人間動物園とは、かつてヨーロッパや日本で流行した民族を差別的に展示した催しです。
この記事では人間動物園のヨーロッパの歴史、日本での事例や人類館事件、なくなった理由、漫画やアニメ、映画など、現在はベルギー等欧米では自己批判的に語られている事についてまとめました。
この記事の目次
人間動物園とは過去に欧米各国で行われた人種差別的に人間を展示した催し
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「人間動物園(human zoo、ヒューマン・ズー)」とは、19世紀〜20世紀にかけて、ヨーロッパや北アメリカで流行した、当時、野蛮で未開だとされていた世界各地の民族(ほとんどが有色人種)の人間を自国に連行し見せ物にした催しです。
人間動物園の概要
ダーウィンの進化論がヨーロッパや北アメリカで受け入れられるようになると、世界各地の人間社会にも進化の段階性が表れていると考える人々が現れるようになりました。
彼らはヨーロッパ社会(西欧近代社会)こそが進化の頂点であると考え、アジア地域やアフリカ地域の諸民族の社会は遅れていて劣っており、進化の過程にある社会だと見なしました。
また、当時はヨーロッパ諸国は帝国主義を掲げて世界中で植民地支配を進めており、植民地化した諸民族の文化と西欧社会の文化の違いを観察し展示する事により、植民地経営を正当化し、自分達の優位性を誇るために機能していたのが「人間動物園」でした。
「人間動物園」は常設されたもの以外にも、アメリカやヨーロッパの博覧会などで余興として開催されました。1904年にアメリカのセントルイスで開催された「セントルイス万国博覧会」で展示された「人類学展示」(人間動物園)は、下のような目的が提示されていました。
①「世界でもっとも知られていない、民族、人種あるいは亜人種の展示」
②「行動や精神的定義において、世界でもっとも知られていない文化の型の展示」
③「人類の身体的、精神的特徴についての研究における主要な方法や装置の展示」
④「人類進化の階梯や過程における典型的な証拠を示す」
⑤「(西欧の近代的な社会との)統合と訓練によって加速される野蛮や未開状態から文明に至る実際の人間の進化を示す」
「人間動物園」は、このように西欧社会による、諸民族社会や文化を徹底的に見下した視点のもとで、展示会場に諸民族の生活空間を再現し、実際にそこで生活させて民族工芸品を作成させたり、伝統芸能や行事を見せたりする展示が行われていました。
人間動物園のヨーロッパや北米における歴史
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元々、植民地支配政策を進めていたヨーロッパ社会では、古くは16世紀頃から様々な人種や奇形の人々を集めて見せ物にするという大衆娯楽が盛んに行われていました。
そうした行為が広まっていく中で1870年代頃からヨーロッパ社会で自分達とは違う文化や生活様式を持つ人々を展示する「人間動物園」が一般的に流行するようになりました。
当時は少なくとも、フランスのパリ、ドイツのハンブルク、イギリスのロンドン、イタリアのミラノ、ベルギーのアントワープ、スペインのバルセロナなどのヨーロッパ各国の大都市や、ニューヨークやシカゴなどのアメリカの都市に、常設された「人間動物園」がみられました。
ドイツの動物商人カール・ハーゲンベックによる人間動物園の成功
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1874年、ドイツの動物商人、カール・ハーゲンベックは、北欧の先住民族であるサーミ人を「ラップランド人展」として展示しましたが、この時にハーゲンベックはサーミ人が住む地域の自然環境や生活環境などを再現して展示し、訪れた観衆がその地域を実際に旅したかのような感覚を売り込みました。これが大きな反響を呼んで大成功を収めた事で、人間動物園では展示される人々に実際にそれぞれの文化のままに生活をさせ、それをそのまま見せ物にするという傾向が強まっていきました。
ハーゲンベックは1876年にヌビア人展、1880年にイヌイット人展も開催し、いずれも大成功を収めています。
パリのジャルダン・ダクリマタシオンで民族学展示と称する人間動物園開催
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1877年、フランスのパリのジャルダン・ダクリマタシオン(子供向けの遊園地)では、ヌビア人(アフリカ北東部の民族)とイヌイット(北アメリカの先住民)を紹介する展示を行いました。これは民族学展示と銘打たれていましたが、実際には人間を見せ物にする人間動物園でした。
