山形マット死事件は山形県の明倫中学校で当時中学1年生の児玉有平さんがいじめを背景とする暴行で殺害された事件です。
この記事では山形マット死事件の経緯と概要、被害者の児玉有平さんや父親や母親、兄弟など家族、加害者(犯人)とされた少年らのその後や現在などについてまとめました。
この記事の目次
山形マット死事件は明倫中学校1年・児玉有平さんが暴行殺害された事件

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「山形マット死事件」とは、1993年1月13日、山形県新庄市立明倫中学校の体育館用具室で、当時中学1年生だった児玉有平(こだま・ゆうへい)さん(当時13歳)が、立てかけられた体操用マットの中で逆さまの状態で発見され、その後死亡が確認された事件です。
この「山形マット死事件」は、単なる事故として処理される寸前から、いじめを背景とした凄惨な事件へと発展し、少年審判と民事裁判で二転三転する司法判断、そして30年以上が経過した今なお続く被害者家族の闘いによって、日本の社会に重い問いを投げかけ続けています。
ここでは、事件の発生から現在に至るまでの詳細な経緯、被害者である児玉有平さんと、父親や母親、兄弟など家族、犯人(加害者)だとされた少年たちのその後などについて詳しくまとめていきます。
山形マット死事件の発覚
1993年1月13日、「山形マット死事件」の被害者となる児玉有平さんは放課後、部活動のため体育館へ向かった事が確認されました。しかし、夜になっても帰宅しない児玉有平さんを心配した家族が学校に連絡。
そして、午後8時10分頃、児玉有平さんは、連絡を受けて捜しに来た教師によって、体育館の用具室に立てかけられていたロール状のマットの中から、足だけが突き出た状態で発見される事になります。
児玉有平さんは逆さまにマットに押し込まれており、発見時にはすでに心肺停止状態でした。
被害者・児玉有平さんの死因と遺体の状態
司法解剖の結果、被害者・児玉有平さんの死因は窒息死と断定されました。
しかし、遺体の顔は大きく腫れ上がり、殴られたような皮下出血があったほか、手足にも打撲の痕、さらには頭蓋骨の陥没骨折も見られました。これらは、単なる窒息事故ではなく、何者かによる激しい暴行があったことを強く示唆していました。
当初、明倫中学校側や警察の一部には、児玉有平さんが1人で遊んでいて誤ってマットに入り、抜け出せなくなった「事故死」ではないかという見方が示されました。しかし、遺体の状況は、この見方を明らかに否定するものだったのです。
その後、犯人(加害者)だとされる明倫中学校に通う生徒(当時)ら7人が逮捕または補導され、裁判が行われました。その経緯についてはこの記事の後半で改めて詳しく書いていきます。
山形マット死事件の被害者・明倫中学校1年生だった児玉有平さんについて

「山形マット死事件」の被害者である児玉有平さんは1979年5月1日の生まれで、上述の通り、事件当時は山形県新庄市立明倫中学校の1年生で13歳でした。
児玉有平さんについては、読書が好きで物静かなタイプであり、また、将来の夢は漫画家で、小学生の頃から懸賞漫画に応募しては懸賞金を獲得するなど努力家な一面もあったようです。
しかし、山形マット死事件から見て17年前に別の地域から山形県新庄市に移住していた経緯により、「新参者」扱いされ、また、「山形弁を使わない」、「友人を『さん』付けで呼ぶ」、「趣味が違う」などのくだらない理由により、小学校高学年頃からいじめに遭っていたとされています。
一方、児玉有平さんの家族は地域で幼稚園を経営していて裕福で、仲も良く標準語を話す先進的な一家であったようです。これが、田舎者たちの「劣等感」や「妬み」を生み、これがいじめや、一家に対する「村八分」につながったとする見方も当時の報道では出ていました。
山形マット死事件の被害者・児玉有平さんの家族① 父親・児玉昭平さん

ここからは「山形マット死事件」の被害者・児玉有平さんの家族について見ていきます。
まず、児玉有平さんの父親は児玉昭平さんという方で、事件発生後に息子の死の真相を究明し、その尊厳を守るため、30年以上にわたり司法、そして社会に対して声を上げ続けている方です。
児玉昭平さんは、単に被害者の父親という立場に留まらず、日本の少年犯罪における被害者の権利を問い直す活動にも力を注がれてきました。
児玉有平さんの父親・児玉昭平さんの事件後の対応と真相究明への決意
1993年1月13日に児玉有平さんが遺体で発見された当初、学校や警察の一部からは「事故死」ではないかという見方が示されました。
しかし、父親の児玉昭平さんは息子の遺体に残された数々の殴打の痕や不自然な状況から、これが単なる事故ではなく、いじめを背景とした暴行殺人事件であると確信。息子の無念を晴らすため、真相究明に人生を懸けることを決意されています。
