河童は日本人に最もよく知られた妖怪・UMAです。
その歴史や起源は自然発生に近く、日本各地で河童伝承などの伝説を残しています。正体は水棲哺乳類など諸説ありますが実在する可能性も高く、画像こそ少ないですがミイラなどの遺物も存在します。
河童とは一体どの様なUMAなのか
まず最初に生物としての河童は本来「両生類」…つまりカエルやイモリなどの仲間として見なされてきました。体色は全身緑色、もしくは赤色をしていると伝わっています。
水陸共に活動可能であり、背丈は人間で言う4~5歳ほどの子供ほど。口先は鋭く尖っており、ある記録によればカモの様な水鳥に近しい“くちばし”を兼ね備えているともされます。鋭く尖った牙状の歯列を持ち、魚類などのタンパク質を主な餌としていますが、農家が栽培した“キュウリ”を大好物とする雑食性動物でもあります。
人家に置いてある“キュウリの巻き物”などを失敬し口にする事もあり「河童巻き」の名前の由来ともなりました。
また河童にはいわゆる『類人猿型』の形態も存在します。
全身がびっしりと体毛に覆われており、鼻が未発達なのが特徴です。背の甲羅は退化しており、中には甲羅すら消失し完全な“獣人型”の様子を見せる記録画も残されています。
頭部の皿については前述の“両生類型”の河童と同様ですが、その手には親指があり足にはかかとを持つという違いがあるそうです。この形態の河童は非常に子供好きで、幼い子供と相撲を取ることを好みます。
一般的な河童像はその背部に爬虫類であるカメの仲間に近い頑丈な甲羅を持ち、鱗も有しますが、その手足を収納することはできません。その代わりに片腕を引っ張ると反対側の腕が引っ込むという変わった特徴を持ちます。限界まで引っ張ると結合した左右の腕がそのまま欠落してしまいます。
四肢の指の間には水中を泳ぐための水かきがあり、その頭上には少量の水を蓄える『皿』という器官を持ちます。皿の中に水分がある間は陸上でも活動可能なのですが、水分が完全に干上がると死に至ります。皿が割れた場合でも途端に死んでしまうのです。
魚などの水中生物・好物のキュウリ以外の主食は、水辺付近に集まる人間を始めとした動物達の“血液”であり、待ち伏せ型の捕食者で水中に引きずり込み“生き血”を吸い尽くすという食性も取るそうです。また人間の直腸付近にあるとされる架空の臓器『尻小玉』を抜き取るケースもあります。ちなみに河童自身は3つの肛門を有するそうです。
地方により河童小僧・かわたろう・がたろ・がたろう・川立ち男・川小法師・川小僧・川子・河伯といった多くの異名を持つのも『河童』の特徴です。
河童の起源・歴史について
河童の起源については非常に不明瞭な部分が多く見受けられます。
しかし全国各地で河童の存在についての逸話・伝承が残る事から、UMAとして断言するにはいささか不可解です。当時の日本はそこまで情報網が発達しておらず、同時に似たようなUMAが発生するということは果たして偶然なのか?大いに疑問が残りますよね?
