硫黄島の現在!歴史や戦争の生き残り・ 上陸禁止の理由・映画や噴火の危険性も総まとめ

硫黄島は小笠原諸島の南方に位置する行政区分は東京都に属する島です。この記事では島の発見から戦争を経て現在に至るまでの硫黄島の歴史や、噴火の危険性、上陸禁止の理由、場所や地図、行き方、人口、硫黄島での戦いの生き残りや映画について紹介します。

硫黄島の概要

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

硫黄島は日本の南西に位置する面積11.65 km²ほどの島で、第2次世界大戦中に激しい戦闘が行われた場として知られます。

 

火山活動や地熱によって豊富な硫黄が産出され、入植後に硫黄の採掘が行われていたことから「硫黄島」という名前がついたとされます。

 

古くは「いおうじま」とも呼ばれていましたが、2007年以降は「いおうとう」という呼び名で統一されることとなりました。

 

島の南端に標高170mの急傾斜の摺鉢山があり、この山は陸上火山の溶岩と火砕丘で形成されました。また、島の中北部には台地状で標高115mの元山があり、こちらは海底に流出し堆積した溶岩や火砕岩が堆積していって地面が隆起し、形成されたものです。

 

この擂鉢山と元山の2つの火山を海岸砂丘がつなぎ、一つの島となったのが硫黄島です。

 

硫黄島に日本人が入植したのは19世紀のこととされていますが、この頃からほぼ一貫して火山活動があり、現在も異常な速さで地面の隆起が続いています。

 

そのため、火山噴火予知連絡会によって火山活動の観測と監視が必要な地域に定められています。

 

また、現在の硫黄島には一般人の居住はできなくなっており、海上自衛隊と航空自衛隊の基地が置かれていることから、自衛隊の関係者のみが常駐可能です。

 

 

 

硫黄島の場所・地図

 

出典:https://ameblo.jp/

 

硫黄島は、北西大西洋に浮かぶ小笠原諸島のなかでもっとも大きな島です。

 

北硫黄島、硫黄島、南硫黄島などからなる火山列島(硫黄列島)であり、行政上の区分は東京都小笠原に所属します。

 

硫黄列島の島々はおおむね北緯24度から25度付近に位置し、硫黄島は東京都心から南に約1,250km、小笠原諸島の中心にある父島からは南南西に約280kmの場所にあります。

 

 

 

硫黄島の歴史【発見から第一次世界大戦終了まで】

 

第二次世界大戦で戦場になったことで知られる硫黄島。地理的に「そもそもどうして戦前にこの場所が日本の領土になったのだろう?」と疑問に感じる方もいるのではないでしょうか。

 

ここでは硫黄島の歴史を説明しながら、どのようにして小笠原諸島が日本の領土になったのか、第二次大戦前は島民はどのような生活をしていたのかなどを紹介していきます。

 

 

 

①島の発見

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

現在残っている記録の上で、硫黄島の存在が人類によって初めて確認されたのは1543年のことです。

 

スペインの探検船がマリアナ諸島周辺を探索している際に硫黄列島が発見され、3つの島はそれぞれ「サン・アレサンドロ」「サルファー」「サン・アウグスティノ」と名付けられたといいます。

 

ちなみに硫黄島は「サルファー」と呼ばれ、これは英語で硫黄を指す単語です。

 

1543年はちょうど、種子島に火縄銃が伝わった鉄砲伝来の年でもあります。そう考えると、この頃は西洋諸国がアジアに向けて進出してきた時代だったことがわかるでしょう。

 

その後は1779年にもイギリスの有名な海洋探検家、ジェームス・クックが硫黄列島の近海を通過し、やはり硫黄島に「サルファー・アイランド」という呼び名を付けたといいます。

 

硫黄島には先住民がいた?

 

スペインの探検船もクック船長の船もそばを通過しただけで、硫黄島に上陸したとの記録は残していません。

 

硫黄島に外部から人間が移住してくるのは19世紀に入ってからなのですが、後に行われた調査で硫黄島には大航海時代以前から人が住んでいたことが確認されています。

 

20世紀の末に東京都教育委員会が行なった発掘調査では、北硫黄島から大量の土器や石器が見つかり、紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけて、マリアナ諸島方面から硫黄列島に移住者が来ていたのではないかと考察されました。

 

しかし、19世紀に入植者が硫黄島に上陸した際には無人であったため、何らかの理由で島から移った、もしくは定住者全員が亡くなるような事態が起きたものと思われます。

 

 

 

②小笠原諸島に定住者が現れる

 

出典:https://www.visitogasawara.com/

 

無人の状態で放置されていた小笠原諸島の島々に、最初の長期定住者が現れたのは1830年のことでした。

 

移り住んできたのはハワイのオアフ島から父島に上陸した男女25人からなる移民団で、ヨーロッパ出身の者、カナダ出身の者、ハワイ島出身のものなどがふくまれていたそうです。

