長崎県の沖合いに浮かぶ廃墟島「軍艦島」が話題です。
この記事では軍艦島の歴史や場所、行き方、上陸できない理由やなぜ無人島になったのかの理由、貴重な当時の写真や、過去に発生した事件、廃墟化した現在や心霊の噂、現在の世界遺産登録やクルーズツアーなどについてまとめました。
この記事の目次
- 軍艦島は明治から昭和にかけて日本の近代化を支えた炭鉱島「端島」の通称
- 軍艦島の歴史① 江戸時代から地元では石炭の採れる島として知られていた
- 軍艦島の歴史② 三菱財閥が10万円で買収し本格的採掘が始まる
- 軍艦島の歴史③ 日本初の鉄筋コンクリート高層住宅など施設開発が進む
- 軍艦島の歴史④ 太平洋戦争下の国策により石炭出炭量が最盛期を迎える
- 軍艦島の歴史⑤ 戦後は労働環境が改善され人口が増えるも炭鉱規模は縮小
- 軍艦島の歴史⑥ エネルギー革命の流れによって採掘終了閉山へ
- 軍艦島の歴史⑦ 廃墟ブームにより再び脚光を浴びる
- 軍艦島の歴史⑧ 明治日本の産業革命遺産の1つとして世界文化遺産に登録
- 軍艦島の場所は長崎県長崎市の沖合
- 軍艦島への行き方
- 軍艦島に上陸できない理由① 新型コロナウイルスの影響
- 軍艦島に上陸できない理由② 台風や海の状況によっては上陸できない
- 軍艦島に上陸できない理由③ アスベストの疑い
- 軍艦島がなぜ無人島になったのかの理由
- 軍艦島の当時の写真
- 軍艦島の事件
- 軍艦島の心霊の噂
- 軍艦島の現在
- まとめ
軍艦島は明治から昭和にかけて日本の近代化を支えた炭鉱島「端島」の通称
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「軍艦島」とは、、長崎県長崎市(旧・西彼杵郡高島町)の沖合にある無人島「端島(はしま)」の通称です。良質な石炭が採れる炭鉱島であり、明治時代の産業革命から、昭和の近代化の時代を支える重要なエネルギー供給源として栄えました。
軍艦島は、本格的な石炭採掘開始以来80年以上にわたって端島炭鉱として稼働し続けましたが、石炭から石油へのエネルギー革命によって、次第にその規模を縮小し、1974年に完全に閉山してそれ以来、現在まで無人島となっています。
軍艦島は、元々は南北に約480m、東西に約160mの小さな無人島でしたが、炭鉱としての開発が進むうちに周囲は約3倍の敷地になるまで埋め立てられて、最盛期には5000人以上にまで膨れ上がった人口を収容するために、島の土地という土地は、建物や設備で埋め尽くされました。
島を埋め尽くす巨大建造物群や、煙突から巻き上がる黒煙を海から見ると、まるで巨大な「軍艦」のように見える事から、「軍艦島」の通称で知られるようになりました。(日本海軍の戦艦土佐によく似ているとして、長崎日日新聞が最初に「軍艦島」という名称を紙面で使用)
現在、軍艦島ではこの建物群がそのまま廃墟化しており、それが他に類を見ない圧倒的な造形美を作り出しています。軍艦島は廃墟マニアの間では聖地のような場所となっており、また、廃墟内には島民たちが残した当時の生活用品がそのまま残されている事から、当時の暮らしを生で感じ、ノスタルジーに浸れる場所として、観光スポットとしても絶大な人気を集めています。
ここでは、そんな軍艦島について詳しく紹介していきます。
軍艦島の歴史① 江戸時代から地元では石炭の採れる島として知られていた
「軍艦島」こと端島で最初に石炭が発見されたのは、発見されている最古の記録によると、1810年(文化10年)の事とされています。
当時は、近隣の漁民の間で石炭が産出する事が知られており、漁業の傍で「磯掘り」と称して、地表に露出した石炭を掘り出し、長崎の稲佐で売り歩いていたという記録が残されています。
こうした地元の漁民による小規模な石炭の採掘は江戸時代の終わり頃まで続いていたようです。
そして明治時代に入り、地元長崎の複数の事業者が炭鉱を切り開こうと試みましたが、いずれも台風などの自然災害によってうまくいかず撤退しています。
しかしついに、1886年(明治19年)から1987年(明治20年)にかけて、長崎県深堀出身の炭鉱経営者・渡辺元によって、軍艦島の最初の竪坑である深さ36メートルの「第一竪坑」が切り開かれました。
この時期に、石垣を築いた機械置き場や、堤防で東の浜を囲った貯炭場が作られています。
なお、当時の軍艦島の所有権は、旧鍋島藩深堀領主の鍋島家が握っていました。
軍艦島の歴史② 三菱財閥が10万円で買収し本格的採掘が始まる
