稲葉事件とは2002年に発覚した現役警察官の銃刀法・覚せい剤取締法違反事件で、警察史上最大の不祥事とされています。
この記事では映画化もされた稲葉事件の詳細、犯人・稲葉圭昭の逮捕後と渡辺司、裁判と判決、交際相手の畑中絹代について紹介します。
この記事の目次
稲葉事件の概要
2002年7月、北海道警察の生活安全課に所属する現役の警察官・稲葉圭昭警部が逮捕されました。
逮捕容疑は覚せい剤取締法違反および銃刀法違反。覚醒剤の使用での逮捕の後、稲葉圭昭氏の自宅からは大量の薬物が発見され、使用だけではなく密売の疑いがあること、さらにアジトに利用していた場所から密輸した拳銃が押収されたことから、稲葉氏は3回の逮捕を重ねます。
稲葉氏が薬物や拳銃の密輸・密売に関わっていたことが発覚したきっかけは、とある人物からの情報提供でした。
ある人物とは稲葉氏が捜査協力者、情報提供者として雇っていた男で、警察用語ではこのような人物を「S」と呼ぶそうです。
稲葉氏の「S」であった渡辺司という人物が覚醒剤を持って札幌署に出頭し、「稲葉警部の家には大量の違法薬物がある」と供述したことから、稲葉氏にも捜査が及びました。
これだけの話であれば報酬のやり取りなどで警官と「S」が揉めただけ、一警察官が起こした事件というだけで済みました。しかし、裁判の途中に密告者の渡辺司が自殺をする、稲葉氏の上司が自殺をするといったことが相次いで起きたのです。
そして関係者が自死したことを機に、裁判中だった稲葉氏本人の口から違法行為に手を染めた理由、そして北海道警察が組織ぐるみでおこなっていた違法捜査の内容などが明かされ、事件は社会を揺るがす一大スキャンダルとなります。
稲葉氏はトップクラスの違法拳銃の摘発件数を誇る、北海道警察のエースでした。しかし、摘発した拳銃は協力者から買ったものなど「ヤラセ捜査」で入手したものばかりで、きちんとした捜査で摘発した拳銃はほとんどなかったのです。しかも警察内ではこのような行為が黙認されていたことまで明かされました。
最終的に北海道警察内の違法捜査にまつわる事件は「稲葉事件」の総称で呼ばれるようになり、本部長ら13人が処分されるという異例の事態となりました。
なお、事件の渦中にいた稲葉氏は懲役刑を言い渡されて服役した後、2010年に出所しています。
稲葉事件の背景① 首なし拳銃
稲葉圭昭氏は1953年に北海道紋別市に生まれ、東洋大学を卒業した後1976年に北海道警察に就職したといいます。
学生時代から柔道が強かった稲葉氏は機動捜査隊に所属し、その後は札幌中央署に配属されて長く暴力団対策に関わったとのことです。
1980年代初頭から1988年頃までの間、山口組や住吉会、稲川会など本州のヤクザが勢力拡大を狙って北海道に進出してきており、日常のようにヤクザ絡みの事件が起きていたとされます。
それゆえにヤクザの逮捕数や拳銃の逮捕数も自然と多くなり、稲葉氏もヤラセ捜査で検挙率を上げるなど考えたこともなかったそうです。
そんな稲葉氏が、北海道警察と組織ぐるみで銃器摘発のヤラセ捜査を盛んにおこなうきっかけとなったのが、1993年になって警察庁が全国の警察に銃器対策室を設置する決定をしたことでした。
この頃、1990年に発生した長崎市長銃撃事件、1992年に発生した金丸信自民党副総裁銃撃事件など、拳銃を使った凶悪犯罪が相次いで発生していました。そのため自体を重く見た警察庁は銃器の摘発に力を入れ始めたのです。
これを受けて北海道警察も1993年4月から銃器対策室(1996年以降は銃器対策課に変更)を設置し、稲葉氏も初代捜査員の一人として銃器対策室に配属されました。
しかし、すでに北海道内でのヤクザの抗争は落ち着いていたことから違法拳銃などなかなか見つからず、上層部から対策室全体に課されたノルマを達成するのは不可能だったといいます。
そして、銃器の摘発数を上げるために上司からも「首なし拳銃でもいいから数をあげろ」と指示されたのです。これは、「ヤラセ捜査を認める」という意味を含んでいたと発言でした。
