北方領土の現在!歴史や問題の原因・ロシアの主張・住んでる人や人口・地図と行き方もまとめ

北方領土は第二次世界大戦以降ロシアに占拠されている日本の領地で、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島からなります。この記事では北方領土の歴史や場所、人口、地図、行き方や住んでる人、ロシアの主張、北方領土問題の現在をわかりやすく紹介します。

北方領土の場所と概要

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

北方領土とは、北海道の東に位置する歯舞(はぼまい)群島、色丹(しこたん)島、国後(くなしり)島、択捉(えとろふ)島のことです。

 

本来は日本固有の領地なのですが、第二次世界大戦が原因となって起きた領土問題により、戦後から現在に至るまでロシアによって占拠されています。

 

北方領土問題は日本とロシアが抱える最大の懸案事項であり、これが理由で日露間には未だに平和条約が締結されていません。

 

もともとは日本の領土なのだから、早く返すべきだというのが日本側の主張なのですが、ロシアでの北方領土の認識は違うのだといいます。

 

一般的にロシアでは、北方領土は第二次世界線末期にソ連軍によって解放された島々が、そのままロシアの領土になったという認識なのだそうです。

 

日本側とロシア側では問題の見え方がまったく異なっており、それぞれの訴えが対立している状態なのです。

 

 

北方領土の歴史をわかりやすく解説① 日露間の国境の誕生

 

北方領土の歴史を知るにあたり、まずは日本とロシアの国境はいつ、どのようにできたのかを見ていきましょう。

 

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根室海峡からカムチャツカ半島の南にある千島海峡までに存在する千島列島に人が定住し始めた時期は、旧石器時代まで遡るとされます。

 

そして日本が江戸時代になる頃には千島列島の北部に千島アイヌが、列島の南部には蝦夷アイヌが居住し、狩猟や漁業、交易などを行っていました。

 

そこにカムチャッカ半島からロシア人が、北海道から日本人が進出してきたのです。

 

千島列島は優れた漁場であったため、海産物や海獣の毛皮などを求めてやってきた日本人やロシア人といった侵略者によって支配されていきます。

 

さて、この頃、千島列島の北部は気候の厳しさゆえにアイヌ民族も定住はしていませんでしたが、現在の北方領土を含む南部の島々にはアイヌ民族が定住しており、北海道との繋がりもありました。

 

先住民を支配したことを考えると乱暴な言い方ではありますが、すでに千島列島の南部は日本の領土寄りの位置づけだったわけです。

 

一方、同じ時代のロシア帝国は鎖国下にあった日本との交易を望んでいました。

 

当時のロシア帝国はシベリアや極東地域でとれる動物や海獣の毛皮を重要な財源にしていたのですが、極東地域は人口が少なく、大規模な狩猟活動を行うには物資の供給が難しいという問題を抱えていました。そこで、日本の協力を得たいと考えたのです。

 

こうしてロシア帝国はアメリカとともに江戸幕府に開国を迫り、1885年に日露通好条約が締結されます。

 

この日露通好条約内で、初めて正式に日本とロシアの国境が定められ、以下のように明文化されたのです。

 

今より後、日本国とロシア国との境「エトロプ」島と「ウルップ」島との間に在るべし
 
こうして、択捉島から南が日本の領土、ウルップ島から北がロシアの領土となりました。
 
 

北方領土の歴史をわかりやすく解説② 樺太千島列島交換条約

 

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しかし、日露通好条約が締結された20年後に日露間の国境は早くも変更となります。

 

1875年に両国の間で樺太千島列島交換条約が結ばれ、ウルップ島より北の千島列島が日本の領土となり、日露通好条約で境界を定めていなかった樺太がロシアの領土となったのです。

 

樺太では日露間で土地や漁場をめぐるトラブルが絶えず、ロシアとしては自国のみで占拠したいという思いがありました。

 

