女1人と男32人が孤島で生活したアナタハンの女王事件。比嘉和子は事件前も事件後も壮絶な人生を歩んでいます。
アナタハン女王事件の比嘉和子の年齢や経歴、事件の詳細と真相、夫と妊娠や子供について、その後のブロマイドやストリッパー、死因など現在までをまとめました。
この記事の目次
比嘉和子はアナタハンの女王事件の「女王」
出典:bunshun.jp
比嘉和子
生年月日:1942年8月5日
没年月日:1974年3月
出身:沖縄県
比嘉和子はアナタハンの女王事件の「女王」です。太平洋戦争末期から6年間にわたり、太平洋の孤島「アナタハン島」で女1人+男32人という特殊な環境で生き抜いた女性です。
その特殊な環境から、比嘉和子は「アナタハンの女王」や「アナタハンの女王蜂」と呼ばれるようになりました。
比嘉和子の年齢や経歴
比嘉和子は1922年8月5日(1924年という説もあり)に沖縄県で生まれました。そして1938年、18歳の時に出稼ぎに行っていた兄を頼って、沖縄からサイパンに渡ります。そして、マリアナ群島のパガン島でカフェの女給として働くようになります。そこで、夫と出会い、20歳(1940年)に結婚します。
夫は5歳年上で、南洋興発の社員でコプラ栽培園の労務監督をしていて、1944年にマリアナ群島のアナタハン島に転勤となり、夫婦でアナタハン島に移り住みます。
夫は1944年6月に、パガン島に残してきた妹を迎えに行くためにアナタハン島を出発しますが、ちょうどその時、サイパン島が空襲を受け、それ以降夫の消息は途絶えてしまい、比嘉和子は22歳にして太平洋の孤島に取り残された形になりました。
ただ、この時はアナタハン島には現地人や南洋興発の社員で夫の上司だった比嘉菊一郎が住んでいて、物資も南洋興産から届いていましたので、完全な孤島というわけではありません。
ここで、比嘉和子の年齢をまとめておきましょう。
・18歳:サイパン島へ出稼ぎに
・20歳:パガン島で結婚
・22歳:アナタハン島に移住し、夫は消息不明に
・23歳:女1人+男32人の生活スタート
・28歳:アメリカ軍に投降して、日本に帰国する
1924年生まれだった場合は、26歳で日本に帰国したことになります。
比嘉和子の4人の夫が死亡したアナタハンの女王事件の詳細
アナタハンの女王事件の詳細を見ていきましょう。
アナタハン島とは、サイパンの北方117kmに浮かぶ一周わずか30kmの小さな火山島で、平地はほとんどないジャングルの島です。
女1人と男32人の共同生活のスタート
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アナタハン島では「海の満鉄」とも呼ばれた国策会社の南洋興発がコプラの栽培を行っていましたので、南洋興発の社員と農園で働く現地人が住んでいました。
南洋興発の社員の比嘉菊一郎と家族が住んでいました。そこに夫と比嘉和子が転勤で移り住んできたのです。苗字が同じなのは同郷だからで、ただの偶然です。
しかし、1944年6月に太平洋戦争が激しくなってきたために、上司の比嘉菊一郎は家族をサイパン島に疎開させ、自分1人がアナタハン島に残ることにしました。同時期に比嘉和子の夫は妹をパガン島に迎えに行って消息不明になったため、アナタハン島には日本人2人(比嘉菊一郎と比嘉和子)と現地人45名が残される形になりました。
そして、1944年6月12日、サイパン島付近を物資輸送のために軍に徴収された漁船3隻がトラック諸島を目指して南下していました。その時アメリカ軍のB29の爆撃を受け沈没します。(1隻はアナタハン島に漂着後に空襲で沈没)
その3隻に乗っていた兵士10名と船員21名はアナタハン島になんとか泳ぎ着きます。この31名は最年少は16歳、多くが20歳前後の若者でした。
最初は南洋興発の農場のものを食べていましたが、男31人を食べさせるほどの余裕はありません。身の安全のためにも、比嘉和子は菊一郎と夫婦を装って2人で暮らし、漂着してきた31人は船籍に別れてグループを作り、自給自足の生活を送っていました。
そのうち、アナタハン島は毎日のようにアメリカ軍から空襲を受けるようになり、現地人たちはみんな島から自分で脱出したり、アメリカ人に連れていかれたりしていなくなり、終戦間際には島には比嘉和子と菊一郎、そして31人の男性の合計33人の日本人(女1人+男32人)が残されたのです。
1945年8月15日、太平洋戦争が終わり、日本は敗戦しました。アメリカ軍はアナタハン島に向かって、戦争が終わったことを何度も呼びかけましたが、比嘉和子たちは信じずに、アメリカ軍から隠れて生活を続けていました。
銃を発見!
