人の闇を描いた作風でカルト的な人気を誇るも24歳で亡くなった伝説の漫画家・山田花子さんが話題です。
この記事では漫画家・山田花子さんの生い立ちと統合失調症と死因の投身自殺、トロツキストの父親や教師の母親、漫画編集者の妹などの家族や結婚などについてまとめました。
この記事の目次
- 山田花子(漫画家)のプロフィール
- 山田花子(漫画家)の生い立ち① トロツキストの高市俊皓の長女として誕生
- 山田花子(漫画家)の生い立ち② 小学生時代は漫画に熱中
- 山田花子(漫画家)の生い立ち③ 中学時代はいじめでガス自殺未遂も漫画を描き始める
- 山田花子(漫画家)の生い立ち④ 漫画家デビューも高校には馴染めず不登校に
- 山田花子(漫画家)の生い立ち⑤ 漫画の投稿を続ける一方で音楽活動も
- 山田花子(漫画家)の生い立ち⑥ 「神の悪フザケ」を連載も担当とうまくいかず終了
- 山田花子(漫画家)の生い立ち⑦ カルト的な人気を得てメディア出演も
- 山田花子(漫画家)の生い立ち⑧ 奇行が目立つようになり統合失調症と診断
- 山田花子(漫画家)の死因は投身自殺
- 山田花子(漫画家)の家族① 父親はトロツキストで編集者著述家の高市俊皓
- 山田花子(漫画家)の家族② 母親は小学校の教師だった高市裕子さん
- 山田花子(漫画家)の家族③ 妹の高市真紀は漫画編集者で青林工藝舎を設立
- 山田花子(漫画家)は結婚はしていなかった
- まとめ
山田花子(漫画家)のプロフィール
漫画家・山田花子のプロフィール
本名 :高市由美
生年月日:1967年6月10日
没年月日:1992年5月24日(没年24歳)
出身地 :東京都世田谷区経堂、南多摩郡多摩町(現在の多摩市)
血液型 :A型
別名義 :裏町かもめ、山田ゆうこ
山田花子さんは、1980年代から1990年代はじめにかけて作品を発表した漫画家です。
自らのいじめ体験や学校生活、自分の中にある葛藤や苦悩などを基にした、差別意識、人間関係における抑圧、いじめ、疎外感などをテーマにした作品を「なかよし」、「ヤングマガジン」、「ガロ」、「リイドコミック」、「ヤングチャンピオン」などで発表。
心の闇にスポットを当てたその作風は、生きづらさを抱える人々の間で熱狂的に支持されカルト的人気を誇りましたが、24歳という若さで自殺によってこの世を去りました。
その死後も、山田花子さんの作品の改訂版や検証本が数多く発表され、多様なジャンル(ファッションや音楽、デザインなど)とのコラボもしばしば行われており、現在も伝説的に語り継がれ、読み継がれ続けている「永遠に忘れられない漫画家」の1人です。
ここでは、そんな伝説的漫画家である山田花子さんの壮絶な生い立ちや家族、死因となった自殺と統合失調症などについてまとめていきます。
山田花子(漫画家)の生い立ち① トロツキストの高市俊皓の長女として誕生
漫画家・山田花子さんは、1967年6月10日に東京都千代田区神田駿河台の三楽病院で生まれました。
父親はトロツキスト(反スターリンを掲げるマルクス主義、共産主義者)で編集者で著述家の高市俊皓さん(当時は自動車セールスの仕事をしていた)で、家族構成は両親と妹が1人でした。
父親の高市俊皓さんによると、赤ん坊の頃の山田花子さんはおとなしくてよく眠る子供だったそうです。
山田花子さんは3歳の時に世田谷区経堂から南多摩郡多摩町(現在の多摩市)和田町の百草団地に家族で移住しそこで育っています。
小学校入学前の山田花子さんはかなり大人しく内気なタイプで、友達と遊ぶよりも1人で空想にふけったり、絵を描いたり、図鑑や絵本を読んだりするのを好む子供だったそうです。
また、山田花子さんは当時から、子リスを主人公にしたお話を画用紙に描いてホッチキスで綴じた自作の絵本を何作も作っていました。
山田花子(漫画家)の生い立ち② 小学生時代は漫画に熱中