歴史を辿ると河童が初めて公式の書物に記されるのは、文安元年(1444年)室町時代に作成された『下学集(かがくしゅう)』です。本書の一文には『獺(カワウソ)老いて河童(カワロウ)になる』と記されており、老描が化け猫になる…と言ったような妖怪的な見解が記されています。
また1603年から1604年にかけて長崎で発刊された『日葡辞書(にっぽじしょ)』にも河童についての記述があります。この『日葡辞書』はイエズス会が作成した日本語をポルトガル語に翻訳したもので、難解な日本語約32000語を欧州向けに翻訳した辞書となります。
出典:https://www.nikkeyshimbun.jp/
この辞書は2022年現在世界で4冊しか発見されておらず、戦国時代の日本語の外国語訳を知るための極めて貴重な資料です。言い換えればその当時でも河童に関する伝承は、確実に外人布教者の間にも知れ渡っていたという証拠にもなります。
本辞書では河童ではなく『カワラゥ』と記載されており、日本全域の河川に住むサルに良く似た人型哺乳類として紹介されています。
やがて戦国時代が終わり、徳川幕府泰平の250年間に差し掛かると、庶民の間でイメージする「河童像」も徐々に変化を見せます。
18世紀中盤には河川の多い関東平野に築かれた徳川幕府…つまり山間部の獣達に馴染みの少ない江戸庶民のために、ある意味創作的な河童像が描かれ始めます。カエルやスッポン・イシガメ・クサガメ等に寄せた両・爬虫類的な江戸時代型の河童のモデル像がこの時期に産み出され、19世紀には各種出版物を通して全国に伝播されていったと考えられています。
そして河童(かっぱ)の名を一般的な呼び名に押し上げたのは、昭和の文豪『芥川龍之介』が1924年に発表した『河童』という小説に他なりません。この時点で私達が良く知る河童像が完成に至るという訳です。
ここまで河童の起源・歴史について取り上げましたが、基本的な「河童像」は多少の脚色はあれど、一貫して大きなブレはありません。
河童の全国各地に今なお残る伝承・伝説
河童の伝承・伝説の類はほぼ全国各地に根強く残っているのですが…その全てに共通項はありますが、完全に合致する生物というものではない様です。
その地域の住む人々の暮らしに深い根づきがあり、人を襲う獰猛さもあれば…反対に非常に有効的な態度を取ったとされる河童伝承も存在し、あらゆる角度からの「河童」というUMAの性質・性格が散見されています。
その中には「河童のミイラ」とされるものや「河童が残した遺物」もたくさん耳にすることができ、一括りにするのはやはり強引でしょう。
そんな河童が残した全国各地に散らばる著名な伝承について、個別に見て行きましょう。
岩手県遠野市土淵町の河童(カッパ)淵
最も知名度が高いのは“ 岩手県遠野市”の河童伝説です。
この地は民俗学者・官僚・朝日新聞記者として有名な柳田國男の『遠野物語』で広く知られており、市内には河童出没地域があちこちに残っています。
特に遠野市土淵町には『カッパ淵』と呼ばれる観光名所があります。この地では河童が多数生息しているという伝承が古くから存在し、現地に住む人々を水中に引きずり込もうとするイタズラを度々仕掛けています。
ユニークなのは河童の捕獲に1000万円の懸賞金が掛けられていることです。しかも付近にある観光施設『伝承園』では『カッパ捕獲許可証』を購入することも可能です。
出典:https://www.tohokukanko.jp/
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裏面には「捕獲7カ条」があり、カッパ捕獲の際の注意事項が書いてあります!
