日本航空350便墜落事故・片桐清二機長のその後現在!顔写真と自宅や家族・事故原因の逆噴射装置・石川幸史副操縦士とのボイスレコーダーまとめ

1982年に起きた日本航空350便墜落事故は、片桐清二機長が逆噴射装置を作動したことによる人災でした。

 

今回は日本航空350便墜落事故の概要や機長の顔写真や経歴、自宅、その後や現在、石川幸史副操縦士とのボイスレコーダーについてまとめます。

日本航空350便墜落事故の概要

 

 

日本航空350便墜落事故は、1982年2月9日に起きた航空事故です。

 

福岡空港発・東京国際空港行の定期便であった日本航空の350便が、着陸寸前に羽田空港沖に墜落。機体の前方にいた乗客は海に放り出され、乗員乗客全174人のうち24人が死亡、95人が重傷、54人が軽症を負う被害を出しました。

 

事故当初は天候もよく、また事故機となったダグラス DC-8-61は1967年に製造され、訓練機としても使われていた経年機であったため、機体トラブルが原因と考えられていました。

 

しかし後におこなわれた調査で、片桐清二機長が操縦桿を前に押して機首を前傾させたうえ、逆噴射装置も作動させたために、滑走路直前で機体が急降下して羽田空港沖に突っ込んだことがわかります。

 

なんと日本航空350便墜落事故は不慮の事故ではなく、人災であったことが明らかになったのです。

 

このとき、同乗していた石川幸史副操縦士が慌てて操縦桿を戻そうとしましたが、機長が前に押し込む力が非常に強かったため、揉み合っているうち墜落したとされます。

 

なお、ネットで有名な「機長(キャプテン)、やめてください!」というセリフは、石川幸史副操縦士が頑なに操縦桿を押し込む片桐清二機長に対して放った言葉です。

 

事故後も片桐清二機長は生きていたため逮捕されましたが、精神鑑定の結果、責任能力が認められず不起訴処分となりました。

 

このような顛末であったことから日本航空350便墜落事故は「日航逆噴射事故」とも呼ばれます。

 

 

 

日本航空350便墜落事故の経緯① 前日の機長の様子

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

片桐清二機長は2月8日にも事件当日と同じく、石川幸史副操縦士や航空機関士とともにJAL377便に搭乗しています。この事故前日の乗務から、片桐清二機長の異常行動は見られていました。

 

羽田空港を離陸する前の20時11分、管制官から「滑走路に進入して待機せよ」という指示が入ったのにもかかわらず、なぜか片桐清二機長は「管制許可はきているね」と言って離陸に向けての操作をはじめたのです。

 

これは石川幸史副操縦士と航空機関士によって離陸は阻止され、20時13分から正式な離陸が開始します。しかし今度は20時18分に70度近いバンク角(航空機の機体の左右の傾き角)で、旋回をおこなったため、377便は90度近く傾いてしまったのです。

 

バンク角が大きくなると機体に負荷がかかり、失速もはやまります。そのため、この操作によって377便は僅か15秒の間に800フィート (240 m)ほども急降下しました。

 

異変に気づいた石川幸史副操縦士が修正操作をおこなったため事なきを得ましたが、旅客機の運航はバンク角は乗客の安全のため、緊急時を除いて35度以内と定められています。

 

不審に思った石川幸史副操縦士が「機長、大丈夫ですか?」と尋ねると、片桐清二機長は悪びれる様子もなく「お見事」と答えたといいます。

 

377便も墜落させかねない様子であった片桐清二機長ですが、この日はブリーフィングの時から吐き気を訴え、どこかぼんやりした様子だったそうです。

 

この時に片桐清二機長を休ませればよかったのですが、石川幸史副操縦士も航空機関士も一連の出来事を会社に報告しませんでした。

 

その理由は管理職で上司である機長のミスを逐一会社に報告するのは躊躇われたからではないか、と考えられています。

 

 

日本航空350便墜落事故の経緯② ボイスレコーダーに残る異変

 

