金川真大は2008年に発生した通り魔事件、土浦連続殺傷事件の犯人です。この記事では金川真大の生い立ちや中学、高校時代、父親、母親、妹ら家族との関係、被害者、韓国人との噂、自宅、死刑執行前の最期の言葉を紹介します。
この記事の目次
- 金川真大が起こした土浦連続殺傷事件の概要
- 金川真大の生い立ち① 父親は外務省官僚
- 金川真大の生い立ち② 母親との関係と中学時代
- 金川真大の生い立ち③ 高校時代と人生を狂わせた哲学書
- 金川真大の生い立ち④ 挫折
- 金川真大の生い立ち⑤ 引きこもり生活と歪んだ家族関係
- 金川真大が起こした土浦連続殺傷事件の時系列① 妹の殺害を計画
- 金川真大が起こした土浦連続殺傷事件の時系列② 第一の殺人
- 金川真大が起こした土浦連続殺傷事件の時系列③ 駅構内での無差別殺人
- 金川真大が起こした土浦連続殺傷事件の時系列④ 被害者は合計9名に
- 金川真大の裁判
- 金川真大の死刑執行と最期の言葉
- 金川真大の自宅と家族のその後
- 金川真大は韓国人?
- 金川真大と土浦連続殺傷事件についてのまとめ
金川真大が起こした土浦連続殺傷事件の概要
2008年3月19日、茨城県土浦市の住宅街で72歳の男性が何者かに襲われ、首を包丁で切られて殺害される事件が発生しました。
現場近くに乗り捨ててあったマウンテンバイクから、犯人として同じく土浦市在住の金川真大(無職・当時24歳)が浮上。
警察は19日中に家宅捜索をおこない金川真大が犯人と断定、指名手配を開始しますが逃亡中の金川を見つけることができず、足取りを追っていた最中の23日に第2の事件が発生します。
最初の殺人事件から4日後の3月23日、土浦市内にある荒川沖駅に現れた金川は駅構内にいた人を次々にサバイバルナイフで襲い、8人を切りつけたところで逃走。そのまま自ら駅近くにある荒川沖地区交番に向かい、交番の呼び出し電話を使って自首しました。
その後、駆けつけた警察官によって金川は逮捕されましたが、抵抗などは一切せずに大人しく捕まったとされます。
逮捕後、このような通り魔殺人を繰り返した動機について金川は「生きているのが嫌だったが、自殺も怖いので死刑になろうと思って人を殺した」「殺す相手は誰でもよかった。最初は自分の妹と、近所の小学校の児童を襲おうと思っていた」等と自供しました。
高校を卒業した後、金川は進学も就職もせずに家に引きこもってゲームやアニメの世界に没頭していたといいます。欲しいゲームがあるとコンビニでアルバイトをしたそうですが、それすら目標の金額を稼いだらすぐに辞めるという無責任なものでした。
自堕落な生活を続けるうちに金川は「生きていても退屈だ、死にたい」と希死念慮にとらわれるようになったものの、自分が痛い思いをするのは嫌だから、あまり苦しくない方法で、確実に死ぬために死刑になろうと考えたといいます。
死刑になることを目的に凶悪事件を起こす、という金川の考えは常人には到底理解し難いもので、社会を震撼させました。
社会的に失うものがなく事件を起こすことに何の躊躇もない、いわゆる「無敵の人」の先駆け的な存在が金川真大であり、土浦連続殺傷事件後は類似の事件がたびたび発生するようになりました。
2つの通り魔事件で2名の死者と2名の重傷者、5名の軽傷者を出した金川真大には2010年に死刑が判決が下り、2013年に希望どおり死刑が執行されています。
金川真大の生い立ち① 父親は外務省官僚
金川真大は1983年10月13日生まれで、外務省官僚(ノンキャリア)の父親と、父親より10歳近く若いパート勤務の母親、妹2人、弟の6人家族の長男として育ちました。
父親の仕事の都合で1才2ヶ月から4才までを上海、4才から6才までをニューオーリンズで過ごし、日本で生活するようになったのは小学校入学以降でした。
小学校は横浜市内にある公立学校に通っており、この頃から父親は多忙であったために子育ては母親に任せきりだったといいます。
しかし子どもの成績やしつけに対しては厳しい方針であったようで、金川が小学3年生の頃から父親は「自分の息子としてこのくらいはできて欲しい」という理想と、現実の息子の成績で悩むようになったそうです。
父親としては優秀な自分の子どもでありながら、学力では秀でたもののない息子が理解し難かったのかもしれません。