引用元:旅東北
自性寺の『河童の詫び証文』
大分県中津市新魚町には『自性寺』というお寺があり、河童にまつわる遺物が多数残されています。
境内にある観音堂には『河童の墓』を始め『河童の木像』も公開されており、建物を構成する鬼瓦には河童の顔を模したものも使われています。
この地方には昔“ケンヒキ太郎”と言う名の河童が住んでおり、寺院内の小僧や近隣の女性などに取り憑いて悪事を働いていました。そのため13代目海門和尚が河童退治に乗り出します。この海門和尚がお灸を据えて性根を入れ替えた“ケンヒキ太郎”はその後改心し、仏門に入信したという伝承があります。
この際にケンヒキ太郎がしたためた文書が『河童の詫び証文』とされています。この証文は天明6年(1786年)6月15日付けで記されたもので、当寺に保管されており観光の目玉にもなっているのです。
牛久沼の『カッパ松』伝承
次は関東地方における河童伝説…茨城県牛久市にある『牛久沼』がその舞台です。
牛久沼は全国屈指の河童の生息地という伝承があり、しかもタチが悪い事に人間に対しいつも悪さばかりしていました。
業を煮やしたのは「彦右衛門」という百姓です。力尽くで河童を捕らえると、畔の松の木にくくりつけてしまいます。3日3晩もの間、陽の光に照らされ続けた河童の皿は干上がり、命乞いを始めました。
村人は憐みから河童を開放し、金輪際悪さをしないようにきつく言いつけます。ほどなくして悪さは息をひそめ、そればかりかこの河童は沼のヘドロや水草などの掃除まで手伝い始めました。
この河童をくくりつけたという松の木が、牛久沼に現存する『カッパ松』です。
河童の碑と牛久沼?とカッパ松。牛久ミッション今日は終わり!一休みして帰る! pic.twitter.com/seYKERMaOc
— シャル子 (@syarumi) May 26, 2019
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熊本県八代市『河童渡来の碑』
またしても九州由来の河童伝説です。九州地方は古くから河童の伝承が多く、大小合わせ様々な河童の話が各地に伝わっています。
この『河童渡来の碑』は熊本県八代市街を流れる“球磨川”河口域に建立されています。
巨大な前方後円墳で有名な仁徳天皇が治世していた4~5世紀前半、海の遥か彼方からこの地に河童がやって来たとされています。伝承では現在の中国「揚子江(若しくは黄河)」を下り日本海を泳ぎ切り横断し、八代の地に定住しました。
大陸から渡来した河童たちはいつしか球磨川流域に住み着き、9000匹にまで膨れ上がります。集団のボス(頭領)は『九千坊(くせんぼう)』と呼ばれ、西日本一の河童にまでのし上がります。
『河童渡来の碑』に使用された石は“ガワッパ石”と呼ばれます。名前の由来は、渡来した河童たちが余りにもいたずらをするので怒った村民が河童を捕らえたところ「2つの石がすり切れるまで悪戯をしない代わりに、年に一回祭りをして欲しい」と頼み込み許しを乞いた事が由来となっています。
当時は「カッパ」という呼び名は広まっておらず「ガワッパ」と呼んでいました。
この石は長年橋の材料に用いられ、昭和29年(1954年)に現在の『河童渡来の碑』となりました。また河童の望み通り、年一回の祭りは『オレオレデーライタ川祭』として今日まで伝えられています。
カッパのミイラ
実は河童の現物がミイラとして日本に2体保管されています。
河童は久留米も有名よなぁ…
って思って見てたら出てきたよ!
北野天満宮☝( ◠‿◠ )☝ pic.twitter.com/4yXxRmouWW— ℝ (@msrm15_) May 16, 2015
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「河伯の手」と呼ばれるこのミイラは、901年に筑後川で菅原道真が暗殺されかけた際、河童の大将が助けに入り手を切り落とされたものです。また諸説あり、乗馬中の菅原道真を筑後川へ引きずり込もうとした河童の手を自ら切り落としたものともされています。
もう一つは佐賀県伊万里市山代町の『松浦一酒造』に保管されているものです。こちらは全身のミイラとなり、写真を一目見た覚えのある方も多いのではないでしょうか?
出典:http://www.matsuuraichi.com/
このミイラの出自は不明だそうです。
ちょうど昭和28年に母屋の屋根の葺き替え工事中に、大工の棟梁が「梁の上にこんなものが…」と持ってきたのがボロボロの紐でくくった黒い箱。蓋をとると中からなんとも奇妙な動物のミイラが出てきました。
最初は一同ビックリ仰天。
更に黒い箱を調べてみると、箱には「河伯」と墨書きの二文字が書かれてあります。ものの本によればこれが本当のカッパという文字だということで、カッパであることが判明しました。引用元:松浦一酒造公式HP
かなり偶然の発見だったようですね。他にも松浦一酒造さんは、河童コレクションを多く収集しており、佐賀県の観光地的な扱いも受けています。
これらのミイラが果たして作られたものなのか?それとも実在した河童のミイラなのか?現在でも真偽は明らかになっていません。
この様に河童と思しき生き物…果たして妖怪かUMAの類なのか、かなり不明瞭ですが全国各地に数多くの『河童伝説・伝承』が残されているのは確かな事実です。
河童の正体は一体何なのか
一瞬本物か?とびっくりしますが、こちらの写真は妖怪の町で有名な「兵庫県福崎町」にある『辻川山公園』内の池に遊び心で設置された河童像です。
この様な仕掛けを施す公園は全国でも数カ所ほどあり、定期的に機械で池底からリアルな河童模型が現れる、アトラクション的設定になっています。事前情報がなく暗がりだったり、幼い子供であれば河童と見間違いそうなリアリティさですよね?
