寺井ゆり子さんは1938年に起きた大量殺人事件・津山事件の生き残りで、事件の動機になったとされる方です。この記事では寺井ゆり子さんの生い立ちや犯人・都井睦雄の関係、遺書、結婚や家族、子孫、墓、津山事件の詳細やその後、現在について紹介します。
この記事の目次
寺井ゆり子さん(津山事件の生き残り)と津山事件の概要
1938年5月21日の未明、岡山県の苫田郡西加茂村大字行重(現在の津山市加茂町行重)の貝尾・坂元両集落で、集落の住民合計33人が殺傷される大量殺人事件が発生しました。
犯人となったのは、惨劇の現場となった貝尾集落に住む当時21歳の青年・都井睦雄(とい むつお)です。
都井睦雄は寝静まっている家に次々に侵入し、猟銃や日本刀などで自分の祖母を含む30人を殺害、3人に重軽傷を負わせた後に荒坂峠に向かい、山頂で自殺しています。
そのため日本の犯罪史上に残る凶悪な大量殺人事件でありながら、被疑者死亡のため不起訴となり、犯行動機もはっきりとはわかっていません。
しかし、生前の都井睦雄が結核を理由に集落で差別を受けていたこと、さらに思いを寄せていた寺井ゆり子さんもほかの男性と結婚して集落の外に嫁いで行ってしまったことなどが原因となり、凶行に至ったのではないかと見られています。
寺井ゆり子さんと犯人・津山事件の都井睦雄の生い立ち
津山事件の犯人・都井睦雄と被害者・寺井ゆり子さんは、ともに貝尾集落で育ちました。
寺井ゆり子さんは、この集落で暮らす寺井政一さん一家の4女として誕生したとされます。
しかし、都井睦雄は貝谷の生まれではなく、貝尾集落と同じ加茂谷にある倉見の生まれです。ここでは詳細が判明している都井睦雄の生い立ちを中心に、2人の出生と関係を紹介していきます。
都井睦雄の生い立ち・ロウガイスジと呼ばれて
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都井睦雄は1917年3月5日に岡山県苫田郡加茂村大字倉見(現在の津山市加茂町倉見)に生まれました。
都井家は古くから倉見を治めてきた家系であり、睦雄はその本家の家筋だったそうです。
しかし、睦雄が誕生して間もない頃に祖父の菊次郎が亡くなり、父親の振一郎もが2歳の頃に他界。
明確な病気は不明ですが、菊次郎は亡くなる前に肺を患っていたことから結核だったのではないかと言われており、振一郎の死因は結核でした。後述しますがこのことが将来の睦雄に影響を及ぼします。
さて、菊次郎が死亡したことで家督は長男であった振一郎に相続されたのですが、その手続きも完了していないうちに振一郎も死亡したため、都井家嫡子で長男の睦雄が家督を継ぐことになりました。
この時の睦雄はまだ2歳。家督など継げるはずもありません。そのため親権者として母親の君代が都井家の当主を代理し、君代は「息子には健康に成長にしてもらいたい」という思いから幼い睦雄に厳しくあたることもあったといいます。
ところが、君代も睦雄が3歳の時に他界してしまいます。君代は病床で「慢性気管支カタルだからすぐに治る」と言っていましたが、周囲は「肺結核に決まっている」「あの家は呪われている」などと話していたそうです。
君代は菊次郎と振一郎の看病をしていたといいますから、結核に感染しても不思議ではない立場でした。
結核は戦前の日本における死因の第1位で、当時は治療法も確立されておらず、空気感染するこの病は人々の恐怖の対象だったとされます。
とくに倉見や貝尾のような田舎では、結核での死者を頻繁に出す家系は「ロウガイスジ(ロウガイは結核のこと)」と呼ばれて忌み嫌われ、酷い差別を受けて結婚さえままならなかったそうです。
つまり、都井睦雄は幼い頃にすでにロウガイスジの烙印を押されていたのです。
倉見の人々は都井家を恐れるようになり、幼い睦雄のことも疫病神のように扱うようになったといいます。
そのため、まだ存命で隠居の身であった菊次郎の父親(睦雄の曽祖父)が、いったん家督の話を保留とし、君代が亡くなった1年半後の1920年に、睦雄の祖母のいねに財産の管理を任せることにしました。