この展示もヨーロッパの一般大衆の間で人気を呼び、この年の観客は前年比2倍の100万人に増加しました。その後もジャルダン・ダクリマタシオンでは人間動物園が続けられ、1877年〜1912年の間に民族学展示と銘打たれた約30もの人間動物園が開催されました。
パリ万博で黒人村と名付けられたパビリオンが作られ植民地の人々も見せ物に
1878年と1889年の2度のパリ万博では、黒人村(village nègre、ヴィレッジ・ニガー。ニガーは黒人奴隷に向けた蔑称)なるパビリオンが設置され、全世界から2800万人もの人々が訪問。
また、1889年のパリ万博では黒人村の他に主要展示として合わせて400人もの先住民が展示され、アンヴァリッド広場には植民地コーナーなるものも設置されて、ヨーロッパ各国が植民地としていた地域の人々がそこで生活させられ見せ物にされる「植民地の人々の生活」展示が行われました。
さらに、1900年のパリ万博でもマダガスカルの植民地集落が再現されて人々が見せ物にされています。
ヨーロッパの列強国が植民地先住民を相次いで人間動物園で展示
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1883年、オランダのアムステルダムで国際植民地輸出博覧会が開催され、そこで世界各地の植民地の先住民達が人間動物園として見せ物にされています。。
1886年には、スペインが当時植民地としていたフィリピンの原住民を、「(自分達の教育により)文明化した」などと説明して博覧会に出展。
その後、スペインの王妃、マリア・クリスティーナは人間動物園を制度化し、1887年までにフィリピンルソン島の先住民族イゴロット人と現地の動物がマドリードへと送られ、新たにマドリードに建設された庭園「パラシオ・デ・クリスタル・デル・レティーロ」の人間動物園で展示されました。
これらはフィリピン民衆の反発を招き、1896年のフィリピン革命(失敗し、結果としてフィリピンはアメリカの植民地化)へとつながりました。
1895年、イギリスロンドンのハイドパークに建てられたクリスタル・パレスで開催された「アフリカ博覧会」では、ソマリア出身の約80人が人間動物園としてエキゾチックな演出をされて展示され見せ物にされています。
1897年には、ベルギーのテルビュレンで開催された「ブリュッセル国際博覧会」で、現地の風景を再現した「コンゴの村」という展示があり、アフリカから連れてこられた人々が見せ物にされました。
1900年代に入っても人間動物園の開催は続けられた
フランスのマルセイユで1906年と1922年、パリで1907年と1931年に開催された「植民地博覧会」では、各地の植民地の人々が檻に入れらて展示され、その多くは半裸にさせられていました。
この頃には少しずつ人間を見せ物にする事への反発の声も起きており、一部の政治団体が対抗して「植民地の真実」と題する博覧会を開催するもほとんど話題にはなりませんでした。
一方で、1931年のパリ博覧会は大成功し、6ヶ月で3400万人もの人が来場しています。
人間動物園は日本の内国博(明治の万博)でも催され人類館事件が起きた
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ヨーロッパの列強国を中心に欧米諸国で盛んに行われていた人間動物園ですが、日本でも人間動物園に類する民族の展示が実施された事がありました。
当時の日本政府(明治政府)は、ヨーロッパ諸国がアジアを未開の地と見て、植民地支配を進めている状況に危機感を持ち、ヨーロッパの列強に対抗するために外に向けて勢力を拡大する方針を取っていました。
1895年に日清戦争に勝利した日本は台湾を割譲され植民地化するなどし、1902年には日英同盟も締結して、アジアで唯一ヨーロッパ諸国に対抗できる国として勢力を拡大していました。
日本が当時の国際社会の中で一定の地位を獲得する背景の中で1903年に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会(内国博)には、14か国18地域が参加する大規模なものとなり「明治の万博」とも称されました。
