甲府信金OL誘拐殺人事件は1993年8月に発生した身代金目的での誘拐殺人事件です。この記事では甲府信金OL誘拐殺人事件について犯人の宮川豊の生い立ちや家族、結婚や現在、被害者の内田友紀さんが狙われた理由、犯行動機や判決について紹介します。
この記事の目次
- 甲府信金OL誘拐殺人事件の概要
- 甲府信金OL誘拐殺人事件の犯人・宮川豊の生い立ちと結婚
- 甲府信金OL誘拐殺人事件の犯人・宮川豊の犯行動機
- 甲府信金OL誘拐殺人事件の詳細① 犯行に至るまで
- 甲府信金OL誘拐殺人事件の詳細② 被害者・内田友紀さんに目をつけた理由
- 甲府信金OL誘拐殺人事件の詳細③ 事件当日
- 甲府信金OL誘拐殺人事件の詳細④ 内田友紀さん殺害
- 甲府信金OL誘拐殺人事件の詳細⑤ 身代金の要求
- 甲府信金OL誘拐殺人事件の詳細⑥ 失敗に終わった身代金受け渡し
- 甲府信金OL誘拐殺人事件の詳細⑦ 韓国への逃亡
- 甲府信金OL誘拐殺人事件の詳細⑧ 宮川豊の逮捕
- 甲府信金OL誘拐殺人事件の裁判と判決
- 甲府信金OL誘拐殺人事件の現在
- 甲府信金OL誘拐殺人事件についてのまとめ
甲府信金OL誘拐殺人事件の概要
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1993年8月10日の夕方、山梨県甲府市にある甲府信用金庫大里支店に地方紙『ザやまなし』の記者を名乗る男から電話がかかってきました。
男は取材に協力してほしいとして、この支店で働いていた行員の内田友紀さん(当時19歳)を指名し、彼女もこれを承諾。
友紀さんはその日の勤務終了後に、男に指定されたスポーツ公園に向かいました。そしてそのまま、行方がわからなくなってしまったのです。
翌11日、朝になっても友紀さんが帰宅しないことを心配した両親が勤務先の甲府信金に相談します。
するとほぼ同じ時間に、甲府信金大里支店の支店長あてに「おたくの行員を預かった」と身代金4500万円を要求する電話が入ってきたのです。
信金側は友紀さんが身代金目的で誘拐されたことを知り、すぐに山梨県警に通報。こうして早々に事件が発覚して県警もすぐさま捜査に乗り出し、事件解決の希望が見えました。
ところがこの後、現金の運搬役に指名された甲府信金大里支店の支店長は身代金の受け渡しに失敗してしまいます。そしてこれに犯人が腹を立て、一切の連絡を絶ってしまうのです。
その後、行方不明になってから1週間後の8月17日、安否が危ぶまれていた内田友紀さんの遺体が静岡県富士宮市内で発見されるという最悪の結果に至ってしまいます。
営利誘拐殺人という重大な結果を受けて、山梨県警は公開捜査に切り替えて犯人の脅迫電話の音声を公表しました。
するとTVで犯人の声を聞いた人物が「聞き覚えのある声」だと気づいて、自ら犯人に接触して自首をするように説得したのです。
こうして遺体発見から1週間が経った8月24日には、犯人の宮川豊(当時38歳)が逮捕され、金銭目的で何の落ち度もない内田友紀さんの命を奪った宮川に対し、遺族はもちろん検察や社会も「死刑相当」と厳罰を望む声があがりました。
しかし、裁判では一審も二審も判決は無期懲役。当時は「つくば妻子殺害事件」や「名古屋アベック殺人事件」といった重大な事件であっても、求刑死刑で実際の判決は無期懲役というケースが相次いでいました。
甲府信金OL誘拐殺人事件も同様のケースとして、現在も議論の対象となっています。
甲府信金OL誘拐殺人事件の犯人・宮川豊の生い立ちと結婚
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甲府信金OL誘拐殺人事件の犯人である宮川豊は、1955年に山梨県内で誕生しました。
実家は農家で宮川は長男でしたが、1973年に山梨県立農林高校を卒業した後は家業を継がずに静岡県清水市内に本社がある山梨いすゞ自動車に就職しています。