2月9日の7時34分、350便は福岡空港を離陸し、巡航高度29,000フィートまで上昇した後、水平飛行に移って関東方面に飛び立ちました。

 

8時19分頃に羽田空港に近づいたため、管制官から高度16,000フィートまで降下するように指示がきます。そして片桐清二機長は操作を開始し、着陸予定のC滑走路(現在の33R)を目指して機体は徐々に降下していきました。

 

8時39分に着陸寸前となり、350便はフラップを下げて着陸態勢に入ります。ここまでは問題なかったのですが、8時43分25秒に石川幸史副操縦士が「高度500フィート」とコールしたところ、片桐清二機長はなぜか返答しませんでした。

 

続いて8時43分59秒、石川幸史副操縦士は「ミニマム(高度200フィートの意味)」とコールしましたが、これに対しても小さな声で「チェック」とだけ返答。

 

本来ならば「ゴー・アラウンド」もしくは「ランディング」と応えるべきところ、規定にそぐわない返し方をしたのです。

 

この様子、そして事故時のやりとりはコックピットボイスレコーダーに残っており、事故の最終報告書にもまとめられています。

 

 

日本航空350便墜落事故の経緯③ 突然の逆噴射

 

出典:https://ameblo.jp/

 

8時44分1秒、350便は時速250kmの速度で高度164フィートの場所を飛行していました。このとき、機長は自動操縦を解除。突然、操縦桿を前に倒し、スロットルをアイドル位置に引き戻し始めたのです。

 

航空機関士はエンジンの出力が低下していることに気づき、「パワー・ロー」と叫びますが、片桐清二機長は第一、第三エンジンの操縦桿を逆噴射がかかる位置まで押し込みます。

 

機首が大きく下がっていることに気づいた石川幸史副操縦士は操縦桿を戻そうとしますが、片桐清二機長が両手で強く押し込んでいるために、なかなか引き戻すことができません。

 

このとき、350便の機体は機首を下にしてほぼ垂直状態になっており、乗客の身体は座席から浮き上がっていたとされます。

 

いったんは石川幸史副操縦士が操縦桿を元の位置に戻しますが、8時44分4秒に再度、片桐清二機長が操縦桿を逆噴射がかかる位置に押し込み、コクピットには警告音が鳴り響きました。

 

そして8時44分5秒、コクピットに「機長(キャプテン)やめて下さい!」という石川幸史副操縦士の叫び声が響きます。

 

しかし片桐清二機長は聞く耳を持たず、操縦桿を押し込んだまま8時44分7秒に、350便は滑走路の510メートル手前の東京湾の浅瀬に突っ込んでいったのでした。

 

墜落の衝撃で350便の機体は前方出入口付近を境に2つに分かれ、破損した機体後部が、機体前部に乗り上げるような形になりました。

 

事故直後に石川幸史副操縦士は、信じられない思いで「機長(キャプテン)なんてことをしてくれたんですか!」と片桐清二機長に詰め寄りましたが、本人はぼんやりした様子で自分が仕出かしたことに気づいていない様子だったといいます。

 

激高し掴みかかる勢いの石川幸史副操縦士を客室乗務員たちがなんとか止めると、やっと自分たちが海上にいることに気づいたようで片桐清二機長は泣き出す始末でした。

 

 

日本航空350便墜落事故の経緯④ 乗客や民間人も救助活動に尽力

 

不幸中の幸いであったのが、350便が墜落した場所が滑走路ではなく東京湾であったことです。日本航空350便墜落事故が起きた前日、東京都千代田区永田町2丁目のホテルニュージャパンで大規模な火災が起きていました。

 

そのため東京消防庁はその現場対応に追われており、機体が炎上するようなことがあれば被害者はより多く出たかもしれません。

 

しかし季節は真冬、水温は5~11℃と低く、衝撃で意識を失っている乗客や物の隙間に挟まって身動きが取れずにいる乗客は、凍死してしまう危険性があります。

 