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比嘉和子たちの生活は、原始的なものでした。
食べ物はネズミやコウモリ、オオトカゲ、自生しているタロイモやバナナ、パパイヤなどです。ライターやマッチはありませんから、木をこすり合わせて火を起こします。
また、洋服はなく、男性は前の部分をひものようなものもので隠しただけ、比嘉和子は腰ミノをつけただけで生活していました。
菊一郎と夫婦を装って生活をしていた比嘉和子は、自分から「実は夫婦ではないの」と言いふらします。そうすると、ほかの男たちは「結婚していないなら、自分にも権利はある」と目の色を変えてきて、実際に比嘉和子はほかの男たちと関係を持つようになります。
どうやら、菊一郎は暴力夫だったようで、ほかの男(A男)と駆け落ちしたこともありました。
昭和21年8月頃、比嘉和子と菊一郎はジャングルの中でアメリカ軍のB29の残骸を見つけ、パラシュートや缶詰を拾います。そして、そのほかガソリンなども見つけますが、そこに壊れた4丁の銃と実弾がありました。
B男とC男は壊れた4丁の銃を組み合わせて、2丁の銃を作り上げたのです。これが、このアナタハン島でのパワーバランスを一気に変えるきっかけになりました。
夫が次々に殺される
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銃を所持したB男とC男は菊一郎と比嘉和子と4人で共同生活を始めます。そんな中、B男は和子をめぐってD男と口論になり、その男を射殺してしまいました。
そして、次はC男がB男を射殺し、C男は銃で菊一郎を脅して比嘉和子を奪い、C男と比嘉和子は2人で生活し始めます。これで、C男が和子の2人目の夫となりました。
しかし、その3ヶ月後に菊一郎はC男の隙をついて銃を奪い、C男を射殺します。そして、和子は菊一郎とよりを戻すことになります。
さらに半年後、菊一郎が死亡しました。比嘉和子の証言ではヤシガニによる食中毒とのことでしたが、実際はB男が射殺された後にB男の銃を所持していたE男が射殺したという証言があります。実際に、菊一郎が死亡した後、E男が比嘉和子の夫となりました。そして、E男が2丁の拳銃を手に入れます。
2丁の拳銃が比嘉和子の夫であるE男が所持したことで、アナタハン島はいったん落ち着きますが、1949年にE男が不審死しました(死因は何かで刺されたとも波にさらわれたとも言われている)。
ここで再び和子をめぐるアナタハン島の情勢が動き出しました。これ以上の殺し合いを辞めさせるために、長老が2丁の拳銃を海に沈め、和子の正式な夫をみんなの承認のもとに決めることを提案し、みんなが承諾しました。
2丁の拳銃は海の底に消え、さらに和子は以前駆け落ちしたA男を夫に選びました。これで、アナタハン島に平穏な日々が訪れると思ったのですが・・・。
銃を沈めても殺し合い
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銃を海に沈め、みんなの承諾で4人目の夫と暮らし始めた比嘉和子ですが、殺し合いが終わったわけではありませんでした。
銃はないものの、ナイフで殺したり、転落や海への溺死、食中毒などの不審死が相次いだんです。
