明治から昭和にかけて栄えた岩手県の硫黄鉱山「松尾鉱山」の最盛期や現在が話題です。
この記事では松尾鉱山の場所や地図やアクセス方法、過去の鉱毒事件や大規模落盤事故、全盛期当時の写真、現在は緑ヶ丘アパートの廃墟や心霊スポットとして人気の件などについてまとめました。
この記事の目次
- 松尾鉱山は岩手県松尾村にあった硫黄鉱山で現在は労働者宿舎の廃墟が残存
- 松尾鉱山跡地の場所と地図やアクセス情報
- 松尾鉱山の鉱毒事件と現在も続く鉱毒水の流出
- 松尾鉱山では大規模落盤事故で死者と行方不明者が83名以上が出た事も
- 松尾鉱山の全盛期当時の写真① 索道を使って硫黄や物資を輸送していた
- 松尾鉱山の全盛期当時の写真② 鉱山町を含む全景
- 松尾鉱山の全盛期当時の写真③ 労働者やその家族の当時の生活
- 松尾鉱山の全盛期当時の写真④ 東北随一の設備を備えた老松会館
- 松尾鉱山の全盛期当時の写真⑤ 緑ヶ丘アパート(労働者用集合住宅)
- 松尾鉱山の現在① 緑ヶ丘アパートは廃墟化し人気スポットに
- 松尾鉱山の現在② 心霊スポットとしても知られている
- まとめ
松尾鉱山は岩手県松尾村にあった硫黄鉱山で現在は労働者宿舎の廃墟が残存
「松尾鉱山」は、岩手県岩手郡松尾村(現在の岩手県八幡平市)に1969年まであっ硫黄鉱山です。全盛期は年間およそ8万トンもの硫黄を産出し、国内の硫黄生産の30パーセント、黄鉄鉱生産の15パーセントを占め、東洋一の硫黄鉱山として栄華を極めました。
松尾鉱山は1972年に閉山しており、現在は労働者宿舎として整備された鉄筋コンクリートの集合住宅「緑ヶ丘アパート」11棟が廃墟となって残存しています。この緑ヶ丘アパートは廃墟スポット、あるいは心霊スポットとして全国的によく知られている場所です。
松尾鉱山の歴史
松尾鉱山のあった八幡平は、遅くとも江戸時代から鉱山として知られており、当時は金や銀、銅などを産出していました。硫黄鉱山としては、寛政8年(1766年)の硫黄の調査願文書が史料として残っています。
松尾鉱山で本格的な硫黄の採掘が初めて試みられたのは、明治期に入った1874年(明治7年)とされており、1879年(明治12年)には硫黄鉱山の存在の記録が残されています。
1882年(明治15年)、旧松尾村の住人である佐々木和七という人物が、赤川の上流に自然硫黄の大露頭(地表に露出した鉱床)を発見し、1888年(明治21年)に兄の和助とともに試掘権を取得して試掘が試みられています。しかし、当時はまだ硫黄の資源としての価値は十分に見出されておらず、開発資金が集まらずに失敗に終わりました。
明治後期にかけて松尾鉱山の試掘権は幾人の手に渡った後、1911年(明治44年)に横浜で貿易会社・増田屋グループを営む中村房次郎という人物へと移りました。この中村房次郎は海外で高まる硫黄の需要に早くから着目しており、1914年(大正3年)に松尾鉱業株式会社を設立して本格的な松尾鉱山の開発に着手しました。
この時期はちょうど、第一次世界大戦での戦争景気や国内での重化学工業の急成長期で硫黄の需要は急拡大しており、その追い風を受ける形で松尾工業株式会社は急速に業績を伸ばし、1922年(大正11年)には、松尾鉱山は国内の30パーセントから40パーセントものシェアを担う国内最大の硫黄鉱山として発展しました。
昭和期に入ると、軍需の増大もあってさらに生産量はさらに拡大し、国内の硫黄生産のおよそ80パーセントを占めるまでになり、オーストラリアやニュージランド、日本統治下の朝鮮や満州国へも硫黄や硫化鉄鋼の輸出を行っています。
その後、1939年(昭和14年)の大規模落盤事故をはじめ、相次ぐ火災や戦争中の空襲被害、徴兵による労働力不足などの逆風もあって1941年(昭和16年)には一時的に生産量は減少。
しかし太平洋戦争が終結すると、産業政策や化学工業の発展、朝鮮戦争特需などにより、再び松尾鉱山は急成長を遂げ全盛期を迎えています。現在も廃墟として残る「緑ヶ丘アパート」が労働者宿舎として建設されたのはこの頃で、1951年(昭和26年)から1952年(昭和27年)にかけて11棟が竣工しています。
松尾鉱山を運営する松尾鉱業株式会社は当時の花形企業となり、その好待遇から全国から労働者が集まり、その家族らも含めピーク時には鉱山町の人口は約15000人にまで膨れ上がっています。
人口の増加に伴い、松尾鉱山周辺には小・中・高校、総合病院、郵便局、大規模商店(スーパーマーケットのような形態)、1500人を収容可能な娯楽施設「老松会館」(有名人のコンサートや公演、映画上映などが行われた)などが次々と建設されました。