 

彼らは父島で野菜や芋、穀物などの栽培や持ち込んだ家畜の飼育をはじめ、自分たちで作った作物を寄港する船舶に売って生計を立てていました。

 

入植者が現れた19世紀の前期から中期にかけては鯨油の需要が高まった時期であり、捕鯨が最盛期を迎えていました。

 

しかし、鎖国下にあった日本の港に他国の船が寄港することはできなかったため、捕鯨船にとって日本の支配下にない父島は非常にありがたい存在だったのです。

 

 

 

③日本による小笠原諸島統治

 

 

その後も小笠原諸島の島々には漂流者や海賊、怪我や病気が原因で乗船していた捕鯨船から追い出された人など、属性も国籍もさまざまな人々が集まり、どこの国にも属さない自治空間として半世紀近く存在し続けました。

 

ところが1875年になると、幕府にかわって日本を統治することとなった明治政府が、工部省の灯台巡視船を小笠原諸島に官吏団を派遣し、先住者に対して日本の法律に従うようにと指示を出したのです。

 

さらにこれ以降は外国からの小笠原諸島への移住を禁止し、1876年には明治政府は世界各国に向けて「小笠原諸島は日本の領土である」という宣言を発しました。

 

そしてすでに小笠原諸島に定住していた人々は、1882年までに日本国民に編入されました。しかし、彼らは一般的な日本人として扱われたわけではなく、扱いは帰化人という特別枠であり、治安管理の対象として行動にも制限が設けられたといいます。

 

一方で1877年以降は日本の本土や伊豆諸島から小笠原諸島へ向けての入植が開始され、明治政府は北海道開拓と並行して小笠原諸島の併合を成し遂げました。

 

ただ、この頃に政府が重要視していたのは父島や母島など小笠原諸島のなかでも限られた島々で、硫黄列島は無人のまま放置されていたとされます。

 

 

④明治政府による硫黄列島専有宣言

 

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1880年代後半にさしかかると、日本の政財界では南に向けて領土を拡大していく「南進論」が叫ばれるようになります。

 

その最中、1887年に硫黄列島へ南洋巡航団の派遣が決まったのです。明治丸に乗り込んだ派遣団は硫黄島と北硫黄島に上陸し、日本当局初の本格的な探索を行いました。

 

しかし、島内で発見された硫黄の噴出口により、直ちに国民を入植するのは困難と判断します。

 

ちょうどこの頃、明治政府が本土では過剰になってしまった日本人を南洋に移住させ、交易路を拡充しよう計画していた一方で、南洋の開発から利益を得ようとする動きもありました。

 

彼らは入植困難とされていた硫黄列島へ1888年に渡航し、硫黄島で豊富な硫黄がとれることを知り、硫黄採掘で一攫千金を狙おうと考えるようになりました。

 

当時の市場において硫黄は火薬やマッチ、殺虫剤などの原料として取引されており、資源として高い需要があったのです。

 

こうして資源目的で硫黄列島へ渡航した一団は、小笠原の島司を通じて東京府知事に拝願書を出しました。

 

そして、これを受けて日本政府は1891年に硫黄列島を正式に日本の領土へ編入する旨の宣言を出し、小笠原諸島を管轄していた東京府小笠原島庁のもとに硫黄列島を管理させるようにします。

 

この時に硫黄列島の3島にそれぞれ北硫黄島、硫黄島、南硫黄島と命名され、1892年から本格的に硫黄島で硫黄採掘を目的とした開発が開始され、入植者の上陸が開始しました。

 

 

 

⑤農地開墾と人口の増加

 

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当初は硫黄の採掘で利益を上げていた硫黄列島でしたが、20世紀に入るとお硫黄の採掘には限界があることが発覚します。

 

そこで当時、硫黄島での硫黄採掘権を所有していた久保田宗三郎という人物が、温暖な気候と硝酸カリウムを豊富に含む地質から農地に適しているのではないかと気づき、サトウキビの栽培と製糖を開始したのです。

 

こうして農地開墾されたことを機に、1900年代後半からは硫黄島に多くの移住者がやってきました。

 

しかし、1920年代半ばになると、第一次世界大戦後の世界的な不況にくわえ、台湾やジャワ島など人件費が安価な地域で砂糖が増産されるようになったために、沖縄などでサトウキビ農家をしていた人々は、「ソテツ地獄」と呼ばれる貧困状態に陥ることになります。

 

ソテツ地獄とは適切な処理をせずに食べれば、猛毒によって死ぬおそれもあるソテツの幹を口にしなければいけないほど、困窮しているという意味です。

 

ここまで日本産の砂糖の需要が落ちこんでしまうと、硫黄島に移住していた人々も例外なく生活が苦しくなり、サトウキビの栽培は諦めざるを得ない状況に追い込まれました。

 

そして砂糖の価格が暴落した後の硫黄島では、コカやレモングラス、デリスなどが栽培されるようになります。コカとはコカインの原料のことです。

 