首なし拳銃とは所有者のわからない拳銃のことです。事件に関与している可能性がなければ所有者不明のまま処理され、逮捕者も出ません。また事情がない限りは積極的に密輸ルートを調べることもないといいます。
それでも「事件に使われる可能性がある拳銃が社会から1丁減った」ということで、押収すれば評価されます。
当初は「首なし拳銃で点数を稼ぐなんて警察官失格だ、恥知らずだ」と考えていた稲葉氏ですが、ノルマを達成するにはそのようなことも言っていられなくなりました。
自分の協力者「S」のヤクザや知り合いの暴力団関係者に頼んで拳銃を調達させ、それを「首なし拳銃」として提出するようになっていったのです。
稲葉氏本人は当時を振り返って、以下のように語っていました。
「タガが外れました。俺はもちろん、銃器対策室が上げる拳銃は首無しばかり。ほとんどヤクザからもらったり買ったりしたものでした。常に罪悪感はありましたが、『道具がなければ事件が起きない』と自分に言い聞かせていたし、上司からもよく褒められた。あの頃はみんなおかしかったんだよ。拳銃押収の強化月間に備えて、常に銃をストックしておく、なんてこともしていました」
このようにヤラセ捜査を重ねながら、稲葉氏は46歳で懲戒免職されるまでの間に100丁以上もの拳銃を押収したといいます。
稲葉事件の背景② 北海道警察と「S」
裁判中に稲葉氏は、北海道警察では「S」を作るのが習わしになっており、名簿もあったということ、自身も逮捕時に20人の「S」がいて、協力の対価として彼らに謝礼や食事を奢るためにかなりの資金が必要なことを明かしました。
稲葉氏は刑事になってすぐの時期に先輩から「110番通報だけじゃ、警察は食っていけないぞ」「通報を待ってたら摘発件数のノルマがこなせない」「協力者を作って、事件を探させないと駄目だ」と指導されたそうです。
そのため「S」を作るために顔写真付きの名刺を作り、ヤクザに配ったり繁華街の飲み屋に貼ってもらったりして、協力者を募ったといいます。
さらに刑事としてのキャリアを重ねるうちに多種多様な人物と繋がりを持つようになり、20人の「S」を抱えるようになったのです。
彼らに会って協力を依頼するにはお金が必要だったのですが、上司が経費として支払ってくれる情報量は1〜5万円程度でした。
この経費だけでは「S」への謝礼は賄いきれず、謝礼や「S」との飲食費にあてるために薬物のは密輸、密売に手を出したことも稲葉氏は明らかにしました。
なお、渡辺司が稲葉氏を密告した理由も金銭問題のもつれだったそうで、過去に2000万円以上の謝礼を渡してきたにもかかわらず、2002年の7月に600万円もの大金を無心され、断った直後に密告があったといいます。
稲葉事件の詳細① 渡辺司の自主と情報提供
2002年7月5日、札幌北警察署に「北署の近くに〇〇ナンバーのレガシィが停まっている。乗っている奴は覚醒剤を持っている」という電話がありました。
実際に警察署の前に行ってみると電話にあったとおりの車が停まっていて、車中にいた男・渡辺司は実際に覚醒剤を所持していたことから、その場で逮捕。逮捕後に前述の電話の主も渡辺司本人であったことがわかり、自主扱いとなりました。
渡辺司は札幌市内で飲食店を営んでいましたが、裏ではロシア人の犯罪グループと協力しての盗難車密輸や、覚醒剤の密売などをしており、大麻の使用などで逮捕歴もあった人物でした。
自主をしてきたにもかかわらず、渡辺司は警察官の取り調べには一切答えずに黙秘を貫き、札幌地裁での裁判官の勾留質問にのみ応じたとされます。
そして渡辺司は裁判官に「北海道警察の生活安全特別捜査隊班長の稲葉圭昭警部が自宅に大量の薬物を所持しており、自らも覚醒剤を使用している」との供述をします。
現役警察官の不祥事を警察に密告しても揉み消されることがあると考えた渡辺司は、司法機関として独立している裁判所に供述の記録を残そうと考えたのです。
