気持ちが揺れることもあったと思われます。
もちろん裁判員が下した評決の内容は非公開となっているため、裁判長が裁判員の心情を考えて池田に控訴を勧めたのかは不明です。
しかし、死刑判決後にマスコミの取材に対応した裁判員の男性が以下のように語っていたことから、裁判員の方々にも葛藤があったことが窺えます。
「池田被告は被害者の命日に花を供えたいといえるような状態になっていたので、私自身も控訴をお願いしたいという気持ちだった」
死刑判決後の池田容之
死刑を言い渡された池田は裁判長に向かって「ありがとうございました」と述べて頭を下げ、傍聴席に座る遺族に向き直って「申し訳ございませんでした」と、深々と頭を下げたといいます。
その後、11月29日に池田の弁護団は死刑を不服として控訴しました。しかし、2011年6月16日に池田本人が控訴を取り下げて死刑判決が確定します。
横浜港バラバラ殺人事件の裁判② ほか7人への判決
横浜港バラバラ殺人事件に関わって逮捕された8人のうち、池田以外の7人に下された判決は以下の通りです。
南部宇宙
南部は強盗致死および死体遺棄、逮捕監禁の罪で起訴されました。検察側は事件の悪質さ、重大さから懲役15年を求刑しました。
弁護側は「被害者から金を奪ったと言っても、脅迫罪が相当。ほかの罪についても、雑用的に関与したに過ぎない」と懲役8年が相当だ主張したといいます。
横浜地裁での南部の判決公判は2011年1月27日で、懲役12年が言い渡されました。
なお、南部の裁判で出張尋問を受けた池田は、「南部被告は直接、暴力的な行為にはかかわっていない」と証言しています。
石原隆一
「もえはうす」の共同経営者であり、近藤とともに事件の原因をつくったともいえる石原。
監禁および死体遺棄罪で起訴され、2010年3月11日に横浜地裁で懲役2年10ヶ月を言い渡されました。
岩井隆弘
石原に水本さんと高倉さんに店を乗っ取られた件について相談されて、南部を紹介したとされる岩井。
自称コンサルタントとのことでしたが、逮捕後は「職業:無職」と報道されていました。
岩井は高倉さんを脅して交際相手に金を持って来させたことなどから、監禁および脅迫罪で起訴され、2010年5月27日に横浜地裁で懲役3年を言い渡されました。
なお、岩井は2009年6月に池田が近藤から指示されて行ったベトナムから新千歳空港への覚せい剤密輸にも関与しており、上記の判決とは別に懲役15年、罰金700万円も言い渡されています。
宮原直樹・三田恭志郎・伊吹真吾
殺人に加担させられるとは知らずに滋賀県からやって来て、見張りと遺体の遺棄を命じられることになった宮原、三田、伊吹の3人。
彼らは死体遺棄および監禁罪で起訴され、2010年5月17日に執行猶予5年つきの懲役3年が言い渡されました。
求刑は懲役3年でしたが、執行猶予がついた理由は「事件への関与がきわめて従属的であったため」とされています。
大井翔平
池田から遺体の運搬、遺棄を頼まれて犯行に加わった大井。謝礼として200万円を受け取るなどしており、前述の3人に比べると積極的に犯行に関与していることが窺えます。
そのため大井は死体遺棄罪のみで起訴されましたが、2010年3月5日に懲役2年という宮原らより重い判決が言い渡されました。
横浜港バラバラ殺人事件の裁判傍聴記録が怖い?音声は存在する?
ネット上では、今でも「横浜港バラバラ殺人事件の傍聴記録がグロすぎる」「怖い」と話題にることがあります。
その際に決まって貼られる「横浜港バラバラ殺人事件の傍聴記録」のコピペが以下のものです。
高倉さん「風呂場はやめてください!密室はこわいです!」
池田「安心しろ、溺死なんて甘ったれた殺し方されるとでも思ってるのか」
高倉さん「そんな!さっきの電動ノコギリは嫌です!せめて殺してからにして下さい!」
池田「勇気あるなあヤクザだっけお前?望み通りギロチンしてやるよ」
ここまでの池田の発言は、裁判時に検察が犯行内容として説明していたことと一致します。
ただ、電動ノコギリで殺害されたのは高倉さんではなく、水本さんです。高倉さんはナイフで殺害されています。
この点だけをとっても、傍聴記録のコピペは実際の裁判の記録が伝言ゲーム的に誇張されて作られたものだと考えられます。
(池田被告はここでチェーンソーを最大速度に切り替える)
裁判では水本さんを殺害した凶器はチェーンソーではなく、固定式の電動ノコギリとされています。
また、殺害現場となった浴室には池田と被害者しかいなかったはずなのに、「見た?」という問いかけをしているのも変です。
池田「泣くなよお前アッハッハ(ハサミで淡々と被害者の指を数えながら切り落とし)俺も上には逆らえないからよ」
高倉さん「おねがいします!ウワー!!ウオ、オオオ、ゴフ」(首が切断された)
池田「きたねーなこの野郎。この道具早えーな!見た?30秒もかからなかったな!こいつ気持ち悪いヤクザだな」
創作の傍聴記録ですから、当然、音声も存在しません。なお、実際に犯行時の音声が加害者らが録音しており、それが証拠として裁判で提出されたとしてもTVなどを通じずに世に出回る可能性はありません。
裁判所は「裁判傍聴のルール」として以下のことをあげており、当然ながら傍聴席に着く前には所持品の検査もあります。
2. 撮影・録音は禁止されています。
事件関係者のプライバシーの保護のため,許可がない限り撮影や録音は禁止されています。なおメモは自由です。
引用:裁判傍聴Q&A
「横浜港バラバラ殺人事件の傍聴記録」のコピペは、あまりにも事件が恐ろしかったがために誕生した都市伝説のようなものと言えるでしょう。
横浜港バラバラ殺人事件の現場となったホテルはどこ?