当時の日本では医療用麻酔や軍需用麻薬としてコカインが流通しており、硫黄島で生産されたコカは製薬会社に買い取られ、コカインに精製されたといいます。

 

1940年と1942年には硫黄島産のコカが全国で生産されるコカのうちで最大量を誇ったとされ、精製されたコカインは国内流通だけではなく、インドの闇市場やナチ・ドイツに輸出されていたそうです。

 

こうして正規ではないルートでコカインが輸出されていたことから、当時の硫黄島も日本に編入されてはいたものの、治外法権的な目こぼしをうけていたのではないかと考えられています。

 

 

 

⑥戦前の硫黄島での生活

 

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戦前の硫黄島には中央に元山部落、北側に北部落、西側に漂流木部落、西部落、千鳥部落、東側に東部落、玉名山部落、南側に南部落と合計8の集落が形成され、元山部落には学校や郵便局、商店、警察駐在所、役場などがありました。

 

ただ、島内には河川がなく、湧き水も一箇所しかなく、地下水も非常に乏しかったことから水の確保に苦労したといいます。そのため雨水を貯めて生活用水に使っていたそうです。

 

また交通については1899年に日本郵船が年に一度だけ、本土と硫黄島、北硫黄島をつなぐ定期船を運行していました。

 

前述のように硫黄島は擂鉢山と元山という2つの火山をつなぐ地形のため、大型の船が停泊できる港をつくることが困難でした。

 

そのため定期船は沖に錨を下ろして停泊し、乗客や荷物はそこからはしけ船で島まで運ばれたそうです。

 

その後、硫黄島と本土を結ぶ船は増便されて2ヶ月に1度の頻度で直行便が出されるようになったとされます。

 

文化、教育については1906年に私設小学校が開設され、1915年には元山部落に大正尋常小学校が建設されましたが、1920年代まで島に入ってくる情報は定期便で運ばれてくる新聞や書籍などだけであり、島の情報は本土から遅れていました。

 

しかし、1931年に大正尋常小学校に初めてラジオの受信機が設置され、小学校教員らがラジオの情報を文字起こししたものをガリ版刷りにして配布したことで、一気に情報の流通が進んだといいます。

 

 

 

⑦第一次世界大戦の影響

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20世紀に入るとアメリカはオアフ島の真珠湾に海軍基地を建設し、フィリピンにも自国の軍事施設を配備していきました。

 

一方で日本は第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約で南洋諸島を委任統治領としており、実質的に南洋諸島を植民地支配していました。

 

そのため第二次世界大戦の前には、北大西洋を挟んで日本とアメリカがにらみ合うような構図ができていたのです。

 

アメリカを仮想敵国とした日本陸軍は、1920年に小笠原諸島の父島にアメリカ線の防衛拠点となる要塞を建設しました。

 

その後、1922年に締結されたワシントン海軍軍縮条約で硫黄列島や小笠原諸島の要塞化が禁じられることとなりましたが、日本はこれを無視し、1934年には条約を破棄。

 

そして1936年にワシントン海軍軍縮条約が正式に失効すると、日本軍は硫黄列島の要塞化にも着手します。こうして日本は第二次世界大戦に向けて進んでいくのでした。

 

 

 

硫黄島と戦争

 

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1941年の第二次世界大戦開始直後は奇襲攻撃によって東南アジアへと領土を拡大していった日本ですが、1944年になると第一次大戦後に経済大国になったアメリカに圧倒されて南洋諸島もアメリカに占拠されていくこととなります。

 

そしてマリアナ諸島とフィリピンへ進軍したアメリカ軍の参謀本部内で計画されたのが、台湾侵攻、硫黄島を足場にしての沖縄侵攻の2つの案であり、議論の結果、後者が採用されることとなったのです。

 

当時のアメリカはサイパンにB29を配備し、ここから日本本土への空爆に出る予定でいました。

 

しかし、サイパンと日本の間には往復で約5,000kmの距離があり、この距離はB29が爆弾を積んで出撃し、ギリギリ帰ってこれる距離でもありました。

 

そのため、サイパンの飛行場から日本本土の間に、不時着することができる場所が欲しかったのです。

 

そこでアメリカ軍が目をつけたのが硫黄島でした。当時の硫黄島には1200mほどの平坦な土地があり、そこを滑走路にすることが可能だったといいます。

 

また同じ小笠原諸島の島であっても、父島や母親は強固な要塞となっており、奪取しようとなると手痛い反撃を受けるおそれがありました。

 

比べて大型軍艦を停泊する港を持たない硫黄島は、比較的楽に手中に収められるうえ、硫黄島さえ落とせば北大西洋の制空権をとれるとアメリカ軍は判断したのでした。

 

 

栗林中将の赴任

 

当初、日本軍は大型の軍艦を停泊できない硫黄島の軍事化を後回しにしており、本格的に手をつけ始めたのは1944年3月のことでした。

 

