中村泰とは、1995年3月に起きた警察庁長官狙撃事件の真犯人とされる老スナイパーです。
今回は「生まれついてのテロリスト」と言われる中村泰の家族や生い立ち、結婚の有無、なぜ國松孝次氏を狙ったのか、共犯者、服役中に死亡した現在についてまとめます。
この記事の目次
中村泰が起こしたとされる國松孝次警察庁長官狙撃事件の概要
1995年3月30日、当時の警察庁長官であった國松孝次氏が何者かに狙撃される事件が起こりました。
警察のトップが襲われるという前代未聞の事件の現場となったのは、東京都荒川区にある高級マンション群、アクロシティ。
この日の朝8時31分頃、國松孝次氏は出勤のためにアクロシティ内の自宅マンションを出たところを付近で待ち伏せていた犯人に襲われ、4発放たれた銃弾のうちの3発を背部・腹部に受けて倒れました。
國松孝次氏は、すぐさま日本医科大学付属病院高度救急救命センターに救急搬送されましたが、緊急手術を担当した医師によると「胃と膵臓、そして大動脈を損傷している」とのことで、手術中に6回も心臓が停止したといいます。
その後、奇跡的に一命をとりとめましたが、犯行に使われて銃弾は「ホローポイント弾」という体内で炸裂する殺傷能力の非常に高いものであったことが判明し、犯人の殺意の高さが浮き彫りになりました。
なお、國松孝次氏は全治1年6ヶ月と診断された重傷を負いながらも、事件の2ヶ月後には職務に復帰しています。
警察はオウム真理教の犯行と予想
狙撃事件が起きた1時間後、テレビ朝日に「國松孝次警察庁長官を襲ったのは自分だ」と名乗る人物から電話があり、次は井上幸彦警視総監らを狙うとの予告がありました。
そして「オウム真理教と教団が起こしたとされる事件への捜査をやめろ」と言ってきたのです。
警察庁長官狙撃事件が起きる10日前、オウム真理教は地下鉄サリン事件を起こしています。
出典:https://nornie.blog.fc2.com/
そのため事件当時、警察は教団への強制捜査に踏み切っており、オウム真理教の信者から激しい反発を受けていました。
また、狙撃された國松孝次氏の手には、オウム真理教が作成した教団の無実を訴えるビラが握られており、現場近くの警察署の女性警察官からも、事件当日にオウム真理教の幹部に似た男を目撃したいう証言があがりました。
これらのことから、警察はオウム真理教が國松孝次氏を襲った可能性が高いとして捜査を開始しました。
1人の犯人が浮かび上がるが…
当時、本来ならば凶悪事件の捜査を担当するはずの刑事部が地下鉄サリン事件にかかりきりになっていたため、警察庁長官狙撃事件の捜査は公安部が担当することになりました。
そして公安部の捜査によって、かつてオウム真理教の信者であったという現職の警察官が容疑者として浮上したのです。
1996年5月、当時31歳であった小杉敏行巡査長は、自分が犯人だと認めて「狙撃に使った拳銃は神田川に捨てた」と供述しました。
しかし、取り調べのなかで小杉巡査長が「自分で撃ったって言っちゃったから、弱いところもあるんですよね」と口にしたことから、事件を担当していた公安の捜査官は「こいつは真犯人ではないな」と察したといいます。
公安捜査官は小杉巡査長が嘘の供述をしたことに対して「事件直後はオウムの犯行に違いない、と上層部が考えていたから、疑われて自分が犯人だと言ったんだろう。こいつは捜査に付き合っただけだな、と思った」と語っています。
供述内容にも怪しい点があったため、警察はこの巡査長の件を公にはせず、報道もされませんでした。
しかし1996年の10月に何者かが報道各社に「警察庁長官狙撃事件の犯人は現職の警察官。警察はその事実を隠している」という文書を送ったことで、疑惑を向けられた小杉巡査長の存在が公になります。
10月25日にはTVや新聞でも報道が開始され、27日になって「凶器を捨てた」との供述があった神田川で大規模捜査がおこなわれましたが、拳銃は見つからず、物証がないこと、そして供述に矛盾が見られることから小杉巡査長の起訴はいったん見送られることになりました。
なお、小杉巡査長は狙撃事件とは別にオウム真理教の幹部に警察の内部情報を流していた疑いがあるとして、1996年11月に懲戒免職処分を受け、1997年1月には地方公務員法違反(秘密漏えい)容疑で書類送検されています。