松尾鉱山の労働者は当時としては破格の好待遇を受けており、住居には最先端の水洗トイレや暖房設備が完備され、しかも水道光熱費は完全無料で、当時は「雲上の楽園」とも呼ばれていました。
ところが、高度成長期に入った1955年頃からアメリカ産の安価な硫黄の輸入が増加し、化学繊維業界の不振による硫黄の需要の減少も重なり、次第に松尾鉱業の業績は悪化。
さらに、石油精製工場に脱硫装置の設置が義務化されると、その工程の副産物として生成される回収硫黄が流通するようになり、硫黄鉱石の需要は減少の一途をたどりました。
1967年(昭和42年)には、松尾鉱業は莫大な赤字を計上し、希望退職者も募って従業員を削減。労使の間での争いが生じた挙句、1969年(昭和44年)11月11日についに全組合員が退職を受け入れ、松尾鉱山は閉山を迎える事となりました。
松尾鉱山跡地の場所と地図やアクセス情報
出典:https://cdn-ak.f.st-hatena.com/
松尾鉱山跡地の場所は「岩手県八幡平市松尾寄木」です。
アクセスは、東北自動車道を「松尾八幡平IC」で降り、県道45号を東へ、「松尾八幡平ビジターセンター」という交差点を右折して「八幡平アスピーテライン」というドライブラインへと入ります。
八幡平アスピーテラインを5kmほど走ると左折する道があるので、そこから「緑ヶ丘アパート」の廃墟群を羨望できる場所へと入る事ができます。
松尾鉱山の正確な跡地は、この緑ヶ丘アパートからさらに西へ数百メートルから1kmほど行った場所に一帯ですが、緑ヶ丘アパートの廃墟群も含めて危険なため立ち入り禁止となっています。
下は緑ヶ丘アパートと松尾鉱山跡地一帯の場所を含む地図です。
松尾鉱山の鉱毒事件と現在も続く鉱毒水の流出
松尾鉱山には「鉱毒事件」が社会問題になった歴史もあります。
松尾鉱山の鉱毒事件は早くも大正後期には表面化しており、炭鉱からの排水である茶色い鉱毒水(強酸性水)が赤川から北上川へと流れ込み、魚も住めない環境になり、これを用水とする田の収穫量が減少するなどの被害も出て地域住民からの悲鳴が上がり始めました。
1932年(昭和7年)には、大更村(現在の八幡平市大更)の住民らが知事宛の嘆願書を提出して鉱毒事件の被害を訴えています。
1933年(昭和8年)になると盛岡以南の北上川流域にまで被害が拡大し、各地で賠償運動が起こってマスコミが取り上げ、松尾鉱山の鉱毒事件は社会問題化しました。
松尾鉱業は仙台鉱山監督局からの指導を受けて、石灰(アルカリ性)の投入などの中和処理を開始。1936年(昭和11年)には、赤川灌漑用水から松川など他の河川を水源に切り替える工事が開始され、1948年(昭和23年)の松川用水完成まで松尾鉱業は地域住民に多額の賠償金の支払いを続けました。
しかし、松尾鉱山が閉山となって以降も廃坑からの鉱毒水の流出は続いており、毎分24トンのもの強酸性水が流れ出しています。
現在も行政による中和処理施設での処理が続けられていますが、その費用は年間で5億数千万円にも上り、国や岩手県の大きな財政負担となっており、そういった意味では松尾鉱山の鉱毒事件は現在も解決していないとも言えます。
松尾鉱山では大規模落盤事故で死者と行方不明者が83名以上が出た事も
松尾鉱山では、1939年(昭和14年)の11月10日に大規模な落盤事故が起こり、死者と行方不明者合わせて83名以上の犠牲者を出しています。
この落盤事故では、地盤の陥没面は直径100メートルにも及び、死者・行方不明者83名以上の他、重軽傷者51名を出す大事故となりました。
この事故はちょうど15時の交代時間に発生したため、一時は130名もの労働者が坑道内に閉じ込められる事態となり、さらに坑道内の火災により亜硫酸ガスが発生し救助作業が難航して被害を拡大させました。
松尾鉱山の全盛期当時の写真① 索道を使って硫黄や物資を輸送していた
松尾鉱山の全盛期の当時の写真を紹介していきます。
松尾鉱山の全盛期の坑道内の当時の写真などは残っていませんが、発掘された硫黄や黄鉄鉱を輸送する索道の写真が多数残されています。
全盛期の松尾鉱山では、標高900メートルの鉱山から、麓の錬成現場、さらに輸送拠点となる東八幡平駅まで、約3.6kmもの索道が通され、バケットで産出した硫黄や黄鉄鉱や労働者やその家族のための生活物資が行き来していました。