この時期になって日本陸軍は父島の在留軍のなかから硫黄島伊支隊を編成させ、約5,000人の兵士が硫黄島へ派兵されました。さらに海軍も硫黄島警備隊を編成し、約1,350人を配属。

 

硫黄島で暮らしていた島民の人々も軍需用の食糧生産の労務に就かされ、子どもたちも勤労奉仕に動員させられたのです。

 

そして1944年5月、小笠原諸島の駐留部隊を中心に第109師団が編成され、6月8日には師団長の栗林忠道中将が硫黄島に赴任しました。

 

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この頃の日本軍は南洋諸島やグアム諸島での地上戦において、沿岸部に待機してアメリカ軍を迎撃する「水際作戦」を採用し、ことごとく敗北を喫していました。

 

そのため栗林中将は硫黄島では水際作戦を採用せず、島にもともとあった洞窟を利用して塹壕をつくり、そこに兵士を待機させてアメリカ軍を迎撃することにしたのです。

 

 

変わっていく硫黄島

 

栗林中将の計画を実行するためにはすべての軍事拠点を地中につくり、拠点と拠点をトンネルで結ぶ必要がありました。

 

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上の地図は、硫黄島に張り巡らされたとされるトンネルを記したものです。ここまでの大工事となると当初硫黄島に送り込まれた兵士だけではとても間に合わず、最終的に島には2万人を超える兵士が投入されたといいます。

 

硫黄島は火山島ですから地熱が高く、摂氏50℃にまで達するほどの場所もあったそうです。地中には硫黄が吹き出す場所もありました。

 

そのような過酷な環境のなかでトンネルの掘削作業を命じられたのは下級兵士ばかりで、彼らのなかからは多くの死傷者も出たとされます。

 

また、B29との空中戦を想定して島には急ピッチで飛行場も建設され、これには朝鮮人の軍夫や硫黄島の小学生らも投入されたといいます。

 

島民が暮らす民家も軍に収用され、将校の宿舎や軍の施設として利用されることがあったそうで、島民たちは台所として使用していた別棟や自作の防空壕などで生活していました。

 

 

 

島民たちの生活・強制疎開

 

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日本軍の大本営は硫黄島をふくむ沖縄以南の島々で地上戦を行なうことで、アメリカ軍の本土侵攻を防ごうとしていました。

 

そのため小笠原諸島や八重山諸島、宮古諸島などでは民間人が本土へ強制的に疎開させられ、16歳から59歳までの健康な男性だけが軍に徴用されて島に残ることとなりました。

 

こうして1944年の4月から女性や子ども、老人を中心に民間人の疎開がはじまったのです。

 

硫黄列島では1944年7月までの間に島民1254人のうち1094人が疎開の対象となり、島民は携帯が許された風呂敷包み2、3個のみを持って故郷を離れることとなりました。家屋や家財道具、畑、船舶など生きていくために必要なものの大半を諦めて、島民は本土へ移っていったのです。

 

硫黄列島は6月の時点で15日、16日、24日と立て続けに激しい空爆に襲われており、島に残れば島民の命が危ぶまれるのは火を見るより明らかでした。

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そのため、島民の安全を危惧した栗林中将が陸軍大臣に進言し、島民の疎開が決定したといいます。

 

なお、硫黄島では島民のなかから57人が軍属として疎開の対象外になったとされています。この数字を見てもわかるように、硫黄島島民のうち16歳から59歳の健康な男性すべてが軍に徴用されたわけではありませんでした。

 

硫黄島では徴用に際して何らかの独自の基準を設けていたため、軍属となる男性が少なかったのではないかと考察されていますが、その基準がどういったものだったのかは不明のままです。

 

 

 

地上戦

 

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1945年2月16日、空母12隻、戦艦6隻、巡洋艦5隻、駆逐艦16隻などをふくむ約500隻を引き連れたアメリカ艦隊が硫黄島を囲み、総攻撃が始まりました。

 

上陸までに硫黄島はB29数百機や空母艦載機からの激しい空爆を受け、アメリカ軍は10万人もの兵士を上陸させる準備を進めました。

 

この時に栗林中将はアメリカ軍の空爆を受けても反撃はせず、兵士はみな塹豪のなかに身を潜めてアメリカ兵の上陸を待つように指示していました。

 

しかし、空爆をアメリカ兵の上陸と勘違いした部隊が摺鉢山の砲台と海軍南砲台を使って反撃してしまったため、これらの砲台付近は徹底した空爆を受けて陸上戦前に大破してしまったのです。

 

さらにここから硫黄島に配置された砲台のおおよその位置がアメリカ軍に特定されてしまい、日本軍は大きな被害を負ったとされます。

 

そして19日に、第一波となる3万人以上の海兵将兵が南海岸から上陸を開始。日本軍の兵士は日中は塹壕や岩陰から敵に視認されないように身を潜めて攻撃し、夜間になると敵陣に手榴弾を投げ込むなどして応戦しました。

