宮崎県西都市の山間部にある廃墟群「寒川集落」は心霊・廃墟スポットとして全国的に有名です。
この記事では寒川集落の詳しい場所や行き方、土着の宗教や学校跡地の廃墟、集落立ち退き理由と最後の住人、事件や心霊の噂、現在の様子などについてまとめました。
この記事の目次
寒川集落は宮崎県西都市にあった山間部集落で現在は廃墟群として有名
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「寒川集落」(さむかわ・しゅうらく、さぶかわとも)とは、宮崎県西都市の西部の山深い場所に存在する廃墟群で、家屋や小・中学校の廃屋が現在も残され、廃墟・心霊スポットとして知られています。
かつて、寒川集落には200人以上の住民が暮らし、子供達の元気な声が響き渡っていたというこの場所ですが、時代の波にのまれ、1989年に宮崎県初の集団離村という形でその歴史の幕を下ろしています。
ここでは、この寒川集落について、詳細な場所や行き方、歴史と当時の宗教や立ち退き理由、廃墟スポットとなっている学校跡地、最後の住人と事件の噂や心霊の噂、廃村から30年以上が経過した現在などについて紹介します。
寒川集落の宮崎県西都市の山間部の詳細な場所と行き方(アクセス方法)
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寒川集落の場所は、宮崎県西都市西部の山間部にある三財川北岸の標高約350メートルの山腹に位置しています。
行政上の地名としては西都市寒川として現在も残っていますが、2015年の国勢調査以降、居住者は0人となっています。
集落跡の場所は東西、南北いずれも約500メートルほどの地域で、現在は廃屋が残されているのみです。
寒川集落がある場所一帯の地図
寒川集落への行き方
寒川集落への行き方は、現在は麓から続く宮崎県道319号線を利用するのが唯一のアクセス方法となっています。
しかし、この道は廃村となってから久しく、適切な管理がされているとは言い難い状況となっています。道幅は狭く、落石や路面の荒れなどが散見されるため、乗用車でのアクセスは困難を極めます。
実際、寒川集落跡を訪れる方の多くは、多くが悪路を覚悟の上で四輪駆動車やバイクを利用するか、麓から徒歩で向かっているようです。公共交通機関はもちろん存在せず、訪れるには十分な準備と自己責任が求められます。
それでも、寒川集落へ行ってみたいという方のために具体的に行き方を紹介します。
まずは、西都市の中心部から県道319号線を北上し、三財川と前川の合流点にある吐合橋(はきあい・ばし)を目指します。
そのまま進むと、錆びついた案内標識があるため、掃部岳方向へ進みます。
上の画像の左側の坂道へ進み、1.6kmほど進むと寒川集落跡へと到着します。徒歩ならば30分ほどで辿り着けます。
寒川集落の歴史と宗教
寒川集落の歴史は非常に古く、少なくとも安土桃山時代にまで遡ることができます。
集落内に現在も社の残る寒川神社は、慶長2年(1597年)の創建と伝えられており、その頃には既に人々の営みがあったことを示唆しています。
江戸時代にはこの場所は「寒川谷村(さぶかわだに)」と呼ばれ、肥後国球磨郡の米良荘に属していました。
寒川集落の主な産業は林業で、山に囲まれた立地を活かして人々は炭焼きやシイタケ栽培で生計を立てていました。昭和10年代には50戸を超え、250人以上が暮らすなど、集落は最も活気に満ち溢れていたといいます。
この頃には、外部から訪れる仕入れ人などが利用する宿もあったとされ、周辺地域と市街地を結ぶ中継地としての役割も担っていました。
しかし、昭和30年代後半から始まった高度経済成長は、日本の産業構造を大きく変化させ、それは寒川集落にも大きな影響を及ぼしました。エネルギー革命の煽りを受けて木炭の需要が激減し、林業は衰退の一途をたどりました。
若者たちは仕事を求めて都市部へと流出し、寒川集落は深刻な過疎化と高齢化に直面することになりました。
寒川集落の宗教(信仰)の拠点である寒川天神社
寒川集落の宗教的な意味で精神的な支柱となっていたのが、前述の寒川天神社です。400年以上の歴史を持つこの神社は、集落の北東部に位置し、かつては様々な祭事が行われ、人々の心の拠り所となっていました。
