「山梨キャンプ場殺人事件」は、「タコ部屋労働」で搾取されていた労働者3名が建設会社社長に殺害された事件です。
この記事では山梨キャンプ場殺人事件の現場の場所はどこか、被害者3名の背景と犯人の阿佐吉廣の人物像と動機、裁判やウシジマくんとの類似点や映画化、現在についてまとめました。
この記事の目次
山梨キャンプ場殺人事件はタコ部屋労働の暴力で3名が殺害された凶悪事件
「山梨キャンプ場殺人事件」は、1997年3月と2000年5月14日に合計で3名の男性が殺害され、2003年10月に被害者の死体が見つかった事で発覚した殺人事件です。
山梨キャンプ場殺人事件の裏側には、いわゆる「タコ部屋」労働と呼ばれる、非人間的環境下で浮浪者などを労働者として働かせる搾取システムがありました。
タコ部屋労働という環境下での、建設会社社長による従業員への日常的な暴力と非人道的な搾取がエスカーレートし最終的に3人の命が奪われた凶悪犯罪であり、日本の建設業界の末端が抱える闇を凝縮したかのような凄惨な事件として社会の注目を集めました。
この記事では、山梨キャンプ場殺人事件の舞台となった具体的な場所、犠牲になった被害者達の背景、犯人である建設会社社長・阿佐吉廣の歪んだ人物像と犯行に至った動機。そして、二転三転した異例の裁判についてまとめていきます。
また、ネット上で話題になっている山梨キャンプ場殺人事件と闇金ウシジマくんとの類似点、関係者の現在などについても紹介していきます。
山梨キャンプ場殺人事件の舞台となった「朝日キャンプ場」の場所はどこか
「山梨キャンプ場殺人事件」の現場となった場所は、山梨県都留市朝日曽雌に存在した「朝日川キャンプ場」でした。
澄んだ空気に包まれ、渓流のせせらぎが聞こえるこの場所は、本来であれば家族連れや若者達が自然を満喫し、都会の喧騒を忘れるための憩いの場であったはずでした。しかし、その牧歌的な風景の裏側には、日本社会の闇が渦巻いていました。
このキャンプ場を経営していたのは、事件の犯人(主犯格)である阿佐吉廣が社長を務める「有限会社朝日建設」でした。この朝日建設の実態は、東京の山谷や大阪のあいりん地区といった寄場(ドヤ街)から、身寄りや定職のない人々を言葉巧みに集め、劣悪な環境の寮に住まわせて、県内の土木・建設現場に派遣する、いわゆる「手配師」と呼ばれる業態でした。
つまり、朝日川キャンプ場は単なるレジャー施設ではなく、阿佐吉廣が支配する「ナワバリ」の一部であり、彼の暴力と搾取から逃れることのできない牢獄という側面がありました。
事件発覚前、「朝日建設」は倒産しており、この朝日川キャンプ場は閉鎖され、その後に「キャンプ場に死体が埋められている」という噂がどこかから立ったため、不安になった元従業員の1人が山梨県警に証言し、3人の被害者の死体が発見された事が「山梨キャンプ場殺人事件」が発覚するきっかけとなりました。
現在、この場所には当時の看板や管理事務所などが廃墟として残っており、心霊マニアや廃墟マニアが訪れるスポットと化しています。美しい自然の中で朽ち果てていく人工物の姿は、かつてこの場所で繰り広げられた悲劇の深さと、人間の業の恐ろしさを静かに物語っているようです。
山梨キャンプ場殺人事件の現場となった場所「朝日川キャンプ場」の地図
山梨キャンプ場殺人事件の現場となった場所「朝日川キャンプ場」は現在は廃墟スポット、心霊スポットとなっているため、実際に訪れてみたいので詳しい場所がどこか知りたいという声も見られるようなので、地図を紹介しておきます。
あくまでも自己責任の上で訪れてください。
山梨キャンプ場殺人事件の被害者となった3名の労働者について
「山梨キャンプ場殺人事件」で命を落とした3名の被害者は、いずれもいずれも阿佐吉廣の支配下にあった朝日建設の従業員でした。
この事件の被害者となった3名は社会のセーフティネットからこぼれ落ち、阿佐吉廣の会社に流れ着き、人間としての尊厳を奪われた末に殺害されるという、あまりにも無慈悲な運命を辿りました。
1997年3月に死亡した第1の被害者Aさん(現在も身元不明)
「山梨キャンプ場殺人事件」の最初の事件が起きたのは1997年3月頃、朝日建設の前身である「麻企画」の時代でした。
被害者のAさんは、寮内でナイフを持ち出して暴れるというトラブルを起こしたとされています。この行為が、阿佐吉廣の逆鱗に触れました。会社の秩序を乱し、自らの支配に歯向かう者を決して許さない阿佐吉廣は、Aさんに対して木刀で凄まじい暴行を加えました。