山田花子さんは1973年4月に、多摩市立竜ヶ峰小学校(現在の多摩市立多摩第二小学校)に入学しています。
小学生時代には父親が呼んでいた赤塚不二夫、楳図かずお、小林よしのり、藤子不二雄、水木しげる、日野日出志、里中満智子、新田たつお、ジョージ秋山などの漫画に熱中し、自分で漫画本の貸出カードを作って友人相手に「マンガ図書館」として貸し出しをしていました。
小学校の頃の山田花子さんは、楽器の演奏や自作の歌などをカセットテープに録音する遊びや、昆虫や小動物を飼う事も好きだったそうです。
また、小学校の成績は良かったものの、友人や教師とのコミュニケーションの面で難があり、自分から周囲に話しかける事はほとんどなかったようです。
山田花子(漫画家)の生い立ち③ 中学時代はいじめでガス自殺未遂も漫画を描き始める
山田花子さんは、1979年4月に多摩市立和田中学校に進学しています。
中学時代の山田花子さんは中学2年生の頃にいじめを受け、リストカットを繰り返しガス自殺未遂を起こしています。この時は意識を失って倒れているところを家族に発見され、救急搬送されて一命をとりとめています。
その後、母親に「何かに打ち込んだ方が良い」と勧められて、漫画雑誌「なかよし」の「まんがスクール」に参加し、中学3年生の時に「裏町かもめ」のペンネームで投稿した「明るい仲間」という作品が「なかよしギャグまんが大賞」に佳作入選しています。
この「明るい仲間」は、「なかよしデラックス」の1983年1月号に掲載されました。
山田花子(漫画家)の生い立ち④ 漫画家デビューも高校には馴染めず不登校に
山田花子さんは1982年4月に私立の立川女子高等学校に進学。
高校進学と同時期に本格的に漫画家としてデビューし、「なかよしデラックス」(1983年4月号)で「大山家のお子様方」を発表。続く5月号から「人間シンボーだ」という作品の連載をスタートさせています。
一方、高校生活に馴染めずに、ここでもいじめに遭い不登校になって1年で中退。その後は通信教育のNHK学園に編入学しています。また同時期に絵本作家の長谷川集平の絵本学校にも通い始めています。
高校中退のすぐ後、「人間シンボーだ」も次第にギャグ路線からシュールなブラックコメディへ変わって行って読者層と合わなくなり1984年6月号で連載終了になります。
この頃から、山田花子さんは、独自の路線を貫きサブカル漫画のバイブルとしてカルト的支持を得ていた漫画雑誌「ガロ」を読むようになり、蛭子能収、丸尾末広、花輪和一、根本敬ら尖った作風を持つ個性派作家陣の影響を強く受けています。
一方で、高杉弾(伝説の自販機本「Jam」、「HEAVEN」の初代編集長)の著書「メディアになりたい」を読んでデザインや編集に興味を持って大検を取得し、1986年に日本デザイン専門学校のグラフィックデザイン科に入学しています。
山田花子(漫画家)の生い立ち⑤ 漫画の投稿を続ける一方で音楽活動も
山田花子さんはこの頃、憧れの雑誌となっていた「ガロ」に作品を投稿し続けていましたがなかなか入選できない日々が続いていました。
一方で、インディーズ音楽に興味を持つようになり、筋肉少女帯や空手バカボン、たま、死ね死ね団、人生、幻の名盤解放同盟(根本敬主宰の音楽ユニット)のライブにも足を運ぶようになっています。
山田花子さんは自分でもバンドを組みたいと思い、音楽雑誌でメンバーを募ったり、自作曲のデモテープをインディーズレーベルに送ったりしています。
その後、妹の高市真紀さんと姉妹バンド「グラジオラス」を結成。1986年から山田花子の名義で都内のライブハウスにも出演しています。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=XTvs7CoT_I0]