この様に河童の正体は水棲哺乳類や、ある種の巨大水棲動物の見間違え…という説が最も濃厚です。また神隠しなど日本古来の事件にも通じますが、障がいを持つ子の比喩…そして水死体説など、その正体については多くの方が考察されています。
ニホンカワウソと河童の関係
まずは既に絶滅した水棲哺乳類「ニホンカワウソ」の誤認という説です。
既に紹介した河童伝承の始まりでもある「下学集」においても“獺(カワウソ)老いて河童という者になる”という記述が確かにあります。
その全長も60~80cmと河童の目撃情報と合致する部分があり、かつては沖縄を除く全国各地に大量生息していたので見間違いの可能性は充分にあります。生活域が水場を中心とするのも大きな共通点でしょう。
体毛が生えている河童と見做されても徳心が行きます。
また上のカワウソは韓国にも生息する『ユーラシアカワウソ』であり、長崎県対馬などにも日本海を渡り上陸することが実際に確認されています。そう考えると前項の熊本県八代市の河童渡来伝説にも、一応の納得がいきます。
ただし当たり前ですが哺乳類なので河童特有の甲羅はもちろんなく、クチバシや頭の皿もありません。そして絶滅したとはいえ過去には大量に生息しており、日ごろ見慣れているはずのニホンカワウソを、昔の日本人が見間違えるのか?大いに疑問が残ります。
大亀・スッポン説
上野動物園の爬虫類両生類館も制限あるものの、開館してくれててとても嬉しい!
【民俗学から見るくらしの中の両生類爬虫類】という面白い企画展示もあった。
飼育員さんから見ると、河童がスッポンに見えるらしい…。これは、プロ目線なんだろうか? pic.twitter.com/2VVMZfrKj6— HKM48💕🐘🎪🤡💕 (@hokamars) August 9, 2021
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この様にスッポンを始めとする国内在来種のカメの仲間。その突然変異…つまり巨大化したカメが河童の正体ではないのか?という説になります。
普段見慣れているカメやお馴染みのスッポンを、果たして河童と見間違えるものなのか?大いに疑問がわくでしょう。しかし時に爬虫類の仲間は異様に巨大化することがあるのです。例えばアオダイショウなどのヘビ類は、その命が続く限り永遠に成長を続けるのです。
下記は日本のスッポンではなくベトナムで撮影されたものですが、よくご覧ください。
国内種はここまで巨大化しませんが、Youtube上で異様に巨大化した国内スッポンの動画も見つけることができました。
水死体(どざえもん)説
写真はもちろん生きている人間の方ですが、現在と比べ水難事故が絶えなかった昔の日本では、この様に河川や湖沼を漂う水死体も頻繁に存在したそうです。
少し踏み込んだ話になりますが、水死体…いわゆる『どざえもん』の皮膚は一般的に緑色になるのです。河川などでは流れで体毛、特に頭髪が岩肌などに擦れて喪失し、河童の様な皿状にもなります。
また水分を多量に含むため一目で人間と判別はできす、更に死後硬直が終わると全身の筋肉が弛緩し、尻子玉の様相も見せるのです。
