イラン・イラク戦争の原因!どっちが勝った?トルコ航空の日本人救出・アメリカの影と大統領・株価や石油・現在への影響も紹介

1980年から1988年にわたって続いたイラン・イラク戦争が注目されています。

 

この記事ではイラン・イラク戦争の原因や経緯、どっちが勝ったのかやアメリカの影と当時の大統領の思惑、トルコ航空による日本人救出、株価や石油への影響や現在にまで及ぶ影響についてまとめました。

イラン・イラク戦争の概要

 

出典:https://imgsrv2.voi.id/

 

「イラン・イラク戦争」とは、1980年9月22日から1988年8月20日までの約8年間にわたって続いた、イラン=イスラーム共和国とイラクの戦争です。

 

イラン革命直後のイランに対してサダム=フセイン独裁政権下のイラクが侵攻して始まり、宗教的対立と石油資源をめぐる対立、国境紛争などが背景にありました。

 

アメリカやソ連、周辺のアラブ諸国は、前年(1979年)のイラン革命が周辺諸国へ拡大する事を阻止したいという思惑からイラクを支援し、イランは国連安保理の緊急停戦決議を拒否するなどして国際的に孤立しながらも、高い国民士気を背景とする総力戦による抵抗を続け戦争は長期化しました。

 

イラン・イラク戦争は、イラク軍が親イランのクルド人に対し毒ガスを使用するなど化学兵器を使用した事で犠牲者が増大した事や、史上初めて隣接する国同士がミサイルで攻撃しあった戦争としても記憶されています。

 

中東の2つの大国、イランとイラクの間で繰り広げられたイラン・イラク戦争は、20世紀後半で最も長く、そして最も消耗した国家間戦争の1つでした。

 

日本では「イライラ戦争」とも揶揄されたこの戦争は、両国に100万人以上と推定される死者と甚大な経済的被害をもたらしただけでなく、その後の国際情勢、特に中東のパワーバランスに決定的な影響を与え、現在に至るまでその傷跡は深く残っています。

 

 

イラン・イラク戦争の原因

 

出典:https://upload.wikimedia.org/

 

イラン・イラク戦争の勃発の原因は、単一の理由で説明できるものではありません。そこには、古くからの領土問題、民族的・宗教的対立、そしてイラン・イスラム革命という新たな地政学的変動など多くの原因が複雑に絡み合っていました。

 

 

イラン・イラク戦争の原因① 歴史的背景:国境紛争と民族・宗教対立

 

長年にわたり、イランとイラクは国境線を巡って対立を繰り返していました。

 

その最大の係争地が、チグリス川とユーフラテス川が合流してペルシャ湾に注ぐシャットゥルアラブ川(アルヴァンド川)の領有権でした。この水路は、イラクにとってペルシャ湾へのほぼ唯一の出口であり、石油輸出の生命線であったため、その支配権は国家の存亡に関わる重要課題だったのです。

 

さらに、両国の間には根深い民族的・宗教的対立が存在しました。イランはペルシャ人が多数を占める一方、イラクはアラブ人が中心です。

 

宗教的には、イランはイスラム教シーア派を国教とする世界最大の国家であり、対するイラクは、国民の過半数がシーア派であるにもかかわらず、サダム・フセイン率いるバアス党政権はスンニ派が主導権を握っていました。この宗派間のねじれは、両国関係の潜在的な火種となっていたのです。

 

 

イラン・イラク戦争の原因② イラン革命の衝撃とイラクの警戒

 

1979年にイランで発生したイスラム革命は、中東の政治地図を塗り替える一大事件でした。

 

親米的なパーレビー王朝が倒され、反米を掲げるシーア派の最高指導者ルーホッラー・ホメイニ師によるイスラム共和制が樹立されたのです。ホメイニ師は、君主制や世俗主義的なアラブ諸国を批判し、「イスラム革命の輸出」を公言しました。

 