この内国博で、民間のパビリオンとして「人類館」というパビリオンが設置されたのですが、これは、沖縄の琉球民族、北海道のアイヌ民族、台湾の先住民である生蕃(高山族)、インド部族のバルガリー(ベンガル地方の人々)、その他、朝鮮や清国、トルコ、アフリカなどの合計32名が「7種の土人」などと呼称されて展示されました。
解説者はこの人々をムチで指し示すようにしながら解説し、パビリオンには「性質が荒々しいので笑ったりしないように」と書かれた立札まで設置されていたというので、現在の感覚からして極めて差別的であり、日本で行われた「人間動物園」だと言えます。
この日本での人間動物園開催に対して、清朝(清国の王朝)、朝鮮(大韓帝国)政府から抗議があって、この2民族の展示は直前で取りやめとなりました。
また、開催中には沖縄の人々からも、同胞である琉球民族がアイヌや生蕃と同列に展示されている事に対する抗議が出始めました。これは当時、沖縄の人々の世情として、積極的に大日本帝国と同化していこうという意識が広まりつつあったため、他の民族と同列に扱われた事に対する抗議でした。この抗議により琉球人の展示も取り止めになっています。
アイヌ民族はあえて逆にこれを利用する方針を取り、来場者に向けて自分達の待遇改善のアピールを行いました。アイヌ民族から参加した教師は、アイヌ民族への学校への資金提供を日本政府が拒否している事を観客に向けて演説しこれが反響を呼びました。日本国内の一部雑誌にこれらの事例を紹介して「人間を見世物として展示することは非人道的」であると主張し、「人類館」への批判を展開しました。
この一連の動きは「人類館事件」と呼ばれています。
これは、世界的に見ても、人間動物園に対して広範な抗議運動が起きた初めての事例となりました。
いずれにせよ、当時の日本においても、弱い立場にある諸民族の人々に対する差別意識が非常に根強いものであった事が窺い知れます。
人間動物園は日本では東京でも1912年と1914年の博覧会で実施
「人類館事件」から9年後の1912年、東京上野で開催された「拓殖博覧会」にて、オロッコ(樺太の少数民族)、ギリヤーク(樺太の少数民族)、樺太アイヌ、北海道アイヌ、台湾の先住民族ら、計18人が、自分達の伝統的住居を作り居住し、その様子が展示されました。
また、1914年開催の東京府主催「東京大正博覧会」でも、アイヌや台湾の先住民族、東南アジアのベンガリ人、クリン人、マレー人、ジャワ人、サカイ人といった民族を集めた南洋館が設置されました。
これらの人々は食人種などと事実とは異なる紹介をされ、ワニや大蛇、像などの動物の展示と混じり、見せ物にされたといいます。
人間動物園がなくなった理由は抗議運動と欧米でも批判的な声が増加した事
「人間動物園」は、1930年代から1950年代にかけて次第に廃止されていきました。
人間動物園がなくなった理由の1つとしては、アメリカの黒人の中で次第に力をつけた人々が組織的な抗議運動を展開しそれが次第に広がった事が挙げられます。
人間動物園がなくなった理由としてもう1つは、ヨーロッパやアメリカの社会においても、徐々に人間動物園に対して非人道的だとする批判の声が増加した事もあります。特に黒人に対する差別への抗議運動が強まり、その流れの中で人間動物園は次第に廃止されていきました。
人間動物園のドキュメンタリー映画「HUMAN ZOOS」
「人間動物園」のドキュメンタリー映画はこれまでに数多く制作されています。2018年には「Sauvages, au coeur des zoos humains」という作品が発表され高評価を得ています。
2019年には、「人間動物園」についてのドキュメンタリー映画「HUMAN ZOOS」が公開されています。こちらは、激しい差別を受けた黒人をはじめとする民族達に焦点を当て、そうした差別と戦ったアメリカの勇敢な黒人牧師達のストーリーも語られています。
いずれの映画も非常にクオリティが高い作品で人間動物園について知るにはうってつけですが、残念ながら日本語字幕版や吹き替え版は現在の時点では発表されていません。
人間動物園の漫画やアニメはヨーロッパでの人間動物園とは無関係
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「人間動物園」の漫画やアニメなどもネット検索されています。
これは日本のアニメーション作家のパイオニア的存在で、イラストレーターや漫画家としても活躍する久里洋二さんの「人間動物園」という作品によるものです。
久里洋二さんの「人間動物園」は、今回の記事で取り上げているヨーロッパや日本での差別的な人間の展示である「人間動物園」とは全く関係がない作品で、人間の男女を動物園に入れて檻の中で女性が男性をやっつけるという内容のアニメーションです。
