天津七三郎は1964年に発生した仙台幼児誘拐殺人事件の犯人です。映画『切腹』にも出演した元俳優で、日本で唯一死刑になった芸能人として知られます。この記事では天津七三郎の生い立ちや家族、嫁、結婚、子供、顔写真を紹介します。
この記事の目次
天津七三郎が起こした仙台幼児誘拐殺人事件の概要
1964年12月21日、宮城県仙台市内で金融業を営む菅原さん宅に一本の電話がかかってきました。
電話に出たのはこの家の三男・智行くん(5歳)で、電話口の男は「(智行くんの通っている)幼稚園の修道女のマドレーさんが帰国することになったため、記念撮影をしている。今から幼稚園に来て一緒に写真を撮らないか」と伝えてきたそうです。
この話を信じた智行くんは、自宅から100mほど離れた幼稚園に1人で向かいました。
しかし実際には幼稚園にマドレーという名前の修道女はおらず、園に向かう途中に智行くんは乗用車に乗せられ、連れ去られてしまったのです。
この誘拐犯こそ、元俳優の天津七三郎(てんしんしちさぶろう・当時29歳)でした。
天津七三郎は裕福な家庭の三男であった智行くんに目をつけ、身代金目的で誘拐。その日のうちに菅原家に電話をかけて「子供を返してほしかったら、現金500万円を用意して指定する場所まで来い」という電話もかけます。
しかし、この時点で17時を過ぎても帰らない息子を心配した菅原さん夫妻は警察に連絡をしており、脅迫電話の内容は警察が傍受していました。
そのため天津七三郎は身代金の受け渡し場所にやってきたところを警察に取り押さえられ、あっけなく現行犯逮捕となります。
ところが、これで一件落着とはいきませんでした。身代金を要求する電話があった時、すでに智行くんは殺害されており、遺体は犯人宅の物置に遺棄されていたのです。
逮捕後、天津七三郎には二審で死刑判決が言い渡され、1974年7月5日に死刑が執行されています。
仙台幼児誘拐殺人事件は身代金目的の誘拐の厳罰化が決まった後、初めて死刑が求刑された事件であり、引退していたとはいえ日本で初めて芸能人が死刑となった事件としても社会に大きな衝撃を与えました。
天津七三郎の顔写真
出典:http://minnashinda.seesaa.net/
上の画像が俳優時代の天津七三郎の顔写真です。天津七三郎は1956年、21歳の頃に新東宝の二枚目俳優、スター候補生としてデビューしました。
デビュー後は『天皇・皇后と日清戦争』『続番頭はんと丁稚どん』『毒蛇のお蘭』などの映画に脇役で出演していました。
7作ほどの映画やドラマに出演した後、1958年に松竹へ移籍。移籍後すぐに、フジテレビ系列で放送された時代劇『変幻三日月丸』にレギュラー出演し、俳優としての地位を築いていきました。
しかし、ヒロポンの常用が発覚して警察に検挙されたことなどが原因となり、1962年に公開された映画『腹切』を最後に芸能界を引退しています。
天津七三郎の生い立ち・家族
天津七三郎、本名・車興吉(くるまこうきち)は、1935年に宮城県仙台市堤通りに産まれました。
父親は警察官の車大八、母親はきよし。夫婦にとって待望の子供であった興吉は、ひとり息子として可愛がられて育ちました。小学校、中学校と素行、成績ともに問題のない生徒だったそうです。
しかし1948年12月、中学生の興吉を残して父の大八は結核で他界。興吉も仙台高等学校進学後は結核にかかって学校を長期欠席するようになり、成績も落ちていきました。
一方、父親の死後、母親のきよしは幼稚園で働くなどしましたが、家計は苦しく身の回りのものを売ったり貯金を切り崩す生活が続いたといいます。
そんな折、母親が穴田議次郎という燃料商を営む男性と事実婚の関係になります。母親は穴田を家に招き、車家で同居を始めたことから興吉の居場所はなくなりました。
またこの頃、ほとんど登校せずに2年生の春を目前にしていた興吉は避けられない留年にも悩んでいたそうです。
そしてかねてから興味があった俳優の道を目指すために、単身上京を決意。東京の私立高等学校に転入して下宿生活を始めますが、ここもすぐに退学してしまいます。
天津七三郎が仙台幼児誘拐殺人事件を起こすまで① 俳優としての生活