大人たちの警告説
水難事故が起こりやすい危険水域などに子供たちが立ち入らないために、親を始めとする大人たちが「警告」のため語り聞かせた『作り話』という説もあります。
障がいを持つ人間
その昔、お産婆さんは赤ん坊を取り上げる際、その子に障がいがあると母親に秘密でくびり殺したという都市伝説があります。
昔の日本は貧困層が非常に多く、育てていく余裕がなかったからです。
出産時に気付かない「精神」「知的」な障がいを持つ方々が所在不明になり、たまたま食料と水が揃っている河川などに定住していたという話もありますが、かなり都市伝説の類に近く確証はありません。
山の民「サンカ」説
本来は山の禍と表記するのですが、現在は差別用語になるのでカタカナ表記が一般的です。
一言で言うと『山に住むジプシー』であり、彼らの認知度はかなり低いようです。海外ではアマゾンの原住民などが周知されていますが、日本においても昭和30年ごろまで実際に存在した山の民です。
戸籍もなく、農業の収穫期などに村落に降り賃金を稼ぐという生活を営んでいました。
言葉は悪いですが日に焼けた肌は浅黒く、ザンバラ髪。栄養状態も乏しく、極端に痩せ目が爛々としていました。移動の際には背中に蓑を被る事もあり、専ら沢伝いを選び遊牧していたそうです。
現在と異なり「村」というコミュニティーが全ての時代です。沢で水浴びをするさまや背中の蓑が「河童」と勘違いされたという逸話もあります。
オオサンショウウオ誤認説
国の特別天然記念物である『オオサンショウウオ』イモリやカエルの仲間である両生類であり、寿命は50~最大100年とも言われ、その大きさは2mにも達します。
このオオサンショウウオという生き物は両生類…特に日本に住む両生類内では破格の大きさを誇ります。次点では外来生物のウシガエル程度が最大サイズなので、この生き物を知らなければ妖怪の類と勘違いされても納得がいきます。
過去、京都の鴨川氾濫時に撮影されたオオサンショウウオがこちらです。
確かに背中には甲羅もなく2足歩行もしていませんが、四足で移動する河童の記述も古くにはあります。
ただ根拠としてオオサンショウウオの分布域は西日本に集中しており、河童の目撃例と重なる地域がある事も確かです。そして緑色の体色の他、赤い体色の河童伝承も存在するのは確かです。
普段目にしない、こんな巨大生物が突然眼前に現れたら、河童…あるいは物の怪と勘違いしてしまうのも仕方のないような気がします。
河童の正体と言われている存在は、この様に多岐に渡ります。リサーチした限り「宇宙人説」や「単なるUMA説」もあったのですが、実際に存在する(した)事象について言及してみました。ただもしかしたら未発見の「両生類」「爬虫類」あるいは「二足歩行の哺乳類」という可能性もあります。
1000年以上もの歴史を持つ『河童』。単なる空想上の生き物ではないと感じるのは筆者だけでしょうか…。
河童は果たして実在するのか
出典:http://www.town.fukusaki.hyogo.jp/
河童の実在性を問われると、その割合は5分5分ではないでしょうか?