日本にとっても樺太は魅力的な土地だったのですが、当時は北海道開拓で手がいっぱいだったために樺太を持て余していたこともあり、日本はロシアの提案を飲んだとされます。

 

実は樺太千島列島交換条約の背後には、イギリスの入れ知恵も大いに影響していました。イギリスはロシアの海軍国家を阻止したいと考えていたため、米英による監視を容易にすべく、千島列島を日本の領土にするように仕向けたとのです。

 

さて、日露通好条約が締結された後、明治維新を経て新たな国郡制が敷かれた日本で、北方領土のうち択捉島と国後島が千島国に、色丹島と歯舞島が根室国に含まれることになっていました。

 

これも1885年に変更となり。色丹島が根室国から千島国に編入されることになりました。

 

 

 

北方領土の歴史をわかりやすく解説③ 日露戦争

 

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1904年から翌年にかけて起きた日露戦争が原因で、日本とロシアの国境はまたしても動きます。

 

1905年に締結されたポーツマス条約により、樺太の南半分が日本の領地になったのです。

 

当時の日本は朝鮮と満州での権益を拡大させようとして、同じ目的を持つロシアと激しく対立していました。

 

一時は日露協定を結んで両国の対立は収まるのですが、1917年に第一次世界大戦が起きると日本とロシアは再び対立。

 

そして第一次世界大戦の最中に、ロシアのパルチザン部隊が日本の民間人を虐殺するという尼港事件が発生します。

 

終戦後、日本は尼港事件解決の保障として樺太の北部をロシアから譲り受けました。こうして日本は樺太全土を占拠したのです。

 

これにより、樺太の油田や炭田の権益も日本のものとなりました。

 

 

北方領土の歴史をわかりやすく解説④ 第二次世界大戦

 

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1930年以降、日本はこれまで以上に積極的に満州などへの対外進出を続けるようになり、さまざまな国と対立を強めていきました。

 

そんななか、千島列島も巻き込まれていきます。日本の第一仮想敵国であるソ連とアメリカは、ともに北千島から近かったために、千島列島は要塞化されていったのです。

 

各国が自分の利益を求めてめまぐるしく立ち回るなか、1939年に第二次世界大戦が勃発。

 

1942年にはアメリカの領土であるアリューシャン列島を攻略するため、千島列島に守備隊が投入されます。

 

しかし、翌年には早々にアメリカ軍によってアリューシャン列島が奪還され、千島列島は対米の最前線基地となったのです。

 

1943年9月には大本営の発表で、「本土防衛のために死守しなければいけない土地」の筆頭として、千島が第一にあげられたほどです。

 

ところが1944年にサイパン島が陥落すると、サイパンから飛び立った米軍機が東京を空襲できるようになったため、本土の守りという千島列島の役割は薄くなっていき、実質的に放棄されたような状態になります。

 

 

北方領土の歴史をわかりやすく解説⑤ ソ連による占拠

 

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そして日本が不利な状態に陥っていくなかで、1943年12月にアメリカ、ソ連、中国の3ヶ国がカイロ宣言を発表。

 

カイロ宣言には、日本がこれまでに占領した太平洋の島々、満州、台湾、澎湖諸島を放棄し、略取したすべての土地から撤退するようにとありました。

 

北方領土をふくむ千島列島は、日本がロシアとの平和的な話し合いによって領土とした土地ですから、カイロ宣言の指す「略取したすべての土地」には含まれません。

 

しかし、1943年10月に開かれた英米ソの外交会議では秘密裏に千島列島をソ連に引き渡すことなどが話し合われていたのです。

 

そして1945年2月にヤルタ協定が締結されると、そのなかでソ連が連合軍として対日参戦するかわりに、樺太の南部およびこれに隣接する地域がソ連に返還されること、千島列島がソ連に引き渡されることを約束しました。

 

一方でこの頃、日本の首脳部は近衛文麿を特使としてモスクワに派遣し、「日本の国土については固有のものだけで満足する(占領した土地については返還する)」という和平要綱を持参する予定でいました。