児玉有平さんの父親・児玉昭平さんの長きにわたる民事裁判での闘い

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後述しますが少年審判では、加害者とされた少年たちの自白が二転三転し、全員の責任が明確に問われることはありませんでした。この結果に納得できない児玉昭平さんと妻(児玉有平さんの母親)は、1995年、加害者とされた元生徒7人と、学校を管理する新庄市、山形県を相手取り、損害賠償を求める民事訴訟を起こしました。
そしてこの裁判は、日本の司法史に残る困難な道のりとなります。
2002年に山形地裁で開かれた第一審では、裁判所は元生徒らのアリバイを認め、暴行と死亡との因果関係を否定し、請求棄却(敗訴)となります。しかし、原告側はこの判決を不服として控訴。
2004年に仙台高裁で開かれた控訴審では逆転勝訴となり、高裁は一審判決を覆し、元生徒らの自白の信用性を認め、「複数の者が暴力を振るい、マットに押し入れた」として7人全員の共同不法行為を認定。約5760万円の賠償を命じました。しかし、被告側はこれを不服として上告。
その後、2005年の最高裁で原告側(児玉有平さんの家族側)の勝訴が確定します。最高裁が元生徒側の上告を棄却したことにより、事件発生から12年以上の歳月を経て、法的に加害行為が認められました。
この長い闘いの間、父親・児玉昭平さんは心身をすり減らしながらも、弁護士と共に膨大な資料を読み解き、裁判に臨み続けました。
児玉有平さんの父親・児玉昭平さんの著書出版と社会への訴え
児玉有平さんの父親・児玉昭平さんは、法廷での闘いと並行して、被害者遺族が置かれる過酷な現実と司法制度の問題点を社会に訴えました。
1999年には著作として「被害者の人権」を発表。この本は、事件の記録であると同時に、少年法によって情報から遮断され、人権が軽視されがちな被害者家族の苦悩を克明に綴ったものです。多くの人々に衝撃を与え、少年犯罪における被害者の権利について議論を喚起しました。
児玉有平さんの父親・児玉昭平さんの終わらない闘い
2005年に民事裁判で勝訴が確定したにもかかわらず、加害者側から謝罪や賠償金の支払いは一切ありませんでした。損害賠償請求権の時効は10年であるため、このままでは権利が消滅してしまいます。
そのため、児玉昭平さんは時効の成立を阻止し、加害者たちの法的責任を問い続けるため、再び訴訟を起こすことを余儀なくされました。
2016年に賠償金支払いを求める提訴を行い、2025年にも 時効が迫る中、支払いに応じない3人を相手取り、3度目となる提訴に踏み切っています。
この事実は、司法の判断が下されても、被害者遺族の苦しみが終わらないという過酷な現実を浮き彫りにしています。児玉昭平さんと家族は事件発生から30年以上が経過した現在もなお、息子・児玉有平さんのために闘いを続けざるを得ない状況にあるのです。
山形マット死事件の被害者・児玉有平さんの家族② 母親

最愛の息子を突然奪われた母親の悲しみは計り知れません。
「山形マット死事件」の被害者・児玉有平さんの母親については、名前や顔画像などは公開されていません。
しかし、父親・児玉昭平さんはインタビューなどで、しばしば「家内も」という言葉で妻(児玉有平さん母親)に触れており、共に加害者側からの謝罪を待ち続けていること、そして二人三脚で長い裁判を闘い、苦しみを分かち合ってきたことを語っています。
表立って発言することはなくとも、児玉有平さんの母親は、夫の闘いを支え、静かに息子の無念を胸に抱き続けてこられた考えられます。
山形マット死事件の被害者・児玉有平さんの家族③ 兄弟は兄と妹がいる
「山形マット死事件」の被害者・児玉有平さんの兄弟は、兄と妹がいる事がわかっています。
事件前年の1992年夏頃、当時中学3年生だった児玉有平さんの兄は、自身も部活動でいじめを受けた経験があったことから、児玉有平さんに「部活でいじめられていないか」と尋ねたことがあったといいます。その時、児玉有平さんは「いじめられてもギャグを言って切り抜けているから大丈夫」と答えたとされています。
このやりとりは、有平君が家族に心配をかけまいと健気に振る舞っていたこと、そして兄が弟を気遣っていたことを示す、痛ましいエピソードとして伝えられています。
弟を突然失った兄の悲しみは想像に難くありませんが、それ以上のプライベートな情報については公にされておらず、家族は静かな生活を送ることを望んでいると考えられます。
また、妹の存在についても複数の情報源から明らかになっています。その家族についての情報は、プライバシー保護の観点から限られていますが、特に妹さんが経験された出来事は、山形マット死事件が児玉家にもたらした苦しみが、児玉有平さんの死だけに留まらなかったことを物語る、痛ましいものです。