山田花子(漫画家)の生い立ち⑥ 「神の悪フザケ」を連載も担当とうまくいかず終了
そんな日々を送りながら山田花子さんは漫画作品の投稿を続け、1987年8月に「ヤングマガジン」の月間新人漫画賞に投稿した「人でなし」が奨励賞に選ばれ、同年10月には同誌に投稿した「神の悪フザケ」が、ちばてつや賞(かなり権威のある漫画賞)の佳作に入選。
この「神の悪フザケ」が「山田花子」名義でのデビュー作となり、そのままヤングマガジンでの連載が決まりました。この作品のテーマは「いじめ」であり、絵柄も「なかよし」の頃に比べるとかなりハードなものに変わっています。
ただ、この作品は一般読者からの支持が伸びず、読者アンケートの人気も常にワースト1位で、担当編集者から「ストーリーもヤマもオチもなく、話の辻褄が合わない。こういうのが描きたいのなら同人誌で描きなさい。読者を馬鹿にしているのか」と叱責を受けてしまいます。
しかし、山田花子さんは元々、日常にはヤマもないしオチもないし、矛盾だらけ(不条理だらけ)だと感じていて、それを漫画で描こうとしていたため、この担当の叱責には内心不満を抱いていたようです。ですが、表現の場を失う事を恐れる山田花子さんは担当に言われるまま、オチをつけようと表面上従順なフリをして連載を続けていました。
それでも山田花子さんは次第に担当編集者に敵意を向けるようになり、日記に担当への罵詈雑言を書いたり、打ち合わせの時に会話もしなくなって、1989年2月に連載打ち切りとなっています。
山田花子(漫画家)の生い立ち⑦ カルト的な人気を得てメディア出演も
その後、山田花子さんは「漫画スカット」にて1988年8月号から1990年6月号まで「至福を肥やせ!子供たち」を連載したのを始め「リイドコミック」、「ヤングチャンピオン」、「パチンカーワールド」などで作品を発表。
1989年3月に日本デザイン専門学校を卒業した後は、実家を出て東中野のアパートで1人暮らしも始めています。
1989年5月には「神の悪フザケ」の単行本が刊行され、さらに憧れの雑誌である「ガロ」でも1989年8月号から毎月作品を発表するようになります。
1990年8月には「ガロ」を発行する青林堂から、自身2冊目の単行本「嘆きの天使」(作品集)が刊行されています。
この頃から、山田花子さんはカルト的な人気を集めるようになり、劇作家のケラリーノ・サンドロヴィッチ(日本人で本名は小林一三)さんからの依頼で作を担当した、オムニバス戯曲「愛と死」が1991年に上演されています。
さらに、この年には、CBCのラジオ番組「未来派ラジオ 電波デリック」、よみうりテレビの生放送バラエティ「ざまぁKANKAN!」でのいじめなどで苦しむ中高生から届いた悩みの手紙をスタジオで読み上げて視聴者と共に考えるコーナの担当、映画「無能の人」(竹中直人監督)、テレビ神奈川「ファンキートマト’91」の根本敬さんのコーナー「世紀末特殊漫画教室」、日本テレビ「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」など、数々のメディアに出演しています。
山田花子(漫画家)の生い立ち⑧ 奇行が目立つようになり統合失調症と診断
山田花子さんはメディアへの出演を増やしていた1991年の秋頃から、「漫画を描く気力がない」と漏らすなど次第に無気力になっていきました。
そして、会話の途中で突然立ち去ってしまう、執拗にメモをつけ始める、過剰なダイエットをする、妹に会っても無視するなどの奇行が目立つようになっていきます。
山田花子さんは精神的に不安定になるにつれて商業誌への漫画の発表本数が減少していきましたが、「ガロ」には毎月作品を寄稿して発表していました。しかし、「ガロ」の編集部は慢性的な経営難にあっため原稿料がほとんど出ず、山田花子さんは1991年7月から東京都千代田区飯田橋の喫茶店「白百合」でアルバイトをはじめています。(喫茶店のアルバイトに受かるまでに別の仕事先の面接に10回以上落とされている)