 

この和平要綱には「固有の国土」について注釈があり、沖縄、小笠原諸島、樺太は放棄するが、千島列島の南半分は保有を続けるとあったとされます。

 

つまり日本は、この段階では北方領土をふくむ南千島を手放すつもりはなかったのです。

 

しかし結局、ポツダム宣言では日本の国土は「本州と北海道、九州、四国ほか連合国軍が定める諸小島に限られる」とされてしまい、主要4島以外は連合国の指示に従うことになってしまいます。

 

日本がポツダム宣言を受諾する前にソ連軍は満州、内モンゴル、樺太、千島列島に兵を派遣して侵攻を始めました。

 

すでに日本軍は戦力の多くを南方戦線に移していたため、これらの土地に残っていたのは主に開拓民などの民間人だったのですが、ソ連軍は彼らを虐殺。

 

ポツダム宣言を受諾した後も信仰をやめずに、樺太を占拠し、千島列島にも進軍を開始ました。

 

さらにスターリンはシベリア出兵の代償として北海道もソ連に差し出すように迫りましたが、トルーマン米大統領が止めたことから、北海道は占拠されずに済みます。

 

が、1945年9月5日までに北方領土を含む千島列島はすべてソ連に奪われてしまったのです。

 

 

北方領土問題への日本の対応① 返還運動の始まり

 

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終戦と同時にソ連に奪われてしまった北方領土を取り戻すべく、最初に返還活動を行ったのは根室町長であった安藤石典氏でした。

 

安藤町長はすぐに日本に返還するように訴えても厳しいだろうと考え、まずはアメリカに北方領土を占領してもらえないかと考えました。

 

本土もアメリカに一時占領されたものの、返還されたことから、アメリカならば北方領土を引き渡しても、じきに返還してくれるのではないかと思ったのです。

 

そこで安藤町長は1945年12月1日にダグラス・マッカーサー宛に以下のような内容の陳情書を提出しました。

 

・色丹島は歯舞群島に含まれ、歯舞群島は根室の一部だ

 

・南千島と歯舞には3~5代に渡って島民が住んでいる

 

・南千島と歯舞は根室港を中心とする水産圏内にあり、根室と同一のは産業や生活を持つ

 

・南千島と歯舞は地理的にも歴史的にも北海道に付属する島々であり、ポツダム宣言の内容も考慮してアメリカ軍に占拠してほしい

 

ここで安藤町長が指している「南千島」というのは、国後島と択捉島のことです。

 

さらに色丹島は歯舞群島に含まれ、4島すべてが根室、つまり北海道に従属する日本の国土であると訴えたのです。

 

その後、安藤町長は1946年に北海道付属島嶼復帰懇請委員会を結成し、1951年7月までの間に合計5通の陳情書をマッカーサー宛に送りました。

 

2通目以降の手紙には、北方領土から追いやられた島民たちが根室に押し寄せ、生活が困窮していることや、ソ連の国境警備隊に北海道の漁船が拿捕されていることなども綴り、助力を求めたとされます。

 

さらに安藤町長の後に続くように1946年には函館で北方漁業開発期成同盟が千島全島の返還を求める運動を開始し、1947年には札幌に樺太千島返還懇請促進連盟が設立され、北海道内で3つの団体が立ち上がりました。

 

そして1950年には田中敏文北海道知事が、3つの団体の意見を取りまとめて「千島全島の返還」を求める所見を発表しました。

 

 

北方領土問題への日本の対応② サンフランシスコ講和条約

 

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1946年1月に連合軍最高司令部訓令が発表されると、ポツダム宣言が示す「日本の国土から除かれる地域」に、千島列島と歯舞島、色丹島が入っていることが明らかになります。

 

このことを受け、日本政府は前述の北海道内の団体の主張とは異なる「歯舞群島と色丹島だけを取り戻す」という方向に舵を切って講和会議の準備を始めました。

 

