神戸大学院生リンチ殺人事件は神戸商船大学院に通う被害者男性が面識のない末原組組長の佐藤高行に殺害されるという事件で、2002年に起きました。この記事では本件がなぜ起きたのか、警察の職務怠慢、裁判と判決、場所、遺族や犯人の現在について紹介します。
この記事の目次
- 神戸大学院生リンチ殺人事件の概要
- 神戸大学院生リンチ殺人事件の詳細① トラブルの発端
- 神戸大学院生リンチ殺人事件の詳細② なぜか捜査をしない警察
- 神戸大学院生リンチ殺人事件の詳細③ 被害者・浦中邦彰さんの遺体発見
- 神戸大学院生リンチ殺人事件の詳細④ 犯人全員が逮捕される
- 神戸大学院生リンチ殺人事件が起きた場所
- 神戸大学院生リンチ殺人事件の裁判と判決・主犯の組長は懲役20年
- 神戸大学院生リンチ殺人事件はなぜ起きた?警察の失態が原因?
- 神戸大学院生リンチ殺人事件の現在① 犯人・佐藤高行のその後
- 神戸大学院生リンチ殺人事件の現在② 遺族のその後
- 神戸大学院生リンチ殺人事件の現在③ もう1人の被害者である友人のその後
- 神戸大学院生リンチ殺人事件についてのまとめ
神戸大学院生リンチ殺人事件の概要
2002年3月4日の深夜、神戸市西区の県営住宅駐車場で神戸商船大学大学院の学生であった浦中邦彰さん(事件当時27歳)と友人が、山口組系の暴力団「西脇組」の内部組織「末原組」の組長・佐藤高行(事件当時38歳)と組員3名に暴行される事件が起きました。
暴行を受けている最中に浦中さんが警察に通報し、近隣住民らからも通報があったにもかかわらず、警察は遅れて現場に到着。
さらに暴行を受けて意識不明のまま犯人の車に監禁されていた浦中さんに気づかず、血だらけで助けを求める浦中さんの友人や犯人から事情聴取もろくにせず、何事もなかったかのように事件現場を立ち去るという信じがたい職務怠慢をしたのです。
犯人の車に監禁された浦中さんは警察が立ち去った後でさらに激しい暴行をくわえられ、翌3月5日に遺体で発見されました。
浦中さんの遺体発見から4日後に佐藤らは逮捕されましたが、世間の批判は犯人よりも助かる命を無視した神戸警察と兵庫県警に集中。
後に被害者遺族が兵庫県らに損害賠償請求をした際には、神戸地裁も「警察が職務を果たせば浦中さんが亡くなることはなかった」として、神戸警察の怠慢を糾弾しました。
神戸大学院生リンチ殺人事件の詳細① トラブルの発端
2002年3月4日の午前3時過ぎ、浦中さんは友人を送る目的で県営住宅の駐車場にいました。この県営住宅は200戸あるにもかかわらず駐車スペースが120しかなく、日頃から住民の間で問題視されていたといいます。
そのため浦中さんも、偶然居合わせたヤクザの組長・佐藤とその情婦・谷京子(事件当時35歳、職業はスナック経営)の2人と駐車場のスペースを巡ってトラブルになったとのことです。
最初は口論だったものの、佐藤が手を出し、格闘技経験のある浦中さんが応戦して殴り合いに発展。そこへ2人を止めようとして、浦中さんの友人が仲裁に入りました。
しかし今度は佐藤のターゲットが友人に変わり、彼が殴られてしまいます。友人の身を案じた浦中さんが警察に通報しますが、通報が済んだところで佐藤の情婦・谷に携帯電話を奪われてしまい、谷はそのまま「末原組」の構成員を呼び出したのです。
谷からの連絡で佐藤の応援にやってきた3人の組員(当時30歳、36歳、37歳)は、浦中さんと友人に激しい暴行をくわえ、2人は意識が朦朧とした状態で組員の車の後部座席に押し込まれました。
神戸大学院生リンチ殺人事件の詳細② なぜか捜査をしない警察
通報から16分後、神戸西警察署管轄の井吹台交番の巡査部長(当時47歳)と、巡査(当時31歳)、神戸西警察署のパトカーで巡回中だった2名の巡査(当時33歳、29歳)の合計4名が現場となった県営住宅駐車場にやってきました。
さらに県営住宅からもっとも近い有瀬交番から巡査部長(当時39歳)、巡査(当時27歳)がその4分後に合流し、現場には6名もの警官が到着します。
警察が来たことに気づいた浦中さんの友人は、なんとか力を振り絞って車の外へ這い出て、車内に意識不明の浦中さんが監禁されていることを訴え、助けを求めました。