しかし、いねは菊次郎の後妻であり、睦雄とも都井家の誰とも血縁関係がなかったのです。
このことから都井家の分家からは「よそ者に都井の財産を渡すのか」と批判の声があがり、睦雄は家督を継ぐべきではないとされてしまいます。
こうして都井家の莫大な財産を継ぐはずだった睦雄は、何も知らないまま菊次郎の弟に家督を奪われたうえ、「ロウガイスジの親族が倉見にいるのは如何なものか」という親族の批判のもと、都井家の財産の一部を手切れ金を渡されて、姉のみな子と祖母のいねとともに倉見を追い出されてしまったのです。
寺井ゆり子さんと都井睦雄の出会い
倉見を追われたいねは、幼い睦雄とその姉のみな子さんを連れて当時の加茂村の中心部付近に引っ越し、借家住まいをはじめます。
その後、1921年に貝尾に住むいねの親せきから家と土地、畑を購入して貝尾に移り住みました。
この土地と家屋を買うお金は睦雄が相続することになった都井家の財産の一部からだしたのですが、継いだ財産は安く買いたたかれることも多く、決して暮らしは裕福ではなかったようです。
ただ、自分は都井家の当主であった菊次郎の妻であり、正当な後継者の睦雄の祖母だというプライドがあったのか、基本的に倹約家だったといういねも、家だけは貝尾でも目立つ屋敷を購入しました。
幼い頃に与り知らぬところで壮絶な経験をした睦雄本人はというと、大人しい性格で病気がちだったものの非常に賢い子どもで、姉のみな子と仲が良かったといいます。
学業の面では秀才と呼ばれるほど優れていたそうですが、早生まれで身体が小さく、華奢であった睦雄は、本来の入学時より1年遅れて小学校へ入学しました。
当時の尋常小学校は満6歳の4月から入学可能だったものの、早生まれの子などは1年遅れで入学することが珍しくなかったそうです。
1年遅れで小学校に入った睦雄は、ここで1歳年下の寺井ゆり子さんに出会い、同級生として机を並べることになります。
周囲の人によると、ゆり子さんは色黒の美人で活発な働き者の少女だったとのこと。
家族を殺害し、自分のことも殺そうとした相手であるため、ゆり子さんの口から小学生時代に睦雄と仲が良かったのか、どのような関係だったのかがわかる話は出ていないそうです。
ただ、当時の睦雄は抜きんでて優秀で、級長を任されることもあったといい、それはゆり子さんの記憶にも残っているといいます。級友からの選挙で級長を任されたとのことですから、人望もあったのでしょう。
睦雄の友人関係はどうだったかというと、真面目で優秀であった一方で学校を休みがちであったために、親しい友人はできづらかった様子です。
これは睦雄の身体が弱かったのも原因ですが、倉見でロウガイスジと罵られ、実際に祖父と両親を肺の病気で亡くしていたため、いねが過保護になっていた可能性も指摘されています。
いねは子育てをしたことがなく、自分も幼少期に教育を受けられなかったために、同学年の子どもを遊ぶことの大切さや、賢い孫の進路などを深く考えていなかったのではないかとも言われています。
高等小学校・青年学校への進学
尋常小学校を卒業した後、睦雄は西加茂村の高等小学校に進学しました。高等小学校でも、真面目な性格で温和、学業は優秀な生徒だったといいます。
しかし高等小学校を卒業してすぐ、14歳の頃に助膜炎を患って2年間ほど療養生活を送ることとなります。
睦雄はこの2年の間に性格が変化した様子です。成績が良かったために高等小学校の教師からは進学を勧められていたいう睦雄ですが、いねは家で1人の男である孫を手放そうとせず、農業の手伝いをさせようとしていたといいます。
しかし、助膜炎になったことで農作業を禁じられることに。幸いにも睦雄の病気は軽症で、姉のみな子さんによると「3ヶ月ほどで治り、その後は寝ているほどのことではなかった」とのこと。
では2年間も、学校にも通わず、農業も手伝わず、働きにも出ずに睦雄は何をしていたのでしょうか?
