特攻隊の遺書や死ぬ瞬間は?戦果と生き残り・有名人・映画も総まとめ

太平洋戦争末期に陸海軍が実施した「特攻隊(特別攻撃隊)」による作戦は人間の命を軽視した非人道的な行為でした。

 

この記事では特攻隊の設立の経緯、特攻隊員が命と引き換えにした戦果、死ぬ瞬間と遺書、生き残りの方々の証言、元特攻隊の有名人、特攻隊がテーマの映画などについてまとめました。

特攻隊(特別攻撃隊)は旧日本軍が太平洋戦争末期に編成した決死の攻撃隊

 

出典:https://ichef.bbci.co.uk/

 

「特攻隊(特別攻撃隊)」とは、搭乗員の生還を初めから考えず戦死を前提とし、爆弾を搭載した航空機や人間魚雷「回天」、小型特攻艇「震洋」といった特攻用兵器で敵艦船や大型爆撃機、拠点などに体当たり攻撃をして戦果を上げる事を目的に編成された旧日本軍(大日本帝国陸海軍)の部隊を指す言葉です。

 

 

特攻隊が編成されるに至った背景

 

特攻隊の構想が帝国陸海軍の中で持ち上がったのは、日米開戦から約2年が経過し戦局が大きく劣勢に転じた1943年の半ば頃からでした。

 

大工業国であるアメリカに対して生産力が大きく劣る日本は、太平洋戦争の長期化によって航空機の数が不足するようになり、開戦時には優位に立っていた航空機の性能面でも劣勢に立つようになり、日中戦争以来の熟練のパイロット達も次々と戦死して航空戦力を低下させていきました。

 

また、1942年6月のミッドウェー海戦の敗北によって主力空母4隻と艦載機約300機および多数の熟練パイロットを、さらに1944年6月のマリアナ沖海戦でも空母3隻を失い4隻が損傷し航空機400機以上を失った日本海軍の航空戦力は壊滅状態となりました。

 

そうした背景の中、圧倒的に不利な状況を打開し逆転する起死回生の手段として特攻作戦が立案され、特攻隊の設立と特攻作戦が実行に移されました。

 

 

最初の特攻隊は1944年10月20日に編成された海軍の「神風特別攻撃隊」

 

1944年10月20日、帝国陸海軍通じて最初の特攻隊である海軍の「神風特別攻撃隊(しんぷう・とくべつこうげきたい)」が編成されました。

 

この最初に編成された特攻隊は、フィリピンのルソン島のマバラカット飛行場に配置されていた第201海軍航空隊から選抜された24名の若手パイロットによる部隊で、指揮官は当時23歳の関行男海軍大尉でした。

 

戦力は零式艦上戦闘機(零戦)26機でうち13機が援護と戦果確認を担当し、残る13機が爆装した特攻機でした。これが4隊に分けられ、それぞれ「敷島隊」、「大和隊」、「朝日隊」、「山桜隊」と名付けられています。

 

 

特攻隊は1944年10月25日の最初の本格的な出撃から大戦果を上げた

 

 

「敷島隊」が特攻作戦に出撃する瞬間の写真

 

1944年10月25日午前6時30分〜7時半頃にかけて、関行男大尉に率いられた「敷島隊」の零戦5機をはじめ、海軍神風特別攻撃隊の各隊がフィリピンのダバオ基地やマバラカット飛行場を出撃。

 

フィリピン奪還のための上陸作戦を支援していたアメリカ軍の護衛空母部隊に突入し、アメリカ軍の護衛空母「セント・ロー(カサブランカ級)」を撃沈したのはじめ、「カリニン・ベイ(カサブランカ級)」、「サンティ(サンガモン級)」、「スワニー(サンガモン級)」、「ホワイト・プレインズ(カサブランカ級)」、「キトカン・ベイ(カサブランカ級)」などの護衛空母多数に大きな損害を与えました。

 

 

米護衛空母「セント・ロー」に特攻機が突入した瞬間の写真

 