日本政府は歯舞群島と色丹島が千島列島のほかの島々に比べて北海道と密接な関係にあること、千島よりも北海道に従属していることを示す資料を集めたとされます。

 

もちろん国後島や択捉島も日露通好条約が締結されて国境が定められて以降、一度もソ連やロシアの領土になったことのない土地です。

 

しかし、敗戦国という弱い立場であることを考慮して、日本政府も国後島や択捉島は諦め、確実に日本の領土だと訴えられる2島だけを取り返そうとしたのです。

 

1951年9月8日、日本は連合国48ヶ国とサンフランシスコ平和条約を調印し、1952年4月に主権を回復することとなります。

 

サンフランシスコ平和条約のなかで、北方領土の扱いは以下のように記されていました。

 

千島列島および、日本国がポーツマス条約の結果として獲得した樺太の一部とそれに付随する島々については、すべての権利、権原および請求権を放棄する。
 
当時の首相である吉田茂は「歯舞群島と色丹島は千島列島に含まれない(北海道に含まれる)」「国後島と択捉島は開国の頃からの日本の領土である」として、サンフランシスコ平和条約で正式に日本の領土でなくなるのは、ウルップ島より北の島々と、樺太のみだと受け取りました。
 
平和条約の受諾演説でもその旨を述べたのですが、ソ連側はこの演説に怒って平和条約に調印せずに途中で退席してしまいます。
 
ソ連側にしてみれば、ヤルタ協定で樺太の南部およびこれに隣接する地域をソ連が譲り受けるという決まりがあったのに、それを反故にされたことになります。
 
第二次世界大戦後、ソ連はアメリカと対立を深めていましたから、日本の肩をアメリカが持つのは非常に屈辱的なことでした。
 
この後、アメリカを中心とする西側陣営とソ連を中心とした東側陣営で世界は2つに分かれて対立する冷戦時代を迎えるのですが、サンフランシスコ平和条約調印直後に日本はアメリカと日米安全保障条約を締結し、アメリカ側につくことを表明します。
 
そのためにソ連との間にはさらに距離が生まれ、講和も先送りにされて領土問題は未解決になってしまったのです。
 
 

北方領土問題への日本の対応③ 日ソ国交交渉

 

出典:https://sputniknews.jp/

 

1953年、ソ連はスターリンが死去し、フルシチョフを指導者にした新しい路線に進む動きを見せていました。

 

そして1955年に日本とソ連は、平和条約を結ぶための2国間交渉を開始します。

 

こうして1956年10月に日ソ共同宣言が締結されるのですが、そのなかで「日本とソ連の間に正常な外交関係が回復された後に、サンフランシスコ平和条約締結に関する交渉を行う」という取り決めがされます。

 

さらに日ソ共同宣言では北方領土について、「平和条約が締結された後に、歯舞群島と色丹島を日本国に引き渡す」ということも明言されました。

 

このソ連の対応は、交渉の初期の段階で北方領土4島すべての返還に応じないであろうと考えていた日本にとって、意外なものでした。

 

しかし日本側としては国後島と択捉島も返還するべきだという意向は捨てずに交渉に臨んだものの、結局は上記のように歯舞群島と色丹島のみ返還という結論に落ち着いたとされます。

 

ここで中途半端に折れてしまったことが、北方領土問題を長引かせる原因になったという指摘もあります。

 

ただ、当時の日本はソ連との間に、シベリア抑留者の帰還問題や、漁業問題、国連加盟への合意などさまざまな問題を抱えていました。

 

そのため、北方領土問題のみにこだわって日ソ共同宣言を拒否するという選択肢は取りづらかったのです。

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こうして日本とソ連の関係は前進し、日本は国連への加盟も認められました。が、領土問題は解決されずにまたしてもあいまいなまま先送りになったのでした。

 

 

北方領土問題への日本の対応④ 冷戦に翻弄される北方領土

 