そんな状況の中、男たちの間では「比嘉和子がすべての元凶である。平穏を取り戻すためには、比嘉和子を処刑するしかない」というい論調になっていきます。そして、男たちの話し合いの中で、比嘉和子を処刑することが決まりました。
比嘉和子だけ投降
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処刑が決まった比嘉和子に、男の1人がコッソリと「逃げろ」と伝え、比嘉和子はジャングルの中で逃亡生活を送ります。
そして、約1ヶ月後にアメリカ軍の捜索船を見つけ、パラシュートの布を振って、アメリカ軍に投降する形で、1950年にアナタハン島を脱出することに成功したのです。
男たちも救出されるも・・
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比嘉和子だけが、まずは日本に帰国します。そして、和子の証言によって、島に残った男たちの名前が明らかになり、家族たちの手紙や新聞が島に届けられました。
そして、1951年6月に島に残された男たちはみんな終戦を知り、終戦を受け入れて、投降しました。この投降時、男たちは20人に減っていました。もともとは男性は32人いたはずのに、3分の1以上が死亡してしまったのです。
比嘉和子の4人の夫は全員死亡していますので、日本に戻ることはできませんでした。
・2人目の夫:C男→菊一郎に射殺される
・3人目の夫:E男→不審死(A男に殺害された噂も)
・4人目の夫:A男→E男殺害の罪で処刑された噂あり
また、無事日本に帰れた人もすでに戦死したと思われていて、妻は既にほかの男と再婚していたという人もいました。中には妻は自分の弟と再婚していたというケースもあったんです。
消息不明だった比嘉和子の夫は生きていましたが、ほかの女性と再婚していて、子供ももうけていました。
比嘉和子とアナタハン女王事件の真相
比嘉和子はアナタハンの女王事件の中で、「アナタハンの女王」、「アナタハンの女王蜂」と言われていて、「和子が女王のようにふるまい、男たちを支配していた」と思われがちです。
でも、真相は違うようです。アナタハンの女王事件の真相は、男たちの和子の奪い合いで、そこに和子の意志はなかったと考えられます。
このように比嘉和子は一緒にいる男を変えています。しかも、A男以外は武力的なもので、従わざるを得ない状態でした。
比嘉和子は帰国後の証言では、自分の自尊心を守るために「島では女王のようだった」とした可能性があります。
「食と性によって男たちに君臨していた」という指摘があった。和子は「ピストルに従うしかなかった」という趣旨の発言をしている半面、「女王(蜂)」という呼び名に自尊心をくすぐられた印象も受ける。しかし、実際は男たちの力に従うしかなかったのが実情だったのではないか。
引用:(4ページ目)孤島アナタハン、たった一人の女は本当に「女王」だったのか? | 74年、あの戦争を語り継ぐ | 文春オンライン
想像を絶する過酷な環境の中で、比嘉和子は自分の身を守るために、武力がある(拳銃を持つ)男に従うしかなかったことは容易に想像できます。
そして、ようやく日本に帰り、過酷な生活を興味本位で聞いてくるマスコミや世間に対し、「女王のように君臨していた」としないと、自分のプライド・自尊心が保てないことも十分に理解できます。または、取材を受けている時に、「思わず話を盛ってしまった」ということも考えられますね。
比嘉和子は妊娠できない体?子供は?
