財田川事件は1950年に起きた強盗殺人事件で、四大死刑冤罪事件の一つです。この記事では財田川事件の概要や、犯人にされた谷口繁義さんの裁判の流れをわかりやすく説明するとともに、無罪判決後の現在や賠償金、その後、真犯人について紹介します。
この記事の目次
財田川事件の概要【四大死刑冤罪事件】
1950年2月28日、香川県三豊郡財田村(現在の三豊市)で、闇米ブローカーの香川重雄さん(当時63歳)が殺害されるという事件が発生しました。
現場となったのは香川さんの自宅で、当日の夕方に訪ねて来た知人が遺体を発見したことで事件が発覚。
香川さんは30ヶ所以上を刃物でめった刺しにされており、自宅からは現金約1万3000円が盗まれていました。
警察は闇米売買の関係者や強盗の前科を持つものなどを中心に容疑者をピックアップし、怪しい人間は別件で逮捕して取り調べをするなどして捜査を進めます。
そんななか、警察に目をつけられたのが当時19歳の谷口繁義さんでした。
谷口繁義さんは1949年に不良仲間とともに強盗未遂事件を起こして逮捕されており、執行猶予付きの有罪判決を受けていました。
警察はこの強盗傷人事件での取り調べの最中に、谷口繁義さんが香川さん殺害についても自供したと発表。強盗殺人で谷口さんを再逮捕、起訴します。
しかし、この自供は警察の拷問によって強要されたもので、谷口繁義さんは香川さん殺害には関与していなかったのです。
裁判で谷口さんはそのことを訴え、無罪を主張しました。
ところが検察側は警察が捏造したと思われる証拠を並べて犯人は谷口繁義さんだと指摘し、最終的に谷口さんに死刑判決が下されてしまいます。
ここから冤罪を訴える谷口繁義さんの冤罪を訴える戦いが始まりました。谷口さんを信じて高松地裁の裁判長から弁護士になった矢野伊吉弁護士が再審請求を起こし、1984年になってやっと谷口さんに無罪判決が下ります。
無罪は証明されたものの、谷口繁義さんは34年もの時間を獄中で過ごしました。20代から40代という多くの人たちが人生でもっとも変化を迎え、多くの実りを得る時期を、やってもいない罪を償うために費やしたのです。
冤罪で死刑を言い渡され、被疑者が長い時間を奪われたことから財田川事件は、免田事件、松山事件、島田事件日本の四大死刑冤罪事件の一つに数えられています。
なお、なぜ本件が冤罪被害の谷口繁義さんの名前をとって「谷口事件」と呼ばれず、財田川事件と呼ばれているのかというと、1972年に高松地裁丸亀支部が再審請求を棄却した際に、裁判長が以下のような発言をしたためです。
捜査官の証言も全面的には信用できず、二〇年以上も経過した今日においては、既に珠玉の証拠は失われ、死亡者もあり、生存者といえども記憶はうすらぎ、事実の再現は甚だ困難にして、むなしく歴史を探究するに似た無力感から財田川よ、心あれば事実を教えて欲しいと頼みたいような衝動をさえ覚えるのである。
財田川事件の流れをわかりやすく説明① 谷口繁義さん逮捕から起訴まで
1950年4月3日、谷口繁義さんは知人1人とともに農協事務所での強盗傷人事件の容疑者として逮捕されました。
そして2人は財田川事件の容疑者としても取り調べを受けることとなったのですが、知人は事件当日にアリバイがあったためにすぐに釈放されます。
一方で谷口繁義さんの当日の行動については、実の弟のみが証言可能な状況でした。香川さんの死亡推定時刻、谷口さんは自宅で弟と寝ていたいいます。
そのため家族以外にアリバイを証明できる人間がおらず、谷口さんにはアリバイがないという扱いになってしまったのです。
1950年当時は、恐ろしいことに警察による拷問は容認されていた時代でした。1948年の世界人権宣で拷問の禁止が明文化されたにもかかわらず、日本の警察には戦中の名残が色濃く残っていたとされます。
同時期には日本で初めて死刑判決を覆した冤罪事件・二俣事件も起きていますし、昭和の拷問王・紅林麻雄が刑事として数々の冤罪事件をでっち上げていたのも1950年代です。
1950年の6月に農協事件で有罪判決(懲役3年6ヶ月)を言い渡された谷口繁義さんは、身柄を拘置所から留置所に移されました。
そして香川さん殺害を認めるまで、食事を与えない、暴行をくわえるなどの拷問を約2ヶ月にもわたって受けたとされます。
そうして心身ともに限界を超えてしまったところで、警察に強要されて香川さんを殺害したと自白してしまいました。