また、金川の父親はなぜか「大成する人間が頭角を現すのは小学3年生まで。3年生の時点で優秀かどうかで将来が決まる」という独自の考えを持っていたといいます。
そのため、3年生の時点での息子の学習評価が「漢字、かけ算が理解できていない。学習進度は遅れがち」というものだったことに、ひどく落胆したようです。
そうして金川が幼かった頃は土日はできる限り家族で過ごす、子どもと遊ぶ時間をもうけるといった普通の父親の面もあったものの、息子が期待どおりに育っていないことを感じ取ると父親は仕事の時間を増やし、ますます子育てに関わらなくなっていきました。
小学6年生時の金川の学習評価には「真面目に取り組んで入るものの、限られた時間内での学習が苦手と思われる」との記載があったとのことです。おそらく少年時代の金川も、父親の理想に近づこうと努力をしていたのでしょう。
金川真大の生い立ち② 母親との関係と中学時代
一方、金川の母親は父親とは異なる教育方針を持っており、子どもの社会性を伸ばす教育に力を入れていました。学力を重視する父親とは異なり、母親は息子に人間として生きる力を身に着けてほしいと願っていたそうです。その甲斐あってか小学生から中学生にかけては、金川も人間的な成長も見られたといいます。
金川が小学校5年生にあがる頃に一家は事件時に住んでいた土浦市内に家を買って転居しており、中学は土浦市立土浦第三中学校に進学。
なお、金川の中学時代の同級生には、偶然にも2019年に女子大生殺害および遺体遺棄事件を起こした広瀬晃一がいました。
このことについて2人に接点はあったのか、学生時代から危険な思想など共通点は見られたのかなどのインタビューを受けた元同級生は、以下のように話しています。
金川は中学時代、活発なヤツだった。だが、ゲームにはまって引きこもって、通り魔事件を起こした。広瀬容疑者もゲーム好きだったから、接点はあったと思う
中学生時代の金川は反抗期もなく、とくに問題は起こしていなかったといいます。また同級生の証言を見る限り、友達もいる普通の中学生であったと思われます。
金川真大の生い立ち③ 高校時代と人生を狂わせた哲学書
中学を卒業した金川は、私立霞ヶ浦高等学校の普通科に入学。弓道部に入部して練習に励み、2年生の時には全国大会に出場するほどの腕前になっていたといいます。
成績は良くも悪くもなかったものの、部活では先輩の言うことを真面目に聞き、後輩の指導にも熱心に取り組んでいたことから「人望のある真面目な生徒」という評価だったそうです。
しかし一方で高校2年生の夏頃から超常現象や精神世界に興味を持ち始め、部室でも「宇宙と一体になる」などと言って座禅を組んだり、瞑想をする姿が見られるようになるなど、少しずつ異変も見えていました。
さらに同時期、修学旅行で沖縄に行った後に課題として提出した作文に「無能でバカな愚かな下等生物がごとき野蛮な人間ども。お前たちはどのみち、滅びの運命にあるのだ。」などと書いて、担任の教師から書き直しを命じられました。
しかし再提出したものも内容がさほど変わっていなかったため、担任が「なぜ、このようなことを書くのか」と尋ねたところ、金川は「心のまま、正直に書いただけです」と答えたといいます。
『子どものための哲学対話』
高校2年の11月、金川は父親から『子どものための哲学対話』という哲学書を贈られました。逮捕後、金川はこの本が土浦連続殺傷事件を思いつくきっかけとなったと供述しています。
『子どものための哲学対話』は中学生の「ぼく」が喋る猫「ペネトレ」と、さまざまな常識について話し合い、色々な見方を模索するという内容の哲学書です。決して危険な思想を植え付けるような内容ではありません。
本書のなかには死刑について話し合っている項目があり、そこでペネトレが「死刑が最も重い刑罰なのだから、死ぬつもりの人間は何をしてもいい。これは暗に認められていることだし、認めざるをえない」という主旨の発言をします。
作者の永井均氏は、「このような人間もいる、常識を越えた考えを持つ人間も当然いる」という意味で、上のような過激な文章を挟んだのだと思われます。
しかしながら金川はこの文章を文字通りに受け取り、「死刑になるための人殺しは容認される」と考えるようになってしまったのです。
金川真大の生い立ち④ 挫折