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その後、1890年に三菱財閥が軍艦島を領有していた旧鍋島藩藩主の鍋島孫六郎から軍艦島(端島炭鉱)を10万円(現在の価値に換算して概ね20億円ほど)で買収。軍艦島は、同じく炭鉱として栄え、三菱財閥が1881年に権利を取得していた高島(軍艦島の北東約2.5キロメートルに位置)の支坑として同社が経営する事になりました。
翌1891年から、三菱財閥によって本格的な石炭の採掘が始まりました。まず、1891年には、製塩工場とそれに伴って飲料水確保のための蒸留水機が設置され、飲料水の供給が開始されています。
1895年に第二竪坑が、1896年には第三竪坑が開かれ、翌1987年には、軍艦島(端島炭鉱)の石炭産出量は高島炭鉱を上回るほどにまで成長しています。
軍艦島で採掘された石炭は良質なことで知られ、主に福岡県北九州市の八幡製鉄所で製鉄の燃料として使用されました。
1887年には三菱社の社船「夕顔丸」が竣工していますが、この船は1931年から、軍艦島への交通手段や、生活物資の輸送手段として活躍しました。
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軍艦島の住民にとってこの「夕顔丸」への思い入れは強かったそうで、1962年に廃船が決まった時には、最後の就航を見届けようと港に多くの人々が集まったそうです。
一方、家族持ちの労働者のために1893年には三菱社が尋常小学校(三菱社立端島尋常小学校、後に公立化)が設立(この時点では木造1階建)された他、1897年からは、島の急激な人口増加を受けて、島民の住環境整備のため、島の周辺が段階的に埋め立てての拡張工事が始まりました。
また、1890年代、端島炭鉱や高島炭鉱では、坑夫に劣悪な労働環境や強制的な労働を行わせる「納屋制度」(請負業者が労働者をまとめ、監視して半強制的に労働を行わせう蛸部屋制度のようなもの)が問題視されるようになりました。1987年に高島でこの納屋制度が廃止され、次いで1916年頃から段階的に軍艦島での納屋制度も廃止されました。(完全撤廃は1941年)
以降、軍艦島で働く労働者は全て三菱社の直轄とされました。
軍艦島の歴史③ 日本初の鉄筋コンクリート高層住宅など施設開発が進む
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納制度の順次廃止に伴って軍艦島では、労働者達の居住施設として、鉄筋コンクリート造(RC造)の高層アパートが次々と建設されました。
まず、1916年に竣工した4階建(その後間もなく7階建に増築、140戸)の「30号棟」は日本で初めて作られた鉄筋コンクリート造りの集合住宅でした。この30号棟は、現在も廃墟化して残っており、軍艦島を象徴する建物の1つとして知られています。
その後、1918年には、「16号棟(9階建、66戸)」、「17号棟(9階建、54戸)」、「18号棟(9階建、50戸)」、「19号棟(9階建、45戸)」、「20号棟(7階建、26戸)」のRC造り(鉄筋コンクリート造り)の集合住宅が相次いで完成しています。
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これらの建物は「日給社宅(当時の坑夫が日給制だったため)」と呼ばれ、各棟が同じ向きに並び、建物の海側(西側)が、「防潮大廊下」と呼ばれる渡り廊下で連結され、全ての階層が一体となっていました。この日給社宅の1階は防潮のために半地下になっており、そこには商店や食堂などが入居していました。
また、各棟の屋上にはその後(1960年代から)、簡易遊園地や弓道場などのレクリエーション施設や、農園などが作られています。軍艦島はほぼ全域がコンクリートで固められて作られた人工島だったため植物が育たず「緑なき島」とも呼ばれました。
軍艦島の住人達は、限られたスペースで少しでも緑を増やそうと、ほぼ全ての建物で屋上緑化を進められ、軍艦島で生まれ育ち、実際の田圃や畑を知らないまま育った子供達に農業を経験させようと、教育の一環として農園や田が作られました。子供らは自分達で育て収穫した野菜を現地で食べていました。
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その後も設備住宅の建設は続き、1919年に三菱の社員向けの社宅「8号棟(RC+木造の3階建、1階に共同浴場完備)」が、1921年に「23号棟(木造2階建で、2階に仏教寺院泉福寺が入居)」この泉福寺は、現在は完全に倒壊していて建物は残されていませんが、石造の大きなお地蔵様が残されています。
