ウルトラ山田とは1974年に大阪市内の近鉄デパートなどで発生した3件の爆破事件の犯人で、逮捕時は中学生でした。この記事ではウルトラ山田について、彼が関与した日曜連続爆弾魔事件の詳細、神戸大丸デパート爆破事件との関係、現在について紹介します。
この記事の目次
ウルトラ山田と日曜連続爆弾魔事件の概要
1967年1月、神戸市中央区明石町にある大丸デパート神戸店のトイレで爆発事件が発生しました。
事件現場には「ウルトラ山田」を名乗る犯人からの脅迫状が残されており、同年4月には同じ構造の時限式起爆装置を使った山陽電鉄爆破事件が発生。
2つの事件は同一人物による犯行と見られましたが、犯人が検挙されることはなく、ウルトラ山田の正体はわからないまま時間が過ぎていきました。
そして、大丸デパート爆破事件と山陽電鉄爆破事件から7年が経過した1974年。またしても「ウルトラ山田」を名乗る人物による連続爆破事件が発生します。
・1974年3月10日(日曜日)…大阪市堺のスーパーニチイ店内で不審物が発見される。爆発は未遂に終わる。
・1974年3月17日(日曜日)…大阪市阿倍野区の近鉄デパート阿倍野店・子供服売り場に仕掛けられた不審物が爆発。煙が出たが被害者はなし。この時に「ウルトラ山田」の脅迫状が現場に残されていた。
・1974年4月7日(日曜日)…大阪市天王寺区上本町の近鉄デパート上六店で爆弾が発見される。警官が負傷。
・1974年4月14日(日曜日)…国鉄天王寺駅構内のトイレに仕掛けられた不審物が爆発。被害者はなし。
犯人は1974年2月18日に起きた別の爆破事件「近鉄コインロッカー爆破恐喝事件」で逮捕、起訴されていた犯人の釈放を求めており、大阪府警はウルトラ山田は7年前の爆破事件と同一人物なのか、近鉄コインロッカー爆破恐喝事件の犯人と関係があるのか、と捜査に乗り出します。
さらにこの犯人は決まって日曜日に爆破事件を起こすことから「日曜日の爆弾魔」と呼ばれ、一連の事件は「日曜連続爆弾魔事件」と呼ばれて恐れられるようになりました。
その後、警察の捜査によってウルトラ山田を名乗る日曜日の爆弾魔は逮捕されたのですが、正体はなんとまだ中学2年生の少年。
年齢からわかるように7年前の爆破事件とは無関係であり、近鉄コインロッカー爆破恐喝事件の犯人とも面識がなかったといいます。
少年の犯行動機は、爆破事件のニュースを見て面白そうだったから真似をしただけという単純かつ理解不能なもので、世間に大きな衝撃を与えました。また、山陽電鉄爆破事件を起こしたウルトラ山田は逮捕されておらず、事件は1982年に時効を迎えています。
ウルトラ山田が起こした爆破事件の詳細① 神戸での爆破事件
1967年6月18日14時5分頃、兵庫県を走る山陽電鉄本線の電鉄塩屋駅(現在の山陽塩屋駅)に停車中の普通車両で網棚に置かれた荷物が爆発するという事件が起こりました。
この荷物には時限式起爆装置のついた手製爆弾が取り付けられており、爆発の影響で乗客2名が死亡(うち1名は即死)、29名が負傷するという大惨事が発生。
犯行に使われた爆弾は塩素系カリウムと硫黄の混合物で作られたもので、列車の窓ガラスが駅構内に飛散するほど爆発の威力は凄まじかったといいます。
また、この爆弾は同年1月に同じく兵庫県内にある大丸デパート神戸店のトイレで発生した爆破事件で使われたものと酷似していました。
大丸デパート神戸店で起きた爆破事件では、トイレで不審物を発見した清掃員が掃き出して処分しようとしたところ爆発が起き、顔に軽傷を負ったとされます。
この時、爆発が起きた現場付近には「ウルトラ山田」を名乗る人物からの脅迫状が残されており、折しも学生紛争が激化していた時代であったことから警察は過激派による犯行の可能性を視野に入れて捜査を展開しました。
ウルトラ山田が起こした爆破事件の詳細② 近鉄コインロッカー爆破恐喝事件
ウルトラ山田による2件の爆破事件が起きてから、約7年が経った1974年2月18日の午前0時23分。今度は近鉄の大阪上本町駅の構内で、コインロッカーが吹き飛ぶという事件が発生します。