東京消防庁は救助要請を受けてから24分で水難救助隊、特別救助隊などを派遣し救助活動を開始。付近にいた民間の漁船も救助活動にくわわりました。また、乗客のなかでも軽傷だった者や動ける者は、率先して乗務員の手伝いを申し出て救助活動をおこないました。

 

水深1mと浅瀬に墜落したこと、明るい朝の時間帯で岸が近くに見えていたこと、そして乗客の多くがビジネス目的で搭乗していた社会人であったことなどの理由で、大事故であったにもかかわらずパニックになる者が出ず、救助活動は比較的スムーズに進んだとされます。

 

 

 

日本航空350便墜落事故・その後の機長の動向

 

出典:https://ameblo.jp/

 

石川幸史副操縦士以下、乗組員はもちろんのこと、乗客も怪我を負いながらも互いに助け合い、1人でも多くの命を救おうと死にものぐるいで救助活動をおこなうなか、なぜか片桐清二機長の姿だけがありませんでした。

 

なんと片桐清二機長は事故の約40分後に救命ボートに乗り込み、乗客とともに事故現場を去っていたのです。

 

航空機関士も事故から40分後に救助されていますが、彼は意識不明の重体であったため当然といえます。

 

しかし、片桐清二機長は事故後に石川幸史副操縦士に詰め寄られて泣けるほどの状態であったにもかかわらず、乗客の救出を放棄していました。

 

航空法では事故発生時の機長の責務について、以下のように定めています。

 

第七十五条

機長は、航空機の航行中、その航空機に急迫した危難が生じた場合には、旅客の救助及び地上又は水上の人又は物件に対する危難の防止に必要な手段を尽くさなければならない。

 

引用:航空法(昭和二十七年法律第二百三十一号)

 

法律上の義務も果たさずに怪我をした乗客を置いて我先にと逃げていく片桐清二機長の姿は報道されてしまい、世間から大きな批判を浴びることとなります。

 

機長だとわからないように上着を脱ぎ、平然とした表情でボートに乗っている様子は、最後まで現場に残り続けて救助活動をした後、やりきれない表情でボートに乗り込んだ石川幸史副操縦士や客室乗務員らとは対照的でした。

 

なお、事件直後は現場に片桐清二機長がいなかったことから情報が錯綜し、「機長も死亡した」という誤情報も流れました。

 

 

 

日本航空350便墜落事故の原因は片桐清二機長の精神疾患だった

 

その後、事故調査委員会の取り調べでの回答、そして周囲の証言から、日本航空350便墜落事故を引き起こした片桐清二機長には精神疾患が認められました。

 

周囲の証言によると片桐清二機長には、事故の前から以下のような変調や異常行動が見られていたといいます。

 

・姉に対して「自分は本当は日本人ではないのに、父親が真実を隠している」と言う

 

・妻と2人きりで車に乗っている際「母親がいる」などとわけのわからないことを言う

 

・警察に「家に盗聴器が仕掛けられている」と相談する

 

・仕事についても「宇宙から電波が届き、飛行機を操縦している。」などと言う

 

・妻や姉に「自分は皇族だ」と言う

 

・散歩の途中に行きあった見知らぬ人に、愛犬をあげてしまう

 

・妻に「共産主義の連中が自分を狙っている。だからモスクワには行きたくない」と言う

 

・副操縦士として乗務している最中に「クックック…」と笑いだし、機長や航空機関士を困惑させる

 

1976年の秋頃から片桐清二機長は、幻聴や幻覚に悩まされるようになったとされます。このころから徐々にふさぎ込むことが増えていきました。

 

1977年には雰囲気も暗くなり、周囲からは鬱状態なのではないか?ノイローゼなのでは?と心配されていたそうです。

 

1978年からは上記のように周囲に対して異様な発言をするようになり、1980年に入ると乗務中にミスが多発。10月には乗務を休むこともありました。

 

そして11月16日には成田発モスクワ経由ロンドン行きの便に乗務した際、管制官の指示に反応が遅れて急ブレーキをかける、飛行経路を逸脱するといった操作ミスをしてしまい、上司から乗務予定を取り消されてしまいます。