日ソ共同宣言では、両国間で平和条約締結に向けての話し合いを継続するという取り決めもされましたが、結局、これが叶うことはありませんでした。

 

1960年1月に日本とアメリカが新安全保障条約を締結すると、日米の距離の近さに不快感を示したソ連が、歯舞群島と色丹島の返還条件として「日本の国土からの米軍撤廃」を一方的に突き付けてきたのです。

 

日ソ共同宣言にはなかった条件を勝手に付け加えてくるソ連に対し、日本も激しく反発します。

 

そして「歯舞群島と色丹島だけではなく、北方4島すべての返還を求める」とソ連に覚書を送り、両国は対立を深めていきました。

 

その後。1973年になってようやく田中角栄がモスクワを訪れ、日ソ共同声明を調印するのですが、ここでも領土問題については明確に触れられずに話は終わります。

 

日ソ共同声明のなかには「第二次世界大戦から未解決の問題を解決して、両国間で平和条約を締結する」という旨が記されていました。

 

しかし、日本側が「未解決の問題」に領土問題が含まれると受け取った一方で、ソ連側は領土問題は存在しないという認識だったのです。

 

こうして1973年の日ソ共同宣言でも北方領土問題は解決せず、平和条約締結に向けた交渉の継続も実現されませんでした。

 

 

北方領土問題への日本の対応⑤ 日本地図で北方領土という名前が使われる

 

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さて、北海道で暮らす人々や漁業関係者にとっては身近な問題であった北方領土問題ですが、一般の国民に「北方領土」という言葉が広く認知され、地図にも記されるようになったのは1960年代に入ってからでした。

 

サンフランシスコ平和条約で日本が放棄した「千島列島」に歯舞群島と色丹島が含まれない、「千島」に国後島と択捉島が含まれないということを明確にするために、正式に呼び名を変え始めたのが、この頃なのです。

 

1960年頃から国会や報道では頻繁に北方領土という言葉が使われるようになり、1964年6月には外務省事務次官の通達で「南千島」という言葉の使用を禁じる通達が出されます。

 

この通達以降、地図や教科書からも「南千島」というかつて国後島と択捉島を指した地名が消え、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島は北方領土と記されるようになりました。

 

そして千島列島はウルップ島より北の島々を指す言葉として使われ、地図上でも樺太の南半分とウルップ島より北の島々が白抜きにされるようになります。

 

これは単に日本の領土ではないことを示しているわけではなく、サンフランシスコ平和条約で日本が放棄した領土の帰属先が定められなかったため、「どこにも帰属していない領土」という意味で白抜きにされているのです。

 

 

北方領土問題への日本の対応⑥ 冷戦終了とソ連解体後

 

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1985年、ゴルバチョフが最高指導者になったソ連はペレストロイカを進め、西側諸国との関係改善にも乗り出しました。

 

そして1949年に米ソ首脳が冷戦の終結を発表。日本とソ連の間でも領土問題についての交渉が再会します。

 

そして1991年4月、訪日したゴルバチョフは日ソ共同宣言に署名し、北方領土4島の名前を明記して帰属を話し合うとしたのです。

 

これは大きな前進であり、さらにソ連側は日本国民がパスポートやビザを持たずに北方領土4島に渡航することも認めました。

 

この時までは元島民による墓参り以外で日本国民が北方領土4島を訪れることは禁止されていたため、これは領土問題解決への光になると思われました。

 

しかし、現在に至るまで北方領土問題は解決せず、この時の日ソ共同宣言以降は両国間の動きは停滞しています。

 

 

北方領土問題への日本の対応⑦ 叶わなかった平和条約の締結

 

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ソ連側が態度を軟化させたことに安堵した日本は、「北方領土4島がすべて返還されるのであれば、返還の時期や様態、条件についてはなるべくソ連の意向に沿う」という考えを示しました。

 