河童について調べていくにつれ、感触としてその実在性は確かに増しました。
更に根拠となるのは近年における目撃談です。昔とは違い情報が簡単に手に入るこの世の中で、単なる見間違えで『河童を目撃した!』という報告は滅多に起こり得ません。ところが近年の記録にもしっかりと『河童の目撃談』が存在するのです。
その報告が現在に近づくにつれ、徐々に信憑性が増すように感じます。
出典:https://akashiaya.hatenadiary.jp/
この記録は1804年、水戸でアミにかかった河童を詳細に記した記録です。身長は1m体重8kgとされており、現代の河童像とほぼ変わりがありません。
そして20世紀の1984年(昭和59年)長崎県の対馬にて、ある漁師が夜中に川べりで遊んでいる複数人の子供の姿を目にしています。最初その漁師は「こんな夜更けに子供が遊んでいるものか」と不審に思ったそうです。
そのため心配になった彼は帰宅を促そうと、その子供たちに近づき声を掛けようとします。
ところが、その姿はぬめりけのある青黒い肌を持ち、異様に細い手足を持つ奇妙な生き物だったと後に証言しています。漁師の気配を察したその生き物たちは一目散に、次々と川の中へと飛び込み消えていきました。
水に濡れていてぬめりけのあると思われていたその生き物ですが、実はその身体から分泌された粘液だったようで、その後数カ月経ってもアスファルトの道路には分泌物で固まった20cmほどの足跡が残り続けていました。
出典:https://www.occulthiroba3088.com/
そして最も近年の目撃談では1991年(平成3年)に宮崎県西都市で起こった出来事です。
これは直接の河童目撃談ではないのですが、実際に報告に上がっているのです。
西都市在住のとある住民が仕事を終えた夕方ごろ我が家に帰宅すると、7~8cmほどの奇妙な複数の足跡が無数に残されていました。足跡付近にはオレンジ色の粘性物体も付着しており、奇妙な異臭を放っていたそうです。
これだけでは河童と断定できないのですが、元々宮崎県のみならず九州地方は河童伝来の地と呼ばれるほど、河童の伝承が多く残る地域です。
真偽はやはりその土地に住む人間にしか感じ取れないものなのかもしれません。
この様に河童の存在は目撃情報のソースが乏しく、偶然見かけたというものが多々あり、その実在を万人に証明するのは難しいのかも知れませんね…
河童の姿を収めた画像は存在する?
河童を実際にシャッターに収めた写真は、実は極めて少なくなります。
前項でお話した様に『偶然の目撃』が多く、加えて現在の様にスマートフォン・携帯電話等を持ち歩くような時代ではなかった背景が関係しているのでしょう。
写真は兵庫県福崎町西田原「辻川山公園」のため池から浮かび上がる機械仕掛けの河童です。実際の写真があれば、きっとこの様な感じなのでしょう。
実際に写真で頻繁に紙上を騒がすのが、かの有名な「東京スポーツ新聞」です。
出典:https://www.tokyo-sports.co.jp/
これは2002年に東スポの紙面を飾った写真です。ところが後にこの河童はTV番組「進め!電波少年」のやらせ企画であったことが判明し、河童を模した芸人が市に謝罪する事態にまで発展しています。
出典:https://www.tokyo-sports.co.jp/
こちらも「東スポ」の一面を飾った河童写真(※脚部のみ)なのですが…イマイチ信憑性にかけてしまいます。
かなり写真に収められた河童は少ないのですが、次に紹介する写真は九州・長崎県で2009年に撮影された物となります。
かなり見づらく小さな画像なのですが、この地の伝承にある河童の『ガータロウ』という見解が一般的だそうです…
そしてこれが泳ぐ河童の画像だそうです。
まとめて見ると、河童の様相はほぼ写真には写されていませんでした。調べた限り写真は以上の限りであり、その伝説や伝承が大半を占めます。
まとめ
今回は日本各地にその存在についての逸話を持ち、多くの著名人・文豪をも虜にした『河童』についてまとめてみました。
UMAとは断定し難いです。しかし存在しないという証明もまた難しいのも確かな事実なのです。巨大な別生物の見間違いや、水死体説…絶滅説や新種の動物という話にも納得してしまう事でしょう。
ただかつて日本に漂着した白人や黒人などの「異人」と呼ばれた外国人たちは、実際に「オニ」「天狗」「得体の知れない生物」という扱いを受けています。
もしかしたら?河童という動物の基礎はあれど、その概念を別生物に当てはめた事実も存在するのかもしれません。
ただ生物学的にも、いかにも存在しそうな外見や各パーツの構造・その習性などは頭から否定することは到底できません。いつの日か「河童発見」の吉報が届くことを心待ちにし、想像を巡らすのも一興かもしれませんね。