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その後、1927年に「50号棟(鉄骨レンガ造2F、映画館「昭和館」が入居)」が、1931年に「25号棟(RC造5F、2階に宿泊所、後にスナック「白水苑」、旅館「清風荘」が入居)」、1936年に「1号棟(端島神社)」が建設されました。
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軍艦島唯一の神社である「端島神社」では、毎年4月の初め頃の日曜日に例祭(山神祭)が行われました。神社境内から地獄段と呼ばれる長い階段を神輿が駆け降りる場面が、祭りの見せ場だったそうです。
1937年には、20号棟の最上階に社立幼稚園も設置されています。
軍艦島の歴史④ 太平洋戦争下の国策により石炭出炭量が最盛期を迎える
1937年、日中戦争が始まり、日本は戦時下となります。1939年頃から、当時日本の統治下にあった朝鮮半島から、朝鮮人労働者の集団移入が本格化されるようになりました。
韓国の朝鮮人労働者強制連行の証拠捏造について
この頃に、過酷な重労働はほとんどが強制連行で連れてこられた朝鮮人労働者に置き換えられたとする説もありますが、当時、軍艦島に住んでいた関係者からは「朝鮮人にはそんなに危険な仕事はさせなかった」、「朝鮮人も働きぶりによって普通に出世していた」、「待遇も日本人労働者と変わらず、かなりの高給だった」といった証言が出ており、意見がぶつかっています。
何よりも、当時の軍艦島には、朝鮮人が経営する朝鮮人専用遊郭まで完備されており、強制連行されて奴隷のように働かされていたという主張には疑問を感じます。
そして、韓国側は軍艦島で朝鮮人労働者が虐待された証拠だとして、全く関係のない写真を取り上げるなどしています。
これに対して、軍艦島の元島民らが、抗議の声をあげています。
戦時中に長崎市の端島炭坑(通称・軍艦島)で朝鮮人労働者が虐待された証拠として韓国側が無関係な写真を取り上げている問題で、元島民らが誤りを指摘する冊子を作成したことが29日、分かった。代表的な3枚の写真を掲載し、「偽写真で世界を欺き、端島をおとしめることは許されない」と訴えている。
中国人捕虜の強制連行と強制労働は事実である可能性が高い
ただし、太平洋戦争が激化した1943年頃からは、中国人捕虜の強制労働が始まっています。これについては、当時の中国人捕虜労働者やその遺族が、国、長崎県、三菱マテリアル、三菱重工を相手どり損害賠償を求める訴訟を起こし、長崎地裁によって、強制連行や強制労働の不法行為の事実が認定されています。(賠償請求は請求権の期限が過ぎているため棄却)戦時中の中国人捕虜については強制労働が行われていた可能性が高いようです。
当時の日本人の感覚としては、朝鮮半島は日本の統治下にあり、朝鮮の人々は日本人扱いされていて同胞という感覚があったのに対して、中国人は戦争状態にある敵国の人間という感覚があったはずなので、扱いの差が出るのは当たり前の流れだったと思われます。
戦時下の国策での過酷な労働環境もと石炭産出量は最盛期を迎える
戦時中の「産業報国戦士運動」などの国策により、この頃に軍艦島の石炭産出量は最盛期を迎え、1941年の年間産出量は41万トンが、軍艦島における歴史上最高出炭量でした。
また、太平洋戦争が激化の一途を辿っていた1943年には、第二竪坑より、1日で2062トンの産出が記録されています。
この戦時下における軍艦島の労働環境は極めて劣悪であり、この頃の莫大な産出量は坑夫達の過酷な労働によってもたらされたものでした。残された記録によれば、この時期(1939年〜1945年)の日本人労働者の死者数は1162人、朝鮮人労働者の死者数が122人、中国人捕虜の死者数が15人にも上りました。死因は爆燃死、圧死、窒息死などで、当時の軍艦島の人口の40パーセント近くが亡くなっています。
この戦時下には、軍艦島最大の集合住宅となる「65号棟(報国寮)」の建設が進められ、1945年に完成しています。戦後、この65号棟は増築が進められ、最終的に10階建、317戸を収容でき、屋上には幼稚園が作られる巨大な建造物になりました。
軍艦島の歴史⑤ 戦後は労働環境が改善され人口が増えるも炭鉱規模は縮小