祭神は大山祇神、天穂日命、そして菅原道真公と伝えられています。廃村となった現在でも、神社の祠は比較的手入れがされている様子で、元住民や関係者によって今なお大切に扱われている事が窺えます。おそらく、寒川集落への道が現在も比較的手入れされている理由も、この寒川天神社を手入れするため人の往来があるためと推測されます。
なお、理由は不明ながら寒川集落と「事件」というワードがインターネット上で関連づけられているようで、これに関連して宗教に関わる何らかの事件があったなどの噂が囁かれる事もあるようです。
しかし、寒川集落では特定の新興宗教や土着宗教などが集落の盛衰に影響を与える事件などの記録は見当たりません。寒川集落の宗教は、古くから地域に根差した神道が中心であったと考えられます。
寒川集落の学校…「寒川小・中学校」が廃墟として残されている
寒川集落には、かつて子供たちの教育を担った西都市立寒川小・中学校が存在しました。
小学校の歴史は古く、明治9年(1876年)に米良小学校の分校として開設されたのが始まりでした。その後、幾度かの改称を経て、昭和22年(1947年)に寒川小学校、そして中学校が併設されました。
しかし、過疎化の波は学校運営にも深刻な影響を及ぼし、児童・生徒数の減少は止まらず、ついに昭和53年(1978年)、在校生が0人となり閉校を余儀なくされました。この学校の閉校は、集落の衰退を決定づける出来事となり、住民たちに集団離村を意識させる大きな要因の1つとなりました。
現在、校舎は半壊状態で、校庭には草木が生い茂り、往時の賑わいを想像することは難しい状態です。
しかし、残された校舎や校庭に立つ「西都市立 寒川小中学校之址」と刻まれた石碑、そして校歌の木碑は、ここで確かに子供たちが学び、育っていったという記憶を静かに伝えており、ノスタルジーな廃墟スポットとして人気の高い場所です。
寒川集落の立ち退き理由
寒川集落の廃村は、単なる過疎化による自然消滅ではありませんでした。それは、住民自らの意思による「集団離村」という、宮崎県では初めての事例でした。
寒川集落の住民らが立ち退きに至った理由は、以下のように複合的なものでした。
寒川集落の立ち退き理由① 産業の衰退
寒川集落の住民が立ち退きを余儀なくされた理由の1つは、主幹産業であった林業の不振により、集落内で安定した収入を得ることが困難になった事です。
寒川集落の立ち退き理由② 深刻な高齢化
若者の流出によって過疎化と高齢化が進み、1989年2月の時点で6世帯13人にまで激減し、住民の平均年齢は70歳を超えるという「限界集落」となっており、集落の存続が難しい状態になっていました。
寒川集落の立ち退き理由③ 生活インフラの未整備と維持困難
当時の寒川集落では、麓へと続く唯一の道は管理が行き届かず、買い物や通院といった日常生活にも大きな支障をきたしていました。
当時、集落内で自家用車を所有していたのは6世帯中わずか2世帯のみで、買い物には5時間も要したといいます。
また、水源の管理なども高齢化した住民にとっては大きな負担となっていました。
寒川集落の立ち退き理由④ 学校の閉校
西都市立寒川小・中学校が1978年に閉校となり、子供たちの教育の場が失われたことは、将来への希望を断ち、集落の維持を一層困難にしました。
これらの問題に直面した住民たちは、集落を維持していくことは不可能であると判断。1986年11月、住民5名が代表して西都市に対し、集団移転の陳情を行いました。これを受けて市は国の過疎地域集落移転整備事業を適用し、麓の上三財福王寺地区に市営住宅を建設。
そして1989年3月、最後の住民6世帯13人が故郷を離れ、400年以上にわたる寒川集落の歴史は事実上の終焉を迎えました。
寒川集落の最後の住人と事件の噂について
寒川集落は、公式な記録では1989年の集団離村をもって廃村とされていますが、実はその後も1組の夫婦が集落に残り、暮らしを続けていたという情報があります。
この夫婦がいつまで寒川に住んでいたのか、その後の消息については詳しい記録は残っていませんが、一説には1998年(平成10年)に離村したとされ、この年が実質的な廃村の年であるとも言われています。
この最後の住人の存在は、集落への愛着や、故郷を離れることへの葛藤の深さを物語っているます。
インターネット上ではなぜか、この寒川集落の廃村に関連して何らかの事件が起きたという噂が囁かれています。