この動きに最も強い警戒感を抱いたのが、隣国イラクのサダム・フセイン大統領でした。自国のシーア派住民がイラン革命に呼応し、自らの政権を脅かすことを極度に恐れたのです。

 

 

イラン・イラク戦争の原因③ サダム・フセイン大統領の野望

 

出典:https://upload.wikimedia.org/

 

イラン・イラク戦争勃発の前年の1979年に大統領に就任したばかりのサダム・フセインは、アラブ世界の新たな盟主となる野心を抱いていたとされます。

 

サダム・フセインは、イラン革命後の混乱を好機と捉えました。革命によってイラン軍は粛清され、弱体化していると判断し、この機に長年の懸案であったシャットゥルアラブ川の完全な領有権を確立し、さらにはイラン南西部の豊富な石油資源を誇るフーゼスターン州(アラブ系住民が多いことからイラクではアラビスタンと呼ばれた)を併合しようと目論んだのです。

 

これらをはじめとする複数の要因が重なり、1980年9月22日、イラク軍は突如としてイラン領内へ侵攻。8年間に及ぶ大戦争の火蓋が切られたのでした。

 

 

イラン・イラク戦争の経緯…泥沼化した8年間の中身

 

出典:https://topwar.ru/

 

当初、イラクのフセイン大統領は短期決戦での勝利を確信していたとされます。しかし、その目論見は大きく外れることになりました。戦争は長期にわたる消耗戦となり、両国国民に計り知れない苦しみをもたらしました。

 

 

イラン・イラク戦争の経緯① 初期から壮絶な消耗戦へ

 

開戦当初、奇襲に成功したイラク軍はイラン領深くまで侵攻し、優勢に立ちました。

 

しかし、革命の熱気に燃えるイラン国民はホメイニ師の指導のもと、義勇兵などが加わり、驚異的な抵抗を見せます。1982年春までには、イラン軍はイラク軍をほぼ全ての占領地から駆逐し、逆にイラク領内へと反攻を開始します。

 

この時点で戦争は完全に膠着状態に陥り、第一次世界大戦を彷彿とさせる大規模な塹壕戦、消耗戦へと突入していきました。

 

 

イラン・イラク戦争の経緯② 非人道的な戦術の応酬

 

戦いが泥沼化するにつれ、両軍の戦術はエスカレートし、非人道的なものになっていきました。

 

化学兵器の使用

 

劣勢に立たされたイラク軍は、イラン軍兵士や、イランを支援した自国のクルド人に対して、マスタードガスやタブンといった化学兵器(毒ガス)を組織的に使用しました。

 

特に、1988年のハラブジャ事件では、数千人のクルド市民が犠牲となり、国際社会から強い非難を浴びました。

 

都市への無差別ミサイル攻撃

 

戦争後期には、互いの首都(バグダッドとテヘラン)を含む都市部への中距離弾道ミサイルによる攻撃が激化しました。これは「都市の戦争」と呼ばれ、多くの非戦闘員が犠牲となりました。

 

タンカー戦争

 

1984年頃から、両国はペルシャ湾を航行する相手国の、さらにはイラクを支援するクウェートなどのタンカーや商船を無差別に攻撃し始めました。これは「タンカー戦争」と呼ばれ、世界の石油供給に深刻な脅威を与えました。この戦術は、石油危機を恐れる先進国を紛争に巻き込むというイラクの狙いもありました。

 

 

イラン・イラク戦争はどっちが勝ったのか…勝者なき終戦

 

8年間にわたる死闘の末、イラン・イラク戦争はどのような結末を迎えたのでしょうか。そして、「どっちが勝った」のでしょうか。

 

 

イラン・イラク戦争はどっちが勝ったのか① 停戦への道と国連の役割

 

長期化する戦争に、国際社会の懸念は高まりました。特にタンカー戦争の激化は、世界のエネルギー安全保障を揺るがす事態でした。国際連合安全保障理事会は停戦に向けた調停を続け、1987年7月、イラン・イラク両国に即時停戦を求める安保理決議598号を全会一致で採択します。