この特攻隊による初の本格的な攻撃により、アメリカ海軍護衛空母部隊は戦死1500名、負傷1200名、艦載機128機喪失という大損害を受けています。

 

わずかな航空戦力によって大きな戦果を上げたこの作戦は、その後、陸海軍の上層部が特攻隊を中心とした作戦を拡大させていく事へとつながりました。

 

 

 

特攻隊による作戦が連日展開され大きな戦果を上げる

 

1944年11月25日、特攻機の攻撃を受けたアメリカの正規空母「エセックス」

 

初の本格的な特攻機による作戦で大きな戦果が上がったため、海軍はさらに特攻隊部隊を拡大増強し、陸軍も新たに特攻隊を編成して11月中にフィリピン戦線に投入し、アメリカ機動部隊に対する特攻攻撃を開始しています。(陸軍の航空機の対艦特攻隊は後に「と」号部隊と呼ばれた)

 

フィリピン攻防戦において連日にわたって陸海軍による特攻機部隊による作戦が展開され、アメリカ軍の主力の正規空母複数を含む多数の艦船に大きな損害を与えています。

 

フィリピン各地の飛行場を拠点とした特攻隊による攻撃は1945年1月まで続き、1月4日には陸軍の特攻隊「一誠隊」が、フィリピン南西のスールー海を航行中だった護衛空母「オマニー・ベイ」を撃沈。1月6日に行われた特攻隊による大規模攻撃では12機が敵艦に命中、7機が敵艦近くに墜落し有効至近弾となっています。

 

特に、戦艦ニューメキシコに対しては艦橋に特攻機が突入し、観戦武官として乗艦していたイギリス陸軍のハーバード・ラムズデン中将と艦長のR・W・フレミング大佐を戦死させて連合軍全体に大きな衝撃を与えました。

 

また、1月10日までの攻撃で、陸軍特攻隊の99式襲撃機1機が重巡洋艦「ルイビル」に突入して甚大な被害を与え、撒き散らされた航空燃料による火災でセオドラ・チャンドラー少将が重篤な火傷を負って戦死しています。(突入したのは海軍の彗星艦爆という説も)

 

 

アメリカの重巡・ルイビルに特攻機が命中した瞬間

 

こうした高級将官の戦死を含む被害の拡大により、アメリカ軍の将兵の中には恐怖で精神を病む者が多く出始め、米軍上層部も特攻隊攻撃に対して強い危機感を募らせて、本格的に特攻隊対策を検討し始めています。

 

しかし、1945年1月までの激しい航空戦によって航空戦力が枯渇した海軍航空隊は、やむなくフィリピンから台湾へと後退し、程なくして同じように戦力を低下させた陸軍航空隊も順次後退しています。

 

特攻作戦には、零戦や陸軍の隼などの戦闘機の他、海軍では艦爆や艦攻などの小型機や一式陸攻などの大型の陸上攻撃機、陸軍の軽爆、重爆などあらゆる機種が使用されており、特攻隊は航空戦力が不足する中で各地よりかき集められた航空機やパイロットによって編成されたものでした。

 

特攻作戦はかき集めた戦力を五月雨式に次々と敵艦隊に突入させるという絶望的なものでしたが、もはやこの頃の日本軍は通常の航空作戦で戦果を上げられるほどの戦力を失っており、少ない戦力で大きな戦果が見込める特攻攻撃を行わざるを得ない状況にまで追い込まれていました。

 

しかし、特攻攻撃では正規空母や戦艦、巡洋艦といった大型の防御力の高い艦艇を撃沈にまで追い込む事はできず、撃沈したのは護衛空母や駆逐艦、輸送船や上陸用舟艇といった防御力の低い小型艦のみでした。

 

ただそれでも、多くの大型艦艇に損傷を与え一時的とはいえ多くの主力艦を戦線から後退させ無力化させる事に成功しており、特攻隊は戦術的には大きな戦果を上げ続けたといえます。しかし結局のところ、連合軍の圧倒的な物量作戦の前には、多少侵攻速度を遅らせる程度の効果しかなく、敗勢を覆す事はもはや不可能でした。