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比嘉和子はアナタハン島では4人の夫を持ち、それ以外の男性とも体の関係を持っていた比嘉和子ですが、アナタハン女王事件では和子は一度も妊娠しなかったそうです。
アナタハン島で6年間、4人の夫+島にいる複数の男性と自由に性交渉をしていました。
「道もないところを密林をくぐり山を越えて逢いに来たものを素っ気なく追い返すことはとても出来ません。私は誰とでも逢ってやりました」と胸を張っている。
引用:(2ページ目)孤島アナタハン、たった一人の女は本当に「女王」だったのか? | 74年、あの戦争を語り継ぐ | 文春オンライン
「誰とでもやった」とは、かなりすごい表現です。それでも、妊娠しませんでした。
服もなく、ネズミやオオトカゲなどを食べ、木をこすり合わせて火をおこす生活をしていたアナタハン女王事件の時にコンドームやピル、その他の避妊具なんてあるはずがありません。
アナタハン女王事件では、比嘉和子に大きなストレスがかかっていたはずですし、栄養状態が良くなかったので、妊娠しにくい状態だったと考えられます。
ただ、和子は2年間の結婚歴がありましたが、子供はいないので、この時もやはり妊娠していません。さらに、34歳で再婚していますが、再婚後も妊娠していません。
これを考えると、比嘉和子は妊娠できない体だったのかもしれません。
比嘉和子のその後①:帰国後はブロマイドがバカ売れ
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比嘉和子がアナタハン女王事件後に日本に帰国した後は、センセーショナルな事件としてアナタハン女王事件が大きなニュースとして扱われました。
そして、日本全国で「アナタハン」ブームが到来します。比嘉和子のブロマイドが作られ、そのブロマイドはバカ売れしたんです。
比嘉和子は正直に言って、「美人」の部類ではありません。骨格もゴツゴツしていて、本当に6年間も孤島でサバイバルだったのかと思うほど体格も良かったです。
それでも、「32人の男たちを手玉に取っていた女王」、「アナタハンの女王」というイメージが先走って、全国的な人気となったんです。
アナタハンは流行語にもなりました。
「アナタハン」は「長い間ご無沙汰」を意味する言葉として、「『長いことアナタハンしとりました』などと用いられて流行語となった」
引用:(4ページ目)終戦後、孤島に32人の男と1人の女が……「アナタハンの女王」事件に日本中が熱狂するまで | 74年、あの戦争を語り継ぐ | 文春オンライン
小野田少尉や横井庄一軍曹が感動的なものとして迎えられ注目を集めたのに比べ、比嘉和子はアナタハン女王事件がセンセーショナルに扱われ、ワイドショー的な興味本位で注目を集め、好奇の目にさらされたと言えるかもしれません。
比嘉和子のその後②:「アナタハン島の眞相はこれだ!!」で主演
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比嘉和子は事件のその後に映画に主演しています。その映画は、「アナタハン島の眞相はこれだ!!」というタイトルで、1953年に新大都映画が製作しています。
アナタハン女王事件を猟奇的に扱った内容で、比嘉和子は本人役で出演しています。しかし、比嘉和子の女優デビュー作は和子の演技も、作品の内容も酷評されています。
しかも、比嘉和子は「アナタハン島の眞相はこれだ!!」に主演して、出演料の詐欺に遭っています。出演料は200万円という話でしたが、実際は5万円で、それすらもきちんと支払われなかったとのことです。
比嘉和子のその後③:ストリッパーになる
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帰国後はアナタハンブームに乗って、興行師が群がってきて、興行師たちの手配で全国の劇場を回る巡業生活をしていました。
その後、故郷の沖縄で「アナタハン」というカフェを開いていましたが、過熱報道により沖縄から本土に戻ります。
本土に戻った比嘉和子は、興行師の口車に乗って、浅草のロック座でストリッパーをするようになったのです。それでも、あまりお金を稼ぐことはできず、転落人生を歩むことになります。
場末のストリッパーまで落ちた比嘉和子でしたが、さらに落ちていきます。自分をストリッパーに落とした興行師に捨てられます。そして、大阪市西成区のスタンドで女給として働いていました。