なお、警察が谷口繁義さんに目をつけた理由も、周囲の評判が悪い、素行不良の少年だったからというだけでした。
事件時に現場周辺で谷口さんに似た人物を見たという証言があったわけでも、被害者と谷口さんの間にトラブルがあったという話が出ていたわけでもなく、「なんとなく事件を起こしそうだから」という理由で犯人に仕立て上げられてしまったのです。
財田川事件の流れをわかりやすく説明② 怪しい証拠
谷口繁義さんの初公判は、1950年11月6日に高松地方裁判所丸亀支部で開かれました。
拷問を受けて自白をしてしまった谷口さんでしたが、その後の取り調べで自白を撤回しており、裁判でも自白の無効と無罪を激しく訴えます。
一方で検察は、ここにきて取り調べの最中にはなかったはずの新しい証拠を提出してきました。
事件当日、谷口繁義さんが着用していたという国防色中古ズボンを証拠として出してきたのです。
財田川事件の裁判で提出された、2つの不審な証拠について見ていきましょう。
①血液が付着したズボン
検察側はこのズボンに、被害者の香川さんと同じ「O型の血液」が微量に付着していたとして、これが犯行を裏付ける物的証拠だと主張しました。
取り調べ中にはなかった物的証拠が裁判で突然出てくるというのは、不自然としか言いようがありません。
さらに、検察はこのズボンについた血痕の鑑定を、当時の日本の方位学の権威とされていた古畑種基東京大学教授に依頼したと証言します。
が、実はこれも嘘であり、実際に鑑定を行ったのは古畑教授ではなく教え子の大学院生だったのです。
しかも検察は古畑教授以外にもう1人、別の法医学者にも血液鑑定を依頼していたのですが、こちらからは「付着していた血液が微量すぎて、鑑定できない」という返答があったとされます。
このことは後に谷口繁義さんの弁護士によって指摘され、古畑教授は検察に都合の良い結果ばかり出す御用学者ではないのかと批判を呼びました。
なお、古畑教授は財田川事件以外にも弘前大学教授夫人殺人事件という別の事件で偽の鑑定結果を出しています。
この事件でも、古畑教授が提出した血液鑑定が決定打となって那須隆さんという無実の男性が罪を着せられ、後に冤罪だと証明できたものの懲役15年の判決を受けていました。
②谷口繁義さんの手記
検察は谷口繁義さんが自ら犯行の様子を記したものとして、手記5通も証拠として提出しました。
しかし、谷口さんはこの手記を書いた記憶がないと主張します。そもそも谷口繁義さんは尋常小学校を出た後は教育を受けておらず、漢字を書くのも苦手だったうえに文章もごく簡単なものしか書けなかったそうです。
そのため5通もの手記を書く文章能力がなく、文法から見ても到底本人が書いたものには見えなかったといいます。
財田川事件の流れをわかりやすく説明③ 死刑判決
検察側の主張には怪しい点が多く、現在の感覚ではよく起訴が認められたなとしか思えないような有様でしたが、1952年2月20日に財田川事件の第一審の判決公判が開かれます。
高松地方裁判所丸亀支部が谷口繁義さんに下した判決は、なんと死刑でした。
裁判官は判決で、「事件当日、寝ていた被害者宅に被告人が侵入し、頭や腹部などを刺身包丁でめった刺しにして抵抗を封じ、胴巻の中から現金約1万3000円を盗み取って心臓を一突きして殺害した」と断定。
法医学の権威の血液鑑定が証拠なのだから、谷口さんの犯行で間違いないという判断をされてしまったのです。
この判決には谷口繁義さんも非常に驚いたといい、即日控訴しました。
しかし、1956年6月8日、高松高等裁判所は控訴を棄却。諦めずに上告したものの、1957年1月22日には最高裁判所によって上告も棄却されてしまい、死刑確定となります。
財田川事件の流れをわかりやすく説明④ 再審請求
死刑確定後、谷口繁義さんは大阪拘置所に移送されました。これは四国内の拘置所に絞首台がなかったためであり、ここで谷口さんは刑の執行を待つこととなります。
1969年、GHQ占領下で起訴された死刑囚7名に対して恩赦を与える選定会議が開かれ、谷口さんも恩赦の候補にあがりました。
しかし、谷口繁義さんには恩赦は与えられず、法務省刑事局は彼の死刑執行に向けて死刑執行起案書の作成に取り掛かります。
そこで高松地検に裁判時に提出しなかった参考人の供述調書などの記録を送付するように依頼するのですが、地検は「紛失した」と回答。
不都合な記録を隠したわけではなく、本当に紛失してしまっただけだったと言われていますが、このために死刑執行の起案書が書けずに刑の執行が無期限に延期されることとなります。