 

 

 

1945年8月の終戦まで特攻隊による攻撃は続けられた

 

 

特攻隊の攻撃を受けて大破した空母・タイコンデロガ

 

陸海軍航空隊の拠点がフィリピンから台湾へと後退した後も特攻隊による作戦は続けられ、1945年1月18日に、海軍がフィリピンから撤退した残存兵力と台湾方面に残されていた航空戦力を統合し、新たに「神風特攻隊新高隊」を編成。一方の陸軍も随時特攻隊を編成し、アメリカのフィリピン攻略部隊に対する特攻作戦を継続しています。

 

1月21日には、台湾方面に接近してきたアメリカ機動部隊に神風特攻隊新高隊の部隊(援護機併せて20数機)が突入し、正規空母タイコンデロガを沈没寸前にまで追い込み軽空母ラングレーに損傷を与える戦果を上げています。

 

一方、太平洋方面では、1945年2月19日に始まった硫黄島の戦いに海軍の特攻隊が投入され彗星艦爆12機、天山艦攻8機、零戦12機の計32機が出撃し護衛空母1隻を撃沈、正規空母サラトガを大破させる大戦果を上げています。

 

1945年3月には、練習機までもが特攻隊に投入され、全海軍航空部隊の特攻化が企図されました。一式陸上攻撃機などの母機に搭載され上空で切り離されてグライダー飛行により特攻攻撃を仕掛ける特攻兵器「桜花」が3月21日の九州沖航空戦で投入されましたが、敵艦に到達する遥か前で母機の一式陸攻18機全てが迎撃戦闘機によって撃墜され失敗に終わっています。

 

 

一式陸攻から切り離され出撃する特攻兵器「桜花」(画像は沖縄戦での菊水作戦時のもの)

 

1945年3月終わりにアメリカ軍が沖縄侵攻を開始すると、陸海軍共同での大規模な特攻隊攻撃が連日にわたって実施され、それは日本が無条件降伏する8月まで続きました。

 

 

大規模特攻作戦「菊水作戦」を実施

 

出典:https://oki.ismcdn.jp/

 

沖縄戦の頃には、アメリカ軍はレーダーを駆使した哨戒ラインと迎撃戦闘機や護衛艦艇の増強による特攻隊対策を整えており、特攻隊は目標である機動部隊に接近する事自体が難しくなっていました。

 

それでも日本軍は各地からかき集めた航空機を九州に集中配備しそれを特攻隊として次々と送り出し多大な損害を出しながらも戦果を上げています。

 

アメリカ軍が沖縄本島に上陸した4月1日から3日かけて合計で約150機の特攻隊が米艦隊に突入。輸送駆逐艦「ディカーソン」を撃沈したのをはじめ、重巡「インディアナポリス」、英海軍正規空母「インディファティガブル」、米護衛空母「ウェーク・アイランド」を中大破させて戦線離脱に追い込み、戦艦「ネバダ」、「ウェストバージニア」など28隻に損傷を与えるなどの大きな戦果を上げています。

 

そして4月6日、日本軍(大本営)は、航空戦力を集中させた大規模特攻作戦「菊水一号作戦」を発令。陸海軍合わせて約520機の航空機が出撃しそのうち約300機が特攻隊でした。

 

4月6日午後から7日未明にかけて特攻隊による攻撃が実施され、駆逐艦2隻を含む5隻の小型艦艇を撃沈、正規空母「サン・ジャシント」をはじめ約20隻の艦艇を中・大破させる戦果を上げています。

 

これに合わせ、4月7日には戦艦大和と護衛艦隊(軽巡1駆逐艦10)による海上特攻作戦も実施されましたが、米空母艦載機約300機による猛烈な波状攻撃を受けて大和は撃沈されています。

 