出典:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/
高校を中退した興吉は東京芸術学院に入学。日本舞踊の教師・中村冠子さんの弟子となって住み込みでの修行を開始します。
そして1956年には天津七三郎として新東宝からデビューを果たし、以降は脇役ではありながらコンスタントに映画出演を続け、キャリアを積んでいきました。
俳優時代の天津七三郎は日本舞踊の指導もしていたといい、収入も相当なものであった一方で周囲にあわせるために出費も多く、たびたび仙台で暮らす母親に仕送りを頼んでいたそうです。
この頃、母親のきよしは事実婚関係にあった穴田に借金を押し付けられた挙げ句に逃げられており、極めて苦しい生活を送っていました。
そのため借金をして息子への仕送りを工面しており、最終的に200万円まで借り入れは膨らんでいたといいます。なお、1960年代の平均初任給は約1万3000円です。当時の200万円がいかに大きな金額かがわかります。
天津七三郎が仙台幼児誘拐殺人事件を起こすまで② 結婚の約束をした女優
出典:https://aucview.aucfan.com/
天津七三郎は俳優時代、女優の朝海圭子さんと結婚を前提に交際していました。
そして朝海圭子さんは天津七三郎の子を妊娠したのですが、いざ入籍しようとすると師匠の中村冠子さんや母親のきよしから猛反対にあい、あえなく結婚を断念。
朝海圭子さんとの仲を割かれたことや子供の堕胎、借金の悩みなどから天津七三郎はヒロポンに手を出すようになり、薬物中毒が原因となって俳優の仕事も激減してしまいます。
こうして1962年には母親に連れられて仙台に戻り、俳優を辞めて仙台で暮らしながら借金の整理をすることになりました。
天津七三郎が仙台幼児誘拐殺人事件を起こすまで③ 被害者一家との出会い
仙台に戻った天津七三郎は高校時代の友人とともに紅洋実業株式会社という水産物を扱う会社を立ち上げますが、経営はうまくいきませんでした。
続いて貿易会社の経営、不動産売買の仲介、土地売買の斡旋などさまざまな職業に挑戦したものの、どれも他人に騙されるなどして失敗。借金は膨らむ一方だったといいます。
後に仙台幼児誘拐殺人事件の被害者となる智行くんの父親・菅原光太郎さんと知り合ったのは、この頃です。
1964年の春、仕事の取引先から手形の支払期日の延期交渉を頼まれた天津七三郎は、手形の受取人である菅原さんのもとを訪れました。
期日の交渉に成功した天津七三郎は、菅原さんから担保になっている土地の処分を依頼されて北海道に赴きますが、うまくいかずに収支はマイナスになってしまいます。
これが不興を買い、以降は手形の割引交渉で菅原さん方を訪れても相手にされなくなったそうです。
天津七三郎が仙台幼児誘拐殺人事件を起こすまで④ 結婚と子供の誕生
一方、私生活ではバーのホステスをしていた女性と親しくなり、同棲期間を経た後に事件を起こす直前の1964年12月に結婚。ほどなくして子供も誕生しました。
しかし、子供が産まれる頃には天津七三郎の借金は400万円にも膨れ上がっており、債権者の来訪や電話、手紙の対応に追われる日々だったといいます。
そして取り立ての激しさに追い詰められた天津七三郎は、債権者らに「12月19日までに金を工面する」「12月21日に返済する」と守るあてもない約束をしてしまいます。
迫る返済日、金策の目処は立たない…そうこうしているうちに債権者に約束した12月19日が訪れました。
天津七三郎が仙台幼児誘拐殺人事件を起こすまで⑤ 決意
この日の朝、車を運転して勤務先の明実不動産へ向かう途中に菅原光太郎さん宅の門前を通りかかった天津七三郎は、恥をしのんで資産家の菅原さんに借金を頼んでみようかと逡巡します。
そうして迷っていると、菅原さん宅から幼稚園の帽子と登園バッグをさげた智行くんが出てきました。
菅原家には5億円の資産があるという噂を聞いたことがある天津七三郎は、「吉展ちゃん事件」を思い出し、「この子を誘拐すれば身代金がたんまり取れるのではないか」と考えます。