索道は全部で4本あり、当時の写真を見ると、かなりの数の物資を搭載したバケットが絶えず往来していたようです。
出典:http://www.bunka.pref.iwate.jp/
索道とゴンドラの背景で黒煙が立ち上っているのは硫黄精錬によるものです。この煙によって土壌が汚染されて一帯の土地が強酸性になり緑の生えない荒地と化しました。現在は緑化が進められて緑豊かな場所へと回復しています。
松尾鉱山の全盛期当時の写真② 鉱山町を含む全景
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上の画像3枚は1953年(昭和28年)頃、まさに全盛期に撮影された松尾鉱山の当時の写真です。
1枚目には硫黄の錬成のための作業場など低い建物が所狭しと立ち並んでいるのが確認できます。
また、2枚目には当時の緑ヶ丘アパートも確認できます。3枚目は大勢の人々が往来する様子も確認できます。
上の写真も全盛期の当時の写真で、鉱山の坑口や、松尾鉱山の鉱山町の小学校や中学校、高校、病院、老松会館、索道のホームなどの詳細な位置関係がわかります。
松尾鉱山の全盛期当時の写真③ 労働者やその家族の当時の生活
全盛期の松尾鉱山の労働者や家族の当時の写真です。上の写真は1953年(昭和28年)の山神祭の時に撮影されたものです。山神祭は松尾鉱山の一大行事の1つだったそうです。
出典:http://www.bunka.pref.iwate.jp/
松尾鉱山には労働者が家族を連れて移住できるように小学校や中学校、高校まで整備されていました。上の写真は松尾鉱山小学校の運動会の様子を撮影したものです。
上の写真は松尾鉱山中学校の当時の写真です。丸い形の屋根の特徴的な建物は体育館で、この建物は現在も廃墟として残存しています。
上の写真は1952年(昭和27年)の正月に労働者の自宅内で撮影されたものです。松尾採鉱機械の巻揚げを担当する同僚達で集まった時に撮影されたもののようです。
全盛期当時の松尾鉱山は、会社と労働者達で仲間意識が強く、家族ぐるみでの親密な付き合いがあったそうです。
全盛期の松尾鉱山は業績の好調もあって労働者への待遇がかなり良く、希望にあふれたとても明るい雰囲気だったそうです。
トロッコで現場へと向かう松尾鉱山の労働者達の写真です。非常に高待遇だった松尾鉱山の労働者達ですが、それは命の危険もある仕事への対価という側面もありました。実際に落盤事故では大勢の人が亡くなっています。
松尾鉱山の全盛期当時の写真④ 東北随一の設備を備えた老松会館
上は松尾鉱山の労働者や家族のために建設された娯楽施設「老松会館」の当時の写真です。カラーの写真はありませんが舞台の幕は赤を基調にした華美なもので、当時最新の音響設備や照明設備が完備された東北随一のホールでした。
上の写真は老松会館で公演する歌手の藤山一郎さんです。
上の写真は歌謡曲歌手の渡辺はま子さんです。いずれの写真も生バンドを呼んでの大規模な公演だった事を窺わせます。
「老松会館」には、労働者の福利厚生として、当時の人気歌手達が招かれましたが、待遇が非常に良かったため、人気歌手達は他の場所よりも真っ先に松尾鉱山に行きたがったとも伝わっています。
松尾鉱山の全盛期当時の写真⑤ 緑ヶ丘アパート(労働者用集合住宅)
現在は廃墟スポットとして廃墟マニアの間で知られている緑ヶ丘アパートの全盛期当時の写真です。
当時まだ珍しかった鉄筋コンクリート造りの建物で、大勢の労働者とその家族がここで生活していました。
松尾鉱山の現在① 緑ヶ丘アパートは廃墟化し人気スポットに
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松尾鉱山の労働者向けの集合住宅だった「緑ヶ丘アパート」は閉山後もそのまま残されており、現在は廃墟化していて、廃墟マニアの間では「北の軍艦島」と呼ばれよく知られています。
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旧松尾鉱山の緑ヶ丘アパートの廃墟は国有林地内にあり立ち入りが禁止されています。
しかし、常に監視がされているわけではないため立ち入り禁止のルールを破って中に侵入してしまう方もいるようです。
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出典:https://livedoor.blogimg.jp/