特攻隊を中心とした菊水作戦は6月まで10度にわたって実施され、駆逐艦16隻を含む36隻を撃沈。その他368隻の艦艇に損傷を与える戦果を上げています。

 

一方、日本軍は沖縄戦において、特攻隊機1895機、通常作戦機1112機を損失しています。

 

沖縄戦が終わってからは、特攻機の大部分は本土決戦のために温存されましたが、特攻隊による小規模な攻撃は8月15日の終戦まで続きました。終戦時点で、海軍は本土に約1万機(うち5000機は整備途中)の特攻機を準備していました。

 

 

 

特攻隊の戦果と戦死者数

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

特攻隊による戦果については資料ごとに微妙に違いがあり正確なところは不明です。

 

比較的正確だと思われるアメリカ軍の公式資料によると、航空特攻(航空機による体当たり攻撃)による戦果は撃沈は護衛空母3隻、駆逐艦21隻、輸送艦や揚陸艦などその他の艦艇が31隻の合計で55隻となっています。

 

損傷を与え一時的に戦闘力を喪失させた、あるいは永続的に戦闘不能にさせた事による戦果は、正規空母16隻、護衛空母14隻、軽空母5隻、戦艦11隻、巡洋艦12隻、水上機母艦3隻、駆逐艦90隻以上、その他輸送船や揚陸艦など50隻以上となっています。

 

航空特攻以外の、水中・水上特攻(回天、震洋・マルレなどの特攻兵器によるもの)による戦果は撃沈が駆逐艦1隻とその他小型艦艇13隻以上、損傷が駆逐艦2隻とその他小型艦艇8隻となっています。

 

一方、防衛研修所戦史室(後の防衛省防衛研究所戦史部)によって編纂された「戦史叢書」などによれば、特攻隊による戦果は護衛空母3隻、駆逐艦13隻、その他(輸送船、上陸用舟艇、揚陸艦など)が31隻となっています。

 

また、特攻隊員の戦死者数についても、海軍が2431人、陸軍が1417人の合計3830名という資料や海軍が2548名、陸軍が1355名で合計3903名とする資料など諸説あり、正確なところは分かりません。ただしいずれの資料も航空特攻だけで約4000人もの尊い命が犠牲になった事を示しています。

 

人間魚雷「回天」などの特攻兵器による水上特攻や水中特攻でも合計で2000人近い戦死者が出ており、合わせて約6000人もの人々が特攻作戦により命を散らしています。

 

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特攻隊の攻撃による連合軍将兵の死傷者数については戦死者が6000名〜12000名超、負傷者が9000名〜30000名超という膨大な推計が出ています。

 

 

 

特攻隊が死ぬ瞬間の様子や状況

 

出典:https://www.jiji.com/

 

特攻隊が死ぬ瞬間に関心を抱いている人も多いようです。

 

特攻機は爆弾を搭載し敵艦に高速で突入し爆発炎上しますが、やはりその瞬間は痛く熱いのではないかとその死の瞬間の特攻隊員の苦しみを想像して辛い気持ちになる方も多いようです。

 

特攻隊で亡くなった方の話を聞く事はできないので、死ぬ瞬間については想像するしかありませんが、戦闘機や爆撃機の場合は爆弾を搭載していても最高速度は時速500km〜300km以上は出ているため、即死と思われ死ぬ瞬間の痛みなどの苦しみはほとんど何も感じなかった可能性が高いように思われます。

 

ただ、特攻機には最高速度がそれよりも遅い練習機も多数使用されています。特攻作戦に多数使用された練習機「白菊」は最高速度が230kmで爆弾を積んだ場合はさらに速度が落ち、車輪を収納できないため機動性も低い機体でした。

 

そうした性能の低い機体で対空砲火を浴びながら敵艦に突入するのは非常に恐ろしかったのではないかと想像され、死ぬ瞬間の恐怖心も大きかったかも知れません。

 