児玉有平さんの妹が受けた心無い仕打ち
山形マット死事件後、児玉家は想像を絶する悲しみに暮れるだけでなく、地域社会からの心無い視線や二次被害にも苦しめられました。その中でも特に過酷な経験をしたのが、児玉有平さんの妹さんでした。
一部の報道や事件を追ったウェブサイトによると、加害者とされた少年たちの親族の子供たちが、自宅の玄関前にいた児玉有平さんの妹を取り囲み、「兄ちゃん殺されてうれしいか」といった趣旨の、信じがたい言葉を浴びせるという出来事があったとされています。
この一件は、幼い妹さんの心にどれほど深い傷を残したか、想像に難くありません。最愛の兄を無残な形で失った直後に、加害者側の近しい人々からこのような残酷な言葉を投げつけられたのです。これは、事件が被害者家族、特に残された子供たちにまで、いかに過酷な精神的苦痛を与え続けたかを象徴する出来事と言えます。
山形マット死事件の加害者(犯人)とされる明倫中学校生徒の逮捕と裁判

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「山形マット死事件」の加害者(犯人)とされる明倫中学校の生徒(当時)7人の逮捕や補導、そしてその後の逮捕について、改めて詳しく見ていきます。
当時、明倫中学校の生徒(犯人でない別の生徒)の証言によれば、児玉有平さんへのいじめは小学校高学年の頃に始まったとされています。
そして、明倫中学校に入学してからは、その内容はさらにエスカレートしていったとされます。教室で下着を脱がされる、上級生から「金太郎」の歌に合わせて芸を強要される、殴る蹴るの暴行を受けるといったいじめが日常的に行われていたようです。
事件当日の放課後も、児玉有平さんは体育館で上級生らから芸を強要されたとされています。児玉有平さんがそれを拒否したため、犯人らは体育館の用具室に児玉有平さんを連れ込み、集団で暴行した末にマットに頭から押し込んだとされています。
明倫中学校側の不適切な対応
「山形マット死事件」発生の約4ヶ月前、1992年9月の集団宿泊研修で、児玉有平さんが顔を腫らして帰宅するという事案が発生していました。
これを受けて、児玉有平さんの家族は学校へ「いじめられているのではないか」と相談しましたが、明倫中学校側は児玉有平さん本人がいじめを認めなかったとして、これを放置しています。
事件直後、校長はいじめの存在や、児玉有平さんの親からいじめの相談を受けていたこと自体を否定しています。さらに、一部の教師が生徒に口止めをしていた事実も明らかになっています。
しかし、実際に加害者として7人の生徒が逮捕・補導されると、校長は一転して事実を認め、管理責任を問われて停職処分となり、後に退職。多くの関係教員も異動となりました。この隠蔽体質ともいえる明倫中学校側の対応が、事件の真相究明をさらに困難にした一因だと言えます。
山形マット死事件の異様さは、その後の司法手続きの過程でさらに浮き彫りになりました。刑事手続きである少年審判と、民事裁判で、事実認定が大きく揺れ動いたのです。
山形マット死事件の加害者(犯人)らの逮捕・補導と自白撤回
山形マット死事件における刑事手続き(少年審判)の経過は、加害者とされた少年たちの自白が変遷し、裁判所の判断が分かれるなど複雑な様相を呈しました。その詳細を時系列でまとめます。
事件発生(1993年1月13日)
山形県新庄市立明倫中学校の体育館用具室で、児玉有平さんが、巻かれたマットの中に逆さの状態で詰められ、窒息死しているのが発見されました。
加害者(犯人)とされた少年7人の逮捕・補導(1993年1月18日)
山形県警は、被害者生徒へのいじめに関与したとして、上級生3人(当時14歳)を傷害致死および監禁の容疑で逮捕し、同級生ら4人(当時12〜13歳)を補導しました。捜査段階において、7人の少年は全員、暴行を加えてマットに押し込んだとする犯行を認めていました。
加害者(犯人)とされた少年らが自白を撤回
しかし、事件が家庭裁判所に送られると、加害者とされた少年7人のうち児童相談所に送致された1人を除く6人がアリバイを主張するなどして犯行への関与を否認、または自白を撤回しました。
家庭裁判所から最高裁判所までの経過(少年審判の経過)
山形マット死事件の少年審判は、非行事実の認定をめぐり、少年によって判断が分かれるという異例の経過をたどりました。
山形家庭裁判所の判断(1993年)
上級生3人への決定(8月23日):山形家庭裁判所は、逮捕された上級生3人について、刑事裁判の無罪に相当する「非行なし」を理由とする不処分の決定を下しました。
同級生らへの決定(9月14日):一方で、補導された同級生らのうち3人に対しては非行事実を認定し、2人を初等少年院送致、1人を教護院(現在の児童自立支援施設)送致とする保護処分を決定しました。