しかし、本業に傍ら実家の手伝いも続け、スポーツ少年団の手伝いや地元の青年消防団の活動にも参加するなど、両親や地域への貢献もしていたそうです。
1978年、23歳の時に看護師の女性と結婚して2人の子どもをもうけ、以降は実の両親と妻、子どもの6人家族で暮らすようになっていました。
逮捕時には山梨いすゞ自動車の大型販売第二課係長に昇進しており、経歴だけを見れば公私ともに順風満帆だったように見えます。
ところが、宮川豊には周囲に話せない秘密がありました。この秘密が甲府信金OL誘拐殺人事件の動機に繋がっていったのです。
甲府信金OL誘拐殺人事件の犯人・宮川豊の犯行動機
家族と平穏に暮らしているように見える一方で、宮川には総額7000万円にものぼる借金がありました。
宮川は勤務していた山梨いすゞ自動車でトラックなどの大型自動車の販売を担当していたのですが、この販売実績をあげるために通常ではありえないような値引きを独断で行ったり、見込み発注をしたり、信用状態が不明確な相手にローンで車を販売したりといった危うい営業に手を染めていったのです。
さらには営業成績を上げるために、取引相手の名義を利用して架空販売なども繰り返していたといいます。
このようなことをすれば帳簿上では帳尻合わせができても、実際に入金されるお金と売り上げ報告に差が出てしまいますから、入金の見込みのない未収金を抱えることになります。
宮川は穴埋めのために親や友人、知人から借金をしたり、ほかの顧客からの集金を流用したりしと自転車操業状態だったそうです。
しかも、このような状況でありながら、宮川は1992年頃から韓国人女性と不倫関係になっていました。
愛人の韓国人女性とは行きつけのバーで知り合ったといい、宮川は彼女のために甲府市内に自分の名義で一軒家を借りて、そこに住まわせていたとされます。
架空の売り上げで会社内での評価を獲得し、さらに愛人まで囲っていたという宮川豊。こうして借金が膨れ上がっていたことが、甲府信金OL誘拐殺人事件を思いつく原因となりました。
甲府信金OL誘拐殺人事件の詳細① 犯行に至るまで
前述のような自転車操業状態であったため、宮川の借金は1988年時に至急の返済を迫られている分だけでも、総額3700万円を超していたといいます。
自分1人の力ではどうすることもできないと観念した宮川は、この時に親に相談して、実父から相続したものと実母名義のものをあわせた先祖伝来の土地を担保に、銀行に借金を申し込むことにしました。
こうして3500万円の融資をとりつけた宮川は返済を迫られていた借金だけは、なんとか片付けることに成功します。
しかし、3500万円支払ってもまだほかに借金の残額はあったうえ、当時の出資法の上限金利は54%と現在に比べて非常に高額でしたから、信金での融資の利息も膨れ上がっていきました。
そのため今度は、叔父に泣きついて2000万円を貸してもらったといいます。しかし、愛人を囲ったりと出費も繰り返していたために借金は減るどころか増える一方に。
こうして1993年の夏ごろには、ついに宮川の借金は1億円近くにまでなってしまいます。
追い詰められた宮川は、1993年7月に入ると銀行強盗や現金輸送車襲撃を計画するようになります。7月12日には犯行に使うためのモデルガンを購入していました。
しかし、8月に入ると借金の取り立てがいっそう厳しくなり、仲間を集まることから始める銀行強盗や現金輸送車襲撃では返済に間に合わないと断念。そこで思いついたのが、身代金目的の誘拐でした。
甲府信金OL誘拐殺人事件の詳細② 被害者・内田友紀さんに目をつけた理由
1993年8月8日、宮川は誘拐のターゲットを甲府信用金庫大里支店の女子行員にしようと思いつきます。
そして同時に、ターゲットを誘い出すために地元紙『ザやまなし』の記者を名乗ろうと考えつきました。
『ザやまなし』には毎号、「地元の企業で活躍する女性を紹介」という特集コーナーが設けられていたそうです。