稲葉事件の詳細② 稲葉圭昭の逮捕
札幌地裁から連絡を受けた北海道警察薬物対策課は、7月10日の午前に勤務中であった稲葉圭昭警部に任意同行を求め、尿検査を実施します。
そこで覚醒剤の陽性反応が出たため、10日のうちに稲葉氏は逮捕されることになりました。
その後7月12日づけで稲葉氏は懲戒免職となり、18日に稲葉氏が自分の名義で借りていたアジトを家宅捜索。そこで以下のものが発見されたのです。
・ロシア製の自動式拳銃PSM一丁
・覚せい剤0.44g
これを受けて7月31日に、稲葉氏は銃刀法違反(拳銃の不法所持)と覚せい剤取締法違反(所持)容疑で再逮捕されます。
また7月23日に稲葉氏の自宅マンションを家宅捜索したところ、覚せい剤約92.9gも押収。
覚せい剤の使用量は1回当たり0.02~0.03gとされています。自分で使い切るには多すぎる量を所持していたことから、薬物対策課は覚せい剤の使用だけではなく密売にも関与していたと見て、8月21日に稲葉氏を覚せい剤取締法違反(営利目的所持)で再逮捕しました。
そして稲葉氏は札幌市祭に覚せい剤取締法違反(使用)、覚せい剤取締法違反(所持)、銃刀法違反(所持)の3つの容疑で起訴されました。
稲葉事件の詳細③ 渡辺司と稲葉圭昭の上司の自殺
2002年7月31日午前、札幌市南区にある藻南公園内の派出所横のトイレで、北海道警釧路方面本部の生活安全課長の片川警視の首吊り死体が発見されました。
遺書などは残っていなかったため、自殺理由は不明です。しかし、片川警視は1997年4月から2001年2月まで銃器対策課に勤務しており、稲葉氏の元上司でした。
そのため7月30日から北海道県警本部で事情聴取をうけており、遺体が発見された31日も引き続き事情を聞かれる予定だったそうです。
さらに稲葉氏の「S」であり、覚せい剤所持を密告した渡辺司も、8月29日6時35分頃に収監されていた札幌拘置支所の個室で自殺。
自殺方法は壮絶で、片方の靴下を丸めて箸を使って自分の喉の奥に詰め、窒息死を図ったと報じられています。
発見された時の渡辺司は布団に横たわった状態で片方の靴下を口に入れ、もう片方を首に巻きつけていたとのことです。渡辺司の裁判は9月11日からおこなわれる予定で、こちらも遺書はなく、弁護士も「自殺理由に心当たりはない」と発表していました。
稲葉事件の詳細④ 裁判中に明らかになった違法捜査
2002年11月14日、稲葉圭昭氏の初公判が札幌地裁でひらかれました。稲葉氏は起訴事実を認め、検察は以下のようなことを明らかにしました。
・捜査を通じて知り合った暴力団関係者らと協力して覚せい剤を入手し、1999年頃から使用していた
・そのうちに覚せい剤の密売にも手を出すようになり、利益は2000年4月以降のものだけで4,000万円を越えていた
・1998年頃からロシア人の船員から拳銃を仕入れるようになり、約10丁を暴力団関係者に売って100万円弱の利益を得ていた
この時には、すべての犯行は稲葉氏個人が小遣い稼ぎのためにおこなったものと見られていました。
しかし2月13日の第3回公判で、稲葉氏自らが被告人質問で以下のようなことを明らかにしたのです。
・1989年12月、当時勤務していた北見警察署の刑事防犯担当次長から「北見方面本部は銃器摘発件数がゼロだ。なんとかならんか」と言われた。そのため「S」から拳銃1丁を調達。これを北見駅のコインロッカーに入れて北見警察署に連絡し、やってきた捜査員に「首なし拳銃」として押収させた。
・1993年6月、同じく「S」から弾倉のない機関銃を調達して大通駅のコインロッカーに入れ、捜査員に押収させた。
・1993年、札幌市南区の土中に「S」から調達した拳銃を埋め、北見警察署に匿名の通報を入れた。
・1993年の年末、道警本部銃器対策室長から「年内にあと1丁、銃器を摘発できれば78丁で北海道警察の新記録になる」と言われた。そのため、またもや「S」から拳銃1丁を調達して大通駅のコインロッカーに入れ、捜査員に押収させた。