しかし、注文が覚えられずにミスを連発したり、出勤日でもないのに出勤して居座るなどしたため1992年2月に解雇されてしまいます。
山田花子さんはアルバイト先を解雇された後の同年2月25日に長い髪を自分で切っており、その2日後には何日も着替えていない服装で元アルバイト先の最寄駅で何時間も放心状態でいるところを警察に保護され、連絡を受けた妹に実家に連れ戻されています。
ところが、実家に戻された翌日に山田花子さんは元あるバイト先の喫茶店に押しかけて、「もう1度雇って欲しい」と懇願して無理やり働こうとしたため警察に通報されています。
2月28日、警察から連絡を受けた家族が喫茶店から山田花子さんを実家に連れ戻しますが、その翌日の29日には台所で失禁し、全裸の状態で室内を走り回るなど常軌を逸した行動を取り、精神科に連れて行かれて、抗精神病薬の投与や筋肉注射などの応急処置を受けています。
1992年3月4日、山田花子さんは統合失調症(当時は精神分裂病と呼称されていた)の診断を受け、多摩市の桜ヶ丘記念病院に入院しています。
山田花子(漫画家)の死因は投身自殺
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山田花子さんは桜ヶ丘記念病院に入院後は徐々に回復の兆しを見せ、3月の後半には漫画を書けるほどに回復しています。
1992年5月23日には退院して実家の百草団地に戻りましたが、山田花子さんは翌24日に24歳という若さで亡くなっています。
死因は百草団地11階の通路からの投身自殺でした。
山田花子さんは退院前日の5月22日の日記に「召されたい理由」と題して以下の文章を書き記していました。
①いい年こいて家事手伝い。世間体悪い、やっかい者、ゴクツブシ。
②友人一人もできない(クライから)。
③将来の見通し暗い。勤め先が見つからない(いじめられる)。
④もうマンガかけない=生きがいがない。
⑤家族にごはん食べさせられる。太るのイヤ。
⑥もう何もヤル気がない。すべてがひたすらしんどい(無力感、脱力感)。
⑦「存在不安症」の発作が苦しい。
この日記を見ると、山田花子さんは退院後に自殺する事を決めていたようにも思えます。
これを見る限り、山田花子さんを統合失調症と診断していた病院側が、なぜ回復していると判断して退院を許可したのかも疑問に感じてしまいます。
山田花子(漫画家)の家族① 父親はトロツキストで編集者著述家の高市俊皓
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続けて、山田花子さんの家族についても見ていきます。
山田花子さんの父親は、トロツキストで著述家、編集者の高市俊皓さんという人物です。
山田花子さんの父親の高市俊皓さんは学生運動が盛り上がっていた1960年4月に東京学芸大学に入学して安保闘争に参加し、この頃にトロツキーやレーニン、マルクスの影響を受けたそうです。
高市俊皓さんは山田花子さんに1度だけ、自分の学生運動に参加していた頃の事を話した事があったそうです。
ただ、山田花子さんが誕生した頃には車のセールスマンとして普通に働いていました。
山田花子さんが自殺で亡くなった後、父親の高市俊皓さんは山田花子さんが生前に残していた膨大な日記を全て読み、まとめ直して私家版として本にしています。
そして、この本を再編集して出版されたのが、山田花子さんの名前を一般にも知らしめた「自殺直前日記」という書籍でした。
山田花子(漫画家)の家族② 母親は小学校の教師だった高市裕子さん
山田花子さんの母親は高市裕子さんという方で小学校の教師でした。