宮川は偶然立ち寄ったガソリンスタンドでこの地元紙を手に取り、「これを犯行に使おう」と決意したといいます。
そして8月10日の犯行当日、宮川はまず14時頃に甲府信金大里支店を訪れて、窓口で電話料金の支払いなどをしながらターゲットにする女子行員を物色しました。
そこで目をつけられてしまったのが、被害者となる内田友紀さんだったのです。
友紀さんは春に高校を卒業して働き始めたばかりであったため、信金の規則に従って胸元にきちんとフルネームが書かれた名札をつけていました。
しかも当時は女優の内田有紀さんがユニチカ水着キャンペンガールとしてデビューしたばかりで注目を集めており、字は違えど話題の芸能人と同姓同名であった内田友紀さんの名前は非常に覚えやすいものでした。
そのため、宮川とまったく面識のない友紀さんがターゲットとなってしまったのです。
甲府信金OL誘拐殺人事件の詳細③ 事件当日
窓口での支払いを終えた宮川は店を出て、甲府信用金庫の本店に連絡をしました。
そして地元紙の記者だと偽って、上記の働く女性の特集記事で甲府信金大里支店に勤務する友紀さんのことを取り上げたいと相談。
了承を得た後に16時20分過ぎに甲府信金大里支店へと電話をかけて、「本店にも連絡済みなのだが、貴店で働く内田友紀さんに取材を申し込みたい」と伝えたといいます。
この時、宮川が大手新聞社や有名雑誌の記者だと名乗っていれば、もしかしたら対応した行員も「なぜ、うちの支店の行員のことを知っているのか」と不審に思ったかもしれません。
しかし、おそらくその地域でだけよく知られている地方紙の記者を名乗り、かつ「地元で活躍する女性の取材」ということであったため、甲府信金側もまったく疑わなかったといいます。長年営業職に携わってきたことから宮川も話術に長けていたのかもしれません。
本店と大里支店で取材の申し込みをした宮川は、友紀さんに「取材をお願いしたいので、18時に小瀬スポーツ公園に来てもらえますか?」と伝えます。
上司から取材の話を聞いていた友紀さんは疑うはずもなく、快諾。この時、本店や支店の上司から「これも業務の一環だと思って、ぜひ取材に応じてほしい」と頼まれていたとの話もあります。
また、宮川が指定した小瀬スポーツ公園は、甲府信金大里支店から約4㎞離れた場所にある体育館や会議室なども併設する大型公園で、待ち合わせ場所として不自然な場所ではありませんでした。
こうしてその日の勤務を終えた友紀さんは、約束したとおりに宮川が手配した迎えのタクシーに乗り込み、小瀬スポーツ公園へと向かったのです。
甲府信金OL誘拐殺人事件の詳細④ 内田友紀さん殺害
小瀬スポーツ公園に到着した友紀さんは、待っていた宮川の車に乗り換えました。その後、宮川は甲府市上曽根町方面に車を走らせたといいます。
しかし、しばらくすると友紀さんが本当に取材なのか怪しむようになり、「降ろしてください」と要求しはじめたそうです。
そこで宮川はなんとか彼女を黙らせようとタオルで口をふさごうとしたものの激しい抵抗にあったため、20時頃に甲府市を流れる笛吹川の支流の濁川の土手に車を停め、友紀さんの口と鼻を強く圧迫して殺害しました。
つまり、友紀さんは宮川が身代金の要求をした時点ですでに殺害されていたのです。
甲府信金OL誘拐殺人事件の詳細⑤ 身代金の要求
友紀さん殺害後、宮川は遺体を乗せた車を走らせました。そして8月11日の未明に、山梨県中央市乙黒付近を流れる笛吹川に友紀さんの遺体を遺棄します。
ここに遺体を遺棄した理由について、逮捕後に宮川は「笛吹川に遺体を投げ込めば、川の流れで駿河湾に運ばれて行き、隠ぺいが可能だと考えたため」だと供述していました。
身勝手な都合で誘拐した友紀さんを殺害し、遺体まで川に投げ捨てるという鬼畜にも勝る行為をした後、宮川は何事もなかったかのように親と妻子が待つ家に戻ったとされます。