・1998年の年末、S」から拳銃6丁を調達してそのうちの5丁を暴力団員に渡して自首させた。残りの1丁は銃器対策課次席に渡し、執務室の机の中に保管されていた。
この供述により、北海道警察が銃器の摘発件数を上げるために組織ぐるみで違法捜査をしていたことが明らかになったのです。
稲葉事件の詳細⑤ 前代未聞の大不祥事
2000年、稲葉氏の「S」の1人である石上という人物が、ある取引を持ちかけてきました。
その取引とは「香港のマフィアが薬物を輸入するのを3回、見逃して欲しい。4回目の密輸で彼らは拳銃200丁を日本に持ち込む予定なので、その時に荷受人の中国人とマフィアを逮捕して構わない」というものだったといいます。
稲葉氏は「もちろん、そんなデタラメな取引は無理だ」と突っぱねました。ところが念のため上司に相談したところ、なんと函館税関とかけあって許可が出てしまったのです。
銃器対策課と函館税関はマフィアを一網打尽にするべく合同捜査を開始。そして本当に2000年4月に石狩湾新港に覚せい剤130kgを積んだ船がやってきたのですが、なんとその直後に取引を持ちかけてきた石上が失踪してしまったのです。
覚せい剤130kgは末端価格で約40億円。稲葉氏と銃器対策課、函館税関は石上に騙されて130kg者覚せい剤を日本国内に入れてしまったうえ、拳銃は1丁も手に入らず、マフィアも1人も逮捕できませんでした。
なお、後の家宅捜査で稲葉氏の家から出てきた覚せい剤は、この時、密輸したものの一部をくすねたものだったそうです。稲葉氏は覚せい剤1kgをくすねて100gを自分で所持し、もう900gは自分の「S」たちに配ったといいます。
その後、稲葉氏のもとに石上との取引を聞きつけた関東のヤクザから連絡が入ってきます。ヤクザに「自分は石上のように裏切らない。見返りに拳銃を渡すから見逃してくれ」と言われた稲葉氏は前回と同じように上司の相談しますが、この時は流石にこりたのか、上司に「断ってこい!」と言われたそうです。
しかし、「前回はやれって言ったくせに、今更何をビビっているんだ」と思った稲葉氏は、勝手にヤクザへ取引に応じる返事をしてしまいます。
ところがこの時も相手は拳銃を調達できず、大麻2トンだけが密輸されてしまいました。
2回も同じミスはできないと思った稲葉氏は自らマカロフ20丁を用意して、小樽港に停泊している大麻を積んだ貨物線に忍び込み、マカロフを入れたバッグを置いてきたといいます。
そして2001年4月に小樽港で貨物船からマカロフ20丁が押収されたという事件はマスコミでも大きく取り上げられ、海上保安庁や税関のホームページにも掲載されたのでした。
この2件で、違法薬物合計2130kgが日本国内に密輸されたことになります。この時、拳銃欲しさに警察が密輸を見逃した薬物が最終的に誰の手に渡ったのかは不明ですし、多くの人の人生を狂わせた可能性も否定できません。
稲葉事件の詳細⑥ 薬物の密売と交際相手
前述の薬物密輸事件以降、稲葉氏は1997年頃から始めていたという薬物の密売に、いっそう積極的に手を出すようになりました。2001年6月から2002年4月の10ヶ月の間に、大麻合計8kgを密売したことも裁判で明らかにしています。
最終的に逮捕されるまでの間に1億円以上の利益があったと供述していますが、その大半が「S」への支払いとアジトの管理費などに消えていたといいます。
しかし、自分のために使ったお金がまったく無かったわけではなく、当時交際していた銃器対策課の畑中絹代巡査部長との交際費や、自身の車の購入費用にも充てていました。
交際相手の畑中絹代という女性は稲葉氏が違法薬物の密売をしていたことや、ヤラセ捜査で銃器の摘発件数を稼いでいたことを知っており、稲葉氏が逮捕されて後には関係者として家宅捜査も受けていました。