ノンフィクション作家の保阪正康さんの著書「昭和史七つの謎と七大事件 戦争、軍隊、官僚、そして日本人」によると、特攻隊を送り出した基地では無線で特攻機が突入し特攻隊員が死ぬ瞬間の声を聞いて戦果を量っていたそうです。

 

最後まで特攻隊に反対した事で知られる美濃部正海軍少佐が戦時中、特攻機の無線を聴いた無線技師から報告を受けそれをメモに残しています。それによると、死ぬ瞬間に理不尽な特攻攻撃を強要した軍に対する怒りを叫んでいたパイロットがいたようです。

 

これが事実であれば、特攻隊員の中には死ぬ瞬間に軍や理不尽に死ななければならない事に対する怒りを抱いていた方も多かったのかも知れません。

 

また、死ぬ瞬間にただ泣き続けていた人や「お母さん」と叫び続けていた人もいたとの事で、混乱して苦しみながら死んでいった方も多かったようです。

 

 

 

特攻隊隊員の遺書

 

出典:https://www.nishinippon.co.jp/

 

特攻隊員達が残した遺書からはその心情が伝わってきます。特攻隊員の残した遺書をいくつか紹介します。

 

 

特攻隊員・村田玉男二飛曹の遺書

 

特攻隊員として1945年4月7日に出撃し19歳で亡くなった村田玉男二飛曹(二等飛行兵曹)が母親に宛てた遺書です。

 

お母様、驚き遊ばされた事で御座いましょう。長い長い年月、手しおにかけてお育てくださいまして今日に到りましたが、何のご恩もお返しせず残念に存じます。

 

お年を召されたお母様や、やさしい兄、姉妹を思いますれば、この決意も鈍りますが、なんのなんの畏れおほくもこの度の聖戦にて数知れぬ赤子を御奪われなされた陛下の御心に比しますれば、このくらいのこと、物の数では御座いますまい。

 

この身は異国の海に果てようとも、泣かずにほめて下さい。お母様玉男を思い出しました時は大空を御覧遊ばしませ。

 

そこにはきっと大空を飛べる飛行機の蔭に玉男の姿が見えるでしょう。最後にお願いとしてお母様身体に無理なき様、長寿遊ばせ。兄、姉妹よ老いたる一人の母を玉男の分まで親孝行する様に・・・・・・(玉男は死んだのではありません。姿は皆様の御前におらずとも、必ず皆様の許におり、楽しき我が家をなき父、靖国の兄と共に見守っております)

 

自分が亡くなった後の母を心配する優しい気持ちが痛いほど伝わってくる内容で胸が打たれます。

 

 

特攻隊員・田中哲郎上飛曹の遺書

 

1945年4月7日に特攻隊員として出撃し20歳で亡くなった田中哲郎上飛曹(上等飛行兵曹)が小学校低学年の妹に宛てた遺書です。

 