そして11日の午前8時20分頃に甲府信金大里支店へと電話をかけ、「おたくの行員を預かった。覚せい剤の取引であけてしまった穴を埋めるために金が要る」として身代金4500万円を要求したのです。
もしろん宮川は覚せい剤の取引などにはかかわっていません。しかし、このように言えば誘拐犯は暴力団関係者だと疑うのではないか、とミスリードを狙ってわざわざ覚せい剤という単語を出したそうです。
電話を受けた支店長はすぐに山梨県警に連絡し、県警から秘密裏に捜査員が送り込まれて支店内へは録音機材などが設置されました。
しかしこの後、宮川から甲府信金大里支店へは合計7回の電話がありましたが、警察が録音に成功したのは3回のみだったといいます。
宮川は1度の電話を逆探知が可能となる1分20秒未満で切り上げていたため、逆探知も困難だったそうです。
甲府信金OL誘拐殺人事件の詳細⑥ 失敗に終わった身代金受け渡し
電話のなかで宮川は何度か身代金の引き渡し場所を指定しており、最初の場所は甲府市中小河原町にある喫茶店でした。
11日の16時頃、支店長は指定された喫茶店に向かい、次にそこから約5㎞程離れた甲府市下曽根町のガソリンスタンドに行くように指示されて移動しました。
この時、宮川は自分の車の乗って支店長の後ろを走り、周囲に警察らしき人物がいないかチェックしていたといいます。
ガソリンスタンドに支店長が到着したことを確認した宮川は、携帯電話から電話をして「中央道上り線の104キロポストから、5分以内に身代金を柵の外に投げろ」と指示しました。
この時、宮川は「現金を確認次第、人質は解放する」と支店長に伝えていました。すでに友紀さんを殺害、遺体さえどこにあるのかわからないような状況だったにもかかわらずです。
なお、宮川の供述によると、この高速道路から身代金を投げるという方法は1963年に公開の黒澤明監督作品『天国と地獄』に出てきた手法をまねたとのことです。
宮川からの電話を受けた支店長は、すぐさまガソリンスタンドから目と鼻の距離にある104キロポストに向かおうとしました。
しかし、身代金の受け取りに来た犯人をどうしても現行犯逮捕したい警察は、「包囲網が完成するまで身代金を投げないでほしい」と支店長を引き留めます。
結果、支店長が中央道上り線の104キロポストから身代金を投げた時間は、なんと宮川から電話がかかってきてから約54分が経った後でした。
この山梨県警の判断は「人質の保護よりも犯人確保に重きを置きすぎている」と、大きな批判を呼びます。そしてこの受け渡し失敗を最後に、宮川からの連絡が途絶えてしまったのです。
甲府信金OL誘拐殺人事件の詳細⑦ 韓国への逃亡
身代金の受け渡しに失敗した翌日、山梨県警は南甲府警察署内に捜査員220名を集めて捜査本部を設置。
友紀さんを誘拐した犯人は指定してきた喫茶店やガソリンスタンド付近にいたものと見て、怪しい人物の洗い出しに取り掛かりました。
そして、事件発生から1週間後の8月17日に静岡県富士宮市を流れる富士川で友紀さんの遺体が発見されます。
これを受けて捜査本部は8月20日に、宮川がかけてきた身代金要求の脅迫電話の音声を一般公開しました。
そしてメディアが、声紋鑑定の第一人者である日本音響研究所の鈴木松美氏にこの音声の鑑定を依頼。鈴木氏によって以下のような犯人像が浮かび上がりました。
・身長は170㎝程度
・年齢は40~50歳代
・身代金の要求という緊張する場面でも甲州弁を多用していることから、甲府盆地周辺在住で、仕事でも甲州弁を使用している可能性が高い。
・身代金の受け渡しを「無地の帯封」を指定しているが、これは銀行名の入った帯封があることを知っていないと指定できない。そのため、犯人は大金を扱う仕事に就いている可能性が高い。
・話の運び方から、営業職ではないかと思われる。
この鑑定はかなり的確なもので、宮川の身長は172㎝、1台1000万円を超す大型車両の売買に関わっており、仕事の営業でした。