津山事件の生き残りである寺井昌子さん(睦雄とゆり子さんの同級生の寺井由紀子さんの姉)によると、「家でおばあちゃんを怒鳴りつけていたという印象がある」といいます。
両親を早くにうしない、生まれた土地を追われて親族からも見放され、血のつながらない祖母と姉とともに知らない土地にやってきた睦雄。
幼少期は「大人しいが、賢くて問題のない子」とされていましたが、思春期になると「祖母の言うように生きてきたのに、何も満たされていない」と不満をぶつけるようになっていったのです。
それでも、いねは睦雄をまるで幼児のように甘やかし、本人に進学の意思があるのか確認したり、高等小学校の教師に進路について相談にのってもらうなどの対応をしませんでした。
こうして睦雄は思春期の14歳から16歳までの時期を、家で祖母に当たり散らし、無為に過ごしてしまったのです。
16歳になって睦雄はやっと青年学校に入学しましたが、2年間もだらだらと過ごしてしまったため、かつてのように学業優秀というわけにはいきませんでした。
勉強にはついて行かれず、年下の同級生に比べて成績は底辺。これまで秀才とほめそやされてきた睦雄は、大きな挫折となりました。
都井睦雄の異性関係
睦雄が青年学校2年、17歳の頃に唯一の対等な話し相手であった姉のみな子さんが結婚し、高田村に嫁いで行ってしまいました。
詳しい時期はわかっていませんが、おそらく姉がいなくなってから、睦雄は初めて女性との性行為を経験したと見られています。
なお、津山事件を扱った筑波昭氏の著書『津山三十人殺し―日本犯罪史上空前の惨劇』では、「睦雄には1つ年上の悪友がいて、その悪友とどちらが多く村の女性を落とせるか競っていた」という記載があるのですが、後年の調べでこれは筑波氏の創作だった可能性が高いとされています。
初体験の相手が誰だったのかも不明ですが、この後に睦雄は村の女性に夜這いをかけるようになり、遺書によると1935年、18歳の頃に異性関係で最初のトラブルを起こしました。
睦雄がトラブルを起こした相手は、当時関係を持っていた西川トメさんで、トメさんは睦雄と倍以上年が離れた人妻でした。
美人で色気があるもののあまり評判の良くない女性だったようで、夫以外の男性数人と関係を持っている好色家として知られており、また口が悪く噂好きなことも周囲からよく思われていなかったといいます。
このトメさんが、睦雄から「自分はロウガイスジだ」という話を聞き、集落中にバラしてしまったのです。
詳細は不明ですが、18歳になる頃には睦雄は自分がロウガイスジであることを知っていました。
祖母のいねは、かたくなに睦雄に真実を話しませんでした。1935年の春にいねと睦雄が自分たちがかつて住んでいた倉見の屋敷を売り払っていることから、おそらくこの時に、倉見の人から自分の出生を知らされたのではないかと考えられています。
この頃、睦雄は青年学校での挫折から立ち直り始めて「小学校の教師か巡査になりたい」と、再び勉強への意欲を見せていました。
そのため、いねは生活費と睦雄の学費を工面するために倉見の家を手放そうとしたのです。
しかし、それが原因となって倉見に足を踏み入れた睦雄は、両親、祖父ともに結核で死んだこと、いねと血がつながっていないこと、本当は都井家の跡取りだったことなどを知ってしまいます。
同じ立場の姉はもう家にはおらず、祖母も真実を語ってくれない。その苦しさと寂しさから母親ほども年齢の離れたトメさんに、悩みを話してしまったのかもしれません。
ところが、ロウガイスジの話を聞いたトメさんはこれまでとうってかわって睦雄に冷たくあたるようになり、睦雄の秘密を村中にばらした上に肉体関係もこばむようになったといいます。