Aさんは全身を殴打され、瀕死の重傷を負いましたが、病院に連れていかれる事なく放置され、全く治療もされないまま寮内に放置されました。
Aさんは数日後にこの怪我が原因となって死亡し、阿佐吉廣は犯行を隠蔽するために、Aさんの遺体をブルーシートで厳重に包み、他の従業員達には「Aは逃げた」などと口裏合わせを強要しました。
そして、遺体はプラスチック製の大型収納ボックスに詰められ、朝日川キャンプ場の敷地内に重機を使って掘った深い穴の底に、誰にも知られる事なく埋められました。
2000年5月14日に発生したリンチ殺人の被害者2名(第二・第三の被害者)
最初の事件から約3年後、さらに凄惨な悲劇が朝日川キャンプ場で発生しました。
2000年5月14日、従業員であった多賀克善さん(当時51歳)、横田大作さん(当時50歳)さん、Bさん(当時41歳)の3人が、飲酒後に車を運転し、都留市内の酒店の前に停まっていた車に対する当て逃げ事故を起こしました。
酒店の経営者から、事務所に怒りの電話がかかってきた事で事故を知った阿佐吉廣は、会社の面目を潰されたと激昂。阿佐吉廣は他の従業員幹部と共に、多賀克善さん、横田大作さん、Bさんの3人を事務所に呼びつけて、暴力による「制裁」を開始しました。
Bさんはひたすら謝罪を繰り返しましたが、日頃から阿佐吉廣による搾取に不満を募らせていた多賀克善さんと横田大作さんは、反抗的な態度を崩しませんでした。
それどころか、逆上した多賀克善さんは、制裁を加えていた従業員幹部の1人(元暴力団組長)の腹部をナイフで刺すという、阿佐吉廣の支配体制を根底から揺るがすような行為に出ました。
この瞬間、阿佐吉廣の怒りは頂点に達し、その頭の中では、多賀克善さんと横田大作さんはもはや「生かしておくべきではない存在」と認識されたと考えられます。
阿佐吉廣は他の従業員達に命令し、抵抗する多賀克善さんと横田大作さんを標識ロープなどで縛り上げ、車に無理やり押し込みました。そして、彼らを乗せた車は朝日川キャンプ場へと向かいました。
同日19時頃、キャンプ場に到達した阿佐吉廣は、自ら手を下すのではなく、他の従業員達に殺害を指示したとされています。裁判記録などによると、多賀克善さんはロープで首を絞められ、横田大作さんさんは複数の従業員によって首を絞められ、抵抗虚しく絶命したとされます。
彼らの遺体もまた、最初の被害者であるAさんと同様に、朝日川キャンプ場の敷地内に埋められ、事件は闇に葬られたかに見えました。
これら、3人の被害者達の置かれていた状況は、まさに現代の奴隷制度、いわゆる「タコ部屋労働」そのものでした。阿佐吉廣は日給8000円という条件で労働者を集めながら、寮費や食費、その他の経費と称して給料のほとんどを天引きしていました。
当時の報道によれば、1日過酷な労働に従事しても、彼らの手元に残るのはわずか1000円程度であったようです。これでは、故郷に帰る旅費を貯める事すらも出来ず、逃げ出そうとすれば暴力的な制裁が待っているという恐怖から、被害者らはこの閉鎖された地獄から抜け出す事ができなかったと見られています。
山梨キャンプ場殺人事件の犯人(主犯格)・阿佐吉廣の経歴と人物像
この「山梨キャンプ場殺人事件」という凶悪事件を主導した犯人である阿佐吉廣とは、一体どのような人物だったのかについても見ていきます。
報道や裁判記録によると、阿佐吉廣は1949年に徳島県で生まれ、かつては音楽家を目指して上京したものの夢破れ、山梨県へと流れ着いた事がわかっています。
1994年頃に、人材派遣会社「麻企画」を設立し、後に「朝日建設」と社名を変更。阿佐吉廣は社会の底辺で喘ぐ人々を安い賃金で雇い入れ、建設業界の労働力不足を背景に事業を拡大していきました。
しかし、その経営手法は極めて悪質でした。前述の通り、給料の大部分を不当に天引きし、労働者を経済的に完全に束縛。寮は6畳一間に4人を押し込めるような劣悪な環境で、まさに「タコ部屋」そのものでした。逃亡を図る者が後を絶たなかったという事実が、その過酷さを物語っています。
山梨キャンプ場殺人事件の犯人・阿佐吉廣の犯行動機
阿佐吉廣は、自らが築き上げた王国ともいうべき「朝日建設」において、絶対的な支配者として君臨していました。
従業員達を人格のある人間としてではなく、自らの利益を生み出すための「道具」としか見ていなかった節があります。