吉展ちゃん事件とは、1963年に発生した当時4歳の幼児・村越吉展くんの誘拐および殺人事件です。犯人は身代金を受け取った後に警察のすきをついて逃亡に成功しており、天津七三郎が誘拐事件を起こそうと思い至った時にはまだ逮捕されていませんでした。
そのため、自分も吉展ちゃん事件の犯人のようにうまくやれると思ったのでしょう。なお、吉展ちゃん事件の犯人も1965年7月には逮捕され、死刑が執行されました。
翌日まで事件を起こすか否か考え悩んだ天津七三郎でしたが、20日の夜には「借金返済の方法はこれしかない」と智行くんの誘拐を決意。
犯行当日の21日の午前8時30分頃、拘束用の布製腰ひも、猿轡のかわりに使う絆創膏、返送用のジャンパーなどを車に積んで、菅原家に向かって車で家を出ました。
天津七三郎が仙台幼児誘拐殺人事件を起こすまで⑥ 決行
自宅を出た天津七三郎は登園中の智行くんを狙おうと考え、幼稚園と菅原家の中間地点で待ち伏せをしました。智行くんが通っている幼稚園は制服から推測したとのことです。
しかし、9時過ぎになっても智行くんが姿を現しません。それもそのはず、幼稚園は20日から冬休みに入っていたのです。
このことに気づいた天津七三郎はいったん出社しますが、誘拐を諦めたわけではありませんでした。
なにか別の方法はないか考え、幼稚園の関係者を騙って電話をかけ、「修道女が帰国するから写真を撮ろう」と嘘をついて智行くんを外におびき寄せることを思いつき、これに成功。
幼稚園に向かう智行くんに近づき「みんなはバスでお山に向かっているから、お兄ちゃんが送ってあげよう」などと言って車に乗せます。
しかし子供を誘拐したものの菅原家に電話しても留守であり、時間稼ぎのためにさまざまな場所を連れ回されたことで不安になった智行くんは、「家に返して!」と泣きわめくように。
人目につくことを恐れた天津七三郎が頭を掴んで「さわぐな」と激しく左右にふったところ、智行くんは意識を失ってぐったりしたとされます。
その後、智行くんを後部トランクに押し込むなどしましたが、目を覚ましてまた騒がれたら…と焦った天津七三郎は拘束用に持ってきた腰ひもで智行くんの首を締め上げて殺害してしまいました。
天津七三郎の裁判と死刑判決
検察側は一審から天津七三郎こと車興吉に対して死刑を求刑していましたが、仙台地方裁判所は殺害は偶発的であったこと、更生の余地があることなどを理由に無期懲役を言い渡しました。
一審の判決後、検察は死刑を求めて上告。東京高等裁判所は1966年10月18日の二審判決で、一審の無期懲役を破棄して死刑判決を下しました。
この後、弁護側が減刑を訴えて控訴しましたが1968年には死刑が確定。1974年7月5日、仙台拘置所で天津七三郎の死刑が執行されました。
享年39歳で死刑に処された時、死の直前まで天津七三郎は北原白秋作詞の楽曲『城ヶ島の雨』を歌っていたそうです。
天津七三郎の嫁や子供のその後は?
仙台幼児誘拐殺人事件の直前に結婚した嫁や、産まれたばかりの天津七三郎の子供がその後どうしたのかについては報じられていません。
子供は父親の記憶もないような乳児でしたから、親が殺人犯で死刑囚であることは知らされずに育った可能性も考えられるでしょう。
天津七三郎の代表作・映画『切腹』
天津七三郎が芸能界を引退する前に出演した映画『切腹』は、仲代達矢さん主演の時代映画です。
時代映画でありながら殺陣やアクションシーンがメインの内容ではなく、登場人物たちの会話をとおして武士という生き方の悲しさや生きづらさが描き出された作品です。
カンヌ国際映画祭で審査員特別賞などさまざまな賞に輝いた本作に、天津七三郎は小姓の役で出演していました。
天津七三郎と仙台幼児誘拐殺人事件についてのまとめ
今回は1964年の年末に起きた仙台幼児誘拐殺人事件と、その犯人である元俳優・天津七三郎の生い立ちや犯行に至るまでを紹介しました。
父親の急逝で思春期の只中に生活が一変するなど、天津七三郎も苦労は多かったのでしょう。しかし追い詰められて幼児の誘拐、身代金要求まではともかく、殺害までする必要はまったくなかったはずです。
自分にも子供が産まれたばかりだったのだから、そこだけは思いとどまれなかったのでしょうか。憤りを感じるとともに、残念でなりません。