高校3年生に進級した金川は、私立大学の文系学部への進学を希望していました。学力的にも合格が狙えたといいますが、夏休み明けに「やっぱり大学には行かない。興味がなくなった」と言い出して就職希望に進路を変更。
担任教師の紹介で土浦市内にある和菓子会社の面接を受けることになりますが、なぜか面接当日になって会社側の都合で面接はおこなわれず、金川は工場見学だけで帰されたといいます。
面接さえ受けられずに不採用となったことで相当プライドが傷ついたようで、金川は和菓子会社を紹介した担任の教師をずっと恨んでいたそうです。
また教師が紹介した会社なこともあり、同級生らも金川が面接を受けることを知っていたのですが、恥ずかしさからか正直に面接を受けられなかったとは言わず、周囲には「こっちから面接を断った」と説明していました。
さらに卒業間近になり、単位の不足から金川は卒業さえ危ういことが発覚します。担任教師は、追加の課題を提出すれば卒業できるように調整すると提案してくれたのですが、面接の件で自暴自棄になっていた金川は「卒業はしなくていい」と言って応じませんでした。
なんとか部活の仲間たちが説得をして卒業だけはしましたが、結局、就職先は決まらないまま。教師がほかの会社を紹介しても興味を示さず、この頃になると友人に自殺願望を明かしていたといいます。
金川真大の生い立ち⑤ 引きこもり生活と歪んだ家族関係
高校を卒業した金川はそのまま家に引きこもり、毎日ゲームに没頭するようになります。またこの頃、金川の上の妹と弟も不登校になっていました。
4人いる子どものうち3人が引きこもりで家から出ないという事態に、母親は悩んでいました。しかしながら相変わらず父親は我関せずな態度を貫いており、「みっともないことを学校に話すな」とだけ、母親に言っていたそうです。
金川も学校のことや進路のことは一切母親に話しておらず、母親もまた、なぜ大学進学を辞めたのか、就職試験は受けないのか、これからどうするつもりなのかといったことは聞けず、腫れ物に触るような対応しかできなかったといいます。
不登校の上の妹も母親のことを嫌い、母親とは口を聞かずに筆談でやり取りをしていたの話もあり、金川家の親子関係があまりよくなかったことが窺えます。
では兄弟間の仲はどうだったのかというと、こちらも会話はほとんどなく、金川は毎日ほぼ誰とも話さず、食事も自分の部屋で1人でとっていました。
しかし、そんな金川も社会とまったく接点を持っていなかったわけではなく、欲しいゲームがあるとコンビニでアルバイトをして小遣い稼ぎをしていたといいます。コンビニでの勤務態度は真面目で、勤務評価は良好だったそうです。
しかし、目的のお金が貯まると突然仕事に行かなくなって勝手に辞め、また欲しいゲームができたら別のコンビニで働く、という行為を繰り返しており、どこの職場も長続きはしませんでした。
人気ゲームの全国大会で準優勝していた
また、引きこもりといっても金川は家でひたすらゲームをしていたわけではなく、ゲームのイベントなどでたびたび秋葉原を訪れていたといいます。
2003年8月には人気ゲーム『DEAD OR ALIVE Xtreme Beach Volleyball』の全国大会に出場し、準優勝していました。
出典:https://www.tanteifile.com/
上の画像は2003年8月30日にニュースサイトに掲載されたもので、長髪でメガネをかけ、ラグランスリーブのTシャツを着ている人物が金川真大です。土浦連続殺傷事件が起きた後に、2ちゃんねるのユーザーがニュースサイトの記事を発見して騒動になりました。
騒ぎを受けてかニュースサイトは2008年3月24日付で記事の内容を変更。掲載されていた画像から金川が写っているものを削除し、同記事から金川の名前も消しています。
金川真大が起こした土浦連続殺傷事件の時系列① 妹の殺害を計画
引きこもり生活を続けるうちに金川は「毎日がつまらないから、死にたい」と思うようになっていきました。
しかし痛い思いはしたくない、失敗したら苦しむことになるから自殺は怖い、といった理由で人を殺して死刑になろうと思いつきます。なお、そこまで死にたいと考えていたのならば犯行前に自殺の方法などを具体的に調べていたのかと思いきや、そんなことはせずにただ漠然と「死にたいけど自殺は痛そうだから嫌だ」と考えていただけだといいます。