早苗ちゃん 風邪をひかないか、元気で、毎日、日参に又学校に行って居りますか。

寒いから気をつけなければいけないよ。

早苗ちゃんが病気になると兄さん、うんと心配しちゃうからね病気になんか成るんじゃないよ。

雪が降ったことがあるかい。兄さんの居る処は時々降るよ。此処には高い高い山が有るんだよ。

ホラあすこに見えるタイトウミサキの山を、二十くらい積んだ山がね。

こんな高い山、早苗ちゃん見たこと有るかい。なに、有る、どこで、なあんだ、ユメでかい。

・・・・そしてねこの山はずっと前から、雪の着物を着て真っ白だよ。だからずいぶん寒いよ。

だけど兄さんなんか平気だよ。どうして、それはね、どんどん駆け足やったり、体操やったりするからだよ。

だから早苗ちゃんもどんどん運動するんだよ。そうするとあたたかくなるし、病気なんかにもならなくなるよ。

だけど、早苗ちゃんは女だから、あばれたりしちゃだめだよ。

喜久ちゃんをたたいたり、おとうさんやおかあさんの言ふことはよく聞くね。

それからもうひとつ幹ちゃんをよく見てやるんだよ。ずいぶん大きく成っただろうね。

かはいいだろう。早苗ちゃん勉強するんだよ。もうじき三年生になるんだものね。

この間、愛子ちゃんから、かはいい手紙が来たよ。早苗ちゃんも喜久ちゃんと書いて、くださいね。兄さん、待っているよ。

兄さんはね毎日元気で赤いトンボのような飛行機にのって飛んで居るよ。

小さな舟や白いホを上げたホカケブネやいろんな形をした島のういた青い青い海の上や村の上町の上をブンブンとね。 では早苗ちゃん手紙を待って居るよ。

 

まだ幼い妹が読みやすいようにできるだけ優しい言葉で綴られています。自らがこれから死にに行く事には一切触れずに、手紙を送ってねと書いているところに、妹を悲しませまいとする優しさを感じ切なくなります。

 

 

特攻隊員・成田金彦大尉の遺書

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海軍大尉の成田金彦さんの家族に宛てた遺書です。沖縄戦で艦攻隊の隊長として特攻出撃し23歳で亡くなられています。

 

前略
盆だね 皆すぐ墓参の準備していて下さい 私の分も忘れなく   草々

 

あまりにも潔く洒落まできかせており、この人物の清々しさと格好良さが伝わってくるような遺書です。

 

 

特攻兵器回天の搭乗員・佐藤章少尉の遺書

 

人間魚雷として知られる特攻兵器「回天」の搭乗員として26歳で散った佐藤章少尉の妻に宛てた遺書です。

 

ー妻への手紙ー    まりゑ殿

かねて覚悟し念願していた「海征かば」の名誉の出発の日が来た。

日本男子として皇国の運命を背負って立つは当然のことではあるが、然しこれで「俺も日本男子」だぞと、自覚の念を強うして非常にうれしい。

 

短い間ではあったが、心からのお世話に相成った。俺にとっては日本一の妻ではあった。小生は何処にいようとも、君の身辺を守っている。正しい道を正しく直く生き抜いてくれ。

子供も、唯堂々と育て上げてくれ、所謂偉くすることもいらぬ。金持ちにする必要もない。日本の運命を負って地下百尺の捨石となる男子を育て上げよ。

 

小生も立派に死んでくる。充分身体に気をつけて栄え行く日本の姿を小生の姿と思ひつつ強く正しく直く生き抜いてくれ。

 

背筋が伸びるような男らしさと妻への愛情に溢れた内容です。子供も自分のように強い男になって欲しいと願う父親としての心情も垣間見えます。

 

 

最初の特攻隊敷島隊の隊長・関行男大尉の遺書

 

出典:https://upload.wikimedia.org/

 

最初に編成された特攻隊の隊長であり、最初の特攻作戦で大きな戦果を上げた事で知られる関行男大尉の両親に宛てた遺書です。

 

父上様、母上様。

西条の母上には幼時より御苦労ばかりおかけ致し、不幸の段御許し下さいませ

今回帝国勝敗の岐路に立ち、身を以って君恩に報ずる覚悟です。武人の本懐此れにすぐるものはありません。

 

鎌倉の御両親に於かれましては、本当に心から可愛がっていただき 其の御恩に報ゆる事も出来ずに行く事を御許し下さいませ

本日 帝国のため 身を以って母艦に体当たりを行い 君恩に報ずる覚悟です

 

皆様御体大切に 

 

関行男大尉は妻の満里子さんに宛てても遺書を残されています。

 

満里子様

何もしてやる事も出来ず 散り行く事はお前に対して誠に済まぬと思っている

何も云わずとも 武人の妻の覚悟は充分出来て居ると思ふ 御両親に孝養を専一と心掛け生活して行く様 色々思出をたどりながら出発前に記す

恵美ちゃん坊主も元気でやれ  

 