阿佐吉廣の犯行動機は、金銭的なトラブルといった単純なものではなく、自らの確立した支配体制を脅かす者、あるいは会社の対面を汚す者に対しての「見せしめ」と「制裁」という、極めて自己中心的なものであったと考えられます。
第一の被害者であるAさん殺害の動機は、ナイフを持って暴れたという行為に対する過剰なまでの「懲罰」がエスカレートした結果でした。
第二・第三の被害者である多賀克善さんと横田大作さんの殺害に至っては、当て逃げという不祥事を起こした上に、絶対的な支配者である自分に反抗的な態度を取り、あまつさえ幹部従業員をナイフで刺したことへの、冷徹な「粛清」であったと言えます。
阿佐吉廣の歪んだ支配欲とプライドが、最も簡単に人の命を奪うという結論に結びついた事を示しており、阿佐吉廣の犯行動機は自らの帝国の秩序を維持するという一点にのみに集約されると言っても過言ではありません。
山梨キャンプ場殺人事件の裁判…証言が二転三転し異例の展開へ
「山梨キャンプ場殺人事件」の裁判は、証言が二転三転した事により、異例の展開となりました。
事件が白日の下に晒されたのは、2003年夏の事でした。経営難から倒産した朝日建設の元従業員の1人が、「キャンプ場に死体が埋まっている」という情報を警察にもたらした事がきっかけでした。
この証言に基づき、警察が朝日川キャンプ場を発掘捜査した結果、地中から3人の被害者の遺体が発見され、その後の捜査によってこの事件の全貌が明らかになりました。
これにより、阿佐吉廣と犯行に関わった複数の元従業員が、殺人や傷害致死、死体遺棄などの容疑で次々と逮捕されました。
しかし、ここからの裁判は異例の展開を辿る事になります。阿佐吉廣は最初の被害者であるAさんに対する傷害致死については暴行の事実を一部認めたものの殺意は否定。そして、多賀克善さんと横田大作さんの殺害については、「殺害現場のキャンプ場には行っていない」と、一貫して無実を主張し続けました。
一方で、逮捕された共犯の元従業員たちは、捜査段階から一審に至るまで、阿佐吉廣の指示によって犯行に及んだと証言しました。
山梨キャンプ場殺人事件の裁判① 一審と二審での死刑判決
物証が乏しい中、裁判の最大の争点は共犯者たちの証言の信用性でした。2006年10月20日、甲府地方裁判所は元従業員たちの証言に信用性があると判断し、阿佐吉廣に対して検察の求刑通り死刑判決を言い渡しました。
判決では、「殺害を最終的に決定し、犯行を統括した中心的立場にあったことは明らか」、「自己の意に沿わない者は命をも奪うという人命軽視の態度が甚だしい」と、阿佐の責任を厳しく断罪しました。
続く2008年4月21日の東京高等裁判所での控訴審でも、一審の死刑判決は支持されます。この控訴審では、一審で「犯行時刻に阿佐がキャンプ場にいるのを見た」と証言していたキャンプ場の管理人が、突如「あの証言は嘘で、検事から言わされる形で話した」と証言を翻すという衝撃的な展開もありました。
しかし、高裁は他の共犯者たちの証言を重視し、この証言の変遷は判決を覆すには至らないと判断しました。阿佐吉廣が判決言い渡しの際、「ウソばっかりじゃないか!」と法廷で叫び、退廷させられたとの情報も報じられました。
山梨キャンプ場殺人事件の裁判② 異例の弁論再開と死刑確定
山梨キャンプ場殺人事件の裁判は最高裁へともつれ込み、ここで誰もが予期せぬ事態が発生しました。
2011年12月の上告審弁論で、弁護側が新たな証拠として、共犯者の1人(懲役9年が確定し服役中)が書いた陳述書を提出したのです。その陳述書には、「これまでの証言は嘘だった。阿佐被告は殺害現場にはいなかった。真犯人はすでに病死した別の元暴力団組長の幹部だ」という、これまでの公判内容を根底から覆す内容が記されていました。
自らの嘘で阿佐吉廣が死刑になることに耐えられなくなったという理由からの告白でした。この衝撃的な新証拠を受け、最高裁は一度結審したにもかかわらず、翌2012年10月に弁論を再開するという、極めて異例の措置を取りました。
しかし、最終的な結論は覆りませんでした。2012年12月11日、最高裁は「新たな供述は、一審での証言の信用性を左右するものではない」として弁護側の上告を棄却。これにより、阿佐吉廣の死刑が確定しました。
客観的物証が決定的に不足する中で、揺れ動く供犯者たちの「供述」だけを最大の根拠として死刑が確定したこの裁判に対しては、一部で冤罪の可能性を指摘する声も根強く残っています。
山梨キャンプ場殺人事件と闇金ウシジマくんの類似点も話題に