 

イラクはすぐに受諾を表明しましたが、フセイン政権の打倒を掲げるイランのホメイニ師は当初これを拒否。しかし、戦況の悪化と国内経済の疲弊、さらにアメリカ海軍によるイラン航空旅客機の撃墜事件(1988年7月)など、国際的な孤立が深まる中で、イランもついに1988年7月18日に決議の受諾を表明。同年8月20日、ついに停戦が実現する事になりました。

 

 

イラン・イラク戦争はどっちが勝ったのか② 事実上の「引き分け」とその意味

 

では、イラン・イラク戦争の勝者は誰だったのでしょうか。結論から言えば、この戦争に明確な勝者は存在しません。国境線はほぼ戦前の状態に戻り、両国が得たものは何もありませんでした。

 

まさに事実上の「引き分け」であり、両国が甚大な犠牲を払っただけの不毛な戦いとなったのです。

 

イラクの誤算

 

短期決戦で勝利し、アラブの盟主となる事を目論んだサダム・フセインの野望は完全に打ち砕かれました。

 

戦争によってイラク経済は破綻寸前となり、クウェートなどからの多額の借金を抱え込むことになりました。この莫大な負債が、後のクウェート侵攻、そして湾岸戦争へとつながる大きな要因となりました。

 

イランの消耗

 

革命体制を守り抜いたという点ではイランの勝利と見る向きもありますが、その代償はあまりにも大きいものでした。数十万人の若者の命が失われ、経済は深刻な打撃を受けたのです。

 

結局、この戦争は両国の国力を著しく消耗させ、中東地域に新たな不安定の火種をばらまいただけで終わったのです。

 

 

イラン・イラク戦争における超大国アメリカの影とレーガン大統領の思惑

 

出典:https://lh6.googleusercontent.com/

 

イラン・イラク戦争は、冷戦末期の国際情勢を色濃く反映しており、特に超大国アメリカの動向は戦争の行方に大きな影響を与えました。

 

当時のアメリカの大統領は、1981年に就任したロナルド・レーガンでした。

 

 

イラン・イラク戦争とアメリカ① イラクへの傾斜と支援

 

当初、アメリカは中立を表明していました。しかし、戦争が長期化し、イランが優勢になると、レーガン政権はイラン革命の波及を恐れ、次第にイラクを支援するようになりました。

 

これは、敵の敵は味方という論理であり、反米国家イランの封じ込めが最優先課題とされたためでした。アメリカはイラクに偵察衛星の情報を提供したり、武器の輸出を黙認したりするなど、様々な形でサダム・フセイン政権を後押ししたのです。

 

 

イラン・イラク戦争とアメリカ② イラン・コントラ事件の衝撃

 

しかし、その裏でアメリカは世界を揺るがす秘密工作を行っていました。いわゆる、1986年に発覚したイラン・コントラ事件です。

 

これは、レーガン政権が、レバノンで親イラン派組織に拘束されたアメリカ人人質の解放を目的として、イランに秘密裏に武器を売却していたというスキャンダルでした。

 

さらに、その武器売却で得た利益が、中米ニカラグアの反政府武装組織「コントラ」への違法な資金援助に流用されていたことも明らかになったのです。

 

公にはイラクを支援しながら、裏では敵国であるはずのイランに武器を供与するというこの二重政策(ダブルスタンダード)は、アメリカの対中東政策の矛盾と混乱を象徴するものであり、レーガン政権を最大の危機に陥れました。

 

 

イラン・イラク戦争とアメリカ③ アメリカの介入と戦争終結への影響

 

タンカー戦争が激化すると、アメリカは「航行の自由」を名目に、クウェートのタンカーに星条旗を掲げさせ、米海軍が護衛する「アーネスト・ウィル作戦」を開始しました。

 