山田花子さんが漫画家の道を歩みはじめたきっかけは、母親の裕子さんに「何かに打ち込んだ方が良い」とアドバイスされて、「なかよし」の「まんがスクール」に参加しはじめた事でした。
山田花子さんは、精神が錯乱して統合失調症と診断された時、母親の書棚からいじめや登校拒否に関する書籍を床に投げ出して「お前はこういう本を読んで子供をいじめているんだろう。こういう本が児童をダメにしてるんじゃ。お前には主体性がないのか。自分の考えというものがないのか。お前が一番いじめをやっている」と、母親に罵声を浴びせています。
山田花子さんの作品には女性教師が登場し、主人公をいじめる生徒たちに差別をしてはいけない、人間は皆平等であるなどと語りますが、いじめられていた主人公はその教師を冷めた目で見つめます。
こうした作品からも、山田花子さんが小学校の教師である母親に対して複雑な感情を抱いていた事が読み取れます。
山田花子(漫画家)の家族③ 妹の高市真紀は漫画編集者で青林工藝舎を設立
山田花子さんの妹は高市真紀さんという方です。山田花子さんはこの高市真紀さんに対してだけは心を許していたようで、「妹の真紀だけが自分にとってのかけがえのない親友」と周囲に明かした事もあったようです。
山田花子さんは妹の高市真紀さんと「グラジオラス」というバンドも組んでいました。
この高市真紀さんは、1989年頃から「ガロ」の出版社だった青林堂でアルバイトをしており、その縁で山田花子さんは「ガロ」に作品を掲載するようになりました。
高市真紀さんは1991年6月に青林堂の正社員になり、当時「ガロ」で描いていた蛭子能収さんも担当しています。また、編集の仕事をしながら、自身も丸山玉子というペンネームで「ガロ」に漫画やイラスト作品を発表されていました。
青林堂の社員クーデター騒動で退職した後は、「ガロ」の副編集長だった手塚能理子さんらと新たに「青林工藝舎」を設立し、1998年に漫画雑誌「アックス」を創刊しています。
そんな高市真紀さんですが、2011年に日本テレビ「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」に出演して蛭子能収さんと絡み、松本人志さんに「一番面白い」と絶賛されています。(見出し冒頭画像はその時のもの)
山田花子(漫画家)は結婚はしていなかった
山田花子さんは生涯結婚はせずに独身でした。
また、山田花子さんは日常で事細かにメモを取り、それを細かく日記帳に記録していましたが、そうした日記やメモにも男性についての記述はなく、彼氏のような存在もいなかった可能性が高いようです。
まとめ
今回は、1980年代から1990年代初めまで活動した漫画家の山田花子さんについてまとめてみました。
山田花子さんは中学高校といじめに遭い、それを苦にしてリストカットやガス自殺を図るなど壮絶な生い立ちを持ちます。15歳の時に漫画家としてデビューし、1989年からは「ガロ」で毎月作品を発表し、自身の体験を基に人間の闇の部分を描き出す作風で、生きづらさを抱える人々を中心にカルト的な人気を獲得しました。
1991年にはラジオやテレビ、映画などメディアにも出演しますが、この頃から精神的にバランスを崩して奇行が目立つようになり、統合失調症と診断され入院しています。
そして退院の翌日に24歳の若さで亡くなりました。死因は実家の団地からの投身自殺でした。
山田花子さんの家族は、父親はトロツキストで著述家の高市俊皓さん、母親が小学校教師だった高市裕子さん、妹は「青林工藝舎」の漫画編集者の高市真紀さんです。また、山田花子さんは生涯結婚はせず独身でした。
山田花子さんは現在も伝説的な漫画家としてカルト的な人気があり、その作品は現在も読み継がれて改訂版や検証本が発表され、ファッションや音楽など様々な分野でのコラボもしばしば展開されており、「永遠に忘れられない漫画家」とも呼ばれています。