ところが血だらけの青年が助けを求めているうえ、佐藤や組員の衣服にも血がついているにもかかわらず、なぜか6名の警官は誰も車内をあらためようとせず、組員の「後で出頭する」という言葉を信じて車のナンバーだけをメモして立ち去っていったのです。
しかも、組員らが乗ってきた車の後部座席の窓はスモークガラスではなく、普通のガラスでした。そのため、懐中電灯で照らして覗き込めば、外からでも浦中さんが閉じ込められていることが簡単に確認できました。しかし警官らは、外から車の中を覗くことさえ怠ったのです。
神戸大学院生リンチ殺人事件の詳細③ 被害者・浦中邦彰さんの遺体発見
警官が立ち去った後、佐藤と組員らは県営住宅から2kmほど離れた雑木林に浦中さんを連れ込み、そこでさらに殴る蹴るの暴行をくわえました。
浦中さんは体をフェンスに縛られたうえ、意識を失うと冷水を浴びせられて強制的に意識を戻させてからまた殴られるという、暴力団同士の拷問のような非道な暴行をされたといいます。
ひどい拷問で脅しをかけ、佐藤らは警察に事件の詳細を話す可能性が高い浦中さんの友人の連絡先を聞こうとしましたが、浦中さんは友人をかばい続け、決して口を割りませんでした。
その後、浦中さんは瀕死の状態で宝光芒川の浅瀬に放置され、凍死したとされます。なお当初、佐藤は浦中さんを生き埋めにしようと目論んで組員らにショベルカーの調達を命じたそうですが、ショベルカーが見つからなかったために川に置き去りにしたとのことです。
そして翌日の3月5日16時20分、浦中さんの遺体が発見されます。遺体は肋骨のほとんどが折られ、右後頭部が割れるという凄惨な状態でした。
頭部の損傷からくも膜下出血の痕跡が見られましたが、検死の結果、死因は3月の早朝に川の中に放置されたことによる凍死と判断されました。
また同じく検死によって、浦中さんが川のなかに放置されたのは午前7時頃で、そこから数時間は生きていたことも明らかになっています。
神戸大学院生リンチ殺人事件の詳細④ 犯人全員が逮捕される
遺体発見から4日後の3月9日に佐藤と組員らが逮捕され、3月26日に姿を隠していた谷が逮捕されたことで、神戸大学院生リンチ殺人事件の犯人全員の身柄が確保できました。
なお、浦中さん殺害後にリンチにくわわった組員の1人が有瀬交番に出頭したといいますが、対応した警官は1時間ほどの事情聴取をしただけで、この組員を帰していました。
神戸大学院生リンチ殺人事件が起きた場所
神戸大学院生リンチ殺人事件が起きた場所については「神戸市西区有瀬の県営住宅駐車場」「有瀬交番から至近距離にある県営住宅」と報じられており、詳細な場所などは不明です。
調べたところ、有瀬交番の近くには伊川谷住宅という公営の団地群があり、戸数も170と発表されているのでここの駐車場で浦中さんが事件に巻き込まれた可能性が考えられます。
事件当時、現場となった県営住宅の住民らも浦中さんと友人がヤクザに絡まれているのを心配し、警察に通報していました。
ただごとではない気配を察して警察に助けを求めたにもかかわらず、自分たちが暮らす場所で青年がヤクザに目をつけられて殺されるきっかけができてしまったなど、住民の方々にとっても辛く、やりきれない事件であったはずです。
神戸大学院生リンチ殺人事件の裁判と判決・主犯の組長は懲役20年
2004年3月26日に神戸地方裁判所により、神戸大学院生リンチ殺人事件の犯人らには以下のような判決が下されました。双方が控訴しなかったため、これで刑が確定しています。
・主犯の佐藤高行…懲役20年
・組員6名…懲役10〜14年
・谷京子…懲役3年(執行猶予4年)
浦中さんは母1人、息子1人という家族構成でした。そのため担当検察官が裁判中に遺族の母親に思いを馳せて涙で調書が読めなくなってしまい、5分間休廷を挟むという異例の対応が取られたといいます。
損害賠償請求訴訟の結果
刑事裁判とは別に、浦中さんの母親は兵庫県や犯人を相手に損害賠償請求を起こし、2004年12月22日に神戸地裁によって9736万円の賠償金支払いが被告に命じられました。
兵庫県は上告しましたが、大阪高等裁判所も最高裁判所も県の控訴を棄却し、9736万円に訴訟費用を足した金額を遺族に支払うよう、県と犯人らに命じました。
この判決は裁判所が警察の職務怠慢を認めた、非常に珍しいケースとされています。
神戸大学院生リンチ殺人事件はなぜ起きた?警察の失態が原因?