この軍事介入は、ペルシャ湾の緊張を一層高め、米軍とイラン軍との間で直接的な軍事衝突も発生しています。

 

1988年7月のイラン航空655便撃墜事件も、こうした緊張の高まりの中で起きた悲劇でした。

 

ただし、アメリカの本格的な軍事介入を恐れたことが、イランが停戦決議を受け入れる一因となったことは否定できません。

 

 

イラン・イラク戦争におけるトルコ航空による日本人救出

 

出典:https://lh3.googleusercontent.com/

 

スポンサーリンク

イラン・イラク戦争のさなか、日本人にとって忘れられない1つの出来事が起きました。それは、戦火のテヘランに取り残された日本人を、トルコ航空が奇跡的に救出したというエピソードです。

 

 

トルコ航空による日本人救出① 孤立する日本人と日本政府の苦悩

 

1985年3月、イラクのサダム・フセイン大統領は、48時間後にイラン上空を飛行するすべての航空機を無差別に攻撃すると突如発表しました。

 

これにより、テヘランに在留していた多くの外国人はパニックに陥り、国外脱出を急ぎました。

 

各国は自国民救出のために特別機を派遣しましたが、当時、自衛隊の海外派遣が法的に困難であった日本政府は、日本航空に救援機の派遣を要請するも、安全の保障がないことを理由に断られてしまいます。

 

テヘランのメヘラーバード国際空港には、215人の日本人が取り残され、絶望的な状況に追い込まれていました。

 

 

トルコ航空による日本人救出② ルコの迅速な決断

 

万策尽きた在イラン日本大使館の野村豊大使は、旧知の仲であったトルコのビルレル駐イラン大使に藁をもすがる思いで日本人の救出を依頼しました。

 

すると、トルコ政府はこれを快諾。トルグット・オザル首相の英断により、トルコ航空の特別機2機がテヘランへ向かうことが急遽決定されたのです。

 

攻撃開始のタイムリミットが刻一刻と迫る中、トルコ航空機はテヘランに到着。自国民よりも日本人を優先して搭乗させ、215人全員を乗せた飛行機は、攻撃開始のわずか1時間前にテヘランを離陸し、無事トルコへと避難させたのです。

 

 

トルコ航空による日本人救出③ エルトゥールル号事件が紡いだ絆

 

出典:https://www.naratv.co.jp/

 

なぜ、トルコは危険を冒してまで日本人を救ってくれたのか。その背景には、約100年前に遡る、両国の友好の歴史がありました。

 

1890年(明治23年)、オスマン帝国(現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号が、日本からの帰国途中、和歌山県串本町沖で台風により遭難し、500名以上の乗組員が犠牲となる大惨事が発生しました。

 

この時、地元の住民たちは献身的な救助活動を行い、自らの食料や衣類を提供して生存者69名を懸命に介抱したのです。

 

この出来事はトルコの歴史教科書にも掲載され、日本人の真心への感謝として長く語り継がれていたのです。

 

テヘランでの日本人救出は、このエルトゥールル号遭難事件に対する「恩返し」だったのです。この救出劇は、国境を越えた人道支援の美しい物語として、そして日本とトルコの特別な絆の象徴として、今なお多くの人々の胸を打っています。

 

 

イラン・イラク戦争の世界経済への影響…石油と株価はどう動いたのか

 

出典:https://www.arabnews.jp/

 

中東の二大産油国が8年間にわたって争ったイラン・イラク戦争は、世界の石油市場と金融市場、特に株価に大きな影響を及ぼしました。

 

 

イラン・イラク戦争による油市場の混乱と原油価格の乱高下

 

イラン・イラク戦争勃発当初、第二次オイルショックの記憶も新しく、世界は深刻な石油供給不安に見舞われました。原油価格は急騰しましたが、サウジアラビアなど他の産油国が増産を行ったため、予想されたほどのパニックには至りませんでした。