また公開捜査が開始されるやいなや捜査本部には700件を超える情報が寄せられ、じわじわと宮川への包囲網が狭まっていきます。
一方その頃、宮川は愛人の故郷である韓国への逃亡を図っていました。公開捜査が発表された翌日の8月21日に宮川は友人から100万円を借り、家族を残して国外に逃げたのです。
甲府信金OL誘拐殺人事件の詳細⑧ 宮川豊の逮捕
しかし愛人を頼って韓国に渡ったものの、言葉さえ通じない環境での潜伏は困難であり、いずれ自分が犯人だと明らかになると考えた宮川は、早々に日本に帰国していました。
そして公開された身代金要求の音声を聞いた宮川の知人・近藤義長さんが「これは、あいつの声ではないのか」とピンときて、帰国した宮川を呼び出して問い詰めたといいます。
建材会社の社長であった近藤さんは、仕事の取引からはじまり家族ぐるみで宮川と付き合いがあったそうです。
そのような親しい間柄であったため、「自分の耳に間違いはない」「声紋鑑定で出た結果も、宮川と一致する」と確信した近藤さんは8月23日の夜に宮川を呼び出し、「あの事件、お前がやったんだろう」ときつく問いただしました。
「このままでも絶対捕まる、死刑になるぞ」と近藤さんに言われた宮川は、ついに観念。自分がやったと認め、24日の午前5時には近藤さんに付き添われて警察に自首するに至りました・
甲府信金OL誘拐殺人事件の裁判と判決
甲府地裁で開かれた宮川豊の第一審では、自首の有効性が争点となりました。
通常、犯人がまったく不明な状態で自首があった場合、判決に影響が出て量刑は軽くなります。弁護側は死刑を求刑する検察に対して、宮川の自首の有効性を訴えました。
ところが、自首をした時点ですでに甲府地裁は捜査線上に宮川が浮上していたことなどから、宮川の自首は有効性を持たないと判断します。
そうであれば犯行動機も身勝手で同情の余地がなく、殺害後に友紀さんの無事をにおわせて身代金を要求したなどの悪質性から見ても、死刑相当ではないかと思われました。
しかし、言い渡された判決は無期懲役。自首の有効性はないものの、自ら罪を認めて出頭しており、反省が見られること、初犯であること、これまで一応平穏な家庭を築いてきたことなどをあげて、「死刑ではなく、終生、被害者への贖罪をすることが望ましいと判断した」と述べたのです。
当然ながら検察は控訴しましたが、東京高裁も「被害者の数を考えると、極刑は避けるべきという傾向がある。一審判決は軽すぎるとも重すぎるとも言えない」などとして控訴を棄却。
検察、弁護士双方が上告しなかったため、1996年5月1日をもって宮川豊の無期懲役が決まるという、なんともすっきりしない幕引きとなりました。
甲府信金OL誘拐殺人事件の現在
宮川豊は現在も千葉刑務所に服役しており、求刑死刑という重い罪で無期懲役となったことから、今後も仮釈放されることはないのではないかと見られています。
宮川の妻は逮捕後に離婚しており、高齢の実母、妻、2人の子どもの4人は家を売って引っ越していったそうです。
甲府信金OL誘拐殺人事件が大きく報じられた際には、被害者である内田友紀さんの実の父親が怪しいのではないか?といった流言も飛び交ったといい、遺族は何重にも苦しんだとされます。
宮川が裁判で言われたとおりに贖罪の日々を過ごしているのかは不明ですが、何らかの形で遺族に償いをしていることを願います。
甲府信金OL誘拐殺人事件についてのまとめ
今回は1993年8月10日に山梨県甲府市内で発生した甲府信金OL誘拐殺人事件について、犯人の宮川豊の生い立ちや犯行動機、事件の発生から判決までの流れを中心に紹介しました。
この事件では被害者の内田友紀さんが狙われた理由が到底理解できないものであり、いつ、誰が見ず知らずの人間の身勝手な計画で殺害されても不思議ではないのだ、という衝撃を社会に与えました。
また、未だに死刑相当の事件であったのに無期懲役は酷い、被害者や遺族の無念さはどうなるのか、と裁判所の判断に非難の声が寄せられている事件でもあります。