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1945年、日本の敗戦によって太平洋戦争が終結すると、朝鮮人労働者や中国人捕虜が帰国した事などから、一時的に軍艦島の人口が激減しました。
しかしその後、石炭生産緊急対策要綱による復興資金の注入や、GHQによる輸入砂糖の出炭奨励特配などの振興政策、復員兵の帰還などによって、人口が急速に増加しています。
また、この時期には労使関係の近代化も進められ、1946年に端島炭鉱労働組合が結成、労働各法の成立などにより、賃金が上昇しているにも関わらず、炭鉱の稼働率は下がり労働者の余暇が増えるなど労働環境が飛躍的に改善した事で、全国から労働者が集まり繁栄を極めました。
1957年には、海底水道が開通し、それまで慢性的に悩まされていた水不足も解消されて、いつでも真水の風呂に入れるようになるなど住環境も改善されていきました。
そうした劇的な環境改善の中、1959年に最多人口は5259人にも達し、これは当時の東京の9倍の人口密度でした。これは世界最大の人口密度で、現在もその記録は破られていません。
当時の軍艦島の人口密度は、1km²あたり8万3600人で、現在世界最大の人口密度の高い地域であるマカオの半島部の1km²あたり6万人を上回ります。
人口の急激な増加に伴い、住宅が不足が深刻化を受けての新たな集合住宅や、病院や小・中学校、商店などの生活施設、映画館「昭和館」や、理髪店、美容院、パチンコ店、雀荘、スナック「白水苑」などが、次々と建設され、この時期に軍艦島の建物密集率も最大になっています。
このように華やかな繁栄を極めていた軍艦島でしたが、その一方では、1960年代に起こったエネルギー革命の流れにより、主要なエネルギー資源が石炭から石油へと移行した影響を受けて、次第に炭鉱の規模は縮小されていきました。
さらに、1962年の「原油の輸入自由化」の政策が実施され、追い討ちをかけるように、1964年に「九片治層坑道の自然発火事件」が発生して炭鉱最深部が水没して石炭の産出量が減少。こうして、軍艦島の炭鉱は衰退の一途をたどりました。
軍艦島の歴史⑥ エネルギー革命の流れによって採掘終了閉山へ
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石炭から石油へのエネルギー革命の流れにより、衰退の道を辿っていた軍艦島からは次第に人口が減少しています。それでも、1965年には三ツ瀬区域の新坑が開発されて一時的に産出量が回復。最新の機械化や合理化によって、一時は戦時中の最盛期に迫るほどの産出量を達成しています。
また、この時期には人口の減少に伴って、空き部屋が増えたことで、2戸を1戸に改装するなど、住環境も改善され、この時期の住民の充足度は非常に高かったようです。
とはいえ、石炭から石油への大きな変革の流れには抗いようもなく、1970年には端島沖の開発計画(探炭工事)が中止になり、三菱社が閉山を発表します。1972年に採掘が終了し、1974年1月15日に端島炭鉱閉山式が行われています。
その後、1974年4月20日までに高島・端島間の航路が閉鎖され、全住民の離島が完了し、軍艦島は無人島となりました。
軍艦島の歴史⑦ 廃墟ブームにより再び脚光を浴びる
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炭鉱の閉山によって無人島となった軍艦島ですが、1980年代に始まった廃墟ブームにより、再び脚光を浴びるようになりました。
特に2000年代初期から軍艦島ブームも起こり、現在までに写真集や解説本も多数出版されています。
軍艦島に残された廃墟群は建築物自体が特異であるだけでなく、現在は植物が繁茂し人口的には作り出せないような美しい景観を見る事ができます。また、建物内には、冷蔵庫やテレビ、洗濯機などの当時「3種の神器」と呼ばれて普及した家電製品や、子供のおもちゃ、当時の生活用品などがそのまま残されていて、1970年代の日本の生活がそのままの形で残されています。
こうした廃墟の魅力が全て詰まったような軍艦島は、廃墟マニアにとって1度は訪れてみたい聖地のような場所になっていました。
しかし当時は、軍艦島には連絡船が出ていなかったため、地元の漁船を2万円から4万円ほどでチャーターして軍艦島まで運んでもらうというのが唯一の上陸方法で、かなりハードルの高いものでした。
また、当時は廃墟化し建物の老朽化のため危険な場所が多く、島内への立ち入りは長らく禁止されていました。
