八つ墓村は横溝正史の小説「金田一耕助シリーズ」の一作で、現在までに3回に渡って映画化されてきました。この記事では八つ墓村のあらすじや、モデルとされる事件・ 津山三十人殺し、映画のロケ地の場所や作品にまつわる心霊現象の噂について紹介します。
この記事の目次
八つ墓村の作品概要
『八つ墓村』は、横溝正史の代表作とされる推理小説「金田一耕助シリーズ」の長編4作目です。
1949年3月から1950年3月までの間、雑誌『新青年』に連載されていたのが初出となり、その後、雑誌の休刊から『宝石』に続きを掲載することになり、1951年1月に完結しました。
単行本が角川文庫から刊行されたのは1971年ですが、それに先駆けて1951年に映画化。
1977年に再び映画化され、これが配収19億9000万円という異例のヒット作となり、劇中で登場人物の老婆が叫ぶ「祟りじゃーっ」というセリフは流行語にもなりました。
その後も1996年に3回目の映画化、ほか7回のTVドラマ化、2009年にはゲーム化もされており、「金田一耕助シリーズ」のなかでも『犬神家の一族』と並ぶ人気作品です。
また、作中に出てくる架空の大量殺人事件が、1938年に岡山県で実際に起きた「津山三十人殺し」をモデルにしていることから、事件を語る際に必ずといっていいほど本作が引き合いに出されることでも知られます。
八つ墓村のあらすじ
出典:https://cinemaplus.shochiku.co.jp/
物語の舞台は、鳥取県と岡山県の県境に位置する架空の寒村・八つ墓村です。
この村には戦国時代に財宝を携えた8人の落ち武者が流れ着き、村人が財宝に目がくらんで彼らを皆殺しにしたという過去がありました。
落ち武者は息を引き取る寸前に、自分を手にかけた村人に「七生までこの村を祟る」と言い残し、その後、村では凄惨な事件が起こります。
落ち武者殺害の指揮をとった村の権力者・田治見庄左衛門が突然発狂し、村人7人を殺害した挙句に自らも首を斬って自殺したのです。
最初は祟りなど信じていなかった村人たちも怖くなり、獣の死体同様に適当に埋めていた落ち武者の遺体を集めて、「八つ墓明神」として手厚く葬り怨念を鎮めることに。
いつしか、この「八つ墓明神」にちなんで、村は「八つ墓村」と呼ばれるようになっていきました。
それから時代が下って大正某年、村で事件が発生します。今度は田治見庄左衛門の子孫の要蔵が、日本刀と猟銃を凶器に村人32人を惨殺し、失踪したのです。
要蔵は非道な男で、妻子がある身でありながら、井川鶴子という女性を無理矢理妾にして家の蔵に閉じ込めて強姦を繰り返していました。
要蔵に監禁されている最中に、鶴子は辰弥という男児を出産するのですが、辰弥は自分を強姦した要蔵の子ではなく、監禁される前から交際していた恋人の亀井陽一の子だと確信していました。
ある日、鶴子は辰弥を連れて田治見家の倉を抜け出し、要蔵の目が届かない場所へと逃げ出します。
このことが嫉妬深い要蔵の逆鱗に触れ、村人32人が殺害される事件にまで発展したのです。
事件後、神戸へと逃げた鶴子は寺田虎造という男性と知り合い、結婚。辰弥は虎造の子供として成長します。
さらに時が流れて1948年。戦争で母も義父も亡くし、紆余曲折ありながらも成人した辰弥のもとに、「実は辰弥は八つ墓村の資産家・田治見家の跡取りであり、遺産を相続する権利がある」という話が舞い込みます。
天涯孤独となっていた辰弥は、自分のルーツを知るためにも八つ墓村に向かい、そこで探偵・金田一耕助に出会い、相次いで起きる殺人事件に巻き込まれていきます。
八つ墓村の映画
『八つ墓村』は、これまで3回にわたって映画化されているのですが、どれもキャストや監督だけではなく、演出や脚本の細かい部分など異なります。
ここでは『八つ墓村』の映画について、それぞれの作品や特徴や評価などを含めて紹介していきます。
1951年公開『八ツ墓村 』
1951年に公開された映画『八ツ墓村』は、『鞍馬天狗』シリーズなどで知られる松田定次監督作品です。
「時代劇六大スタア」と呼ばれた時代劇俳優・片岡千恵蔵が金田一耕助役を演じたのですが、本作のシナリオは原作の小説『八つ墓村』と比べると、かなり改変されたものとなっています。
まず、原作では物語の語り部であり、最重要人物であるはずの辰弥本人があまり登場せず、辰弥の依頼で金田一耕助が辰弥のふりをして村を訪れるという設定です。
また、辰弥が村を訪れてから起きる事件の犯人も映画オリジナルの人物に変更されています。
1977年公開『八つ墓村』