この頃のソ連は国内で政治的な対立や民族問題、経済状態の急激な悪化などさまざまな問題を抱えており、それが解決するまで待つという姿勢を見せたのです。

 

1991年の末についにソ連は解体して、継承国としてロシア連邦が誕生。

 

新たにロシア大統領になったエリツィンは領土問題に関心を示しており、1993年10月に来日した際には「北方領土4島については正義の原則に即して解決する」という東京宣言に署名します。

 

そして1997年には「東京宣言に即して、2000年までに平和条約を締結するように全力を尽くす」という取り決めも日ソ間で行われました。

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しかし、順調に行っていた交渉にまたしても陰りが見えます。

 

1998年4月に日本は、静岡県伊東川奈市で開かれた日露首脳会談で、「国境を択捉島の北に設定するのであれば、4島へのロシアの施政権を認める」という川奈提案を行いました。

 

日本側にしてみれば、実際に領土が返還されなくても国境さえ択捉島の北と認めてくれれば構わないという、このうえな譲歩だったと言えるでしょう。

 

ところが、ロシア側はこれを拒否し、「2000年までに平和友好協力条約の締結を目指すが、国境については別の条約で決める」としてきたのです。

 

そのため、またしても領土問題は解決しないままとなりましたが、1993年に日本とロシアは北方領土4島での共同経済活動委員会の設置などを盛り込んだモスクワ宣言に署名しました。

 

しかし、1999年末にエリツィンが突然辞職したことにより、2000年までに日露間の平和条約を締結するという目標は実現しませんでした。

 

 

北方領土の現在① 2000年以降の動き

 

出典:https://www.youtube.com/

 

エリツィンの辞職によってこれまで前進を見せていた領土問題解決と、平和友好協力条約締結はストップすることとなります。

 

くわえて2002年には鈴木宗男元衆議院議員が国後島の人道支援施設ににからむ偽計業務妨害事件(ムネオハウス事件)を起こしたことにより、領土交渉がさらに停滞。

 

そして第二次安倍政権下では、首脳同士が信頼関係を築くことで平和条約を締結し、その延長で領土問題を解決するという方針がとられました。

 

しかし、これは失敗に終わります。安倍晋三元首相は「新たなアプローチ」として通算27回の首脳会談を行いましたが、ロシア側におもねるような弱腰外交になり、プーチン大統領にかわされ続けたと指摘されています。

 

安倍元首相は自分の代で北方領土問題を解決させ、政治的遺産を築くという野心を持っていたとされます。

 

そのため、当時の外務省は領土問題や国境問題をあいまいにしたまま、北方領土での経済協力はできないという慎重な姿勢を貫いていたにもかかわらず、それを押し切って先に経済協力をしてロシアの態度を軟化させようという独自路線をとったのです。

 

結果、プーチン大統領は北方領土については具体的な言及を避けながら経済支援だけを引き出しました。

 

この結果に対しては、譲歩するのは戦後のどさくさに紛れて日本の国土を不当に占拠したロシア側であるという原則を無視して、成果を焦って妥協案を提示した安倍元首相のミスだと指摘されています。

 

2020年9月に安倍政権が退陣した後、菅政権、岸田政権でも北方領土問題での進展はありません。

 

 

北方領土の現在② ロシアの主張と領土問題が解決しない原因

 

実効支配から半世紀以上が経過してもなお、進展しないどころか悪化しているとさえ言われる北方領土問題。

 

なぜいつまでも解決しないのでしょうか。ここではロシアの主張と、解決しない原因としてあげられる点を簡単に見ていきましょう。

 

 

母国語で作成されなかった条約

 

日露間での領土問題を複雑にされたもともとの原因は、日本とロシアの間で日露通好条約が締結された時に遡るとの指摘もあります。

 

当時はロシア側代表団に日本語を理解できる者がおらず、日本側代表団にもロシア語を理解できる者が1人もいないという状況で条約が締結されたといいます。

 

ではどのように交渉や条文の作成をしたのかというと、両者が理解できるオランダ語を通して行ったのだそうです。

 