 

しかし、戦争が「タンカー戦争」の様相を呈してくると、状況は一変。ペルシャ湾を航行するタンカーへの攻撃は、日本の輸入原油の多くが通過するホルムズ海峡の安全を脅かし、原油の安定供給に対する懸念を再燃させたのです。

 

船舶保険料は高騰し、ペルシャ湾への配船を見合わせる海運会社も現れました。これにより、原油価格は再び上昇に転じました。

 

一方で、戦争末期にはOPEC(石油輸出国機構)内の足並みの乱れから原油価格が暴落する「逆オイルショック」が発生するなど、8年間の戦争期間を通じて、原油価格は地政学リスクを反映して乱高下を繰り返しました。

スポンサーリンク

 

 

イラン・イラク戦争の株価への影響は限定的だった

 

タンカー戦争の激化は、エネルギーの大部分を中東からの輸入に頼る日本経済にとって大きなリスクでした。供給不安による原油価格の高騰は、企業収益を圧迫し、株価の下落要因となりえます。

 

事実、タンカー戦争が深刻化した時期には、日経平均株価が下落する局面も見られました。しかし、マクロ的に見ると、イラン・イラク戦争の期間は、日本の株価が史上空前の高騰を見せたバブル経済の時代とほぼ重なっています。

 

戦争による地政学リスクは存在したものの、当時は強力な金融緩和と内需拡大策が株価を押し上げる主な要因となっていたのです。

 

戦争による原油価格の上昇圧力は、この巨大な上昇トレンドの中では限定的な影響しか及ぼさなかったと分析できます。

 

ただし、1987年10月にアメリカで起きた史上最大の株価暴落「ブラックマンデー」の一因として、米軍とイラン軍の軍事衝突による中東情勢の緊迫化が挙げられていることは注目に値します。これは、中東の地政学リスクが世界経済全体に与えるインパクトの大きさを示しているといえます。

 

 

イラン・イラク戦争の現在への影響

 

8年間にもおよんだイラン・イラク戦争は、イランとイラク、そして中東地域全体に癒しがたい傷跡を残し、その影響現在に至るまで続いています。

 

 

イラン・イラク戦争の現在への影響① イランとイラクに残された課題

 

両国合わせて100万人以上の死者と、数千億ドルとも言われる経済的損失は、それぞれの国家の発展を大きく阻害しました。

 

イラクでは、戦争で膨れ上がった軍事力と多額の対外債務が、サダム・フセインをクウェート侵攻へと駆り立て、その後の湾岸戦争、イラク戦争、そして長期にわたる混乱の連鎖を生み出しました。

 

イランでは、戦争を戦い抜いたイスラム革命防衛隊が政治的・経済的に大きな影響力を持つようになり、その後のイランの強硬な対外政策の一翼を担っています。

 

この流れは、2026年現在のアメリカとイスラエルによるイラン攻撃にもつながっています。

 

 

イラン・イラク戦争の現在への影響② 東のパワーバランスの変化と現在

 

イラン・イラク戦争は、中東地域の勢力図を大きく塗り替えました。

 

イラクの弱体化とイランの影響力拡大

 

戦争はイラクの国力を著しく消耗させました。2003年のイラク戦争でフセイン政権が崩壊すると、イラクでは人口の多数を占めるシーア派が政権の主導権を握りました。

 

これにより、同じシーア派の大国であるイランは、かつての敵国であったイラクに対して強い影響力を持つようになり、中東における覇権を拡大させる事になりました。

 

代理戦争の構図

 

現在、シリアやイエメンなどで見られる紛争は、イランと、サウジアラビアを中心とするスンニ派諸国との間の「代理戦争」の側面を色濃く持ちます。この対立の根源は、イラン・イラク戦争を通じて顕在化したシーア派とスンニ派の宗派対立、そしてペルシャとアラブの覇権争いにまで遡ることができるのです。

 

 