「人間動物園」は、新聞社の原稿料で35ミリのカメラを買って撮影しました。付き合いのあった作曲家の武満徹さんに「何かない?」と聞いたら、これでいいかな、とくれたテープを聴くと、「あー」とか「うー」とかうなっているだけ。ちょうど近所に猿やニワトリを扱っている店があって、仕事場にいると声が聞こえる。そこで考えたのが、動物園に人間を入れて、武満さんの音楽をつけたらどうか。それもおりの中で女が男をやっつけたら面白い。
このアニメ映画「人間動物園」は当時流行していたエログロ、ナンセンスを取り入れた2分ほどの前衛的作品で、日本国内では見向きもされなかったものの海外で高い評価を受けて数々の賞を受賞し、久里洋二さんは日本を代表するアニメクリエイターとして評価されるようになりました。
この久里洋二さんのアニメ作品「人間動物園」の他にも、270万再生突破のボカロ曲をモチーフにした漫画家作品「地獄型人間動物園」が話題になっていますがこちらも今回の記事で紹介した「人間動物園」とは何の関係もありません。
人間動物園と題する映画もあるがこれもヨーロッパでの人間動物園と無関係
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2009年に「人間動物園」という映画が日本で公開されています。
これも今回の記事で紹介したヨーロッパや日本で19世紀から20世紀にかけて開催された差別的民族展示「人間動物園」とは何の関係もない映画で、直木賞受賞作家・連城三紀彦さんの「人間動物園」という小説を原作にした作品です。
原作小説は面白いのですが映画の方はあまり評価されていません。
人間動物園の現在…ベルギーで自己批判的な展覧会が開催され話題に
「人間動物園」は現在は開催されていません。
現在は、人間動物園は人類の差別の歴史として、ヨーロッパでは自己批判的に語られる場合が多く、2021年にはベルギーのブリッセルで「人間動物園」の歴史を自己批判的に紹介する展覧会が開催され話題を集めました。
欧州各地に19世紀末から20世紀初めにかけて、植民地帝国の「文化的優位性」を誇示する目的で、アフリカの村を再現した遊園地が造られた。 ベルギー・ブリュッセル郊外テルビュレン(Tervuren)で現在、こうした遊園地が人種差別的な固定観念を広める窓口となっていたことを紹介する展覧会が開催されている。会期は来年3月初めまで。 展覧会のタイトルは「人間動物園:植民地主義的展示の時代(Human Zoo: The age of colonial exhibitions)」。
まとめ
今回は、古くは16世紀から民衆向けの娯楽として開催され、19世紀から20世紀にかけては、帝国主義を掲げるヨーロッパ列強国と日本などが植民地支配の正当性を主張する目的で盛んに開催した「人間動物園」についてまとめてみました。
人間動物園は、当時のヨーロッパ社会などで未開の地とみられていたアフリカやアジアなどの諸民族の人々が無理やりかあるいは騙されるなどして連行され、ヨーロッパ各地で民族展示として、生活させて見せ物にされるという非常に民族差別的な催しでした。
人間動物園は万博など博覧会で盛んに開催され、世界中から多くの人が展示された少数民族や先住民族の人々を鑑賞しに集まりました。
日本では、「明治の万博」と称された1903年に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会や、1912年に東京上野で開催された「拓殖博覧会」、1914年に同じく東京上野で開催された「東京大正博覧会」などで人間動物園のような民族展示が開催されています。
日本での人間動物園では、世界で初めて広範な抗議運動が起こり、これは「人類館事件」と呼ばれています。
人間動物園は現在は開催されていませんが、なくなった理由は、白人からの差別に対する黒人による抗議運動が強まった事や、欧米社会でも黒人やその他の有色人種に対する人権意識が次第に根付き、人間動物園を非人道的だと批判する声が増えた事などが挙げられてます。
現在、人間動物園に対しては、ヨーロッパやアメリカでは自らの過ちとして自己批判的に語られる事が多く、人間動物園をテーマにしたドキュメンタリー映画も多数制作されています。また、ベルギーでは2021年に人間動物園の歴史を自己批判として振り返る博覧会「人間動物園:植民地主義的展示の時代」が開催され大きな話題となりました。