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『八つ墓村』の映画の中で1番有名なのが、1977年に公開された野村芳太郎監督の作品です。
本作では金田一耕助役を渥美清が演じており、客からは「渥美さんは寅さんのイメージが強すぎる」という声もあったものの、金田一の立ち位置は原作に近く、作者の横溝正史も渥美清版の金田一耕助を気に入っていたとの話があるほどです。
原作は辰弥の視点で話が進み、本作の金田一耕助は殺人事件を未然に防ぐことができずに「あまり役に立っていない」と揶揄されることもあります。
しかし、最後にはきちんと辰弥の心は救っており、それが2作目の映画ではうまく表現できていたため、原作ファンからも好評だったとされます。
一方で演出面ではオカルト的な面が目立ち、謎解きよりもおどろおどろしさや祟りという言葉が前面に出ているため、映画を観てから原作を読んで驚いた人もいる様子です。
1996年公開『八つ墓村』
3作品の中でもっともシナリオが原作に近いとされているのが、1996年公開の市川崑監督『八つ墓村』です。
本作では金田一耕助役を豊川悦司が演じており、前の2作品に比べると主役が若返った印象を受けます。
この若返りも好評だったのですが、1991年に放送されて人気を博したTVドラマ版の『八つ墓村』で、金田一役を古谷一行が演じたことから「豊川悦司はイケメン過ぎて金田一のくたびれた感じがない」と感じるファンも少なくなかったようです。
八つ墓村のモデルになった実在の事件・津山三十人殺し
『八つ墓村』で、田治見要蔵が嫉妬に狂って村人32人を殺害するシーンは、実在する事件・津山三十人殺しから着想を得たとされます。
ここでは、津山三十人殺しの概要について概要を説明していきます。
津山三十人殺しの犯人
津山三十人殺しの犯人は、都井睦雄(とい むつお)という当時21歳の青年でした。
津山三十人殺しが起きた場所は岡山県苫田郡西加茂村(現在の津山市加茂町)の貝尾・坂元集落で、八つ墓村と同じく岡山の山間地域です。
睦雄は、岡山県苫田郡加茂村大字倉見(現在の津山市加茂町倉見)の生まれで、幼少期に祖父と両親を立て続けに肺結核で亡くしており、集落の住民から「ロウガイスジ(労咳持ちの血筋)」として差別的な目で見られていました。
医学が発達した現在では考えにくいことですが、当時は空気感染するうえに致死率の高い結核は非常に恐れられており、結核の罹患者を大勢出す一族は、呪われていると忌み嫌われていたのです。
両親を結核で亡くし、自分もロウガイスジと後ろ指を指されるだけでも幼い睦雄の置かれた環境は過酷なものでしたが、都井家は裕福な家系であり、さらに睦雄は宗家の跡取りでした。
両親が亡くなるやいなや、物心つく前の睦雄は自分の知らぬところで相続問題に巻き込まれるのですが、親族は「ロウガイスジの睦雄に当主は継がせられない」として、睦雄と姉、そして2人を引き取った祖母を倉見から追い出してしまいます。
津山三十人殺しが起きるまで
倉見を追われた3人は貝尾集落に住み、新しい生活を始めました。しかし、手切れ金として親族に渡された父の遺産を騙し取られたり、睦雄が肋膜炎を患ったりと不幸が襲い掛かります。
両親を襲ったのと同じ肺の病気を発症した睦雄を祖母は異常に気にかけ、過保護にした結果、睦雄は優秀な児童だったにもかかわらず学校にも行かずに無為に日々を過ごすようになってしまいました。
将来への目標も生きがいも感じられなくなった睦雄は、貝尾に住む複数の女性と関係を持つようになります。
当時の貝尾は夜這いの風習も残っていたとされ、性に奔放なのは睦雄に限ったことではなく、このこと自体は問題ではなかったそうです。
しかしながら、睦雄と関係を持った女性の1人が、睦雄からこっそりと打ち明けられた「自分はロウガイスジだ」という話を集落中に触れ回ってしまい、状況は一変します。集落の女性の大半から、睦雄は忌み嫌われる対象になってしまったのです。
なかには「関係を持ってやるから金を持ってこい」と言い、睦雄から金銭を騙し取る者までいたといいます。
そのうえ睦雄は軽度ながらも肺尖カタルを発症して、徴兵検査でも丙種合格(兵役には付けない)の烙印を押されてしまいました。
集落の男の多くが兵隊にとられて村を出ていくなか、睦雄は孤立を深めていったのではないかと予想されています。
事件当日
自分をロウガイスジと差別する村人に憎しみを募らせた睦雄は、懐中電灯2個を鬼の角のように頭の左右につけて鉢巻きで固定し、十二番口径のブローニング五連発銃と日本刀、匕首二口を携えて凶行に及びます。
1938年5月21日の午前1時40分頃、手始めに自宅のコタツで居眠りをしていた祖母を斬殺し、続いて関係を持った女性の家を中心に集落中の民家を襲撃しました。