まとめ

 

今回は、1980年から1988年まで続いたイラン・イラク戦争についてまとめてみました。

 

イラン・イラク戦争は、勝者なき消耗戦の典型でした。国境を巡る争い、民族・宗教対立、そして大国の思惑が絡み合い、100万人以上の尊い命が失われました。この戦争は、サダム・フセインという独裁者を増長させ、後の湾岸戦争へと続く悲劇の序章となりました。

 

一方で、戦火の中で咲いたトルコ航空による日本人救出劇のような人道的な物語は、国家間の対立を超えた人間の良心と善意が存在することを教えてくれています。

 

現在の中東情勢は、依然として複雑で不安定です。イランとイラクの関係は、フセイン政権時代とは大きく変わり、シーア派という共通項のもとで複雑な関係を築いています。

 

しかし、イラン・イラク戦争が残した不信感や傷跡が完全に消えたわけではありません。この戦争の歴史を深く理解することは、現代の中東が抱える諸問題を読み解き、未来の平和を構想する上で不可欠な視点を与えてくれます。

 

この悲劇的な戦争から目を背けることなく、その教訓を学び、未来へと生かしていく事が大切でしょう。

記事に関連するキーワード

キーワードから記事を探す

関連する記事①

今と同じカテゴリーの記事

メキシコカッターの動画を見る方法は?被害者や犯人のその後現在もまとめ【検索してはいけない言葉】

ガンジス川の汚い原因と病気!沐浴した日本人女性5人(長澤まさみなど)・上流/中流/下流の違い・場所と地図まとめ

舌盗んだの動画と見る方法!ベネズエラの被害者と犯人・その後現在を総まとめ【検索してはいけない言葉】

14歳のディーラー少年の再現動画は?被害者の身元や正体・視聴方法やYouTubeの関連動画も総まとめ【検索してはいけない言葉】

1046号室の男・殺人事件の犯人と真相は?被害者ローランド・T・オーウェンやその後まとめ

即身仏は日本の山形でなぜ多い?作り方と失敗・見れる場所・現在は禁止の理由も総まとめ

マクマーティン保育園裁判は最悪冤罪事件!犯人と被害者・その後現在もまとめ

核兵器の保有国や現在!種類と威力・作った人・日本が保有しない理由も紹介

関連する記事②

近い内容の記事

全日空機雫石衝突事故の原因&犠牲者と生存者!パイロットの断末魔・遺体の状態・慰霊の森の慰霊碑の心霊スポット化・その後現在まとめ

佐々木奈保子(日光市女児)ちゃん失踪事件と現在!行方不明の概要・真相の考察もまとめ

チャイニーズドラゴンの事件22選!メンバーや組織図・初代総長の現在や怒羅権との違いを総まとめ

白坂愛里(大阪ミナミ飲酒運転事件)の現在!判決や賠償金額・美容師の経歴や結婚の有無のまとめ

四日市ジャスコ誤認逮捕事件の犯人の女の顔が怖い?被害者や警察官のその後・現在もまとめ

大塩衣与(狛江市殺人事件)は資産家?旦那と息子・自宅豪邸・犯人と死因まとめ

中華航空140便墜落事故の生存者と現在!機長「終わりだ」ボイスレコーダー発言・犠牲者の名簿・脳みその都市伝説・手記も総まとめ

マブチモーター社長宅殺人放火事件の犯人/小田島鐵男と守田克実の現在!生い立ちや家族と結婚・裁判の判決・その後を総まとめ

記事へのコメント

気軽に意見を書いてね

前後の記事

興味があればチェックしてね

佐藤一麿の現在!母親や家族と結婚・秋山智咲との関係・阿部由香利さん相模原死体遺棄事件の判決も紹介

榊原温泉の現在!全盛期から衰退の歴史・白雲荘など廃墟や心霊・三重県津市など場所も紹介

カテゴリー一覧

カテゴリーから記事を探す