中村泰が真犯人として捜査線上に浮かぶ
公安部での捜査が行き詰まりを見せはじめた頃、刑事部によって1人の男が真犯人として捜査線上に浮かび上がります。
その男が2002年に名古屋で現金輸送車を襲い、現行犯逮捕されていた中村泰です。刑事部は現金輸送車襲撃事件で中村泰を捜査していくうちに、警察庁長官狙撃事件にも関与しているのではないかという疑惑を持ちます。
現金輸送車襲撃事件の証拠として押収した4,000点を超す証拠品のなかから、中村泰の自宅から國松孝次氏の自宅マンションまでのルートを書き記した地図や、狙撃事件を起こした後に打ったのではないかと思われる自作の詩が入ったフロッピーディスクなど、真犯人と思わせる物証が出てきたのです。
墨田の河畔 春浅く そぼ降る雨に濡れし朝 満を持したるときぞ今 轟然火を吐く銃口に 抗争久し積年の 敵の首領倒れたり
上の詩が証拠品のなかにあった、中村泰が狙撃事件後に綴ったと思われるものです。
また、中村泰は現金輸送車襲撃事件でも拳銃を使っており、銃の扱いにも長けていたことが判明していました。
そして三重県名張市にある中村泰の隠れ家に立ち入り捜査した結果、國松長官に関する新聞記事や貸金庫を借りていることがわかるメモが見つかり、さらにメモを手掛かりに貸金庫を開けると、そこから14丁の拳銃や1000発以上の実弾が発見されたのです。
これを見た刑事部の捜査員は「オウム真犯人説もあり得るが、中村泰のほうが、より事件に近い」と確信を得たといいます。
証拠品を押収した捜査官が中村泰の取り調べをおこなうと、彼は自ら犯行を認めました。
中村泰が警察庁長官狙撃事件の真犯人なのか?
決定的な証拠もなく、また捜査本部では「真犯人はオウム」という考えが根強かったために、警察内部では刑事部の「中村泰が犯人だ」という主張は認められなかったといいます。
そのため刑事部の捜査官は捜査本部とは別に、中村泰が真犯人だと見て独自に調査を続けることととなります。
その後、2004年7月7日に公安部が小杉元巡査長、オウム真理教の元幹部の岐部哲也らを含む4名を真犯人と見て殺人未遂容疑で逮捕しましたが、十分な証拠や供述がとれずに同月28日には仮釈放されており、9月28には不起訴の決定がされました。
そして2010年3月30日に警察庁長官狙撃事件は公訴時効を迎えます。中村泰は事件後に1年間、海外に渡航していたため彼に対する公訴時効のみ1年間延長されました。
延長された1年の間に自ら犯行を認めている中村泰を起訴、裁判開始の方向で動くのかと思われましたが、2010年10月東京地方検察庁は嫌疑不十分により中村泰の不起訴を決定。
刑事部からは「犯人は中村泰以外に考えられない」という声が上がっていたにもかかわらず、事件は未解決のまま捜査終了になったのでした。
中村泰が真犯人だと思われる証言と証拠
・1980年代後半に、パイソンと犯行に使われたのと同じホローポイント弾をアメリカで偽名を使って購入していた
・國松長官が狙撃された現場には韓国10ウォン硬貨が落ちていた。三重県名張市の隠れ家からも韓国10ウォン硬貨が発見されている
・事件の一週間前にアクロシティ周辺で元長官秘書室長の田盛正幸氏が、中村泰によく似た年格好の不審な男を目撃している
・田盛正幸氏が不審人物を目撃した日、中村泰も犯行の下調べのためにアクロシティにいたと供述していた
・犯人が事件当日に携行していたのと似た鞄が名張市の隠れ家から見つかった
・鑑識の結果、押収された中村泰の鞄から金属片が検出された
・中村泰は逃走後に新宿の貸金庫に凶器を格納したと供述しており、それを裏付ける貸金庫の開扉記録もあった
・中村泰は逃走に使った自転車を近くに放置したと供述しており、事件直後に供述にあった場所で持ち主不明の自転車を見たという証言があった
・事件当日、犯人は國松長官から20メートル離れた場所から狙撃している。命中率から考えても犯人は特別な狙撃訓練を受けていると思われる。中村泰にはアメリカで狙撃の軍事訓練を受けた経歴がある
中村泰が犯人ではないとする根拠
・事件現場に残された繊維痕と火薬痕、目撃証言から推定される犯人の身長が中村泰の身長(161cm)と合致しない
・3発目と4発目の発砲状況について、國松長官の秘書による目撃情報と中村泰の供述に食い違いがある