なお、関行男大尉は、同盟通信の海軍報道班員だった小野田政記者の取材を受けて2人きりになった時に、「自分は天皇陛下や日本帝国のために死にに行くのではなく、最愛の妻を守るために死にに行くのだ」と、その本心を告白されています。

 

「日本ももうお終いだよ、僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりをせずとも敵空母に50番(500kg爆弾)を命中せる自信がある。僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛の妻のためにために行くんだ、僕は彼女を守るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ素晴らしいだろう」

 

この関行男大尉の想いこそが、多くの特攻隊員の本当の気持ちだったのではないかと思います。

 

 

 

特攻隊の生き残りが語った貴重な証言

 

出典:https://newsdig.ismcdn.jp/

 

特攻隊は生還する事を前提とせずに出撃する決死の部隊でしたが、標的とする敵艦を発見できなかった場合は基地に帰還して再出撃の機会を待つ事になっていました。

 

そのため、何度も特攻隊として出撃しながらも、敵艦を発見できずに帰還し、その間に終戦を迎えて生き残ったという生き残りの方も少なからずおられます。

 

また、最末期には、ほとんど強制的に志願させられて特攻隊に入隊させられるも、本土で操縦訓練を受けているうちに終戦を迎えた方や、近いうちに出撃が決まっていたがその直前に終戦となって特攻隊の生き残りになったという方もおられます。

 

こうした特攻隊の生き残りと言われる方々のお話しは、特攻隊の真実を知る上でとても貴重なものです。

 

生き残りの方のほとんど全員が、特攻隊では同調圧力や若さ特有の周囲への見栄で自ら志願し、表面上は国のために喜んで死ににいく、命と引き換えに敵に打撃を与えてやるという意思を表明していたものの、内心では「こんな事で死にたくない」、「もう勝ち目はないから無駄死にになる」といったやりきれない想いを抱いていた事を明かされています。

 

理不尽な思いを抱きながらも、多くの方々が勇敢に出撃されたのは、大切な家族や仲間を守るためだと心に整理をつけていたのではないかと思います。

 

また、本心では死にたくはないと思っていても、自分より先に死んでいった仲間達の事を想うと、とても自分だけ生き残ろうとは思えなかったといった想いもほとんどの方が抱かれていたようです。

 

そのため、特攻隊の生き残りとなった方々の中には、終戦後も「なぜ自分だけ生き残ったのか」、「死んでいった仲間達に申し訳がない」といった想いを抱いていると明かされている方が多くいます。

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特攻隊を経験した有名人

 

特攻隊を経験した有名人も多く知られています。特に有名な方々を何人か紹介します。

 

 

元特攻隊の有名人① 俳優で作家、暴力団組長の安藤昇

 

出典:https://i.pinimg.com/

 

俳優で作家、伝説的暴力団「安藤組」の組長として知られる安藤昇さんは潜水服を着た特攻隊員が海底に隠れ、敵の船に機雷を接触させて自爆攻撃を行うという特攻兵器人間機雷「伏龍」の部隊に志願して訓練を受けています。しかし入隊2ヶ月後に終戦を迎えました。

 

 

元特攻隊の有名人② 元プロ野球選手・黒尾重明

 

出典:https://upload.wikimedia.org/

 

日本ハムファイターズの前身である「東急フライヤーズ」や近鉄バッファーローズの前身である「近鉄パールズ」で活躍した元プロ野球投手の黒尾重明さんは、陸軍の特攻隊「振武隊」の隊員でした。

 

 

元特攻隊の有名人③ 俳優・佐野浅夫

 

出典:https://bs.tbs.co.jp/

 

3代目・水戸黄門で知られる俳優の佐野浅夫さんも元特攻隊員です。19歳の時に陸軍に幹部候補生として入隊し特攻隊に配属されましたが、実戦配備される前に終戦を迎えています。

 

 

元特攻隊の有名人④ オリンパス元会長・下山敏郎

 

出典:https://article-image-ix.nikkei.com/

 