一方で谷口繁義さんは1964年3月に高松地裁丸亀支部宛に、再審請求を求める手紙を出していました。
再審請求をするには裁判時には出ていなかった新しい証拠を提出する必要があるのですが、谷口さんは手紙で「3年前の新聞記事に、古い血痕からも男女の識別ができるようになったと書いてあった。もう一度、ズボンの血液鑑定をしてほしい」と書いていたそうです。
谷口さんによると警察が証拠として提出してきた「事件当日に着ていた血痕のついたズボン」は、兄と弟と3人で共有していたものだったといいます。
そして谷口さんの兄の勉さんは警察官で、財田川事件が起きる前年の1949年に鉄道自殺者の検死に立ち会った際にも、このズボンを着用していた可能性がありました。
死刑判決が下されるまで、谷口繁義さんはこのことを知らなかったそうですが、判決が確定してから、勉さんより「もしかしたらズボンの血液は、検視でついたものかもしれない」と言われて、再審を決意したのです。
しかし、高松地裁はこの手紙を放置しており、手紙が発見されたのはなんと1969年3月のことでした。
偶然、書類棚に放置されていた手紙を見つけた高松地裁丸亀支部長の矢野伊吉裁判長は、独自に裁判の記録を洗いなおして冤罪の可能性を感じたといいます。
そして、谷口さんに連絡を取って再審手続きの意思があるか確認したうえで、自らが裁判長として再審請求審の審理を開始。
ところが再審が始まると今度はなぜか陪席裁判官らによる反対運動が起こり、矢野裁判長に対しても批判が寄せられるようになります。
このため矢野裁判長は裁判官の職を辞して弁護士となり、財田川事件の再審に臨むことになったのです。
財田川事件の流れをわかりやすく説明⑤ 無罪確定まで
谷口繁義さんの無罪を確認した矢野弁護士は第二次再審請求を提起しましたが、1972年9月に高松地裁丸亀支部が再審請求を棄却。
即時抗告しましたが、1974年12月には、高松高裁もこれを棄却しました。
しかし、これに対し最高裁は1976年10月12日に自白の信憑性に疑いがあるとして審理の差し戻しを決定します。
そのため1979年6月7日に再審開始が決定されたのですが、今度は検察側が再審棄却を求めて即時抗告。1981年3月14日に高松地裁が抗告を棄却したために、やっと再審が確定しました。
こうして始まった再審で、東京大学の教授が再びズボンに着いた血痕の鑑定を行ったところ、なんとズボンからは別の血液も検出され、検察と警察がズボンに血液をばら撒いたのではないかという疑惑が浮上します。
また、矢野弁護士は以下の不審点についても検察に説明を求めました。
・手記には被害者殺害時に再審請求人(谷口さん)の手や紙幣にも血がついたとあるが、紙幣を隠していたという被害者の胴巻きに血がついていなかったのは不自然。
・犯行に使った刺身包丁は轟橋から財田川に投げ捨てたと自供したというが、凶器は発見されていない。
・事故現場には大量の血液が飛散していたのに、再審請求人の衣類から検出された血痕が微量なのは不自然。
・現場からは犯人の血痕足跡が4つ発見されていた。それならば再審請求人の靴を押収して下足痕を調べるべきだが、警察はそれを行わなかった。
・再審請求人の自白内容から考えるともっと多くの血痕足跡が残っていたはずなのに、実際に見つかったのが4つのみなのも不自然。
・被告人が書いたとされる5通の手記について、筆跡鑑定に出したところ別人が書いた可能性が高いという結果が出た。
・犯行時刻、再審請求人にはアリバイがないとなっているが、請求人と弟が寝ていた部屋の隣室には客が来ていた。ならば、この客がアリバイを証明できるのではないか。
さらに弁護士は、そもそも谷口繁義さんが逮捕される原因となった農協強盗傷人事件についても、冤罪だったのではないかと疑問を呈しました。
逮捕された後も、農協事務所から奪われた現金は発見されなかったといいます。
この点について警察は「逮捕時に谷口は農協から盗んだ金をオーバーのポケットに隠し持っており、車で連行される前に証拠隠滅を図って投げ捨てた」と説明していたそうです。
しかし、逮捕時に谷口繁義さんが着ていたオーバーコートのポケットは小さく、農協から盗まれたお金は100円札が80枚以上もあったとのこと。
しかも、紙幣を投げ捨てたとされる際に谷口さんは7〜8人の警察に取り押さえられており、後ろ手に手錠までかけられていました。