さらにその後に締結された樺太千島列島交換条約は、フランス語で正文が作成され、それを日本語とロシア語に翻訳して両国に渡すという方法がとられました。

 

現在、国際条約の作成や締結を行う際には、当事者2ヶ国の言語でそれぞれ条約の正文が作成され、誤解を招く表現がないか等しっかりと確認するのが一般的になっているのですが、当時はそういった決まりがなかったのです。

 

どちらの公用語でもない言語で作られた条文、というだけでも内容の受け取り方に違いが出てしまうのは想像に難くありません。

 

 

双方の歴史解釈

 

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当初に締結された条約の受け取り方が違ったという点に続き、日本とロシアでは北方領土をめぐってパラレルな歴史が存在するとも言われています。

 

日本側が北方領土は日本固有の領土だと主張するように、ロシア側は北方領土はもともと誰のものでもなく、それを第二次大戦でロシアが解放し、自国の領土として発展させたと信じられているのだそうです。

 

このように聞くとロシアとはなんと盗人猛々しい国なのだ、許せないと憤りを感じる人もいるかもしれません。

 

しかし、もとより千島列島に暮らしていたアイヌの人々からすれば、「自分たちが厳しい環境に耐えて北方領土を開拓したのに」「北方領土は北海道に従属している」という日本人の主張も、身勝手なものに思われることでしょう。

 

同じ時代を生きていても歴史の見え方は立場によって変わります。

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ましてやロシア(ソ連)が北方領土を実効支配をしてから70年以上もの事件が経過してしまったため、北方4島で生きている人々にとっては自分たちの信じる歴史こそが正史という認識になるのも仕方のないことです。

 

このことが政治的な事情とは違った意味で、北方領土問題解決を困難にしているとされています。

 

 

ウクライナ侵攻の影響

 

現在の時点で北方領土問題が解決しない、交渉が進まない一番の理由とされているのがロシアによるウクライナ侵攻です。

 

樺太千島列島交換条約が締結された当時、ロシアは樺太を放棄して小さな島々を領土にしたいという日本の申し出に対して「なぜ、そんなに千島列島にこだわるのか」と疑問に感じたそうです。

 

当時はまだ、北方4島が軍事的にどのような意味を持つ場所なのかロシアは気づいていなかったのです。

 

しかし、現在は違います。ロシアが戦略原子力潜水艦を配備しているのは北方領土より西のオホーツク海であり、北方領土を盾にすることでアメリカからの干渉を受けずに済んでいるとされます。

 

つまり北方領土を日本に返還してしまうと、アメリカもオホーツク海を北方領土まで戦略原子力潜水艦を動かしてロシアの動きを抑制できるようになるため、何が何でも死守したいという考えがあるのです。

 

 

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現在のロシアは北方領土を軍事的に重要な「聖域」と見ており、択捉島と国後島に軍事施設を建設して軍事拠点化を進めています。

 

このことはアメリカも危惧しており、アメリカのエマニュエル駐日大使も「北方領土は日本の領土であり、主権も日本であるという考えを支持する」としています。

 

また、ロシアの侵攻を受けているウクライナのゼレンスキー大統領も、「北方領土は日本の国土だ」という声明を発表。ウクライナと同じく、北方領土もロシアに蹂躙された土地だという見解を示しました。

 

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このように北方領土を挟んで、アメリカや欧米諸国とロシア、そして中国や北朝鮮が対立するようなかたちになってしまったために、いっそう北方領土返還の道は遠のき、ロシアの態度も硬化しているのが現状です。

 

そのため北方領土返還の話が前進するのは、プーチンが大統領を退いてからではないかと見られています。

 

 

北方領土に住んでる人と人口は?

