藤牧義夫は1930年代前半に作品を生み出した版画家でしたが、ある日突然失踪しました。その失踪には沢山の謎があり、ただの失踪事件ではない可能性があるんです。
藤牧義夫の経歴や代表作品、家族の情報、失踪事件の真相の考察と現在の評価などをまとめました。
この記事の目次
藤牧義夫は失踪した版画家
藤牧義夫は、1930年代前半に創作版画の分野で活躍した版画家です。若くして頭角を現していましたが、1935年9月2日を最後に姿を消し、失踪してしまいました。
その後の行方は生死を含め不明で、最後に藤牧義夫に会った版画家の小野忠重の証言により、隅田川に投身自殺したと見られていました。
しかし、2000年代になって藤牧義夫は失踪したのではなく、事件性があり「犯罪に巻き込まれた=殺害された」のではないかと言われるようになりました。
藤牧義夫の経歴
藤牧義夫は1911年1月、群馬県邑楽郡館林町大字1006番地(現在の舘林市)で生まれました。2歳の時に母親のたかが病気で死亡し、8歳の時に父親は亡き母の妹と再婚します。
藤牧義夫は小学生の頃から絵の才能を発揮していました。
13歳の時に父親が亡くなり、15歳にして父の生涯を描いて偲ぶ『三岳画集』を作り始め、16歳に時に完成させました。
しばらくは、父親の死後に家業として始めた日用雑貨小売を手伝っていましたが、1927年・16歳の時に上京して、染織画工の佐々木倉太に弟子入りします。そこで、商業図案を学びつつ、商業図案社で働きながら、独自の版画様式を確立していきました。19歳の頃には縁談がありましたが、生活が不安定であることから断ったようです。
第9回春陽会展、第18回日本水彩画会展覧会、第1回新興版画展などに次々と作品を出展し、21歳(1932年)の時に、小野忠重と武藤六郎の2人を中心に版画の大衆化を掲げて結成した新版画集団の設立に参加します。
1933年には第14回帝展に、「給油所」(木版)を出品し入選し、翌年1934年には隅田川絵巻を全巻完成させています。
そして、1935年にはエッセイ「時代に生きよ、時代を超えよ」を書き、代表作の1つである「白髭橋」を発表して個展を開くなど、版画家としての頭角を現していましたが、個展を開いてからわずか3ヶ月後の1935年9月に24歳の若さで失踪してしまいました。
藤牧義夫の代表作品は隅田川絵巻
藤牧義夫の代表作品は隅田川絵巻です。
藤村義夫は関東大震災(1923年)後の東京の風景を、上野や浅草など隅田川とその周辺の街並みを、藤村義夫独特の彫りによる木版画で表現しています。
代表作品の隅田川絵巻は長大な白描絵巻です。
近世の伝統を継承しつつ、現代的な感覚で隅田川などに取材して表現した大作であり、紙に墨を使って筆で書いていて、全部で4巻・50mにもなります。
この隅田川絵巻は「絵」ですが、版画もたくさんの作品があります。
「赤陽(1934年)」
「島のぢいさん(1933年)」
「鐡[鉄] (1933年)」
「給油所(1933年)」
活動期間は短いものの、作品や資料は全部で200点程度も残されています。
藤牧義夫の家族
藤牧義夫は群馬県館林市出身で、実家は旧士族という名家でした。父親が54歳の時に子供でした。
■父親:牧巳之七
尋常高等小学校の校長を30年務めた地元の名士で、定年後は前橋地方裁判所の司法代書人をしていて、当時は名誉職だった第一回国政調査員もしている。
■母親:藤牧義夫が2歳の時に病死
■継母:母親の実の妹で義夫が8歳の時に父親と結婚
■兄:18歳年上。33歳の時に結核で死亡。
■姉:太田みさを、中村てい
父親は10人の子供がいましたが、男の子は18歳年上の兄と藤牧義夫以外は子供の頃に亡くなっています。また姉の2人は藤牧義夫が失踪する日に会う予定となっていて、太田みさおには会いましたが、中村ていの家に向かう途中に失踪しました。