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緑ヶ丘アパートの廃墟群は無骨なコンクリートと鉄筋の残骸が緑に侵食されたコントラストが美しさを生んでおり、当時を偲ばせる生活品などもわずかに残されノスタルジックな雰囲気に浸れるため廃墟マニアの間では非常に人気の高い物件です。
しかし、緑ヶ丘アパートの廃墟群は老朽化が進んでいて倒壊の恐れもあり危険なので、決して無許可で立ち入らないようにしましょう。
松尾鉱山中学校の建物も一部廃墟化して残されていたが現在は更地に
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緑ヶ丘アパートから隣接した場所にあった松尾鉱山中学校は、松尾鉱山が閉山になった後、建物を別の学校法人が校舎として利用しており、その後閉校して廃墟になりました。
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こちらも人気の高い廃墟スポットとして全国的に知られていましたが、現在は取り壊されて更地にされています。
今は亡き廃墟「生活学園」
岩手の松尾鉱山アパート廃墟群の隣に位置していた廃校。かつて日本でも随一の心霊スポットと言われ、北野誠の「おまえら行くな。」でも最恐心霊スポットと紹介された。私が探索した時にはそんな現象起きなかったが、今更地となって当時の幽霊達は何処に行ったのだろう。 pic.twitter.com/rzJGbwuagz— 東雲みょん@廃墟を旅する (@tisyaki) July 21, 2019
松尾鉱山の現在② 心霊スポットとしても知られている
現在は廃墟として人気になっている松尾鉱山の緑ヶ丘アパートですが、心霊スポットとしてもよく話題にされています。
緑ヶ丘アパートで起きた心霊体験や怖い話などは具体的なものは伝わっていないのですが、誰もいないはずなのにそこかしこから足音や話し声が聞こえる、壁をノックする音が聞こえるなどの噂があります。
他にも大浴場が危険だとか、昔一室で首吊りの遺体が見つかり、壁に赤い文字で遺書が書かれていたなどの噂もあります。ただ、緑ヶ丘アパートに大浴場の設備はありませんし、壁に書かれた遺書も確認できないのでこれらは作り話だと思われます。
松尾鉱山はかつて大規模な落盤事故があって大勢の労働者が亡くなりました。また、1961年(昭和36年)の1月に松尾鉱山小学校の校舎内で児童が階段を転落する事故があり10人が圧死するという痛ましい事故もありました。
こうした大勢の人が亡くなる事故や事件が過去に何度も起きている事を関連づけて、松尾鉱山一帯を危険な心霊スポットとして語るような文脈も多いようです。
また、1961年(昭和36年)01月05日その他、人気の心霊スポット凸ドキュメント番組である「北野誠のおまえら行くな。」では、緑ヶ丘アパート廃墟群に隣接していた松尾鉱山中学校(生活学園)が最恐の心霊スポットとして取り上げられた事がありました。この時には勝手に扉が開閉したり、謎の音が響いたりと心霊現象らしき事が何度も起こり番組ファンの間では神回として知られています。
この「北野誠のおまえら行くな。」で取り上げられたのも松尾鉱山の一帯が心霊スポットとして知られるきっかけになったようです。
まとめ
今回は、岩手県八幡平市にかつてあった硫黄鉱山「松尾鉱山」についてまとめてみました。
松尾鉱山跡地の場所は岩手県八幡平市松尾寄木の一帯で地図でも確認可能ですが、現在は国有林地となっていて、一般での立ち入りは禁止されています。
松尾鉱山は古くは大正時代から硫黄の採掘が行われており、明治大正昭和の時代にかけて東洋一の硫黄鉱山として栄えました。鉱毒事件や大規模落盤事故などの負の側面もありましたが、当時の労働者の待遇は全国の鉱山の中でも群を抜いてよく、福利厚生の充実などもあって「雲上の楽園」とまで呼ばれました。
松尾鉱山の全盛期の当時の写真は数多く残されており、当時の隆盛ぶりが伝わります。
松尾鉱山は1969年に業績の悪化により閉山しましたが、労働者とその家族のために建設された11棟の集合住宅「緑ヶ丘アパート」の建物はそのまま残されており、現在は廃墟スポットとして高い人気があり「北の軍艦島」とも呼ばれています。
また、松尾鉱山一帯や廃墟群は、過去の事故や事件と関連づけられて心霊スポットとしても有名です。
ただ、緑ヶ丘アパートの廃墟や鉱山跡地は国有地で立ち入りが禁止されており、事故の危険性もあるため無許可での立ち入りは絶対にやめましょう。