こうして貝尾集落と坂元集落で自宅を含めて12戸の民家を襲撃した睦夫は、最終的に貝尾集落から約4㎞離れた場所に位置する荒坂峠まで向かい、山頂で自ら胸を撃ち抜いて自決。
わずか2時間程度の間に、30名(28人が即死、2人が後に死亡)、重傷者1名、軽症者2名を出した津山三十人殺しは、被疑者死亡で幕を閉じました。
津山三十人殺しと八つ墓村の32人殺しの類似点
津山三十人殺しと『八つ墓村』に登場する田治見要蔵の32人殺しの類似点は、被害者の数だけではありません。
要蔵は嫉妬に狂って鶴子を殺害しようとした挙句、村人を大量虐殺しました。睦雄もまた、犯行を決意するきっかけとなった女性がいたとされます。
睦雄は幼馴染の寺井ゆり子さんという女性に好意を持っていたと言われており、この女性が嫁ぎ先から里帰りしてくる時期を見計らって事件を起こしました。
ゆり子さんは過去にも貝尾集落に住む別の男性と結婚していたのですが、新婚の家庭に睦雄が夜這いをかけたために離婚となっています。
離婚後、睦雄はゆり子さんは自分のものになってくれるのではないかと期待しましたが、彼女は別の村に嫁いでいきました。
そのため犯行中も睦雄は彼女に対して強い執着を見せており、わざわざ他の家に逃げていったのを追いかけ、匿った住民を殺害したとされます。
ゆり子さん本人は無事に逃げ延びて、その後、長女を出産するのですが、この娘は夫との子どもではなく、睦雄の落とし子ではないかという噂が集落で流れたそうです。
ゆり子さんの長女は事件の4年後に誕生したため、睦雄の子どもなわけがないのですが、父親について大量殺人犯の子どもではないのかという憶測が出てくる点も、『八つ墓村』と似ています。
また、犯行当日の睦雄の姿と、32人殺しに及んだ要蔵の恰好も似通っています。
上の画像が津山三十人殺しを行った時の睦雄の恰好で、下の画像が1977年公開の映画で32殺しを決行した時の要蔵の恰好です。
洋装と和装の差はありますが、凶器や側頭部につけた懐中電灯など、似通った点が見られます。
なお、睦雄のこの装束は、漫画雑誌『少年倶楽部』に載っていた「珍案歩哨」という挿絵を参考にしたのではないかと言われています。
八つ墓村のモデルになった場所や映画のロケ地の現在
出典:https://www.city.kurashiki.okayama.jp/
八つ墓村は架空の村ですから、実在はしません。ただ、まったくのフィクションで描写された村ではなく、横溝正史が戦時中に疎開していた岡山県倉敷市真備町を参考にイメージを膨らませたとされます。
真備町には「濃茶のばあさん」という、江戸時代に藩の家老の病気平癒に力添えをした茶店の老婆をまつる祠があり、作中で「たたりじゃ〜!」「八つ墓明神はお怒りじゃ!」と叫ぶことで有名な濃茶の尼は、この祠から着想を得たのではないかとも考えられています。
しかし、立地などを考えると真備町だけが八つ墓村のモデルになったのではないのではないか、他の村の要素も入っているのではないかとも考察されているようです。
原作の小説で八つ墓村は「鳥取県と岡山県の県境にある、山中の一寒村」と書かれており、10坪か20坪程度の水田がポツポツあるだけの、少ない村人の主食をようやく賄えるくらいの土地と説明されています。
気候も土壌も良くなく、農耕地としても恵まれず、炭焼きや牛の飼育が貴重な財源になっている貧しい寒村、というのが原作での八つ墓村のイメージです。
前の項で概要を説明した津山三十人殺しが起きた岡山県苫田郡加茂村の貝尾集落も、山に接した小さな集落でしたが、昭和の初期から鉄道の駅が近くにあり、決して山奥の寒村ではなかったといいます。
また、水田の面積が広く、周辺の地域から「加茂は米どころ」「嫁に行くなら加茂に行け」と言われるほど、恵まれた土地だったそうです。
津山三十人殺しの現場が、八つ墓村のモデルになったという説もあります。しかし、上記のような豊かさの違いから可能性は低いでしょう。
八つ墓村のモデルとなったのは、岡山県北部にある山村・真庭郡八束村(やつかそん・現在の真庭市蒜山)ではないかという説もあります。
八束村は八つ墓村と名前が似ているうえ、岡山と鳥取の県境に位置するためにモデルにしたのではないかと言われているようです。
ただ、これについても「もともと『八つ墓村』は『七つ墓村』というタイトルであったため、八束村を参考にしたとは思えない」といった異論があり、八束村がモデルになったとも言い切れません。
『八つ墓村』映像作品のロケ地
出典:https://www.pref.tottori.lg.jp/