この爆破事件で使用された爆弾は爆竹を約1,000本集めたもので、時限装置としてドライアイスが使われていました。
犯人は事前に大阪上本町駅を訪れていたらしく、駅構内の気温がおよそ10℃で保たれていることを確認し、8時間経過すればドライアイスが自然に溶けて起爆するように計算していたと見られました。
幸い、終電間際の人が少ない時間帯だったこともあり怪我人は出ませんでしたが、コインロッカーには近畿日本鉄道あてに「さらに酷い爆破事故を起こす用意(ニトロ)がある。止めてほしければ要求に応じろ」という脅迫文が発見されます。
そして後日、犯人から爆破をやめる見返りに1億円を要求する手紙が鉄道会社に届き、その受け渡し場所で爆破事件の犯人である神戸市内に住む千葉という兄弟が逮捕されるに至りました。
兄弟の犯行動機は「自分たちが一旗あげるためには爆破事故でも起こして、お金を手に入れるしかないと思った」というもので、逮捕後の調べで勤務先の屋根裏で爆弾製造をしていたことが発覚します。
ウルトラ山田が起こした爆破事件の詳細③ 大阪での連続爆破事件
千葉兄弟が逮捕されてから4日が経った3月17日の午前11時30分頃。買い物客で賑わう近鉄デパート阿倍野店の7階、子ども服売り場で再び爆発事件が起こります。
爆発と言っても音と煙が出ただけで、ウルトラ山田や千葉兄弟が仕掛けたもののような威力の強い爆弾が使われたわけではなく、負傷者も出ませんでした。
しかし、爆発現場付近に以下のような内容の脅迫状が置かれていたことから警察は厳戒態勢を取ることとなったのです。
我々の要求に応じるのなら、第2、第3の爆破および放火計画を中止する。我々の要求は千葉兄弟を釈放することだ。
ウルトラ山田より
この事件が起きる前の週の日曜日にも大阪市堺のスーパーニチイで爆発未遂事件が起きており、使われた爆弾のつくりが似ていたことから近鉄デパートとスーパーニチイの事件は同一犯によるものと見られ、捜査が進められました。
なお、この事件の後に近鉄デパートには脅迫電話が数回かかってきたといい、声の感じから犯人は40歳代くらいの男性ではないかと推測されたそうです。
第3の爆発事件で警察官が重症を負う
それからさらに3週間が経った4月7日の日曜日、今度は近鉄デパート上六店のトイレで不審な懐中電灯が発見されます。
発見者はデパートの女性店員で、上司に相談したうえで天王寺署上本町七丁目派出所にこの不審物を届け出ました。
そのためデパートでは被害が出なかったのですが、不幸にも不審物を受領した派出所内で爆発が起きてしまったのです。
16時頃、着手していた仕事が一段落して、やっと懐中電灯を調べようと警官がキャップに手をかけた途端、爆発が発生。
この懐中電灯型の爆弾はキャップを開くと起爆する仕組みになっており、キャップを開けた警察官は爆発によって右手の指を3本失うという重症を負ってしまいます。
さらに派出所内にいた警官4名が軽傷を負い、1974年に起きたウルトラ山田関連の事件のなかでついに負傷者が出てしまったのでした。
事件は「日曜連続爆弾魔事件」と呼ばれる
爆破事件は日曜日に起きていることから一連の事件は「日曜連続爆弾魔事件」と呼ばれ、狙われるのが決まって近鉄デパートであったために、大阪府警は毎週末、近鉄デパートを中心に5,000人規模の捜査員を動員して警戒にあたりました。
そして前回の事件から1週間後の4月14日、今度は国鉄天王寺駅構内で爆発が発生。このトイレは地下の人気のない場所にあったため、幸い被害者は出ませんでした。
しかし、国鉄天王寺駅は近鉄デパート阿倍野店(現在のあべのハルカス)の正面にあり、犯人は警察の動きを読んで、からかっているかのような犯行でした。この事件を最後に大阪での爆破事件は起こらなくなります。
ウルトラ山田が起こした爆破事件の詳細④ 犯人の中学生逮捕
警察は捜査を進めるなかで、1974年3月17日の事件で発見されたウルトラ山田の脅迫状と、4月14日の事件現場に残された爆弾から同一人物の指紋を検出しました。しかし、前科者との一致はなく指紋からの犯人特定は難航します。