2008年1月16日にコンビニのアルバイトを辞めた金川は、その数日後に犯行に使う予定で包丁、サバイバルナイフ、リュックサックを購入。さらに逃走用の資金として銀行から40万円を引き出し、変装に使うためにスーツやネクタイも購入しました。
死刑になることが目的であったため、最初から金川は複数人の殺害を目論んでいたといいます。手始めに仲が良くなかった上の妹を殺害し、次いで近所の小学校を襲撃しようと計画しました。
上の妹は事件当時22歳で派遣社員として働きながら、声優を目指して養成所に通っていました。金川とは年に数回程度、話す程度の関係だったとのことです。
決意が鈍らないようにするためか、金川は3月17日には2台所持していた携帯電話の片方からもう一方に向けて自分で電話をかけ、留守番電話に犯行予告を吹き込んでいたといいます。なお、最初の殺人事件を起こした後の家宅捜索でこの犯行予告は警察に発見されており、金川が犯人である重要な証拠として扱われました。
そして犯行予定日であった3月18日を迎えましたが、朝に金川が起きた時に上の妹はすでに出かけていたため、犯行を翌日に見送ることに。翌19日も同じように起床した時点で上の妹は不在だったのですが、この日は犯行を決意してマウンテンバイクに乗り、狙っていた近所の小学校に向かいました。
ところが小学校は3学期の終業式で周辺には多くの保護者の姿が見られたことから襲撃を断念し、狙いやすい人はいないかと住宅街方面に進路を変更します。
金川真大が起こした土浦連続殺傷事件の時系列② 第一の殺人
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目についた民家のインターホンを押してみたところ、高齢の男性が出てきました。この男性、三浦芳一さんをターゲットにしようと考えた金川は、「自転車のタイヤの空気が抜けてしまったため、空気入れを貸してもらえないか?」と尋ねます。
そして玄関から出て金川に空気入れを手渡した三浦さんが、再び自宅に戻ろうと背を向けたところを狙って包丁で切りつけたのです。
三浦さんの首を刺した後、金川は現場から逃走。乗ってきたマウンテンバイクは救急車のサイレンが聞こえたためにその場に残し、徒歩で帰宅しました。
帰宅後、返り血で汚れた洋服を着替えた金川は、自分の部屋の壁に「OZ」と赤ペンで描いてから家を出ます。もともと金川は犯行現場に「OZ」と描くことで連続殺人だと印象づけようと考えていたのですが、犯行後はそのことをすっかり忘れていたため、代わりに自分の部屋に「OZ」と描いたそうです。
自宅を出た金川は「1人襲っただけでは死刑にはならない、もっと大勢殺すまでは捕まるわけにいかない」と考え、荒川沖駅から常磐線で東京方面に向かい、秋葉原の理髪店で丸坊主にしてからビジネスホテルに宿泊。
チェックインした後、金川はホテルで見たニュース番組で三浦さんが亡くなったことを知り、「良かった、死んでいた」と安心したといいます。
一方、被害者宅の近くに停められていたマウンテンバイクから警察は早々に金川に目をつけ、家宅捜査をおこなっていました。なおこの時、警察は母親に金川の携帯電話の番号を尋ねていますが、母親は息子の電話番号さえ知りませんでした。
事件を起こした翌日の20日、金川はスーツ姿で秋葉原の街に出て『NINJA GAIDEN:Dragon Sword』というニンテンドーDS用のゲームを購入し、一日中ホテルの部屋でこのゲームに興じていました。これは昨日の殺人で疲弊してしまったためだといいます。
21日に母親から心配するメールを受け取った金川は、「犯人は俺だよ。まだまだ殺すつもりだよ」といった警察を挑発する内容の返事を送りました。このメールにより、犯人で間違いないと断定した警察は、金川を指名手配にかけます。そして21日中に金川もニュースで自分が指名手配になったことを知ります。
22日、土浦に戻った金川はひたち野うしく駅から荒川沖駅を移動しつつターゲットを探しましたが、襲撃できそうな相手がいなかったため断念。警察に「早く捕まえてごらん」といった挑発の電話をした後、幼少期を過ごした横浜に向かったものの、泊まれる場所がなかったために東京に戻り、神田のホテルに宿泊しました。