 

このゲリラ戦により、当初の計画では圧倒的な戦力の差をもって5日間で硫黄等を占拠しようと考えていたアメリカ軍は、想定外の苦戦を強いられることとなります。

 

このような栗林中将の戦略は、当時「窮すればバンザイ突撃」などと揶揄されていた日本軍の戦い方とはまったく異なるもので、アメリカ軍の指揮官も「硫黄島で指揮をとっている日本の将校は頭の切れる人物だ」と評価していたといいます。

 

さらに硫黄島の独特な地質も日本軍の心強い味方とまりました。ゲリラ戦によって上陸はしたものの海岸から動けなくなったアメリカ兵たちは、戦車を応援に呼びます。

 

しかし海岸の柔らかい砂が戦車の前身を阻み、キャタピラーが砂に埋れてしまうなどして立ち往生。結果として第一波で上陸した56台の戦車のうち、半分が砲台で撃破されてしまったのです。

 

ところが上陸初日に多大な損害が出てもアメリカ軍は怯むことなく進軍し、火炎放射器やブルドーザーなど圧倒的な物量作戦によって徐々に硫黄島を侵略していきます。

 

2月22日になるとアメリカ軍は摺鉢山につくられた7箇所の洞窟をすべて爆破して閉鎖し、塹壕の中にもガソリンを流し込んで火をつけ、日本兵の一掃を図ったのです。

 

こうして23日には摺鉢山は完全にアメリカ軍に占拠され、頂上に星条旗が掲げられます。

 

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これによりアメリカ軍の士気はいっそう高まり、日本軍は元山周辺に追い込まれていきます。

 

それでも日本軍は少ない銃火器で狙撃をするなどして抗戦し、千葉県からも応援の特攻隊が硫黄島に向かい、3隻の空母を撃破しました。

 

しかし、これ以降は本土からの応援はほぼなくなったといい、硫黄島は完全に孤立した戦場となってしまいます。

 

多勢に無勢の状況で押し切られてしまった日本軍は、2月27日には元山もアメリカ軍に明け渡すこととなります。

 

こうして硫黄島の半分を占拠されてしまった日本軍ですが、以降もトーチカや地下の軍事施設に設置した砲台によって射撃をくわえて徹底抗戦の構えを見せました。

 

ところが、3月に入ると武器弾薬はおろか水までもが底をつきはじめてしまいます。前述のように硫黄島は水源に乏しく、飲料水の確保も困難な環境でした。

 

そのため日本軍は選抜隊を編成するなどしてアメリカ軍の占拠地にある井戸に水を汲みに行くなどしましたが、この選抜隊も銃撃にあうなどして全滅することが続き、水も物資もない状況で追い詰められていきました。

 

3月16日に硫黄島の北端である北ノ鼻に追い込まれた日本軍は、26日の午前2時に栗林中将(この時には大本営が戦死を見越して大将に昇進させていたという)指揮のもと、目前にまで迫ったアメリカ軍に決死の総攻撃を行い、敗北。

 

こうして硫黄島はアメリカの統治下に置かれることとなったのでした。

 

 

 

硫黄島の米軍占拠

 

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第二次世界大戦終結後、硫黄島は戦前に日本の統治が許されていた南洋諸島とともにアメリカ軍の軍事占領化に置かれることとなりました。

 

そして1946年1月にはGHQが正式に硫黄島をふくむ「南方諸島」の施政権を正式に日本から分離するという決定を下し、強制疎開させられていた島民を含むすべての日本国民の定住や帰還が禁じられます。

 

硫黄島の戦いでアメリカ軍の捕虜となっていた人々も本土に送還され、再び硫黄島の地を踏むことはありませんでした。

 

1946年10月に1876年の日本併合以前から小笠原群島に住んでいた者の末裔とその家族のみ、父島に帰還することが認められていますが、硫黄島への帰還は認められず、サンフランシスコ講和条約でも引き続き硫黄列島は米国の統治下に置かれることが宣言されました。

 

その後、硫黄列島は米ソ冷戦時代にアメリカの前線基地として使われ、硫黄島もアメリカ海軍の潜水艦基地として整備されていきました。

 

1950年代には硫黄島にソ連が原爆を落とし、周辺が放射能汚染されたという想定のもとに大規模な戦闘訓練もしており、これは日本の新聞でもひろく報じられています。

 

実は1950年代から60年代にかけて、硫黄島と父島にはアメリカ軍の核弾頭が配備されており、ソ連が日本の本土や沖縄に対して核攻撃をしてきた際には、硫黄島や父島の核兵器で応戦する予定でした。

 

硫黄島はアメリカの統治下に置かれただけではなく、アメリカ軍の核ネットワークにも組み込まれていたのです。

 

 

 

硫黄島の返還

 