母親が病死して、その実の妹と結婚するという家族構成は時代を感じさせます。
藤牧義夫の失踪事件とは
藤牧義夫は1935年9月2日の夜に失踪しました。
藤牧義夫は浅草にに住んでいましたが、その下宿を引き払って、向島にある姉の太田みさをの家を訪ねました。そして、その後はもう1人の姉が住む浅草小島町に向かう予定になっていました。
雨が降る夜、藤牧は姉の太田みさをの家を出た後、途中で版画家仲間である小野忠重の家に立ち寄りました。そして、自分の版画作品を小野忠重に預けます。小野忠重の家を出た後は、姉の中村ていの家に現れることはなく、忽然と姿を消してまったのです。
藤牧義夫に最後に会った小野忠重によると、藤牧義夫は経済的に困窮していて、過労によるノイローゼ状態だったとのことです。
飲まず食わずの苦行僧の狂熱におそわれて、小柄な彼の頬骨は高くなるばかりであった。それ以来視界から去った彼の骨はおそらく隅田のどす黒い水底に横たわっていると、いまも友人たちは信じている。
飲まず食わずの状態になるほど、経済的に困窮していてやせ細っていて、そのことを苦に隅田川で投身自殺を図ったと見られています。
藤牧義夫の失踪事件の真相
藤牧義夫の失踪事件は本当に経済的な困窮を苦にした自殺なのでしょうか?
結核に感染していた?
藤牧義夫は結核に感染していて、それを苦に自殺をしていた可能性はあります。藤牧義夫の兄は33歳の若さで結核で死亡しています。
そして、藤牧義夫は失踪する前年の1934年に実家の舘林で気管支炎の療養をしているのです。これが実は結核だったという可能性はあります。
しかも彼は結核にも蝕まれていたといいます。そして翌年、失踪…。
ただ、結核に感染したことを苦に自殺したというのが、失踪事件の真相とするにはやや疑問が残ります。
小野忠重が関与していた?
藤牧義夫失踪事件は、藤牧義夫が最後に会った小野忠重が関与していた可能性があります。
小野忠重は藤牧義夫が参加した「新版画集団」を設立した人物で、版画家として活躍し、1979年には紫綬褒章を受章しています。
藤牧義夫失踪事件は、小野忠重が藤牧義夫の才能に嫉妬した、もしくは政治的な意見の相違などの理由から、藤牧義夫が失踪したように見せかけて殺害したのが事件の真相という見方が強くなっているのです。
もちろん、小野忠重が直接手を下したわけではないかもしれません。それでも、何らかの関与をしていた可能性はあります。そう考えると、辻褄の合うことが多いんです。
藤牧義夫の失踪事件の真相を考察
小野忠重が怪しい理由①:小野忠重以外に目撃者はいない
藤牧義夫が1935年9月に失踪して、隅田川に投身自殺をしたとされているのは、小野忠重の証言によるものです。
しかし私には、最後の別れがしみついている。昭和10年の9月に入る早々だった。藤牧が現れて、浅草の部屋を引き払った、といい、大きな風呂敷包みを二つ、ドサリおいて、これを預かってくれという。そして聞き取りにくい小声で、私や新版画集団の友人に対してすまなかったとか、有り難かったとか、繰り返す。気がつくと頬に光るものが見えたが、それが胸にこたえるほどの、こちらの年でなかった。彼が去って、しばらくして、これから行くと言っていた浅草の姉の家から「来ない」と知らせがあって、ハッと気がついたのである。
これは昭和53年に行われた銀座かんらん舎での藤牧義夫展のパンフレットに小野忠義が書いた文章です。また、経済的に困窮し、ノイローゼだったということも、小野忠重の証言です。
小野忠重が「自殺しそうな雰囲気で、版画作品などを僕に預けていった。隅田川に投身自殺したんじゃないかな」と言ったから、藤牧義夫は失踪して、隅田川に自殺したという流れになったのです。
簡単に言えば、小野忠重の証言次第だったということですね。
小野忠重が怪しい理由②:家族が死んだ後に証言