1997年公開の映画『八つ墓村』は、主に岡山、鳥取、山口などでロケを行っており、作中に登場する田治見の家は鳥取県日野町別所奥渡地区に建てられました。
このセットが映画のクライマックスで燃え上がる田治見家として使われたため、公開当時は日野町に多くの人が訪れてちょっとした騒動になったそうです。
また、炎上シーン以外で使われている多治見家の外観は、岡山県高梁市成羽町中野2710にある広兼邸のものです。
広兼邸は江戸時代後期に建てられた歴史的建造物で、横溝正史ファンの中では「多治見家といえば広兼邸」というほど有名な場所とされます。
1977年公開の映画以外に、1996年公開の映画、2004年のTVドラマでもロケ地として使われました。
なお、多治見家の屋内については、広兼邸ではなく別に建てられたセットを利用しています。
1977年の映画をはじめ、4つの映像作品で多治見家の地下につながる洞窟としてロケ地になったのが、岡山県新見市豊永赤馬にある鍾乳洞・満奇洞です。
満奇洞という名前は、詩人の与謝野鉄幹・晶子夫婦が「奇に満ちた洞窟」と賞賛したことからついたのだそうで、現在は入り口に金田一耕助の顔出しパネルも設置されています。
鍾乳洞は作中でも重要な場所となるため、すべてのシーンを満奇洞で撮影したわけではありません。
1977年の映画では、クレジットで岩手県住田町上有住土倉土倉の滝観洞、山口県美祢市秋芳町の秋芳洞、高知県土佐山田町の龍河洞など、合計8ヶ所の鍾乳洞でロケを行ったことが明かされています。
八つ墓村にまつわる心霊現象の噂
『八つ墓村』にまつわる心霊現象の噂は複数あります。ここでは映画本編中やロケ地、モデルとなった津山三十人殺に関連するものなど、『八つ墓村』に絡んで囁かれている心霊現象について一覧で承継していきます。
1977年公開の映画に霊が写っている?
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1977年公開の映画『八つ墓村』で、劇中で窓の外に幽霊が写っていると話題になったことがあります。
問題になったのは上の画像のシーンで、萩原健一さん演じる辰弥の向かって左側、窓のサッシのあたりに人の手の影が写り込んでいるのがわかります。
よく見ると手だけではなくしっかり人間の頭と胴体も写っているため、おそらく窓の外にいたスタッフが入り込んでしまったのではないかと思われますが、オカルト色の強い作風だったために不気味に感じる人が多かったようです。
ロケ地から本当に墓が出てくる
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同じく1977年の映画『八つ墓村』では、撮影セットを建てていた場所から本当にお墓が出てくるという事態にも見舞われたそうです。
これが「尼子一族(作中の落武者は尼子一族だった)の呪いだ」と囁かれたといいます。
映画の公開当時はTVドラマでも金田一耕助シリーズが放送されており、空前の横溝正史ブームでした。
そのため、作品に影響を受けたと思われる怪文書が出回るなど、オカルト色の強い出来事が起きたとの話もあります。
津山三十人殺しの現場となった貝尾集落にまつわる噂
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『八つ墓村』ではありませんが、モデルとなった津山三十人殺しの現場となった貝尾集落や、戸井睦雄が自決した荒坂峠にも心霊に関する噂があります。
貝尾集落には事件で犠牲になった被害者たちの墓があるのですが、事件の取材で集落を訪れたTVクルーが、住民から「取材の前に墓参りをしてください」と注意されたのを無視したために、不幸な目に遭ったのだとか。
また、荒坂峠にも不気味な液体の入ったツボのようなものが路肩に置いてある、都井睦雄の呪いで交通事故が頻発するといった噂があります。
荒坂峠では実際に事故が頻発しているようなのですが、これは道が険しく、見通しが悪いことが主な原因でしょう。
舗装されていない道も多いため、とくに道が凍結する冬季や、滑りやすくなる雨季は自転車やバイクで訪れない方が無難とされています。
八つ墓村についてのまとめ
今回は横溝正史作の推理小説『八つ墓村』について、あらすじ、映画やロケ地、モデルとなった津山三十人殺などの情報を中心に紹介しました。
『八つ墓村』は2023年にもNHKでドラマ化されており、時代を超えて今もなお愛される作品です。
横溝正史作品のなかでも事件が起きる村の描写が秀逸で、閉塞した田舎の雰囲気や洞窟を探索するシーンなどに定評があるため、ロケ地巡りが人気なのも頷けます。