しかし長崎県に所有権が移された2005年8月にマスコミ関係者に限定で上陸許可が出され、廃墟化が進む島内の様子がメディアで紹介されるようになりました。
2008年には、長崎市の「長崎市端島見学施設条例」および「端島への立ち入りの制限に関する条例」が成立し、軍艦島南部の整備された見学通路に限り、観光客の上陸と見学が許可されています。
以降、軍艦島は貴重な観光資源として活用されており、2011年までの軍艦島クルーズによる経済波及効果は65億円にも上るとの試算も出されています。
軍艦島の歴史⑧ 明治日本の産業革命遺産の1つとして世界文化遺産に登録
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軍艦島は、一部で世界遺産登録の動きがあり、2006年には経済産業省が地域の観光資源として活かしてもらう目的で世界遺産への登録の支援を表明しました。
2009年1月には「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として、世界遺産暫定リストに追加記載され、2014年10月6日には、軍艦島が国史跡として文化財指定されています。こうした動きにより、軍艦島の世界遺産登録へ向けての非稼働遺産に必要な要件である国の文化的価値付けが明確とされました。
2015年3月には、韓国政府が軍艦島の世界遺産登録に反対を表明し、強制連行や強制労働の証拠を捏造してまで妨害工作を行ってきました。
しかし、2015年7月、軍艦島は、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として、福岡県、山口県、佐賀県、長崎県、熊本県、鹿児島県、岩手県、静岡県の8県にまたがる23施設と共に、世界文化遺産に登録されています。
以上が、軍艦島こと「端島」の現在までの大まかな歴史となります。
軍艦島の場所は長崎県長崎市の沖合
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軍艦島の正確な場所は、長崎県の長崎半島(野母半島)から約4.5kmの沖合いです。
軍艦島へのクルーズ船が出ている長崎港からは18.5kmの場所にあります。長崎港からは船で40分から50分ほどの距離です。
また、住所は「長崎県長崎市高島町端島」、緯度経度の座標では、「北緯32度37分40秒、東経129度44分18秒」の場所にあたります。
軍艦島への行き方
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軍艦島への行き方は、過去には地元の漁船をチャーターして運んでもらうしか方法がありませんでしたが、現在は軍艦島へのクルーズツアーの船が複数の会社から出ているので、それを利用して行く事ができます。
現在、軍艦島クルーズを行っているのは「軍艦島コンシェルジュ」、「やまさ海運」、「シーマン商会」、「軍艦島上陸クルーズ(高島海上交通)」の4つの会社です。これらのクルーズ船運行会社をネットや電話などで予約してツアーに参加するというのが、軍艦島へのスタンダードな行き方となります。
各クルーズツアーの料金は以下の通りです。
業者 | 大人個人 | 大人団体 | 中高生個人 | 中高生団体 | 小学生個人 | 小学生団体 | 未就学児団体 | 未就学児個人 |
軍艦島コンシェルジュ | 5000円 | 4600円 | 4000円 | 3600円 | 2500円 | 2100円 | 1500円 | 1100円 |
やまさ海運 | 4200円 | 3700円 | 4200円 | – | 2100円 | – | – | – |
シーマン商会 | 3600円 | – | 2800円 | – | 1750円 | – | – | – |
軍艦島上陸クルーズ | 3600円 | – | 3600円 | – | 1800円 | – | – | – |
なお、プレミアム席や、夏休みなどの特定日は価格が変わる場合があります。また、上のツアー代金とは別に、軍艦島への入場料(大人・中高生が310円、小学生が150円、未就学児は無料、団体の場合は大人・中高生が250円、小学生が120円、未就学児無料)が別途かかります。
また、軍艦島の北東約2.5kmの場所にある高島でゲストハウスやカフェなどを展開する「高島LOVERS」が、軍艦島周辺海域でのシーカヤックや、水上バイクでの軍艦島周回のプランなどを提供していました。ただ、現在は新型コロナウイルスの影響で受付を停止しているようです。