これだけの証拠や証言がありながら、不起訴処分となった中村泰。当時、刑事部で中村泰の取り調べに当たっていた原雄一氏は、事件が時効を迎えた後も以下のように語っていました。
「中村泰は、限りなく“黒”に近い男です。事件は真実を追究すれば犯行にたどりつく」
中村泰の生い立ちと経歴
中村泰は1930年に東京都で生まれました。父親は南満州鉄道の職員であったため、幼年期は中国の大連に住んでいたといいます。
1940年に日本に帰国したのですが、勉強熱心な性格ではなかったにもかかわらず極めて成績がよく、周囲からは「神童」「天才」と称されることが多かったそうです。
高校卒業後は東京大学教育学部に進学し、ここでも「ノーベル賞が狙えるほどの才能の持ち主だ」と言われるほどの秀才ぶりを見せました。
しかし、学生運動にのめり込んで2年で東京大学を中退。その後は暴力革命を志すようになり、資金集めのために犯罪を重ねていきました。
中村泰がスナイパーとなった経緯・思想
中国で暮らしていた当時は日中戦争の只中にあったため、中村泰はわずか10歳の頃から護身用に拳銃を携帯していました。このような少年期を過ごしたことが、後の思想や行動に繋がったと考えられます。
日本に帰って高校に進学してからは政治運動家・橘孝三郎が主催する私塾に入り、そこで愛国思想について学んだとされます。
橘孝三郎とは五・一五事件にも関与していた超国家主義者で、国内最大の右翼団体の連合体である「全日本愛国者団体会議」の最高顧問も務めた人物です。このような人物に教えを受けたことで、中村泰の思想もより極端なものになっていきました。
結果、大学時代には学生運動に傾倒し、大学中退後の26歳の時には革命活動の資金を調達しようと銀行強盗を企てていたところを警官に見つかって職務質問され、拳銃で警官のこめかみを撃ち抜いて殺害するという事件を起こしています。
チェ・ゲバラへの憧れ
警官を殺害した事件で中村泰には無期懲役の判決が下り、19年の間、千葉刑務所に服役しました。そして服役中にキューバの革命家、チェ・ゲバラに憧れ、彼を崇拝するあまり、自分も武装集団を組織したいと考えるようになったといいます。
なお、中村泰が収監されていたのと同じ千葉刑務所には、河野一郎邸焼き討ち事件の犯人として服役中であった右翼の大物である野村秋介も、収監されていました。
獄中で中村泰は野村秋介に接触し、武装集団を組織する協力を得ようとしたそうです。しかし、野村秋介はこれに賛同しませんでした。
45歳で千葉刑務所を出所した後は、先物取引などで1億円もの活動資金を荒稼ぎし、第一次ニカラグア内戦に義勇兵として参加するべく偽造パスポートでニカラグアに向かいます。ところが中村泰が到着した時には休戦状態にあり、義勇兵として革命に参加することはできませんでした。
これで諦めることはなく、中村泰は50代でアメリカに渡り、射撃の軍事訓練を受けます。そして、そこで「ハヤシ」という人物に出会い、意気投合した2人は「特別義勇隊」という武装組織をつくり、日本で革命を起こそうと企てました。
そして中村泰は革命のための拳銃や銃弾を少しずつアメリカから密輸し、それらを貸金庫に保管して革命を起こす日を待っていたとされます。
中村泰には國松孝次長官を狙う動機があった?
90年代に入ると、中村泰は徐々に反社会勢力として認識されつつあったオウム真理教を警戒するようになります。
そして1994年6月27日に松本サリン事件が起きると、これをオウムの仕業と察知し、サリンの製造現場であった上九一色村の第7サティアンを襲撃しようとします。
しかし、襲撃の準備をしている間に地下鉄サリン事件が発生。すると中村泰は、一度ならず二度までもカルト教団にテロ行為を許した警察庁に対し、強い憤りを覚えたのです。
この落ち度の責任をとらせるため、中村泰は警察関係者の襲撃を企てます。さらに襲撃をオウム真理教関係者によるものと見せかければ、捜査の矛先をそらすとともに、オウムに対する捜査が一層厳しいものになると考えました。
このような動機から、中村泰は警察庁長官狙撃事件に踏み切ったと自供しています。なお、第7サティアン襲撃と警察庁長官狙撃事件の計画には、中村泰と「特別義勇隊」を結成した、前述の「ハヤシ」という人物がくわわっていました。
中村泰には共犯者がいた?