抗告審(仙台高等裁判所)
保護処分を不服とした少年3人は、仙台高等裁判所に抗告しました。しかし、高等裁判所は少年たちのアリバイを認めず、抗告を棄却しました。この際、審判の対象ではなかった不処分の3人についても、非行への関与を示唆しました。
再抗告審(最高裁判所)
少年たちはさらに最高裁判所へ再抗告しましたが、これも棄却されました。
最終的に、この事件の少年審判は、加害者とされた7人のうち4人について非行事実が認定され保護処分が確定し、残る3人は非行が認定されない「不処分」という形で決着しました。
このように、同じ事件でありながら少年によって審判の結果が分かれ、判断が二転三転したことは、少年審判における事実認定の難しさを浮き彫りにしました。この事件は、後の少年法改正の議論にも影響を与えた象徴的な出来事となりました。
山形マット死事件の犯人(加害者)とされた元少年たちのその後と現在
「山形マット死事件」の犯人(加害者)とされた少年たちのその後と現在についても関心が集まっています。
すでに触れていますが、被害者の児玉有平さんの父親の児玉昭平さんら家族が起こした民事裁判により、犯人(加害者)とされた元少年7人の加害行為が認定され、賠償命令が確定しました。
しかしその後、犯人(加害者)らがその法的責任、そして道義的責任を果たしているとは言い難い状況が現在まで続いています。
賠償金の不払いと終わらない裁判
2005年に賠償命令が確定したにもかかわらず、元生徒7人全員は全く支払いに応じていないと報じられています。被害者・児玉有平さんの父親・児玉昭平さんは「彼らが反省して謝りに来るのを待とう」と考えていたという事でしたが、10年が経過しても謝罪も賠償もなかった事を明かしています。
損害賠償請求権の時効は10年であるため、遺族側は時効の中断を目的として、再び訴訟を起こさなければなりませんでした。
2016年8月23日、勤務先が不明で給与の差し押さえができなかった3人のうち2人に対し、支払いを命じる判決が山形地裁により下されました。しかし、元生徒側は「事件は冤罪」と主張し、任意に支払う考えはないことを表明します。
そして、2025年11月、遺族は、差し押さえができず支払いに応じない3人を相手取り、損害賠償請求権の消滅を防ぐため、3度目となる提訴を山形地裁に行いました。
元生徒の一部は、現在も「自分たちは無実であり、事件は冤罪だ」と主張し続けています。日本国民救援会なども、少年たちの自白は警察の強引な取り調べによるものであり、アリバイが成立するとして、元生徒らの無実を訴える支援活動を続けている状況です。
このように、司法の最終判断が出た後も、被害者家族への謝罪や賠償は行われず、事件の真相をめぐる主張は現在も平行線を辿ったままです。
山形マット死事件の犯人(加害者)たちの現在の暮らしについて
山形マット死事件で犯人(加害者)とされた7人の元少年の現在の暮らしについてはほとんど情報がありませんが、被害者の児玉有平さんの父親の児玉昭平さんが「女性自身」の取材に、元少年らの現在について明かしています。
それによると5人は結婚していてそのうち3人は子供もいるとの事で、ごく普通の生活を送る事ができているようです。
7人の“元少年”は、いまは30代の働き盛り。5人は結婚し、そのうち3人には子供もいるという。
「なぜ父親になったのに、彼らには罪の自覚が芽生えないのでしょうか……。本当に彼らは更生したのでしょうか? 彼らへの矯正教育がもっと徹底していたら、賠償金を払わないなんてことはなかったのではないかと思います」
まとめ
今回は、1993年1月に起きた「山形マット死事件」についてまとめてみました。
山形マット死事件の被害者は、山形県新庄市の新庄市立明倫中学校1年生だった児玉有平さんで、いじめがエスカレートした暴行の結果死亡しました。
被害者の児玉有平さんの家族は父親と母親、2人の兄弟(兄と妹)で、特に父親の児玉昭平さんは事件発生後に息子の死の真相を究明しその尊厳を守るため、30年以上にわたって活動を続けています。
山形マット死事件の加害者(犯人)は、被害者の児玉有平さんと同じ明倫中学校に通っていた生徒で、事件後に7人が逮捕または補導されています。
山形マット死事件のその後ですが、少年審判では最終的に、加害者とされた7人のうち4人について非行事実が認定され保護処分が確定し、残る3人は非行が認定されない「不処分」という形で決着。しかし、被害者の遺族は民事訴訟を起こし、こちらでは7人全員の加害行為が認定され、賠償命令が確定しています。
しかし、現在も、加害者(犯人)とされた元少年らは賠償金を支払いもせず、謝罪すらもしていない事が明らかにされています。

