しかし実際には、寒川集落の廃村に関連し、何か特定の事件や事故が起きたという公式な記録は存在しません。立ち退きは、あくまでも住民たちの総意に基づいた平和的なもので、事件が起こるような理由は何もありませんでした。
とはいえ、廃墟となって以降、不法侵入や器物の損壊といった問題は発生している可能性があり、一部の訪問者の間では、集落内の家屋から金属類が持ち去られているのではないかという指摘もされているため、これが「事件」として、寒川集落と関連づけられている可能性もあります。
寒川集落の心霊の噂
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廃村となり、人の営みが途絶えた寒川集落は、いつしか「心霊スポット」として語られるようになりました。
様々な心霊の噂が囁かれており、インターネット上や口コミで拡散され、多くの心霊ファンやYouTuberが訪れる場所となっています。
寒川集落にまつわる最も有名な心霊の噂は、「老婆の幽霊」の目撃談です。廃屋の窓からこちらを覗き込む老婆の姿を見た、縁側で老婆に「帰りなさい」と囁かれた、といった体験談が数多く報告されているのです。
その他にも、誰もいないはずの廃屋から話し声が聞こえる、集落内だけ不自然に冷たい空気が流れる場所がある、寒川天神社で「何者かに見られているような感覚」を感じたり「何かが背後を通り過ぎた」といった不可解な現象が起こるといった様々な心霊現象が噂されています。
他にも、寒川天神の周辺でカメラを使うと、写真に白い靄や人影のようなものが写り込むという話もあるようです。
これらの心霊現象の科学的根拠はもちろんなく、普通に考えれば、廃墟という特異な環境が生み出す心理的な影響や、自然現象の誤認である可能性が高いでしょう。しかし、元住民の想いがこの地に残り、何かを訴えかけているのではないかと考える者も少なくありません。
ただ、心霊スポットとして面白半分に訪れる人々に対し、元住民や集落にルーツを持つ人々からは、故郷を冒涜する行為であるとして批判的な声も上がっているため、心霊スポットとして訪れる際にもしっかりと節度を守る事が求められます。
寒川集落の現在
廃村から30年以上が経過した現在、寒川集落は、風雪に耐えながら静かに朽ち果てようとしています。
2025年の現在、多くの家屋は倒壊し、自然に還りつつある状況で、かつての生活の痕跡は、散乱した家財道具や、壁に残された写真などに辛うじて見て取ることができます。
現在も、廃墟・心霊スポットとしては人気で、来訪される方も多いようです。
その一方で、寒川集落は、限界集落や過疎化の問題を考える上で重要な示唆を与えてくれる場所として、再評価する動きもあります。2007年には、この集落をテーマにしたドキュメンタリー映画「寒川」が制作され、集落が直面した現実を広く伝えています。
また、廃墟探索の対象としてだけでなく、日本の過疎地域の未来を考えるためのフィールドとして、学術的な関心を寄せる研究者も存在します。
まとめ
今回は、宮崎県西都市の山中に残る廃墟群「寒川集落」についてまとめてみました。
寒川集落の場所は宮崎県道319号沿い、三財川北岸の標高約350メートルの山腹に位置しており、行き方はこの319号を辿るルートのみです。道路は非常に狭くガードレールも設置されておらず、岩が道を塞いでいる場所もあるため自動車でのアクセスは避けた方が良いでしょう。
寒川集落の宗教としては寒川天神を祀る「寒川神社」の社が現在も残っており、今も誰かが手入れを続けている様子で維持されています。
寒川集落は廃墟スポットとして人気があり、特に西都市立寒川小・中学校の跡地が知られています。
寒川集落の立ち退きの理由は、林業などの産業の衰退や過疎化と高齢化、生活インフラの維持困難さと、西都市立寒川小・中学校の閉校などが挙げられます。
寒川集落は、1989年の集団離村をもって廃村というのが公式記録ですが実際には1998年まで夫婦が1組だけ残り、これが最後の住人でした。この立ち退きをめぐって何らかの事件があったという噂がネット上にあるようですが、これはデマで寒川集落で何か大きな事件があったとする公式な記録は存在しません。
寒川集落は心霊スポットとしても有名になっており、「老婆の幽霊」の目撃談をはじめとする数多くの心霊の噂が囁かれています。
2025年の現在も寒川集落は存在していますが、残された建物の荒廃化が進んでいます。