小野忠重が怪しい理由の2つ目は、家族が死んだ後に証言したことです。小野忠重は、自分が最後に藤牧義夫に会い、版画作品を自分が預かっていたことを証言していますが、これらは藤牧の姉たちが亡くなった後に証言したんです。
それまでは、藤牧は作品を「全部ひとの手に渡して」と証言していました。それなのに、家族が死んだ後になって証言を変えて、実は全部自分が預かっていたとしました。
なんだかとても怪しいですよね。
小野忠重が怪しい理由③:小野忠重との証言に不審な点あり
小野忠重の証言には不審な点がありました。それは健康状態と経済状態についてです。小野忠重は、藤牧義夫は経済的に困窮していて、健康状態はかなり悪かったとしています。
「晩年(まだ24才)の藤牧義夫は、前後の事情から考えて貧窮による栄養の絶対量の極限にちかい不足と胸部疾患でひどい健康状態だったはず」
ただ、失踪の1年前の写真を見ると、そこそこ良いスーツを着ているんです。特に2枚目の写真のスーツは高そうに見えます。
健康状態が悪いようには見えません。身なりもそこそこ良いですよね。また、失踪当日は雨の中、大きな風呂敷包みを2つ持って、かなりの長い距離を徒歩で移動しています。
その距離を地図から計算すると下宿を出て姉の太田みさお宅(A )を経て小野の家までがおよそ4600m、藤牧がこの日の最後に行こうと考えていた姉の中村ていの家までの距離は約6000mとなる。
約6km!健康状態が悪い人が雨の日に大きな荷物を持って歩ける距離ではありません。
健康状態は悪くなく、お金にもそこまで困っていた様子はないんです。となると、自殺する理由は見当たりません。
小野忠重が怪しい理由④:手元にあったのは贋作
小野忠重は藤牧義夫の作品を預かっていました。昭和50年代になって、再び藤牧義夫に注目が集まるようになり、小野忠重が預かっていた作品を発表するようになりましたが、そのほとんどが贋作だったんです。
小野は、藤牧の2歳年長。1990年に亡くなった版画界の重鎮である。
彼は、藤牧失踪後、預った作品を発表し、彼の年譜を数回にわたりまとめている。ただ、駒村著作によれば、小野のもとから出た藤牧版画の「七割は偽物だった」。
7割が贋作・・・。藤牧義夫本人から預かったはずの作品なのに、贋作ばかりだったというのは、何か裏があるとしか思えません。
小野忠重が怪しい理由⑤:政治的な立場の違い
小野忠重が怪しいと言われる理由の最後は、政治的な立場の違いです。小野忠重はバリバリの左翼でした。戦後の冷戦時代にソ連で初めての現代日本版画展にも招かれていますし、左翼関係の仕事も多かったんです。
でも、藤牧義夫は日蓮系の右翼団体(国柱会)に属していました。まさに真逆だったんです。でも、小野忠重の証言では、藤牧義夫が小野忠重に最後に会いに来た時に左翼系の本を置いていったとしています。当時の藤牧義夫は左翼系の本を読むとは考えにくいです。
それを考えると、政治的な立場・主張の違いから、何か2人の間にトラブルが起こった可能性はあります。
藤牧義夫の現在
藤牧義夫は失踪後、作品は小野忠重が保管していましたので、「忘れられた版画家」になっていました。しかし、1978年に画廊かんらん舎の社主・大谷芳久氏にその作品の魅力を見出され、「藤牧義夫遺作版画展」が開かれ、世間から再び注目されるようになります。
その後も、2011年に「生誕100年 藤牧義夫展」が開かれたり、テレビ東京の「新美の巨人たち」で特集されるなどしています。また、その失踪の真相に迫る書籍も出版されています。
藤牧義夫のまとめ
藤牧義夫の経歴や代表作品の隅田川絵巻、家族情報、失踪事件の真相や考察、現在の評価などをまとめました。
カギを握る小野忠重は既に亡くなっていますので、藤牧義夫の失踪事件の真相がわかることはない思います。でも、わからないからこそ、なぜ失踪したのか?を考察したくなりますね。