 

出典:https://www.youtube.com/

 

1945年8月の時点で、北方領土4島の住民は合計で約1万7000人にのぼりました。彼らは漁業を中心に生計を営み、厳しい環境の中で自分たちの土地を守ってきたとされます。

 

しかし、戦争の末期から終戦後にかけてソ連の実効支配がはじまると、もともと北方領土4島に住んでいた人々は激しい迫害を受けるようになり、そこここでソ連軍による略奪や脅迫行為が起こりました。

 

そして実効支配が終わり、なし崩し的に占拠が完成したところでソ連軍の軍人の家族までもが北方領土4島に移住。

 

自分たちの故郷を守ろうと残った人々は、なんとかソ連軍との共存の道を探りました。

 

なお、北方領土4島に住んでいた人々は自分たちはどうすればよいのか、たびたび根室に指示と支援を訴えていたといいますが、北海道どころか日本全土が敗戦の混乱に包まれていたために満足な回答も援助も得られなかったとされます。

 

が、1948年になると占拠された故郷に留まることさえ許されなくなります。ソ連が北方領土4島に住んでいる日本人全員に対して、日本への強制帰還命令を出したのです。

 

そのため、日本人の住民はすべて北方領土から出て行かなければならなくなり、島に住んでいるのはロシアの人々だけになりました。

 

現在、北方領土4島(歯舞群島には民間人はいない)に住んでいるロシア人は合計で16,600人ほどで、占拠時のロシア軍人の末裔も多く定住しています。

 

彼らからしてみれば生まれた時から住んでいるわけですから、4島はロシアの国土という認識でしょう。

 

したがって日本側の北方領土を返せという訴えは彼らにとっては受け入れがたいもので、「自分たちの故郷をなぜ他国に引き渡さないといけないのか」「日本は一度引き渡した土地を、惜しくなってやっぱり返せと駄々をこねている」と、いう声があがっているといいます。

 

ただ、島民全員がそのような考えを持っているわけではなく、日本の文化や歴史に興味を持つロシア人からは「日本の領土なのだから返還するべきではないのか」といった意見も出ているとされ、住民の考えも多様化しているそうです。

 

 

北方領土への行き方・現在は渡航できる?

 

出典:https://www.youtube.com/

 

現在、日本政府は北方領土への渡航の自粛要請を出しています。

 

2024年現在、日本国民が北方領土を訪れるにはビザを取得する必要があります。

 

しかし、ビザを取得して入域することは、北方4島がロシアの領土であると暗黙のうちに認めることに繋がるため、政府は領土問題を複雑にする恐れがあるとして渡航自粛を訴えているのです。

 

2021年までは、民間人の観光目的での渡航にはビザが必要なものの、元島民やその子孫、報道関係者、歴史、民俗、社会学等の研究科など、一部の人に向けたはビザなし交流が認められていました。

 

そのため、ビザなし交流の関しては政府も制限しないというスタンスでした。

 

しかし、このビザなし交流も新型コロナ流行の影響やウクライナ侵攻の影響を受けて困難な状況にあります。

 

2022年9月5日にはロシア側から一方的にビザなし交流は破棄するという通達をされており、元島民による墓参を除いての渡航にはビザが必須になってしまいました。

 

また、2019年には領土問題の解決と平和条約締結への足掛かりとして歴史上初の北方領土への観光ツアーが開催されましたが、その後は上記の社会情勢の影響もあって同様のツアーは実施されていません。

 

 

北方領土についてのまとめ

 

今回は第二次世界大戦以降ロシアに占拠されている北方領土について、歴史や返還されない原因、現在を中心に紹介しました。

 

北方領土が軍事的に重要な役割を持ってしまったことから、もはや領土問題は日本とロシアだけの問題ではなくなっており、元島民や何も知らずに暮らしているロシアの人々が置き去りになってしまうのではないかという懸念もあります。

 

一方で次にロシアが衰退した時に北方領土を取り返さないと、対中・対北朝鮮という面でも日本は窮地に立たされるとも指摘されています。なんとか良い方向で主権を取り戻せるよう願うばかりです。

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