 

この後に片桐清二機長は病院を受診して「鬱病、もしくは心身症」と診断をされ、仕事を休んで療養することになりました。

 

1981年4月に職場復帰をしたものの、4月8日の時点で病院からは「鬱病は治っていない」と診断されていました。

 

そのため復帰後、しばらくは国内線の副操縦士として勤務していましたが、10月6日に病院から「抑うつ状態にあるが、機長としての勤務は可能」との意見書を送ってもらい、11月からは機長に復帰。

 

ところが事件を起こす直前にも「ソ連(当時)の陰謀で日本は2つに分裂する。戦争をさせられる」などと言っていたことから、精神状態は極めて不安定であったと思われます。

 

 

精神疾患が認められたため不起訴処分に

 

事故当日、350便に乗務中も「敵に捕まったら残忍な殺され方をする。その前に自分で死のう…」という妄想が頭をよぎった後、正気に返るということを繰り返していたという片桐清二機長。

 

墜落する直前の8時44分1秒、手動操縦に切替えた時に「イネ…イネ…」「お前も行くんだ」という幻聴が聞こえるようになり、逆噴射に踏み切りました。「イネ」というのは、逝ね(死ね)もしくは去ね(いなくなれ)という意味だと考えられます。

 

このような状態であったため、片桐清二機長は事故後に業務上過失致死罪で逮捕されたものの、精神鑑定の結果「統合失調症(当時は精神分裂病と呼ばれた)」との診断を受け、刑事責任を問われず不起訴処分となりました。

 

そして精神保健及び精神障害者福祉に関する法律に基づいて、東京都立松沢病院に措置入院となり、日本航空からも解雇処分を受けました。

 

 

 

日本航空350便墜落事故を起こした片桐清二機長の顔写真

 

出典:https://page.auctions.yahoo.co.jp/

 

上の画像の男性が、日本航空350便墜落事故を起こした片桐清二機長です。当然ですが、事故を起こすまでは一般人であったため片桐清二機長の顔写真が出回り始めたのは事故が起こり、逮捕されてからになります。

 

そのため上のように生気のない無表情なものが多く、乗務できるような精神状態ではなかったことが窺えます。

 

 

 

日本航空350便墜落事故を起こした片桐清二機長の経歴

 

片桐清二機長は事故当時

、35歳でした。大分県別府市出身で、実家は3階建ての時計店を営んでいたといいます。自宅は店とは異なる別府市内の高級住宅街にあり、裕福な少年時代を過ごしました。

 

家族構成は両親のほか、「片桐清二の姉です」と名乗って書籍も出版していた千鶴子という姉がいることが判明しています。

 

出典:https://www.amazon.co.jp/

 

高校は大分県立別府鶴見丘高等学校で成績は優秀、学位は30ほどで周囲からは九州大学を狙える学力だと言われていたそうですが、岡山大学理学部数学科に進学しました。

 

しかし岡山大学は2年時に中退しており、その後は航空大学校に入学しています。

 

1969年10月1日に日本航空に入社しており、退職までの総飛行時間は5,698時間。そのうち484時間を350便と同型のDC-8の機長として、3,869時間を副操縦士として乗務しています。また日本航空に就職してから結婚をしており、子どもも誕生しました。

 

あまり口数が多いタイプではなく、酒やギャンブルなどにも興味を示さないストイックな性格で趣味は釣りだったといいます。

 

1976年に日本アジア航空へ出向して定期運送用操縦士の学科試験を受験し、これに落ちたことを境に様子がおかしくなっていったそうです。

 

DC-8の機長の操縦資格は、1979年12月18日に取得したとされます。日航機350便墜落事故では腰椎骨折、及び軽度の打撲といった負傷をしているものの命に別状はありませんでした。

 

 

 

日本航空350便墜落事故を起こした片桐清二機長の家族

 

前述のとおり、片桐清二機長には妻と娘がいました。妻は親の職業が医者で、裕福な家庭で育った元客室乗務員だったそうです。

 