昭和29年8月には傷害事件の被害者になり、その事件がニュースで報じられたことで、比嘉和子の近況・転落ぶりに世間は驚いたのです。
比嘉和子が日本に帰国したのは昭和25年(1950年)です。そして、映画に主演したのが昭和28年(1953年)。それからストリッパーになり、大阪西成区で傷害事件の被害者にになったのが昭和29年。こう考えると、かなりのスピード感で比嘉和子の人生が動き、世間のブームが一気に去っていったことが分かります。
帰国してからここまで、比嘉和子は落ち着く暇もなく、ただ世間の好奇の目にさらされ、手練れの大人たちに良いように利用され、その後捨てられて、転落していったとしか思えません。孤島のジャングルの中で女1人で必死に生き抜いてきた人のその後の人生と考えると、やりきれないものを感じます。
比嘉和子は「内地は島より怖い」と話していたそうですが、この言葉が比嘉和子の本音・本心を表していると思います。
比嘉和子のその後④:沖縄で再婚
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比嘉和子は帰国後に興行師に利用されて、転落人生を歩んでいましたが、悪いことばかりではありませんでした。比嘉和子は34歳の時に再婚しています。
比嘉和子は沖縄に帰り、2人の子供がいる男性と再婚します。この男性とは仲が良く、連れ子ともうまくやっていたそうです。
沖縄では名護市に夫婦でたこ焼き屋(夏はかき氷屋)を出していて、お店は大繁盛していたとのこと。ただ、再婚して9年後に旦那さんは亡くなっています。
比嘉和子の現在はすでに死亡…死因は脳腫瘍
1950年に日本に帰国した比嘉和子は、転落人生を歩みましたが、34歳(1956年・昭和31年)になって、ようやく幸せをつかみ、安らげる場所を作ることができました。その後から現在にかけての人生を見ていきましょう。
脳腫瘍で死亡
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比嘉和子は1974年3月(1972年説もあり)に沖縄県名護市内の病院で亡くなっています。死因は脳腫瘍でした。
実姉は「あまり苦しまずに往生しました。あのあと、横井さん、小野田さんが山から出てきたから、もう思い残すことはないと話していた直後でした」と語った。
引用:(3ページ目)孤島アナタハン、たった一人の女は本当に「女王」だったのか? | 74年、あの戦争を語り継ぐ | 文春オンライン
自分と同じく、終戦後も日本に帰ることができず、孤独な戦いを続けていた横井軍曹、小野田少尉を気にかけていたんですね。
また、最期まで再婚相手の連れ子に愛情を注いでいました。比嘉和子は連れ子と仲が良かったのですが、ずっと継母であることを気にしていて、連れ子への最期の言葉は「愛情が少なくてゴメンね」でした。
比嘉和子は「アナタハンの女王」、「アナタハンの女王蜂」というイメージとは違い、実際は愛情深い女性だったことが伺えます。
東京島で木村多江が比嘉和子役
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比嘉和子は2010年の現代に映画となってよみがえりました。比嘉和子を演じたのは、人気女優の木村多江さんです。
・公開:2010年8月28日
・主演:木村多江
・監督:篠崎誠
・原作:桐野夏生
原作は桐野夏生さんの小説「東京島」で2004年から連載され、2008年に刊行され、第44回谷崎潤一郎賞を受賞している作品です。
夫婦2人が無人島に漂着し、そこにフリーターの男性の若者16名や中国人男性6名が漂着して、女1人+男多数の生活が始まり、主人公の木村多江さんは性を武器に生き抜いていくストーリーです。
このストーリーを見るだけで、アナタハン女王事件をモチーフにしていることが分かります。東京島からアナタハン女王事件を知った人も多く、木村多江さんのイメージで比嘉和子さんの写真を見ると、「あれ???」と思う人が続出しました。
比嘉和子のまとめ
比嘉和子の年齢や経歴、アナタハンの女王事件の詳細や真相、妊娠や子供について、その後のブロマイドとストリッパー等の転落人生と現在をまとめました。
比嘉和子さんはアナタハンの女王事件の前も後も、運命に翻弄されているような人生を歩んでいます。ただ、再婚後は幸せだったようなので、それだけが救いですね。