軍艦島に上陸できない理由① 新型コロナウイルスの影響
2008年からは、見学可能箇所に限って上陸許可が出されている軍艦島ですが、2022年1月19日に長崎市に新型コロナウイルスのまん延防止等重点措置が適用された事を受けて、軍艦島に上陸できなくなっていました。
しかしその後、2022年2月から3月にかけてまん延防止等重点措置が解除された事を受けて、クルーズツアーは再開されています。
軍艦島に上陸できない理由② 台風や海の状況によっては上陸できない
軍艦島に上陸できな理由としては、台風の影響や海の状況によって上陸できない場合があります。軍艦島を目的に長崎県まで行ったものの、こうした理由で結局上陸できずに帰ってきたという人も多いようなので、事前に天気予報の確認や日にちに余裕を持ったスケジュールを立てると良いかと思います。
軍艦島に上陸できない理由③ アスベストの疑い
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2019年7月31日に軍艦島から基準値を上回るアスベストと疑われる物質が検出された事を長崎市が発表し、一時的に上陸を禁止しました。
長崎市は31日、世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産」の一つ、端島(軍艦島)で、大気汚染防止法の基準値を上回るアスベスト(石綿)と疑われる物質が検出されたして、上陸を禁止した。期間は未定で、アスベストと確定すれば国と対応を協議する。基準値を超えたのは初めて。
しかしその後の調査により、検出された物質はアスベストではなく、毒性のない石膏と塩化ナトリウムである事がわかり、再び上陸許可が出ています。
市観光政策課によると、7月12日の大気調査で繊維濃度が基準値を超え、31日に上陸を禁止。繊維物質が大気汚染防止法で「飛散防止対策」を義務づけるアスベストかどうか再調査を進めていた。8月3日の検査の結果で繊維物質は石膏(せっこう)と塩化ナトリウムと分かり、上陸を認めることにした。
軍艦島がなぜ無人島になったのかの理由
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歴史のところでも書いていますが、軍艦島が無人島になった理由は、エネルギー革命の流れによって、主要エネルギーが石炭から石油へと移り変わり、石炭の需要が減少して炭鉱が閉じられた事でした。
軍艦島には石炭採掘以外の産業がなかったため、炭鉱が閉じられた後は島で生活して行く事は不可能となり、炭鉱が閉山となった1974年に全島民が退去し無人島となりました。
軍艦島の当時の写真
軍艦島の貴重な当時の写真を何枚か紹介しておきます。
出典:https://www.gunkanjima-museum.jp/
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軍艦島の事件
軍艦島は危険な炭鉱島という事もあって、坑夫が事故死する事件が何度も起こっています。
1924年5月24日には、2度にわたる大規模な粉炭墜落が発生し、4名が死亡しています。(3人が日本人、1人が朝鮮人)
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1929年1月5日には、第四坑第六片付近で突然海水が流入し増水する事件が起こり、作業中の坑夫11名が行方不明となり、うち2名が遺体で発見されています。
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1935年3月26日には、端島炭坑最大のガス爆発事故が発生し、日本人18名、朝鮮人9名が死亡し、病院に担ぎ込まれた重傷者も次々と亡くなり、最終的に27名もの使者を出しています。
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また、戦後の時代にも、1964年に九片治層坑道で自然発火事件が発生しています。
この事件では最初、海水注入による消化活動により、一時は治りますが、10数時間後に土嚢による密閉作業を行なっていたところ、再び白煙が発生して爆発事故を起こし、この際に作業員9名が負傷、1名が死亡しています。
その後、現場をコンクリートブロックで密閉する作業が行われますが、その準備中に今度はガス燃焼発火が発生し21名が負傷しています。