事件当日の午前3時34分、現場の駐車場付近の住民から警察に対して「ヤクザに若い男性が襲われて、車に乘せられそうになっている。すぐに来てもらわないと大変なことになる」と助けを求める通報があったといいます。
この前にも浦中さん本人と別の住民から通報が入っていましたが、上記の通報で一刻を争う事態であることが嫌でもわかったはずです。
ところがパトカーを使えば1分で現場に向かえたという有瀬交番の警察官らは、居眠りをしていた1人が起きるのを待ってから悠長に現場に来たといいます。さらに井吹台交番の警官らも、10分近くかけて呑気に着替えをしてからやって来たとのことです。
また現場に到着してからも、6名の警官はなぜか1人の組員にしか話を聞かず、免許証の確認で反社会的勢力だとわかったのに、たいした質問もしなかったそうです。
血だらけの浦中さんの友人にも「君の友達は、もう帰ったんじゃないの?」などとひどく適当な対応をしていました。
この後、午前4時半頃に浦中さんの自宅に1人の警官が電話をして彼の安否確認をしたのですが、母親にはヤクザに襲われた可能性があることは話さず、しかもまだ帰っていないことを確認しただけで電話を切り、以降は何もしませんでした。
事件が明るみに出てから、兵庫県警は捜査のミスを認めて2002年4月4日に浦中さんの母親に謝罪し、事件現場にいた警官らに処分を下しましたが、その処分というのが減給3ヶ月や訓戒など些細なもので、これがいっそう社会の怒りを買うことになります。
なぜこのような酷い対応を警察が取り続けたのかについては、ヤクザとズブズブの関係だからではないか、とも指摘されました。
警察ジャーナリストの黒木昭雄氏も著書『神戸大学院生リンチ殺人事件―警察はなぜ凶行を止めなかったのか』で、神戸という土地柄と山口組と警察の関係、現場警察官の縄張り争いなどが事件の背景にあったと考察しています。
神戸大学院生リンチ殺人事件の現在① 犯人・佐藤高行のその後
神戸大学院生リンチ殺人事件の主犯であり、もっとも重い刑を課されていたヤクザ組長の佐藤高行。
2004年に懲役20年が確定したため、刑期どおり服役すれば2024年に出所することになります。未来がある青年の生命を奪っておきながら、たった20年で許されるのか、と複雑な気持ちになる方も多いでしょう。
ただ佐藤高行は出所してもヤクザには戻れないのではないか?出所後の生活は相当に悲惨なのでは?と指摘されています。
ヤクザ同士の抗争ではなく、カタギの若者に暴行をくわえ、あまつさえ殺してしまうという行為はヤクザの世界ではご法度であり、親組織の西脇組が許すとはとても思えない蛮行なのだそうです。
しかも佐藤は裁判で執拗に浦中さんをリンチした理由について「ヤクザがカタギの若者に殴られるなんて屈辱だと思ったから」と供述していました。西脇組や山口組(現在は神戸山内組)の幹部からすれば、恥の上塗りでしょう。
そのため末原組は解散、組長の佐藤は破門、ほかの組織を破門となったヤクザを迎え入れる組はまずないと思われるため、ヤクザには戻れないのではないかと考えられているのです。
なお、元ヤクザが一般社会で生きていくことは相当に厳しく、住む場所も借りられない、銀行口座も作れない、携帯電話も契約できないなど大きな制約があります。
このことから佐藤に関しては「20年の刑期を終えてからが本当の罰のはじまりだ」とも言われています。
神戸大学院生リンチ殺人事件の現在② 遺族のその後
神戸大学院生リンチ殺人事件の被害者となってしまった浦中さんは、神戸商船大学院で輸送システム工学を学んでいたといいます。
彼をよく知る教授によると院では神戸市東灘区の深江地区の復興状況を調査しており、真面目で将来有望な学生だったとのことです。また、母子家庭であったことから、アルバイトで学費や生活費を賄っており、深夜まで飲食店でアルバイトをしていたそうです。
浦中さんと母親が暮らす家の周辺住民からは「若いのに団地の自治会の仕事を進んでやってくれて、立派な子だっだ」「面倒見が良くて、しっかりした若者だった」「アルバイトで遅くに帰ってくるから心配で。でも『遅くまで大変やね』って聞くと、笑って『大丈夫です』って答える子だった」などの証言がありました。
周辺のからの評価を見るにつけ、どれだけ母親が息子を大切に育ててきたのかが窺えます。
1人息子を亡くした浦中さんの母親は事件後、犯罪支援者支援センターなどの手厚いサポートを受けながら生活をしているとのことです。
神戸大学院生リンチ殺人事件の現在③ もう1人の被害者である友人のその後
浦中さんと同じく佐藤らに絡まれ、駐車場で暴行を受けたという友人。彼は事件後、PTSDに悩まされ、事件が発生した午前3時ころになると必ず目が覚めてしまい、震えが止まらなくなるようになってしまったそうです。
そのため日中の仕事が困難になり、夜勤で働いているといいます。
また、裁判でも「自分がもっとしっかりしていれば浦中くんは助かったかもしれない。1人だけ助かってしまって申し訳ないと毎日後悔している」と証言していました。
神戸大学院生リンチ殺人事件についてのまとめ
今回は2002年3月に発生した神戸大学院生リンチ殺害事件について紹介しました。『神戸大学院生リンチ殺人事件―警察はなぜ凶行を止めなかったのか』のなかで、黒木昭雄氏は「警察が浦中さんを救うチャンスは7回あった」と指摘していました。
しかしそのすべてを運悪く、でもうっかりでもなく、故意に警察が無視してきたためにこの事件は起きたといえます。浦中さんの母親や、事件時に一緒にいた友人のその後を見ても、ただただやりきれなさが募る事件です。亡くなった浦中さんのご冥福をお祈りします。