刑事部で警察庁長官狙撃事件の捜査にあたっていた原雄一氏によると、本人の供述内容から中村泰には5人の協力者がいたといいます。
・1人目の協力者…北米で中村泰の支援をしていたメキシコ人女性
・2人目の協力者…パスポートの手配をした人物
・3人目の協力者…韓国の情報機関の仲介役を務めた人物
・4人目の協力者…現金輸送車襲撃事件を支援した人物・小川雅弘
・5人目の協力者…ロサンゼルス在住の密輸業者・大島洋一
刑事部ではこのうち、4人目の協力者となる現金輸送車襲撃事件を支援した人物が、警察庁長官狙撃事件での共犯者であった「ハヤシ」の正体なのではないかと見られていました。
そのため原雄一氏は、取調べ中に小川の名前を出して揺さぶりをかけていましたが、最終的に中村泰は「答弁を留保します」とだけ告げて、小川について何も語らなくなったといいます。
あおのため結局「ハヤシ」が誰なのかについては明らかにならず、中村泰の供述に沿って、当時すでに亡くなっていた5人目の協力者・大島洋一が共犯者だったということで捜査を終えています。
ところが2018年3月に、小川雅弘が原雄一氏にコンタクトをとってきたのです。
捜査時に押収した証拠品から、小川雅弘は中村泰が現金輸送車襲撃事件で現行犯逮捕をされた後に、彼がアメリカで借りていた貸金庫やメールボックスの解約手続きを代わりにおこなったことがわかっています。
しかも電話で解約の申込みをした後にわざわざ書面でも解約の意思を伝えており、几帳面な性格をしていることが窺えました。
そのため原雄一氏は警察庁長官狙撃事件と中村泰犯人説についてまとめた自著『宿命』のなかに、わざと「中村泰と小川雅弘は警察庁長官狙撃事件が起きた後に知り合っている。だから小川は共犯者にはなりえない」と、嘘の情報を混ぜたといいます。
これは自分に関する記述で明らかな間違えがあれば、小川雅弘は訂正のために接触してくるかもしれないと考えたためです。
そして見事に原雄一氏の目論見通り、小川雅弘が『宿命』の版元である講談社に、訂正箇所を記した手紙を送ってきたのです。
手紙のやり取りを通して原雄一氏は小川雅弘と直接会って話をする約束まで漕ぎつけましたが、途中で警戒したのか小川は連絡を絶ってしまい、面会することは叶いませんでした。
しかし、一連のやり取りを原雄一氏から聞いた中村泰は「彼が警察庁長官狙撃事件の共犯者だと言えば、彼に不利益をおよぼすことになる。だから沈黙するほかないのです」と返答したそうです。
この中村泰の反応から見ても、おそらく共犯者「ハヤシ」の正体は、小川雅弘だったのでしょう。
中村泰の家族は?結婚はしていた?
中村泰の家族ですが、両親のほかに弟がいることが明らかになっています。
弟は2018年9月2日放送の「NHKスペシャル 未解決事件 File.07 警察庁長官狙撃事件」で取材に応じており、「兄は会うたびに、警察庁の長官を銃撃したいと言っていた」と証言していました。
結婚をしていたかどうかは不明ですが、殺人罪や強盗致傷罪といった極めて重い罪で刑務所の出入りを繰り返していたことを考えると、自身の家庭は築いていなかった可能性が高いと思われます。
中村泰の現在
出典:http://halohalo-online.blog.jp/
前述のとおり中村泰は、2002年に名古屋市西区にあるUFJ銀行押切支店の駐車場で現金輸送車を襲撃して警備員に重傷を負わせており、5000万円を強奪して逃亡しようとしたところを、現行犯逮捕されています。
そのため警察庁長官狙撃事件との関与が疑われた時には、強盗致傷などの罪で懲役15年の判決が確定し、受刑中の身でした。
そして受刑中に、2003年に大阪で起きた三井住友銀行都島支店の現金輸送車襲撃事件にも関与していたことが判明しています。
大阪で起こした現金輸送車襲撃事件では男性警備員に発砲して左足に重傷を負わせた後、現金500万円を奪って逃げていました。
この事件に関しては2008年6月2日に最高裁で無期懲役の判決が下されており、中村泰は岐阜刑務所に服役していました。
獄中の中村泰と手紙のやり取りをしていたというノンフィクションライターの片岡健氏によると、2014年のはじめに直腸がんの手術を受けており、2017年にはパーキンソン病を発症し、本人も体力の衰えを感じていたとのことです。
ただ警察庁長官狙撃事件の犯人が自分であると世間に認知されるのは嬉しかったらしく、自分が取り上げられるTV番組が決まると、片岡健氏にも報告していたといいます。
出典:https://www.dailyshincho.jp/
2024年5月、中村泰が死亡したことが明らかになりました。
関係者によると、東京都昭島市の医療刑務所「東日本成人矯正医療センター」で数年間過ごしていたという中村泰は、同施設で5月22日に死亡したとのことです。94歳でした。
死因は誤嚥性肺炎であると伝えられています。
中村泰と警察庁長官狙撃事件についてのまとめ
この記事では1995年に起きた警察庁長官狙撃事件の真犯人とされる中村泰と、事件の概要や現在までの流れについて紹介しました。
警察庁長官狙撃事件は時効を迎え、真犯人とされる中村泰も死亡しました。真相が解明されないままとなっており、事件の再検証を望む声も聞かれています。