この時、畑中絹代の自宅からは覚せい剤を吸うためのパイプが押収されています。供述によるとこれは稲葉氏の所有物で、畑中絹代は「逮捕されたことを聞き、見つかったらいけないと思って稲葉の家から持ってきて隠そうとしました」と供述しています。
また2002年8月8月17日に、父親の逮捕に落ち込む稲葉氏の息子を励ます目的で稲葉氏の知人の暴力団関係者が主催する食事会に出席した畑中絹代は、帰り道に暴力団関係者が運転する車が事故を起こした際に「運転していたのは自分だ」と、嘘をついたのが明らかになっています。
これは暴力団関係者が飲酒していたためについた嘘で、「逮捕されている稲葉と関係があると思われたくなかった」という理由から、事故を起こした車から暴力団関係者と稲葉氏の息子を逃していたといいます。
この畑中絹代の行為は虚偽の申告にあたり、彼女もまた罪に問われることになったのです。
稲葉事件の判決
2003年3月17日におこなわれた論告求刑で、検察側は懲役12年、罰金200万円を求刑しました。
この時、検察側は警察上層部から課されたノルマのために罪を重ねたことや、ヤラセ捜査をしていたことについては一切触れず、稲葉氏の罪は「金銭目的で私欲を満たすためのもの」と指摘しています。
一方、弁護側は捜査上必要な協力者との関係を維持するための資金が必要だったこと、無理なノルマを課し、達成するためには違法捜査も黙認するという北海道警察の体質そのものに問題があると反論しました。
最終的に4月21日にひらかれた一審の判決公判で、稲葉氏に言い渡されたのは懲役9年、罰金160万円の実刑判決でした。
裁判官は、「容疑者は協力者に支払う資金として以外に、交際相手や自身のためにも薬物の密売で得た利益を使っていた。協力者を多数抱えていた点についても、組織内で評価されたいという利己的な動機があった」と指摘しました。
しかし、裁判官も組織の体質やヤラセ捜査の是非については言及しなかったといいます。この後、検察も弁護側も控訴をしなかったため、5月6日をもって稲葉氏の刑が確定しました。
稲葉事件のその後① 1人だけ犯人となった稲葉圭昭の現在
懲役8年の刑に処された稲葉氏は千葉刑務所に収監され、2010年6月に仮出所しています。
出所後は札幌市内の市場で八百屋を営んでおり、卵焼きやサンドイッチなど総菜の製造販売もしているそうです。稲葉氏自身の名前を冠した「よしあきの卵焼き」は、なかなか評判が良いらしく、ネットでも「美味しかった」という感想が見られました。
また札幌市中央区宮の森で「いなば探偵事務所」という探偵事務所も開いており、現在は惣菜店と探偵業の二足のわらじで生活しているとのことです。
私生活では「ベイビー」という名前の黒猫と一緒に暮らしているとのことで、「地味な暮らしだけど、こういう生活のほうが自分にはあっている。毎日充実していると感じる」と語っていました。
手記『恥さらし』
裁判で稲葉氏は自身の起訴事実を認めたうえで、北海道警察の内情についても供述していました。
稲葉氏は「悪いのは組織だから、自分の罪を軽くしてほしい」と考えて北海道警察の話や、具体的な上司の名前を出したわけではありません。ここまで来たら警察が抱える問題を明かす必要があると思ったために、すべて話したのだといいます。
しかし、上述のとおり判決では北海道警察という組織の話はまったく触れられず、稲葉事件は稲葉氏が私欲のために起こした事件として片付けられてしまいました。
判決の後、稲葉氏は「控訴をしたところで、自分の言っていることを聞いてもらえる可能性は低い。おそらく刑務所に入れば、どこかの出版社が話を聞きに来るだろうから、本を出版して世間の人たちに警察組織の内情を知ってもらえばいい」と考えたそうです。
稲葉氏の考えは見事に的中し、2011年に講談社から自叙伝『恥さらし 北海道警 悪徳刑事の告白』が出版されました。
本作にはどのようにして若い警察官が転落していくか、警察はどこを向いて仕事をしている組織なのかが詳細に書かれており、この事件で「恥さらし」なのは誰だったのか、考えさせられる内容となっています。