光学・電子機器の大企業「オリンパス」の社長や会長を歴任した大物実業家の下山敏郎さんは、1945年に陸軍少尉として戦闘機パイロットとして満州の部隊に配備され、対ソ連戦車攻撃特攻隊に配属されています。特攻出撃直前に終戦を迎え生還されています。

 

 

元特攻隊の有名人⑤ 元大物政治家・田中六助

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

通商産業大臣や内閣官房長官を歴任した元自民党の衆議院議員の田中六助さんは、海軍航空隊で特攻隊の教官を務められていました。自身も特攻出撃する直前に搭乗機の整備完了を待っている時に終戦を迎え九死に一生を得られています。

 

 

 

特攻隊をテーマにした映画

 

特攻隊をテーマにした映画も話題になっています。近年ヒットした特攻隊をテーマにした映画を紹介します。

 

 

特攻隊をテーマにした映画① 永遠の0(ゼロ)

 

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百田尚樹さんの空前のベストセラー小説「永遠の0」の映画化作品です。

 

孫である姉弟が特攻隊員だった祖父の経歴を追う事を通じて、若くして特攻によって亡くなった祖父の信念と、特攻とはなんだったのかを知るという物語です。

 

特攻隊員として戦った祖父の宮部久蔵役を岡田准一さんが、祖父の追う司法試験浪人生役を三浦春馬さん、ヒロインの宮部久蔵の妻・大石松乃役を井上真央さんが演じています。

 

 

特攻隊をテーマにした映画② 俺は、君のためにこそ死ににいく

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」は、実在した陸軍指定の食堂「富屋食堂」を経営した鳥濱トメさんと特攻隊員達の交流を軸に描いた作品です。

 

鳥濱トメさんは陸軍最大の特攻拠点であった鹿児島の知覧飛行場のまだ少年のような年齢の特攻隊員から母親のように慕われました。飛び立つ何百人もの特攻隊員らを見送り「特攻の母」とも呼ばれています。

 

鳥濱トメさんは、特攻隊員らの食事の世話をする他にも家族への手紙を託されて代理で投函したり、自ら特攻隊員達の様子を書き留めて手紙にしそれぞれの家族に送ったりもし、本当の母親のように特攻隊員達に寄り添った女性でした。

 

映画は鳥濱トメさんの証言を元にフィクションを交えて描かれたもので、鳥濱トメ役を岸惠子さんが、物語の中心となる特攻隊員の役を窪塚洋介さんと徳重聡さん、中村倫也さんらが演じています。

 

 

まとめ

 

今回は、太平洋戦争末期に日本軍によって編成された特攻隊についてまとめてみました。

 

特攻隊は、敗色が濃くなり追い込まれた日本の陸海軍首脳部が不利な状況を覆すために推進したもので人間の命を軽視した非人道的な行いでした。

 

特攻隊は多くの犠牲と引き換えに大きな戦果をあげ、連合軍将兵に強い精神的ショックをもたらしましたが、連合軍の圧倒的な物量作戦の前には進撃速度を若干遅らせるほどの効果しかなく、戦局を大きく変える事はできませんでした。

 

特攻隊員の方々の遺書は多く公開されており、その文面は自分が死ぬ事の恐怖は一切表に出さずに家族への優しい想いが綴られたものばかりです。

 

特攻隊の死ぬ瞬間は詳しい事はわかりませんが、特攻隊の生き残りの方々の証言内容から、多くの特攻隊員が表向きは「国のために死んでくる」、「大きな戦果をあげて軍神になる」と喜んで特攻作戦に参加するという態度をとっていたものの、本心では理不尽な命令に怒りを覚え、受け入れ難い死の恐怖と必死に向き合っていたように思われます。

 

近年も、特攻隊をテーマにした映画「永遠の0」や「俺は、君のためにこそ死ににいく」がヒットしており、多くの日本人が特攻隊というものに強い関心を抱いているようです。それは決して戦争賛美による関心ではなく、特攻隊員達の想いや真実を知りたいという平和を願う気持ちによるものでしょう。

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