そしてこの日、「そろそろ逮捕されてもおかしくない。明日は絶対に大勢殺さないと」と犯行を決意したとされます。
金川真大が起こした土浦連続殺傷事件の時系列③ 駅構内での無差別殺人
23日、今日が最後のチャンスだと考えた金川は「土地勘があって、人が多すぎず、少なすぎない場所」という考えから、JR常磐線の荒川沖駅の構内をターゲットに選びました。
黒の上着と黒のニット帽を着用した金川は、午前11時過ぎに荒川沖駅に到着。滑り止めのついたゴム手袋を身に着け、包丁とサバイバルナイフを手にして駅の西口エレベーター付近から東口への2階自由通路までを奇声をあげながら駆け抜け、手当たりしだい通行人に切りかかりました。
この時、荒川沖駅構内には金川が現れるのではないかと張り込んでいた警察官がいましたが、金川に気がつく前に刺されて重傷を追ってしまい、ほかの警察官も彼を取り押さえることができませんでした。
金川真大が起こした土浦連続殺傷事件の時系列④ 被害者は合計9名に
8人を刺した金川は駅から200mほど離れた場所にある荒川沖地区交番に向かい、自首をしようと試みます。しかし交番内には誰もいなかったため、通報用電話を使って自分は交番にいることを告げ、駆けつけた警察官によって逮捕されました。
死刑になるためには、まず逮捕されなければいけないと考えていたことから、逮捕時に金川はまったく抵抗しなかったといいます。
2回目の犯行では改札付近で飯田修平さん(18歳)、一色祐二さん(29歳・土浦署地域課巡査)、増山雄亮さん(16歳)、山本美恵子さん(59歳)、岡田好充さん(50歳)を襲った後、連絡通路で宮崎留雄さん(60歳)、石山恵美子さん(62歳)の2人を切りつけました。
そして最後に通路脇の階段を降りたところにある「荒川沖ショッピングセンターさんぱる」の前で山上高広さん(27歳)を襲ったのです。
この一連の凶行で山上高広さんが亡くなっており、2名の重傷者と5名の軽傷者が出ています。
そのため最終的に土浦連続殺傷事件の被害者は9名で、そのうち三浦さんと山上さんの2名の命が奪われました。
金川真大の裁判
2009年5月1日、金川真大の初公判が水戸地方裁判所で開かれました。公判前から死刑になりたい金川と、減刑を求める方向の弁護士の間には溝がありました。
罪状認否で金川本人は起訴事実を認めているにもかかわらず、弁護人は犯行時の金川の精神状態は平常ではなかった、心神喪失もしくは心神耗弱状態にあった可能性が見られると訴え、精神鑑定を要求。
一方で金川は「死刑にならなかったら、もっと人を殺す」「被害者や遺族に対してはとくに何も思っていない」などと述べて、早期の死刑を求めました。
なお、犯行動機について検察は「被告はゲームの世界と比べて、現実はつまらないと感じていた。父親の定年を目前に、これまで通りゲームに明け暮れることができないのなら死にたいと思った。目の前の現実から逃げるために自殺を選び、さらに確実に死ねるように死刑を狙って事件を起こした」と指摘。犯行には計画性も見られ、金川には責任能力があるとしました。
死刑判決
弁護人側は「被告には統合失調症の初期症状が見られる」と主張していましたが、精神鑑定をおこなった筑波大学の佐藤親次准教授はこれを否定し、「被告人は自己愛性人格障害と考えられる」と指摘しました。
自己愛性人格障害は自己に対する誇大な評価や他者への過小評価といった認知の歪みや、共感性の欠如が見られる障害ですが、精神疾患ではありません。
そのため金川には十分な責任能力があるとされ、2009年12月18日におこなわれた判決公判では死刑判決が下されました。
判決を受けて弁護側は即日控訴しましたが金川本人が控訴を取り下げ、2010年1月5日に死刑が確定しました。
金川真大の死刑執行と最期の言葉
2013年2月21日、東京拘置所にて金川真大の死刑が執行されました。享年29歳。
逮捕後から取材を続けていた読売新聞水戸支局取材班に対し、金川は「自分はこの世の真理に気づいている」「人を殺すことは悪ではない」などの持論を語っていました。
取材班はなんとか金川のなかにある人間としての善性を引き出せないかと面会を続けたそうですが、死刑が確定した時にも反省する様子はなく「完全勝利といったところでしょうか」などと嬉しそうに言っていたといいます。