集落での差別
当時の報道や事件報告書によると、睦雄が関係を持っていた集落の女性は下は19歳から上は50歳まで、10人以上にのぼったといいます。睦雄は容貌の整った青年でしたから、相当にモテたのでしょう。
しかし、ロウガイスジの噂が広まると集落の人々は手のひらを返して睦雄を避けるようになり、近所の子どもも都井家の前を通る前には大声で「この家はロウガイスジだから息を止めて走り抜けよう」「この家の前で息をすると死ぬぞ」と言っていたそうです。
もともと睦雄は子どもたちには優しく接していた様子で、津山事件が起きた後でも「集落の人はむっちゃん(睦雄)をいじめていたけれど、わたしは遊んでくれたむっちゃんのことが好きでしたよ」と話す人もいました。
しかし、噂が広まって以降は親から近づかないように注意されたのか、関わらないようになったといいます。
睦雄が想いを寄せていた寺井ゆり子さんも「親から、むつおさんには近づいてはいけないと言われていた」「道を歩いているのを見かけたら、田んぼに逃げ込んだ」と証言していました。
当時の結核の怖さを考えると、集落の人たちの反応も仕方のないものです。
関係を持っていた女性にも、近所の子どもたちからも、思いを寄せていたゆり子さんから避けられるようになった睦雄。集落では孤立した存在になってしまいました。
さらに追い打ちをかけるように1935年の12月に睦夫は体調を崩し、「肺尖カタル」と診断されてしまいます。肺尖カタルとは、結核の初期状態のことです。
幸いにも肺尖カタルは早期に完治したものの、睦雄本人はこの診断を受けてから「自分は結核だ」と思い込んで鬱状態になり、不眠症に悩まされ、怪しい民間療法にも手を出すようになっていきました。
そして1937年の5月22日には、徴兵検査で「丙種合格」の宣告を受けることに。
丙種合格とは事実上の不合格であり、睦雄はこれをもってますます自分は結核なのだと確信を深めます。
なお、丙種合格になった理由は検査医に睦雄が自ら「自分は肺尖カタルだ」「結核だ」と迫ったからでした。
寺井ゆり子さんの結婚が犯行の動機になった?
都井睦雄が津山事件を起こした動機は、ロウガイスジとして差別されたことにくわえて、片想いをしていた寺井ゆり子さんが結婚したことではないかとも言われています。
集落全体から差別されてもゆり子さんのことは諦められなかったようで、ゆり子さん本人の証言によると、睦雄に呼び出されて襲われかけたこともあったそうです。
「『(自宅まで)箪笥の片づけに来てくれ』と嘘をつかれて、行ったら押さえられた…みんなに嫌われたのが辛かったんじゃろうな…」
1938年の1月9日、寺井ゆり子さんは同じ集落の丹波卯一さんと結婚しました。睦雄はこの結婚に大反対で、力づくで2人を別れさせようと丹波家の新居に侵入しては、ゆり子さんに夜這いをかけようとしていました。
この影響もあってか、ゆり子さんは結婚の2ヶ月後には離婚して丹波家を出ることになります。
そして同年の5月5日には、貝尾から離れた集落に嫁に行ったのです。
当時、明らかに精神のバランスを崩していた睦雄からしてみれば、自分の邪魔が功を奏してゆり子さんは離婚したように見えたかもしれません。
となれば、自分にもゆり子さんに想いを伝えるチャンスがある、結婚できるかもしれないという思い込みもあったでしょう。
しかし、離婚して間もなく、ゆり子さんは睦雄の知らない場所に嫁いで行ってしまいました。
このことに対する睦雄のショックは相当なものだったようで、貝尾周辺に所有する土地を担保に農工銀行に融資を申し込み、津山事件の凶器となる猟銃などを買い集めていきました。