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「山梨キャンプ場殺人事件」では、その残虐性もさる事ながら、背景にある労働搾取(タコ部屋労働)の構造が社会に衝撃を与えました。
この山梨キャンプ場殺人事件で明らかになったタコ部屋労働の構図が、人気漫画「闇金ウシジマくん」のエピソードと類似しているとネット上で話題になっているようです。
「闇金ウシジマくん」には、社会からこぼれ落ちた人々が法外な金利で金を貸す闇金業者により、精神的・肉体的に追い詰められ、人間性を破壊されていくエピソードが数多く登場しますが、その中で、18巻から20巻で描かれる「鰐戸三兄弟」のエピソードは、ホームレスや社会的困窮者をタコ部屋で働かせて搾取するという、山梨キャンプ場殺人事件の裏側とかなり似通った内容となっています。
ただ、「闇金ウシジマくん」で描かれたのは、あくまでも「タコ部屋労働」の実態についてで、それが連続殺人事件にまで発展した山梨キャンプ場殺人事件の経緯をそのままモデルにしたというエピソードではありません。
しかし、「闇金ウシジマくん」の18巻〜20巻までを読む事で、「タコ部屋労働」が一体どのようなものかというのはイメージしやすいかと思います。
山梨キャンプ場殺人事件をモデルや題材にした映画は現在の時点では未確認
「山梨キャンプ場殺人事件」は、その衝撃性や、センセーショナルな展開から、映画化の噂も囁かれています。
しかし、2025年現在の時点では、山梨キャンプ場殺人事件を直接的に題材にしたり、モデルとした映画の制作は確認されていません。
山梨キャンプ場殺人事件の犯人・阿佐吉廣や共犯者の現在
「山梨キャンプ場殺人事件」の犯人・阿佐吉廣や、共犯者達のその後や現在についても見ていきます。
山梨キャンプ場殺人事件の主犯格である阿佐吉廣のその後と現在
最高裁にまでもつれた裁判で死刑が確定した山梨キャンプ場殺人事件の犯人(主犯格)である阿佐吉廣は、裁判終結後に東京拘置所に収監されました。
阿佐吉廣は、獄中から支援者らを通じて冤罪を訴え続け、「一日でいいから、母に」と題した手記を出版するなど、最後まで自らの無実を主張していました。
再審請求も行われていましたが、その司法判断が下される前の2020年2月11日、阿佐吉廣は拘置所内で間質性肺炎により病死しました。享年は70歳でした。したがって阿佐吉廣は現在は既にこの世に存在しません。
山梨キャンプ場殺人事件の真相が、本人の口から語られる機会は永遠に失われました。
山梨キャンプ場殺人事件の共犯者達のその後
阿佐吉廣はと共に罪に問われた元従業員達はそれぞれ実刑判決を受けました。殺害の実行犯とされた者や、逮捕監禁に関与した者など、その役割に応じて懲役9年から執行猶予付きの判決まで様々な司法判断が下されました。
彼らの多くはすでに刑期を終え、社会に戻っているものと思われますが、その後の足取りに関する情報は報じられていません。共犯者らもまた、阿佐吉廣による支配と暴力の被害者という側面を持ち合わせているといえ、現在は事件の記憶を抱えながら社会の片隅で静かに生きているのかも知れません。
まとめ
今回は、1997年と2000年に合わせて3人のタコ部屋労働の労働者が建設会社社長の阿佐吉廣によって殺害され、2003年に発覚した「山梨キャンプ場殺人事件」についてまとめてみました。
山梨キャンプ場殺人事件は、単なる凶悪な殺人事件として片付けられるべきものではありません。この事件の根底にはバブル崩壊後の「失われた10年」という時代背景の中で、社会のセーフティーネットからこぼれ落ちた人々を食い物にする「貧困ビジネス」の存在があったと言えます。
阿佐吉廣という一人の男の歪んだ支配欲と暴力性が引き起こした悲劇であることは間違いありませんが、彼のような人間が生まれ、被害者たちが逃げ場のない状況に追い込まれていった背景には、社会的な孤立や経済的困窮といった、現代社会が今なお抱え続ける構造的な問題が存在します。
主犯である阿佐吉廣が死を迎え、事件の記憶は少しずつ風化していくかもしれませんが、この事件から学ぶべきは、声なき弱者が搾取され、その命がないがしろにされる社会構造に対して鋭い視線を向け続ける事と言えるかも知れません。
こうした悲劇を2度と起こさないために、社会から孤立した人々をどのように包摂し支援してくのか、山梨のキャンプ場で起きた凄惨な事件は20年以上が経過した現在にもつながる問題であると言えるでしょう。