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1967年11月、当時のアメリカのジョンソン大統領は日本の佐藤栄作首相と会談を行い、硫黄島をふくむ南方諸島の施政権を日本に返還するとの声明を発表しました。

 

当時のアメリカはベトナム戦争での非道な戦闘行為が世界各国からの非難の対象となっており、日本でも沖縄を中心に半米軍基地運動が高まりを見せていました。

 

こうしたなか、アメリカは1970年に期限が迫る日米安全保障条約を延長させるためにも、日本に渦巻いていた反米感情を緩和させる必要があったのです。

 

その方法としてジョンソン大統領が選んだのが南方諸島の返還であり、1968年6月26日にようやく南方諸島の施政権が日本に戻されたのでした。

 

ところが返還当日、父島で行われた式典には先住者を先祖に持つ島民代表と、帰還予定者の代表が列席し、この日を境にアメリカ軍は島から撤退するとの約束がされたにもかかわらず、硫黄島で行われた式典に出席したのは日米の軍関係者とマスコミ関係者のみ。

 

つまり戦前から硫黄島で暮らしていた島民は蚊帳の外の状態で返還式が行われ、その後も硫黄島の土地は本来の地権者である島民には戻されずに、海上自衛隊の管理下に置かれることとなったのです。

 

さらに硫黄島では無線局である基地に引き続きアメリカの沿岸警備隊の在留が認められ、島内の滑走路などの一分施設もアメリカ軍の軍事演習に使われ続けることとなります。

 

 

 

硫黄島の戦いの生き残りの証言

 

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硫黄島の戦いで投入された日本兵は約2万1,000人とされており、生き残ったのは約1,000人のみだったといいます。

 

これまで硫黄島の戦いで生き残った人々の証言はTVのドキュメンタリー番組などでもたびたび紹介されており、その証言からは長らく「圧倒的な戦力差の前に善戦した知将・栗林中将」という英雄の影に埋もれていた硫黄島での戦闘の悲惨さが浮かび上がっていました。

 

以下に、実際に報じられた硫黄島の戦いを生き抜いた人々の証言を抜粋して紹介していきます。

 

『硫黄島戦記』の著者・川相 昌一さん

 

陸軍伍長として派遣された川相昌一さんは、のちに硫黄島での経験を『硫黄島戦記』という手記にまとめて出版しています。

 

彼が生き残った理由は、アメリカ軍上陸後は主に兵団司令部の通信を任されていたことから栗林中将の最後の突撃に参加することを許されず、潜伏を続けた後に投降してアメリカ軍の捕虜になったためだといいます。

 

川相さんによると最後の突撃後に塹壕に隠れていた部隊は、自分たちの所属する通信部隊のほかにもいくつかあり、正気を失っているように見える部隊もあったといい、塹壕の中ではリンチや殺人も起きていたそうです。

 

逆に捕虜になった後に米軍からは非人道的な扱いを受けたことはなかったといいます。

 

『硫黄島を生き延びて』の著者・秋草 鶴次さん

 

秋草鶴次さんは一等兵曹身分の少年兵として硫黄島に配属された人物で、やはり『硫黄島を生き延びて』という手記で硫黄島での過酷な経験を綴っています。

 

秋草さんは陸上戦の艦砲射撃で右手の指を3本なくし、左大腿部にも砲弾の破片が貫通するという大怪我を負っていました。そのため戦力にならない重傷者として、栗林中将の突撃から外されたといいます。

 

ただ、アメリカ軍が掃討作戦を繰り広げるなか、塹壕のなかに身を隠していた時期がもっとも辛かったといい、食糧のない壕内で自分の身体についたシラミやノミまでも口にして、なんとか生き延びていたそうです。

 

飢えと乾きから「どのみち助からない」と判断した秋草さんは見張所に上がって死を待とうとしますが、そこで先程まで身を潜めていた塹壕が爆破され、火だるまになった兵士が壕内から出てきては大声で悲鳴をあげ、さらに「静かにしろ!」と言いながら泣き叫ぶ負傷者を銃殺する兵士の姿も見えたといいます。

 

そのまま意識を失った秋草さんは、アメリカ軍に保護されて目を覚ました時にはグアムの病院にいたとのことです。

 

ただ1人、軍用機で本土に戻されたという豊島厳一さん

 

2021年にテレビ朝日が配信した『硫黄島の戦い 100歳の告白』で取材を受けた豊島厳一さん。彼は、硫黄島からたった1人だけ軍用機で本土に戻った人物でした。

 

豊島さんはアメリカ軍の上陸前、島の要塞化を進めている最中に戦闘機に足を撃たれて負傷し、壕内の病院で治療を受けていました。しかし、医薬品も少なく、劣悪な環境のなかで怪我は一向によくならず、豊島さんは次第に自決を考えるようになっていきました。

 

そんなある日、軍医から「上官殿がお前は有能な兵士であるから内地に戻って治療に専念するように命令が下った。明日の朝、軍用機で内地へ戻れ」と命じられます。

 