この以前から睦雄は「どうせ肺病で死ぬのなら、集落の奴らに復讐してから死にたい」と思い、津山の猟銃店を訪ねていたといいますが、ゆり子さんが結婚した1938年からは神戸の猟銃店に出向いてブローニング銃や弾薬を購入するようになります。
そして、ゆり子さんが集落外に嫁いだ3日後に事件の凶器となる日本刀を購入したのです。
睦雄が特別に執着していたのはゆり子さんだけではなく、もう1人、西川良子さんという女性にも好意を寄せていたといいます。良子さんも結婚して集落の外に嫁いでいました。
この2人は同じ日(1938年の5月18日)に里帰りをしており、2人が貝尾に戻ったことを確認してから睦雄は遺書をしたため、21日に凶行に及びました。
寺井ゆり子さんも西川良子さんも事件の被害者なのですが、2人が事件が起きた原因とはいかないまでも、大量殺人決行日を決める原因にはなったのでした。
寺井ゆり子さんの津山事件発生時の行動と事件の被害詳細
1938年の5月20日の夕方、事件を起こす7、8時間前に睦雄は貝尾に電力を供給する電線を切断し、祖母のいねが就寝してから犯行の準備を始めます。
睦雄は屋根裏部屋に行くと、学生服のような詰襟服に茶褐色の巻きゲートル、足元は地下足袋を装着し、頭には2つの懐中電灯を取り付けた鉢巻を巻きました。
そして紐をつけた自転車用のバンドライトを首から吊るし、弾薬などを入れたずた袋を肩にかけ、凶器の日本刀一振りと匕首二口は腰に差して皮の帯で留めました。
最後にブローニング銃と弾薬実包約100個を携帯して、外に出たといいます。
外に出た睦雄はあらかじめ磨いておいた斧を手に取って屋内に戻り、炬燵でうたたねしていたいねを斧で斬殺。そして周辺の家に侵入し、住民を襲っていったのです。
一軒目・岸田つきよ宅(3人死亡)
被害者…岸田つきよ(当時50歳)、吉男(次男・当時14歳)、守(三男・当時11歳)
岸田家にはほかに長男の勝之さんがいましたが、兵役で不在でした。勝之さんは睦雄の数少ない友人だったといい、ロウガイスジだと睦雄が差別されていても「許せない奴がいたら、わしがやってやるぞ」と言っていたそうです。
そんな勝之さんの家族を惨殺した理由は、息子と違って母のつきよさんが非常に意地の悪い性格で、睦雄の陰口を言いながら、情交を餌に金をせびるなどしており、次男と長男も睦雄をひどく馬鹿にしていたためと考えられています。
ニ軒目・西川秀司宅(4人死亡)
被害者…西川秀司(当時50歳)、トメ(妻・当時43歳)、良子(娘・当時23歳)、片岡千鶴子(親戚・当時24歳)
西川家には睦雄と関係を持ち、秘密をばらしたトメさんと、その娘であり睦雄が想いを寄せていた良子さんがいました。
三軒目・岸田高司宅(3人死亡、1人重傷)
被害者…岸田高司(当時22歳)、西川智恵(内縁の妻・当時20歳)、たま(母・当時77歳)、寺上猛雄(甥・当時18歳)
岸田家を襲う際、睦雄は「お前たちに咎はないが、西川トメの娘をもらったのだから」と言い、次々と射殺。たまさんのみ重傷を負って生き残りました。
四軒目・寺井政一宅(5人死亡、1人軽傷)
被害者…寺井政一(当時60歳)、貞一(息子・当時19歳)、三木節子(貞一の許嫁・当時22歳)、ゆり子(四女・当時22歳)、とき(五女・当時15歳)、はな(六女・当時12歳)
四軒目に入ったのは、寺井ゆり子さんの実家でした。睦雄が家に侵入してきた際、「自分が狙いだ」と察したゆり子さんはいち早く屋外に逃げて難を逃れました。
この時、ゆり子さんはこれまでと同じように睦雄が執着しているのは自分であって、家族に危害は及ばないと思っていたのです。
しかし、睦雄はゆり子さんが逃げた後も追わずに、ほかの家族5人を殺害しました。
五軒目・寺井茂吉宅(1人死亡、1人軽傷)