You Tubeで現在の稲葉圭昭の姿が見られる
稲葉氏本人はYou Tuber活動はしていないのですが、2021年にアップされた丸山ゴンザレス氏の動画にゲスト出演しており、稲葉事件の内情を語っていました。
動画内では渡辺司との関係、覚せい剤の泳がせ捜査で裏切った石上という「S」のその後など興味深い話が多く聞けます。
丸山ゴンザレス氏に「(渡辺司のことを)恨んでいるか?どう思っているか?」と聞かれて「司には、悪いことをしたと思っている。警察の事情に巻き込んでしまった」と答える稲葉氏の様子に、裁判で明らかになったことだけがすべてではないのだなと再認識させられます。
稲葉事件のその後② 北海道警察の対応
稲葉氏の逮捕後、北海道警察と国家公安委員会は2002年12月27日に警察内での内部調査が終了したと発表し、事件は稲葉氏が個人の判断で起こしたものとして幕引きを図っていました。
しかし、翌年2月13日の第3回公判で稲葉氏が北海道警察が組織ぐるみでやらせ捜査をおこなっていたことを明かしたことから、さらなる対応を迫られることになります。
ところが北海道警察は稲葉氏が名前を挙げた現職の警視3名について、定例道議会の一般質問で事件への関与を確認しただけにとどまり、本人たちがやらせ捜査への関与を否定したことから「稲葉の言っていたことは嘘で、これ以上の調査はおこなわない」として無責任かつ強引に対応を終えたのです。
結局、この件を受けて北海道警察がやったことは、本部長など13名に訓戒などの軽い処分をしたのみだったといいます。
したがって稲葉事件で実刑判決を受け、責任を取らされたのは稲葉氏ただ1人でした。
稲葉事件のその後③ 畑中絹代の現在
稲葉氏の交際相手の畑中絹代は、飲酒運転をした暴力団関係者をかばって嘘をついたことから2002年9月5日に犯人隠匿容疑で検察に送致されました。これについては立件されず、札幌簡易裁判所で罰金20万円の略式命令を受けるにとどまりました。
しかし、稲葉氏との親密な交際があったことなどを理由に警察は懲戒免職となっています。警察を辞めた後の畑中絹代がどのように生活してるのかは不明です。
ただ稲葉氏の自叙伝を読む限り、畑中絹代よりも懲戒免職にされるべき人物がいたのではないか?という印象を受けます。彼女もまた、トカゲの尻尾きりに使われた被害者だったのかもしれません。
稲葉事件をモチーフにした映画『日本で一番悪い奴ら』
2016年6月25日に公開された『日本で一番悪い奴ら』は、稲葉事件をモデルにした映画です。
原作は上で紹介した稲葉氏の自叙伝『恥さらし 北海道警 悪徳刑事の告白』で、綾野剛さんが稲葉圭昭警部にあたる諸星警部の役を演じたことでも話題になりました。
報道番組や動画などで本物の稲葉氏を見てしまうと「綾野剛さんのような線の細い俳優が、稲葉警部の役を演じるのはどうなのだろう?」という印象を受けますが、それが杞憂だったと思い知らされるほどの怪演ぶりです。
また、実はこの映画のなかにほんの数十秒ではありますが稲葉氏本人が出演しているシーンもあります。気になる方は是非、映画をチェックしてください。
稲葉事件についてのまとめ
今回は2002年に発覚した北海道警察の大規模なヤラセ捜査、稲葉事件について紹介しました。
一市民の感覚からすると「違法拳銃なんて見つからないのなら、それに越したことではないのではないか?」と思いますが、少なくとも稲葉事件が起きた当時の警察では「よその国から持ってきてもいいから、1丁でも多く拳銃を出せ」という風潮があったのだといいます。一体、なんのための捜査なのでしょうか?
現在の警察は変わったのか、残念ながら外からは知ることができません。今後も北海道警察側がきちんと稲葉事件について調査し、責任を明らかにすることもないのでしょう。
亡くなった人が2人もいることを思うと、やりきれない気持ちになりますね。