出典:https://www.oshimaland.co.jp/
被害者の水元さんと高倉さんが殺害されたホテルは、船橋市海神町東一丁目1032番地にあったラブホテル「シティホテル・W」ではないかと見られています。
調べてみたところ事故物件サイトの『大島てる』にも、該当の番地にあるホテルが横浜港殺人事件の現場として登録されていました。
横浜港バラバラ殺人事件が発覚した直後の2010年頃に「MG City Hotel (エムジーシティホテル)」としてリニューアルオープンしています。
近隣住民の情報によると、取り壊しがあったわけではなく内装などをリフォームした様子とのことです。
あんな事件があったのに建物を取り壊さなかったのか、と怪訝に思う方もいるかもしれません。
しかし、思いもよらない手段で事故物件にされてしまったわけですから、このホテルも横浜港バラバラ殺人事件の被害者と言えます。建て替えまでするのはさすがに厳しい、という事情もあるでしょう。
なお、ネット上で見つけたホテルマンの方の話によると「事故があった部屋はリフォーム後もお客様には貸し出さずに、リネン室やスタッフルームにすることが多い」とのことでしたから、建物がそのままでもあまり気にすることはないのかもしれません。
横浜港バラバラ殺人事件のその後① 近藤剛郎の現在
横浜港バラバラ殺人事件が発覚した後、近藤剛郎はタイに高跳びしており、現在も行方が分かっていません。
2009年12月からはインターポールによる国際手配もかけられていますが、ここまで長く見つからないのは、すでに殺されているからではないのか?と指摘する声もあります。
一学生であった近藤の背後に裏社会の大物がいたのは間違いないでしょうから、大事件を起こして消されたという可能性も十分あり得ます。
なお、在籍していた早稲田大学は、2008年9月に除籍処分になっています。これは東洋大学の元学生と組んで闇バイトのサイト『闇の職業安定所』で運び屋を募集し、マレーシアから覚せい剤を密輸しようとしたことなどがバレたためです。
横浜港バラバラ殺人事件のその後② 池田容之の現在
2010年11月に横浜地裁で死刑を言い渡された池田容之ですが、現時点でも死刑は執行されていません。
法務省によると死刑確定から死刑執行までの平均期間は約7年9ヶ月とのことなので、確定死刑囚としてずいぶん長く収監されいることになります。
池田の死刑が執行されない理由は、おそらく横浜港バラバラ殺人事件の主犯格である近藤剛郎が未だに逮捕されていないからでしょう。
共犯者が逮捕、裁判が始まる前に死刑が執行されてしまうと、死刑囚から得られるはずだった証言が握りつぶされてしまい、公平な裁判ができない可能性があります。
事件の主犯がまだ逮捕されていない場合には共犯者の死刑執行はできない、と法律で定められているわけではないのですが、一般的にすべての共犯者の裁判が終わるまでは、死刑囚は生かされているケースが多いです。
このケースの有名どころとしては、あさま山荘事件で逮捕された永田洋子や坂口弘、地下鉄サリン事件などで死刑となった元オウム真理教関係者などがあげられるでしょう。
とくに池田は事件後に反省する様子が見られたことから、近藤の裁判で証言台に立つ可能性も高いと予想されます。
なお、2021年に『文春オンライン』に掲載された記事によると、この時点では池田は拘置所ではなく横浜刑務所に収監されており、同じく横浜港バラバラ殺人事件の共犯者である南部宇宙と思われる人物も横浜刑務所で服役している様子です。
記事を書いた倉垣弘志氏は、田代まさしさんに覚醒剤を譲渡した罪で横浜刑務所に服役した頃に南部と思われる人物と会ったといいます。
そして刑務所内での池田の様子について尋ねたところ、「手紙のやり取りをしている」として、以下のような話をされたそうです。
「おとなしいどころか、手紙の文面が神様仏様みたいな感じなんですよ」
池田の罪は決して許されることではありません。しかし逮捕後の言動を見ると、どうしてもっと早く思いとどまれなかったのか、違う道も選べたのではないかとやる瀬ない気持ちにさせられます。
横浜港バラバラ殺人事件についてのまとめ
今回は2009年6月に発生、発覚した横浜港バラバラ殺人事件について、稀にみる犯行の残虐さや犯行動機などの事件の詳細、判決、犯人の現在を中心に紹介しました。
裁判で「どうすれば、このような事件を起こさずにすんだと思いますか」と質問された池田は、「もっと、勉強をすればよかったと思います」と答えたといいます。
池田も近藤も恵まれた生まれの優秀な少年だったとされます。どこで道を間違えたのでしょうか。事件の真の解決のためにも、逃亡中の近藤が1日でも早く逮捕されることを願います。