被害者…寺井茂吉(当時45歳)、伸子(妻・当時41歳)、進二(次男・当時17歳)、由紀子(四女・当時21歳)、孝四郎(父・当時88歳)、寺井ゆり子(政一宅から逃げてきた)
寺井茂吉さんは集落の名士であり、睦雄に結婚や仕事の世話をしようとしていた人物でした。そのため、睦雄も当初は茂吉さん宅を襲うつもりはなかったといいます。
しかし、逃げてきたゆり子さんを茂吉さんが匿ったことから、ターゲットになってしまい、表戸を閉めきる寸前で睦雄の凶弾が由紀子さんの膝をかすめて軽傷を負わせました。
そして全員が協力して厳重に戸締りをする間に、高齢の孝四郎さんが1人外に出て、日本刀を振り回す睦雄に対して果敢にも1人で応戦。
白刃取りで日本刀を受けるなどして足止めをしたものの、銃弾を撃ち込まれて亡くなりました。
一方で孝四郎さんのおかげで時間ができた5人は戸締りをして家に立てこもり、茂吉さんと進二さんは武装し、伸子さん、由紀子さん、ゆり子さんの3人は畳をあげて床下に朝まで隠れていたそうです。
いつまでも茂吉さんの家の前で怒鳴っていてもらちが明かないと思った睦雄はゆり子さん殺害を断念し、次の家に向かいました。
六軒目・寺井好二(2人死亡)
被害者…寺井好二(当時21歳)、トヨ(母・当時45歳)
寺井トヨさんは、寺井ゆり子さんと西川良子さんの結婚の媒酌人でした。そのために、睦雄から恨まれていたといいます。
七軒目・寺井千吉宅(3人死亡)
被害者…寺井千吉(当時85歳)、チヨ(妻・当時80歳)、朝市(次男・当時64歳)、勲(孫・当時41歳)、きい(功の妻・当時38歳)、平岩トラ(朝市の内縁の妻・当時65歳)、岸田みさ(岸田つきよの娘・当時19歳)、丹波つる代(丹波卯一の娘・当時19歳)
寺井千吉さん宅で殺害されたのは、離れの養蚕場にいた平岩トラさん、岸田みささん、丹波つる代さんの3人です。
みささんとつる代さんには何度か情交を持ち掛けたものの断られていたといい、トラさんには睦雄が勝手に「自分が銃や刃物を持っていることを警察に密告したのではないか」という疑惑を持っていたといいます。
また、睦雄は千吉さんにも銃口を向けたものの「お前はわしの悪口を言わんかったけえ」と言って、立ち去ったとされます。
八軒目・丹波卯一宅(1人死亡)
被害者…丹波卯一(当時28歳)、イト(母・当時47歳)
丹波家で殺害されたのはイトさん1人です。寺井ゆり子さんの元夫である卯一さんは、事件を察知して加茂町巡査駐在所に駆け込み、事件を知らせました。
九軒目・池沢末男宅(4人死亡)
被害者…池沢末男(当時37歳)、宮(妻・当時34歳)、彰(次男・当時10歳)、正三(三男・当時9歳)、昭男(四男・当時5歳)、勝市(父・当時74歳)、ツル(母・当時72歳)
池沢家では家長の末男さんがいち早く睦雄の接近に気づき、家族に逃げるように指示したうえで加茂町巡査駐在所に駆け込みました。
しかし、宮さんと母親に縋り付いていた幼い昭男くんは殺害され、勝一さんとツルさんも死亡。
就寝していた彰くんと正三くんは、襲われずに見逃されました。
十軒目・寺井倉一宅(1人死亡)
被害者…寺井倉一(当時61歳)、はま(妻・当時56歳)、優(長男・当時28歳)
寺井倉一さん宅で睦雄が狙っていたのは、家主の倉一さんでした。倉一さんは女好きで、睦雄は彼をライバル視していたといいます。
しかし、結局寺井家で亡くなったのは戸締りをしていて凶弾に撃たれたはまさん1人でした。
十一軒目・岡本和夫宅(2人死亡)
被害者…岡本和夫(当時51歳)、みよ(妻・当時32歳)
岡本和夫さんの家は貝尾ではなく、近くの坂本集落でした。しかし、みよさんは睦雄と肉体関係を持っていたといい、ロウガイスジと知ってから態度が冷たくなった女性の1人だったのです。