最終的には、この場所を諦め、海水を入れて水没させる事でようやく鎮火させる事ができました。
この事件により採掘場所を失った事は、軍艦島にとって大きな痛手となり、その後の閉山への遠因になったとも言われています。
軍艦島の心霊の噂
軍艦島にはいくつかの心霊話も存在するようです。
軍艦島にまつわる心霊話として有名なものは、上陸して散策しているとどこからともなく大勢の子供の声が聞こえてくるというものや、写真を撮ると人影や子供の手のようなものが写り込んだ心霊写真が撮れるというものがあります。
心霊写真の噂に関連して、グーグルのストリートビューで軍艦島内を閲覧していたら、コンクリートの隙間から手が出ている心霊写真を見つけたというツイートが拡散された事がありました。
Googleのストリートビューで軍艦島見てたら人の手発見(; ̄ェ ̄) pic.twitter.com/1gKd8Fmedg
— Cherukazu (@cherukazu) June 28, 2013
また、上陸ツアーなどが開始する前の時代に軍艦島に密上陸した若者グループが、軍艦島でキャンプをしたところ、翌朝になると仲間のうちの1人が消えていたという心霊話も語られています。当時、軍艦島に上陸することは違法行為であったため、警察にも相談できず、事件は表沙汰にならないまま有耶無耶になってしまったとも言われています。
軍艦島にこうした心霊話が語られる理由としては、炭鉱での作業は極めて危険で多くの死者を出している事や、戦時中の劣悪な労働環境によって死亡者が大勢出た歴史などが関係しているようです。
また、人気YouTuberの「フィッシャーズ」のシルクさんが、軍艦島での心霊体験について動画で語っています。
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=_OuWsSs3_UQ]
他にも、軍艦島が無人島になったのは島民はある日突然消失したためという心霊話が語れていた事があります。これについては既に説明したように、軍艦島が無人島になった理由は炭鉱の閉山に伴う住民の島外退去なので、事実ではありません。
軍艦島の現在
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軍艦島は現在は、世界文化遺産に登録されたこともあって、行政による保全活動が進められています。
また、地元では軍艦島を観光資源として活用しており、船で上陸して見学できるクルーズツアーが行われています。これまでに軍艦島に上陸した観光客は累計で154万人を突破しています。
まとめ
今回は、長崎県の廃墟島として知られる「軍艦島」についてまとめてみました。
軍艦島は、江戸時代から石炭の採れる島として知られ、1890年に三菱財閥が買収して以降、炭鉱島として開発され長年栄えた歴史を持ちます。
島では、労働者やその家族達が集まるにつれ周囲が埋め立てられ、鉄筋コンクリート造り(RC造)の高層アパートなどが次々と建設されました。最大で当時の東京の9倍にも達した人口密度で、その人口を収容するために、島にはびっしりと隙間なく建造物が建てられ、その姿が「軍艦」に似ていた事から「軍艦島」の名称で呼ばれるようになりました。
80年以上にわたって炭鉱として栄えた軍艦島でしたしが、石炭から石油へのエネルギー革命の流れの中で次第に規模を縮小し、1974年に閉山となり、全島民が退去して以降は無人島となっています。
建造物はそのまま廃墟化しており、植物が繁茂してなんともいえない造形美を作り出しています。現在は、観光資源として活用されており、クルーズ船が出ていて見学可能地域に限り上陸する事が可能です。軍艦島への行き方としては、こうしたツアーを利用するのがスタンダードな方法です。
過去に上陸できない理由として、新型コロナウイルスの影響や、アスベストの疑いのある物質が検出された事などがありましたが、現在は再び上陸可能となっています。
軍艦島がなぜ無人島になったのかの理由は、エネルギー革命の流れの中で炭鉱が閉鎖され、それ以外の産業を持たなかった軍艦島で生活する事が不可能だったためです。
軍艦島は島民退去の直前まで栄えており、貴重な当時の写真も数多く残されています。
廃墟化した現在は過去の死亡事故などもあって、子供の声が聞こえる、心霊写真が撮れるといった心霊の噂も数多くあるようです。
軍艦島の現在については、2015年に世界文化遺産に登録され、周遊や上陸ができるクルーズツアーが行われるなど観光資源として活用されています。