脅迫状にて千葉兄弟の釈放が求められていたことから並行して兄弟への聞き取りが進められましたが、2人は他に共犯者や爆弾の存在を知っている仲間はいないと証言しており、この証言の信憑性も極めて高かったことからウルトラ山田は千葉兄弟の関係者、という線も消えました。
この事件も7年前同様に迷宮入りしてしまうのかと思われた時、最後の爆発から5ヶ月が過ぎた頃に1人の捜査員が現場の写真を見返していてあることに気付きます。
張り巡らされた現場保存用のテープの向こう側で、食い入るように爆破現場を見ている不審な少年が目に止まり、気になって調べてみるとなんと他の現場写真にもこの少年が写り込んでいたのです。
捜査員はすぐにこの少年の身元を調べ、大阪市内に住む中学2年生であることを突き止めます。ただ相手が未成年であり、決定的な証拠がないことからすぐに任意同行などは行われませんでした。
ところがその直後の9月25日、なんと走査線に浮上した中学2年生の少年自ら警察を訪れてきたのです。
と言っても、自首をしに来たわけではありません。少年によると「自宅の敷地内に不審な男がいたため、連れてきた」とのことで、爆破事件については警察・少年双方まったく触れませんでした。
しかし、少年はこの時とられた調書に拇印を押しており、それを脅迫状や爆弾から採取された指紋と照合したところ見事に一致。補導から逮捕に至ったのです。
ウルトラ山田の犯行動機
その後の事情聴取で近鉄デパートにかかってきていた脅迫電話の主も少年であり、共犯者はいないことが判明します。
しかし、脅迫状でウルトラ山田を名乗っていたものの、7年前にはまだ6歳であったために大丸デパート爆破事件と山陽電鉄爆破事件には関与していないことが明らかでした。
また脅迫状で釈放を要求していた千葉兄弟とも面識はなく、単に捜査を撹乱するために兄弟の名前を出したことも少年自ら供述しました。
少年は母子家庭の1人っ子で母親は仕事のために家にいないことが多く、中学にあがるといじめから不登校になり、ニュースで千葉兄弟の事件を見て爆弾に興味を持って犯行に及んだのだそうです。
爆弾の作り方は独学で習得したといい、日曜日に犯行を重ねた理由は「特にない」とのこと。
しかも驚くべきことに、年長者の犯行を装おうために脅迫状は母親に書かせていました。
この頃、引きこもりになっていた少年は家庭内暴力を振るうようになっており、複雑な家庭環境から不登校になった息子に負い目を感じていた母親は、脅されるがままに脅迫状を書いてしまったのだといいます。
なお、何に使うものなのか知らされずに書いたこともあり、母親は共犯者とは見られず逮捕されませんでした。
ウルトラ山田の現在
逮捕後の調査によって1964年3月から4月に起きた一連の爆破事件のうち、警察官5名に重軽傷を負わせた1974年4月7日の事件を除く3件が少年によるものと結論付けられ、彼は少年院に送致されることとなりました。
未成年であったうえ、起こしたとされる3件の爆破事件では負傷者が出なかったこともあり、少年の本名や顔写真が報道されることはなく、少年院を出た後にどのように暮らしているのかも公にはされていません。
少年院出院者の再犯率は決して低くなく、たとえば2021年の犯罪白書では少年院を退院した少年の3人に1人は再犯者になるというデータが発表されています。
逮捕された元少年も現在は60歳を過ぎているはずですが、出院後は更生していると願いたいです。
ウルトラ山田と日曜連続爆弾魔事件についてのまとめ
今回は1974年の3月から4月にかけて大阪府内で発生した連続爆破事件・日曜連続爆弾魔事件と、その犯人の「ウルトラ山田」を名乗った中学生について紹介しました。
この事件では無事に犯人が逮捕されましたが、中学生が参考にしたと思われる1967年の事件を起こしたウルトラ山田と、唯一負傷者を出した1974年4月7日の事件については解決していません。
いずれの事件も時効を迎えていることから、今後犯人が明らかになる可能性は極めて低いと思われます。そう考えると、一連の爆破事件はなんとも後味の悪い幕引きとなりました。