夫の様子がおかしいことに妻は相当悩んでいたようで、11月に復職した後も「主人は療養前と何も変わっていない気がする、本当に復職していいのか心配」と日本航空に勤める友人に相談していました。

 

また12月9日に片桐清二機長が大学病院で診察を受けた際にも同席し、「気分にムラがある。いきなり主人に『この裏切り者!』と罵られたこともあり、情緒が安定しているとは思えない」と訴えたといいます。

 

しかもこの頃の片桐清二機長はまるで物盗られ妄想のような症状まで見せており、夫人のことを泥棒と罵り、給与が振り込まれる通帳を渡さず、それどころか家庭に生活費も入れていませんでした。

 

さらに事故が起きる2月9日の直前には家の中がぐちゃぐちゃになるほど片桐清二機長は暴れ、暴力を受けて身の危険を感じた夫人は、子どもを連れて義理の姉である千鶴子の家に逃げ込んでいます。

 

このようにさんざん苦しめられてきたせいか、事故が起きた後に夫人は片桐清二機長と離婚をして子どもを連れて出ていったという話もありまが、真偽は不明です。

 

 

 

日本航空350便墜落事故を起こした片桐清二機長の現在・自宅は?

 

東京都立松沢病院を退院した後、片桐清二機長は神奈川県葉山市にある自宅で過ごしていると言われています。

 

2002年には「週刊文春」にて、自動車の免許を再取得したこと、ごくたまに外出しているが、ほとんど自宅から出ないといった現在の様子が報じられていました。

 

退職金と年金、精神障害者保健福祉給付を受け取っていると考えられるため、日本航空を退職した後は働かなくても食べていけるのかもしれません。

 

 

 

日本航空350便墜落事故で同乗していた石川幸史副操縦士の現在

 

石川幸史副操縦士は事故後に自らも腰の骨を折る大怪我をしていたにもかかわらず、最後まで現場に残って救助活動を続けたといいます。

 

事故後も副操縦士として乗務を続け、日本アジア航空(JAA、EG)で機長になりました。

 

 

日本航空350便墜落事故がその後に与えた影響

 

日本航空350便墜落事故が起きた後、類似事故の再発を防ぐために1984年6月27日に、財団法人 航空医学研究センター(現在の一般財団法人航空医学研究センター)が設立されました。

 

この施設は航空機の乗務員の健康向上を目的として医療機関で、「空の安全は、パイロットの健康から」と謳っています。

 

 

そして事故後、羽田空港船着場付近には犠牲者を悼む慰霊塔が建立されています。

 

 

「機長、やめてください!」、逆噴射は流行語になる

 

 

いささか不謹慎な話ではありますが、事故時に石川幸史副操縦士が叫んだ「機長、やめてください!」という言葉と、墜落の原因となった逆噴射という言葉は当時の流行語にもなりました。

 

てんとう虫コミックス『ドラえもん』の28巻に収録されている「のび太航空」というエピドードでも、「機長、やめてください!」をパロディにしたと思われるシーンが描かれています。

 

また当時は統合失調症などの精神疾患の存在自体があまり知られていなかったため、事故の影響で精神疾患のことを「逆噴射」と呼んでいたそうです。

 

精神疾患への理解が進みつつある現在では、精神疾患を揶揄する目的で使う逆噴射という言葉は死語になっています。

 

 

日本航空350便墜落事故についてのまとめ

 

この記事では1982年に起きた日本航空350便墜落事故について、概要やボイスレコーダーに残された事故前後の様子、片桐清二の病気やその後について紹介しました。

 

3年後の1985年8月12日に、日本の航空史上最悪の事故とされる日本航空123便墜落事故が発生したこともあり、日本航空350便墜落事故の衝撃は薄れてしまったと言われることもあります。

 

しかし防げたはずの人災であった日本航空350便墜落事故は、他の航空事故とはまた異なる怖さと問題を持ちます。このような事故が再発することがないよう願います。

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