豊島さんは「上官とはどなたですか?」と軍医に聞きましたが、何度尋ねても「それは言えない」の一点張りで、誰が自分を助けようとしてくれたのかはわからず仕舞いだったそうです。

 

しかし、本土に戻って治療を受けた豊島さんには、自分の命を救った上官が誰であったかなんとなく想像がついたといいます。

 

手先が器用で時計の修理も得意であった豊島さんは、硫黄島で中隊長から時計の修理を頼まれたことがありました。

 

この時の時計も誰のものであったのか教えてもらえなかったそうですが、豊島さんは中隊長の反応や、自分1人を本土に帰すという特例中の特例と言える手配ができる人物という点から考えて、おそらくあの時の時計は栗林中将のもので、中将が本土に帰してくれたのではないかと思っているとのことです。

 

 

 

硫黄島は上陸禁止?人口はゼロ?現在も人が住んでいない理由

 

 

小笠原諸島返還後も硫黄列島は自衛隊の管理下に置かれ、民間人の住人はゼロのままです。

 

もとは島民がいて行政も普通に機能していたことから、決して人が住めない場所というわけではないにもかかわらず、現在も硫黄島に定住することは認められていないのです。

 

硫黄島への島民の帰還を認めず、移住も認めない理由について日本政府は以下のように説明しています。

 

・火山活動や地震が頻発する地域であり、居住するには危険

 

・第二次世界大戦中の不発弾などが眠っているおそれがある

 

・戦争の影響で大幅に自然環境が破壊されており、しばらく回復期間が必要

 

定住することはできませんが、すべての人が硫黄島に上陸することは禁止されているわけではなく、例外的に硫黄列島の元島民とその子孫は上陸を許可されています。

 

とはいっても遺骨収集ボランティアに参加している島民以外が硫黄島に行かれるのは、年に1〜2回のみで、戦没者の慰霊式典や墓参りなど目的や時期も限られます。

 

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硫黄島から疎開で本土に来た島民のなかには、そのまま北関東などの未開墾地に入植した人も少なくなかったそうです。

 

また一時は東京に疎開した島民も、ほぼ着の身着のまま島を出てきたために財産がなく、物価の高い東京での生活に困窮して未開墾地に流れ込んできたといいます。

 

寒さが厳しく耕された農地もない北関東の地を開拓しながら、少しずつ酪農や農業で生計を建てていきましたが、うまくいかずに職を求めて北関東から出ていく人も多く、硫黄島の島民たちは生きていくために全国に散らばっていくこととなりました。

 

そのため同窓会などで島の同級生が一堂に会する機会には「年金がもらえる頃には、硫黄島でみんなで暮らせるようになっているといいね」と話し合っていたそうです。

 

現在では硫黄島の島民も高齢化が進み、不便な硫黄島に帰って再び生活の基盤を作りたいと思う人は少ないといいます。

 

しかし高齢化が進み、あと何回故郷の地を踏めるかわからない状況だからこそ「訪島の機会を増やしてほしい」と訴えているとのことです。

 

 

 

硫黄島のインフラ

 

住民がおらず、郵便物を届けることが困難な場所にあるため、硫黄島には郵便番号が割り振られていません。

 

硫黄島に常駐する自衛隊に物資や手紙を送る際には、海上自衛隊の場合は厚木航空基地、陸上自衛隊の場合は入間基地宛に送り、そこから硫黄島に自衛隊内で送付されるそうです。

 

固定電話の番号は自衛隊の基地のものが公開されており、それによると市外局番は「04998」であることが判明しています。

 

また現在は携帯電話の基地局も整備されており、島内でも全キャリアの電波が入るとのことです。

 

 

 

硫黄島への行き方

 

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

前述のように戦没者の遺族など特定の人しか硫黄島への上陸は認められていません。しかし、小笠原諸島周遊ツアーに参加すれば、海から硫黄島を眺めることが可能です。

 

小笠原諸島周遊ツアーでは小笠原海運の「おがさわら丸」を使ったものが有名で、この船は東京湾の竹芝埠頭から出ています。

 

ほかにも旅行会社各社が名古屋港や横浜港出発の小笠原諸島周遊ツアーを売り出しているので、安全に硫黄島を見たいという方は参加してみてはいかがでしょうか。

 

 

 

硫黄島が噴火したらどうなる?