そのために最後のターゲットとなりました。こうして都井睦雄は、わずか2時間の間に11軒の家を襲い、30人の命を奪った後に自殺したのでした。
寺井ゆり子さんを殺し損ねた?都井睦雄の遺書の内容
出典:https://tomouki.ken-shin.net/
自殺する前に睦雄は2通の遺書を残していました。一通目は、犯行の前に書いておいたもので、周囲への恨み言などが綴られたものです。
そして二通目は自殺する寸前に書いたものです。それには、「今日、決行したのは寺井ゆり子と西川良子が貝尾に来たから」と、2人の里帰りが犯行日を決めたことと「寺井ゆり子は逃した」と、ゆり子さんを殺せなかった悔しさのようなものが綴られていたといいます。
寺井ゆり子さんのその後・現在と墓
津山事件の後、家族が全員殺され、自分を庇ったせいで孝四郎さんまで亡くなったことに苦しんだゆり子さんは、貝尾を出て戻らなかったといいます。
あまりにも深い心の傷を抱えて、一時期は新興宗教に入信したこともあったそうです。
自分の家に戻っても夫は戦争末期に兵にとられており、やっと帰国した時には皮肉にも結核に感染していたといいます。
そのため夫は帰国後ほどなくして亡くなっており、ゆり子さんは遺産を継ぎ、遺族年金をもらうことなりました。
このことは事件後に話題になり、やっかみから「事件の元凶のくせに、生き残って1人だけ幸せに暮らしている」などと陰口も叩かれたそうです。
睦雄が遺書にゆり子さんの名前を残したことから、2人の間に何かあったのではないかと邪推する人も多かったのでしょう。
寺井ゆり子さんは2010年にジャーナリストの石井清氏が書籍『津山三十人殺し 最後の真相』を執筆する際に取材に応じていましたが、この時すでに93歳という高齢でした。
石井清氏によると、この時はまだお元気であり、若い頃は相当な美人だったのだろうと窺わせるような佇まいだったといいます。
現在、ゆり子さんがご存命なのかは不明ですし、嫁ぎ先や代々のお墓がどこなのかも不明です。
なお、都井睦雄の墓は倉見の山すその墓地にあるいねの墓の横にあり、墓石代わりに倉見川の河川敷から拾ってきた石が置いてあるといいます。
寺井ゆり子さんと都井睦雄の子孫がいる?【津山事件の都市伝説】
津山事件の後、睦雄とゆり子さんの間に子どもがいるという噂が流れたことがありました。
2人の間に誕生した子孫、睦雄の落とし子と囁かれたのが、実在するゆり子さんの娘です。
たしかにゆり子さんには2人の娘がいますが、彼女たちはゆり子さんと兵役に出る前の夫の間に生まれた子であり、睦雄の子ではありません。
ゆり子さんは睦雄の許嫁だった、お金で睦雄と関係を持ったことがあるとの噂も流れたそうですは、本人によるとこれらはすべて嘘で、睦雄に襲われかけたことはあっても体の関係を持ったことはないとのことです。
なお、西川良子さんやほかの女性との間にも睦雄の落とし子が誕生したという噂がありますが、当時の結核の家系に対する差別を考えると、これもデマの可能性が高いでしょう。
寺井ゆり子さんと都井睦雄・津山事件についてのまとめ
今回は1938年に起きた日本の犯罪史上に残る凶悪事件・津山事件と犯人の都井睦雄、生き残りで睦雄の片想いの相手で会った寺井ゆり子さんについて、2人の関係や事件の詳細を中心に紹介しました。
ゆり子さんは間違いなく、津山事件と都井睦雄にもっとも翻弄された人物の1人だと言えます。
現在はすでに100歳をゆうに超えているはずですから、ご存命なのかも不明です。取材に応じていたということは、ゆり子さんのなかで少しは事件に対する整理がついたのでしょうか。穏やかな老後を過ごされたことを願うばかりです。