拘置所内でも母親に差し入れてもらったゲーム雑誌やアニメビデオなどを観て、淡々と過ごしていたと報じられています。
金川が死刑執行前になんと言ったのかは明かされていませんが、死刑確定後も「早く刑を執行しろ」「判決から6ヶ月以内に死刑執行しないのは違法だ!」と、刑の早期執行を求めるばかりで死を怖がる様子も見られなかったそうです。
金川真大の自宅と家族のその後
出典:https://www.tanteifile.com/
上は、土浦連続殺傷事件が起きた当時にTVで流れていた金川真大の自宅の画像です。カーポートが写っているだけではありますが、きちんと掃除されていて、ごく普通の家族が暮らす家という印象を受けます。
しかし金川逮捕後の反応や裁判で証言台に立った時などの言動から、金川家が異常としか言えないほど歪んだ家庭であったことが明らかになりました。
まず、金川が殺害しようとしていた上の妹は「兄はクソ野郎。死んで楽になろうとするのは許せない」と言ったうえで、「小学生の時『まーちゃん』と呼んで怒鳴られてから、兄とは距離を置いている。24歳だったなんて初めて知った」と耳を疑うような発言をしていました。
さらに事件当時20歳の大学生だった下の妹は「兄のことは好きでも嫌いでもない」と言いながら、事件とは関係のない姉(金川の上の妹)や弟に対して「姉のことは嫌い。以前に風呂の順番で揉めて、それから話していない」「弟は私が勉強している横でゲームをする。無神経で大嫌い」と語っています。
当時無職であった17歳の弟も「兄とは対戦ゲームをすることがあったが、とくに何も思っていない。死刑になっても悲しくない。そもそも家族の誰が死んでも悲しいとは思わない。付き合っている彼女が死んだら、寂しいと思うかもしれない」などと話していました。
極めつけは両親で、母親も父親も子どもたちの仲が悪いことに気づいてさえいなく、自分たち一家は普通の家庭だと思っていました。
裁判中にも母親が同席していると筆談でしか対応しない妹の態度を不思議に感じた弁護人が、「真大さんは死刑判決も十分ありえる事態です。なぜ、こんな時にまで妹さんは話をしないのですか?ご両親はどうお考えなんですか?」と父親に尋ねたことがあったそうです。
すると父親は「何事にもタイミングがあるので」「(子どもたちに向き合う前に息子が死刑になっても)仕方のないことだと思います」と答えたといいます。
このように全員が全員、家族の誰にも向き合っていないという奇妙な関係であった金川一家。現在も同じ場所で、事件当時と同じ家族構成で暮らしているのか定かではありません。
金川真大は韓国人?
出典:https://kurenaiking.at.webry.info/
金川真大の初公判の前、ネット上では「金川真大は通り名で本名は『キム ジンデ』」「過去のゲーム大会には『キム ジンデ』という名前で出ていた」という噂が流れました。
この噂は、苗字に「金」という漢字がつくこと、そして高校2年時に書いた修学旅行の感想文で日本人のことを「黄色い猿」と表現し、「日本人が嫌い、黄色い猿が嫌い」と綴っていたために流れたのではないかと思われます。
ただ、金川の父親は外務省務めの国家公務員です。人事院規則八−一八第九条にて「日本国籍を有しない者は国家公務員試験の受験資格を持たない」と定められていることから、父親が国家公務員の金川が在日韓国人という可能性はありえません。
したがって「金川真大は韓国人で、本名はキム ジンデ」という話はデマだと考えられるでしょう。
金川真大と土浦連続殺傷事件についてのまとめ
この記事では2008年3月に金川真大が起こした土浦連続殺傷事件と、金川の生い立ちや家族などについて紹介しました。
死刑執行まで反省せず、不遜な態度を貫いたとされる金川真大。しかし唯一、読売新聞の記者に伴われて面会に訪れた高校時代の部活の後輩から「事件のことを聞いてショックだった」と言われた時には、頬を紅潮させて涙目になるなど動揺を見せたといいます。
今となっては後輩に会った金川がどのような気持ちだったのか、少しは自分の行いを恥じ、悔いる気持ちがあったのか、知る術もありません。ただやはり、心の拠り所になってくれる仲間がいたのだし、高校卒業後に家を出てさらに交友関係を広げていれば「自殺のための事件」を起こす気にはならなかったのではないか、などと考えずにはいられません。