そのため、本当にポケットに紙幣の束が入っていたのか?入っていたとして捨てることは可能だったのか?という点を矢野弁護士は追究したのです。
こうした指摘に検察は反論できず、1984年3月12日に高松地裁は「被告人の自白は真実ではない疑いがあり、唯一の物証にも疑いがある」として、無罪判決を出します。
1952年に起きた白鳥事件の再審請求時に最高裁判所が示した、「疑わしきは被告人の利益に、という原則は再審制度でも用いられるべきだ」という見解に則って出された判決でした。
ようやく逮捕から34年経過して、谷口繁義さんへの容疑が晴れたのです。
財田川事件のその後① 谷口繁義さんの現在と賠償金
無罪判決が出た食後に谷口繁義さんは釈放されており、財田町に戻りました。
その後はジャーナリストの鎌田慧氏の取材を受けたほかには目立った活動はしておらず、親族の援助を受けながら静かな生活を送ったとされます。
2005年7月26日に心不全で逝去したとのことで、享年74歳。亡くなる前はいっさい取材等にも応じていなかったといい、亡くなっていたことが公表されたのは、2006年1月になってからでした。
釈放後、谷口繁義さんは刑事補償法によって約7500万円の賠償金を受け取ったとされます。
退勤ではありますが34年もの間、自由を奪われた代償としては少なすぎると言わざるを得ません。
財田川事件のその後② 矢野伊吉弁護士の現在
谷口さんが一番お礼を言いたかったであろう矢野弁護士は、無罪確定前の1983年3月に亡くなっています。享年71歳でした。
矢野弁護士の再審請求の道のりは闘いの連続だったといいます。
裁判官のままでは谷口繁義さんを助けられないと弁護士になったものの、今度は弁護士会から「公務員時代に担当した事件を弁護するのは弁護士法に反する」という理由で処分を受けていました。
さらに再審が認められた際にも、最高裁判所から「まだ審議されていない証拠を、冤罪の証だと騒ぎ立てて世論を先導するのはよろしくない」と、異例の注意まで受けたとされます。
矢野弁護士は再審決定前の1975年に『財田川暗黒裁判』という本を上梓して、裁判所だけではなく世間に向けても谷口さんの冤罪を訴えていました。
これは裁判官からしてもたまったものではなかったでしょうし、「元同業者なのだからわきまえてくれ」という本音もあったのかもしれません。
しかし結果、矢野弁護士が警察や検察の疑わしい主張を複数あげて、声を大にして批判したおかげで無罪を勝ち取れたわけです。
財田川事件のその後③ 真犯人は?
財田川事件の真犯人は逮捕されておらず、事件は時効を迎えています。この事件では、発生当時から真犯人ではないかと疑われていた人物が3人いました。
1人目は、被害者の香川さんの遺体を最初に発見した知人女性です。この女性は遺体発見後に警察ではなく被害者の家族に事件発生を伝え、姿を消したとされています。
2人目は、19時頃に米を買いに被害者宅に来ていたという男性。事件前に現場付近で姿を見られていたことから、疑惑の目が向けられていました。
3人目は、警察が捜査対象にしていたという住所不明の男性。事件前に被害者宅の近くにいたところを、近隣住民から目撃されていた人物で素行にも問題があったとされます。
また、この人物は財田川事件後に別件で谷口繁義さんと同じ大阪拘置所に拘禁されていたといい、拘置所内で谷口さんに接触し「すまないことをした」と謝罪してきたことがあったそうです。
再審で矢野弁護士らは、上記3人目の男が真犯人の可能性が高いと訴えていました。
そもそもこの事件は金銭目的の強盗殺人ではなく、闇米ブローカー同士のトラブルによるものだったのではないか?と弁護士は再審で指摘しています。
実は事件が発生する前に被害者の香川さんは手元にあった現金を妻に渡しており、事件当時は現金を所持していなかった疑いが出ていたのです。
しかし、警察は早々に谷口繁義さんが犯人だと決めつけて取り調べを行っていたため、3人のうちの誰も逮捕どころか任意同行すらされず、犯行に関与していたのかは不明なままです。
財田川事件についてのまとめ
今回は1950年に起きた強盗殺人事件と、それに関連する冤罪事件・財田川事件について紹介しました。
5年の再審期間で無罪が確定したほど疑惑の多かった判決にもかかわらず、逮捕から34年もの間、身柄を拘束され続けて死刑執行されていた可能性すらあった谷口繁義さん。
せめて釈放後の生活が、穏やかで幸せなものであったことを願います。