 

出典:https://www.wikiwand.com/

 

硫黄島の火山群は世界でもっとも危険な火山の1つに数えられており、年に1mという世界でも類を見ない非常に高いペースで島の地面が隆起し続けていることで知られています。

 

専門家によると硫黄島というのは島に火山群があるのではなく、島全体が巨大な火山そのものと考えたほうがよいとのことで、海底部をふくめると富士山と同じくらいの火山が水面から頭だけをのぞかせている状態なのだといいます。

 

長井さんの地質調査によると、硫黄島は数十万から10万年前ごろ、大型の成層火山だった。山頂が海面上に姿を出した火山島だったかも知れない。それが、10万年前以降に大規模な噴火を起こした。地下にあったマグマが放出され、空洞となった部分が陥没して中央部に直径約10キロのカルデラができた。カルデラ内部には砂や泥が堆積(たいせき)した。

 

引用:異常な地殻変動続く硫黄島 世界でも類を見ない隆起年1m、噴火も

 

このような巨大な火山島であるため、硫黄島が大噴火を起こした場合には東京にまで影響が及び、東京湾岸部は5m級の津波に襲われるのではないかとも指摘されています。

 

2022年には7月11日以降、硫黄島で噴火が相次いで発生し、7月31日には高さ20m以上の水柱があがったことから、マグマが噴出した噴火が発生したのではないかと報じられました。

 

気象庁は「現時点では噴火の規模は小規模であり、極めて危険性が高いという状況ではない」として引き続き観測を続ける旨を発表しており、幸いなことに現在に至るまで気象庁のサイトではマグマの噴出を伴う噴火が起きたという報告はされていません。

 

 

 

硫黄島を舞台にした映画

 

熾烈な戦いの舞台となった硫黄島は、これまでたびたび映画の舞台となってきました。ここでは硫黄島の戦いを描いた日米の映画を4本紹介していきます。

 

 

 

①『硫黄島の砂』

 

 

『硫黄島の砂』は1952年に日本で公開された、アメリカ側からみた硫黄島の戦いを描いた映画です。

 

実際に硫黄島の戦いで第3海兵師団を率いたグレーブス・アースキン将軍が制作に協力しており、摺鉢山に星条旗が掲げられる直前に戦死してしまった主人公をジョン・ウェインが演じています。

 

受賞は逃したものの本作は主演男優賞、脚色賞、編集賞、録音賞の4部門でアカデミー賞にノミネートされました。

 

 

 

②『硫黄島』

 

出典:https://www.nikkatsu.com/

 

『硫黄島』は1959年に公開された日本映画で、芥川賞を受賞した菊村到氏の同名小説が原作です。

 

ストーリーは硫黄島の戦いで生き残ったという片桐正俊という男が、新聞記者の武村均に「自分の話を記事にしてくれないか」と頼まれて硫黄島でのおぞましい経験を聞かされたものの、後日、片桐がなぜか硫黄島で死んだことを知るというもの。

 

片桐の死後、武村は彼の足跡を知ろうとしますが、片桐について調べるほど、どのような人物なのかわからなくなっていきます。

 

とにかく片桐の硫黄島での体験がおどろおどろしく、フィクションでありながら実際に硫黄島の戦いを生き延びた人から話を聞いているような苦しさを感じます。

 

 

 

③『父親たちの星条旗』

 

 

『父親たちの星条旗』は、2006年に公開されたアメリカ映画でクリント・イーストウッド監督の「硫黄島二部作」の1作目として知られます。

 

硫黄島での戦いでアメリカ軍は想定を大きく上回る被害を出しており、戦場では兵士たちが地獄のような血生臭い戦いを繰り広げた一方で、本国では「あんな小さな島1つ落とすのに何日かかっているのか」「いくら金を使うつもりだ」と非難轟々だったといいます。

 

本作では戦争によって非業の死を遂げた者、国のために英雄に祭り上げられた者、戦場に行かず、本土決戦はないという状況で戦争について好き勝手に語る者といった戦争のさまざまな面を描いており、日本でも高評価を獲得しました。

 

 

 

④『硫黄島からの手紙』

 

 

『硫黄島からの手紙』は『父親たちの星条旗』と同じく「硫黄島二部作」の2作目として撮られた映画で、やはりクリント・イーストウッドが監督し、日本軍から見た硫黄島を描きました。

 

本作では渡辺謙さん演じる栗林中将が主役となっており、「バロン西」の愛称で知られた西竹一中佐など実在の将校をモデルとした役も登場します。

 

『父親たちの星条旗』では敵という記号でしかなかった日本軍の将校や兵士が1人の人間として描かれており、日本の戦争を知らない世代にも硫黄島の戦いに興味を持たせた作品としても評価されています。

 

 

 

硫黄島についてのまとめ

 

今回は日本の小笠原諸島にある硫黄島について、歴史や第二次世界大戦下で硫黄島が狙われた理由、なぜ現在も観光目的の上陸が禁止されているのか、噴火の影響などをふくめて紹介しました。

 

現在も硫黄島の戦いの戦死者のなかには、遺骨が発見されていない方も多くいるといいます。

 

このような事情を聞くと島民の方たちの希望に沿って上陸の機会を増やせないものなのだろうか、せめて島民の方々に対してだけでも宿泊許可を出せないものだろうかと思ってしまいますが、やはり火山島としての記録を見るとなるべく近づかないほうが安全な場所なのだろうかと考えさせれれます。

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